枕草子心状語

2016年7月 2日 (土)

「わびし」「わりなし」

新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用して、「心状語」についてまとめている第十回。前回取り上げた、あきらめの感情を表す「あぢきなし」よりさらに一段進んだ陰性の語が「わびし」である。それに関連して「わりなし」を取り上げる。

辞書の定義から見ていくと

「わびし」…心細く寂しい、つらい、苦しい、つまらない、貧しい、みすぼらしい、がっかりする、やるせない、やりきれない
「わりなし」…どうしようもない、道理に合わない、無理だ、感じるのが格別だ、すぐれている、やむをえない、仕方がない

となっているが、「わびし」も「わりなし」も事態を打開する可能性がない所までいったときの感情や状態を表す語のようだ。つまり、あきらめの極致と言えばよいか。違いは「わびし」がひたすらあきらめの感情に沈んでいくのに対し、「わりなし」は攻撃の方向へ行きそうな傾向を含んでいるというところのようだ。

「枕草子心状語要覧」の解説を確認してみよう。

「わびし」
事態が望ましからぬ方向に進んで、もはやそれを打開する可能性はない所にまで立ち至った時の、あきらめ切った消極的な感情。あきらめの感情を表わす語として「あぢきなし」があるが、「わびし」はそれよりも一段と閉鎖的で陰性の感情のようである。「あぢきなし」は、なお対象を評する語たり得る、という点で対象を視野に含んだ感情であるのに対して、「わびし」は、消極的に沈んでゆく心のあり方だけを見た言葉と思われる。動詞の「わぶ」も、手の打ちようのない落胆の現われた態度を指し、「住みわぶ」のように、「…わぶ」と接尾語風に使う時も、思い通りの行為がとれずに困惑し処置に窮することを表わす。こうした感情を対象の側に返して、対象を評するに使おうとすれば「わびしげなり」という派生語を使うしかないであろう。一一七段がそれであり、そこでは物質的に、審美的に、絶望的な低さを示す語としてそれが使われていて、「わびし」の絶望的消極性に対応する姿を見せている。

「わりなし」
事態を打開する道が鎖されている状態を表わす語。「わびし」が、打開の道がないと見てひたすら沈んでゆく心情を表わすのに対して、「わりなし」は、打開の道がないということを、そのまま述べる語である。いわば「わりなき」事態への心的反応が「わびし」、「わびしき」心に人を追いやる事態が「わりなし」である、と言っても、あながち図式的すぎるとも言えないであろう。もっとも、事態のあり方を言う語が、事態への心的反応を言う語の方向へ進むことは自然なことであって、「わりなし」も打開できぬ不快感を表わすためにしばしば用いられるようである。(中略)だがその場合も、「わびし」のように気分が沈んでゆくのではなく、打開の不可能を、不都合なこと、不合理なこと、とうけとめる気持を表わし、感情性を強めれば、むしろ「わびし」とは逆の、攻撃の方向へと行きそうな傾向を内含するもののように思われる。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

先にも触れたように、「わびし」は、もうどうしようもないよなあとあきらめきったときの「だめだあ」と沈んでいく絶望感を示し、一方の「わりなし」は、もうどうしようもない状態であるということを示している。「わびし」が消極的な感情を表すのに対し、「わりなし」は状態を表すということが違いとして押さえるべき点だろう。

次回以降はさらに「不快感」を表す語を取り上げることになる。どうも気が重くなるが、こういう心情はどの語で表すのだろう。「胸つぶる」あたりだろうか。それとも「すさまじ」とさめた言い方にすればいいのか。あるいは、これから取り上げる「むつかし」とかになるのか。いずれにしても「不快語」が続くと思うと、いささかゲンナリする。というわけで、少し間隔を置いてから始める予定。

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2016年7月 1日 (金)

「すさまじ」「あぢきなし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用して、「心状語」についてまとめている第九回。今回は、前回取り上げた「かたはらいたし」の解説にも出てきた「すさまじ」と「あぢきなし」。

「かたはらいたし」は他人の行為をわが身に引きよせて、これはまずいと心を痛める「いたたまれない」心情を表す語であったが、それが、みっともないと離れて見れば「すさまじ」、どうしようもないと見てとれば「あぢきなし」だと出ていた。

まずは、いつものように辞書の定義から。

「すさまじ」…興ざめだ、おもしろくない、殺風景だ、気乗りがしない、進む気持や熱意が冷める感じだ、しらけた感じがする
「あぢきなし」…無益だ、不快だ、無意味だ、努力してもつまらない、どうしようもない、仕方がない、(どうしようもなくて)にがにがしい

「すさまじ」は、ひとごとのように醒めた目でみる感じがあり、これの対極が「くちをし」だろうと思われる。「くちをし」は、わがこととして残念がる熱い気持ちであり、しらけた感じの「すさまじ」に対置される。「あぢきなし」は思い通りに実現する期待が薄いときの、最初からあきらめてかかっている感情を表している。

「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう。

「すさまじ」
物事が期待どおりの姿をとらない時の不快感を表わす語。誰かのせいでとか、自分の力量の不足からとかの、不快の原因に目を向けるのでなく、事態そのものの受けとり方であるのを基本線とし、その点で「にくし」や「ねたし」と異なる。「にくし」はもちろん「ねたし」でさえ、不快な事態を自分に直接関わっているものとしてとらえるのだが、「すさまじ」は、対象への愛情や関心が弱くて、自分から離れたもの、自分と関わって来ないひとごととしてとらえた、さめた感情である。(中略)人間に「すさまじ」と言う時は、不快感を癒す処置が期待されるからか、その処置がとられずかえって不快が倍増する時に用いられる傾向があり、「にくし」に近い面をもつことになる。ただその場合でも、人間への攻撃に出る手前にとどまり、事態の受けとり方を表わす語、という基本線は保たれるようである。

「あぢきなし」
事態が思う通りの形で実現しない時の感情の一つ。それを思う方向へ改めることが出来ない、と見てとった時の感情であることが特徴なのだが、事態の打開への意志を強く働かせた末のことではない。その意味では消極性を基本性格とするもので、思い通りでない事態への不満はあっても、それはあきらめの方向を向き、攻撃性を持たない。その点「すさまじ」と似るけれども、「すさまじ」には不満、不快が癒されることへの期待があるようなのに対して、「あぢきなし」には、そうした期待も薄いようである。言わば、最初からあきらめてかかっている感情であろう。だから他者への評に使われる時も、何とかすればよいのに、といった他者への心理的働きかけは稀薄で、それだけ冷淡な心の動きに属するであろう。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

つまり、「すさまじ」も「あぢきなし」も、それぞれ「みっともない」とか「どうしようもない」という期待通りにならないときの不快感ではあるものの、その原因となった人や物事に対して攻撃的にならない感情だということになる。「すさまじ」であれば、しらっとしたさめた感じだし、「あぢきなし」であれば、しょうがないなあという感じで、どちらも対象に距離を置いている。

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2016年6月30日 (木)

「はしたなし」「かたはらいたし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』に載っている「枕草子心状語要覧」を引用しながら、「心状語」についてまとめる第八回。繰り返しとなるが、できれば図書館などで原本に載っている「枕草子心状語要覧」をご覧になっていただきたい。これほど古典の理解に役立つ記述は、そうそうあるものではない。当ブログ記事は、この「要覧」を引用しながらまとめているだけなので、ぜひ「枕草子心状語要覧」の全文に目を通されることを願っている。

さて、今回は「困惑」「きまりが悪い」という感じを表す「はしたなし」と「かたはらいたし」。例によって辞書の定義の確認から。

「はしたなし」…(主として自分の行為に対して)体裁が悪い、不釣り合いだ、無愛想だ、情が欠けている、激しい、中途半端だ、どっちつかずで落ち着かない、きまりが悪い、無作法だ、ぶしつけだ
「かたはらいたし」…(他人の行為に関して、はたで見ていて)きまりが悪い、気の毒だ、見聞きしていられない、みっともない
(自分の行為に対し)気が引ける、気はずかしい

心的状況としてはどちらもよく似た状態であるが、「自分の行為に関して」が「はしたなし」で、「他人の行為に関して」が「かたはらいたし」というのが、基本的な違いのようだ。つまり、「はしたなし」は自分の行為に関し、外にある基準を元に不調和があり、その不調和をすぐに解消できないときの「身の置きどころがない」困惑を表す。一方の「かたはらいたし」は他人の行為に関し、自分に引き寄せてこれはまずいと心を痛めるときの「いたたまれない」困惑を表すというわけだ。

「かたはらいたし」に関連して「すさまじ」「あぢきなし」という語が出てくるが、これらは次回に取り上げることにして、「枕草子心状語要覧」の解説を見てみると、

「はしたなし」
人間の取る行動が、その場の状況や雰囲気に調和せず、それを直ちに解消することが出来ない時の、困惑の気持を表わす。主として自分のとった行動に用いて、身の処置に窮する心境を、稀に他人のとった行動に用いて、感情の処置に窮する心境を表わす。心的状況としては「かたはらいたし」と酷似するが、「かたはらいたし」が主として他人の行為に関して言うのに対して、「はしたなし」は逆に、主として自分の行為に関して言うものである点に違いがある、と考えてよさそうである。(後略)

「かたはらいたし」
まずいことを誰かがしていて、それを制することが出来ない時、当人がまずいことをしていると気付きそうにない時、などに心を痛める困窮の気持を表わす語。こういう場合に、みっともないと離れて見ていれば「すさまじ」だし、どうしようもないと見てとれば「あぢきなし」だろうが、もっとわが身に引きよせて、これはまずい、と心を痛めるのが基本線のようである。(中略)面と向かって賞賛される時の気持に使っているのは、気まずさに照れそうになる思いを言ったものである。ただし、そうした気まずさが、気まずさを感じさせるような態度をとった相手に対する、批判的な意味となるのは自然な意味の動きである。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

「かたはらいたし」の最後の解説部分は、自分の行為に対して、面と向かって賞賛されたりして「気がひける」「気はずかしい」という意味になる場合を言っているのだろう。

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2016年6月27日 (月)

「こころときめきす」と「胸つぶる」

前回までと異なり、今回は動詞。これまでと同じように新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用する第七回。

今回取り上げる動詞は、「期待」「予感」を表す動詞で「こころときめきす」と「胸つぶる」。まず辞書的な定義では

「こころときめきす」…胸をおどらせる、胸をわくわくさせる
「胸つぶる」…胸がどきどきする、ひどく心配する

定義からも察せられるように、「こころときめきす」はどちらかというと良いことへの期待に、「胸つぶる」は悪いことの予感に用いるようで、善悪の双方向を分かち合っている感じだ。

「枕草子心状語要覧」の解説では

「こころときめきす」
次に起るであろうことへの不安や期待のために、胸がどきどきすること。悪いことが起るのではないかという不安、良いことが起りそうな期待、その両方に使われるが、どちらかというと良いことへの期待に使うことが多い。悪いことへの予感には「胸つぶる」を用いる方がぴったりする(中略)。「心ときめきす」の方には、一つの面白い用法があるのが注意される。それは、現在の出来事が、現実からかけ離れた好ましい様相を示した、と感じた時の心的反応で、二六段に幾つかその例を見ることが出来る。特に曇った唐鏡に自分の顔を映した時、というのは好例で、自分がひどく美しい女のように映り、ひょっとしたらこれが本当かしらと思ったり、これは何かの間違いではと思ったり、期待と不安が交錯する思いなのだと思われる。こういう交錯した思いを「胸つぶる」が表わすことは、無いのではあるまいか。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

この後半の例は面白い。「曇った唐鏡」というのがポイントなんだろうな。最近はデジカメやスマホのカメラがオートフォーカスで、めったなことではピンぼけにならないと思う。かつてのフィルムカメラでも、オートフォーカスのお手軽なカメラはあったが、ピントが甘くなって全体にソフトなベールをかけたような結果となることがあった。こういうときの写真はアラを隠すので、「もしかして、俺って結構イケメン?」とか「私って案外イケてるかも」と思うことが可能だったが、こういうときに「こころときめきす」とでも言えばよかったのだろうなあ。

さて、次からは本格的に否定的な感情を表す語となるが、これがやたらと多い。七回から八回分に分けないといけないではないかと思う。一度中断して、あらためて掲載する予定。それにしても『枕草子』で清少納言はいろいろなものに毒づいていたということなのか。これだけ否定的な語が多いと、うーむ、マツコか有吉か、と言いたくなるくらいだ。

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2016年6月26日 (日)

「こころにくし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」を引いて「心状語」をまとめる第六回。

それにしても、この「枕草子心状語要覧」はよく出来ている。今の時代、「中古」と呼ばれる平安時代の文学をやってみようという国文科の学生がどのくらいいるのか「おぼつかなし」だが、もし「中古」を専攻しようと思うのであれば、この「枕草子心状語要覧」を舐めるように味わい尽くしたほうがいいと思う。これだけ徹底して語感やニュアンスの違いを解説してくれるものは、なかなか他に見当たらないのではないか。こんな便利なものが四十年近く前にあったらなあ、とかつての国文科生はうらやましく思う。

さて、今回は「疑問」から「期待」へという感情で「こころにくし」。それに関連して「けはひ」も取り上げる。

まず、いつものように辞書の定義から

「こころにくし」…よく見えない、はっきりしない、(様子がはっきりしないので)気にかかる、どこか気持ちの通じないところがある、奥ゆかしい、すぐれている、上品だ

後半のほうの意味は、あからさまでないものをよしとする美意識からきている意味なんだろうなと思う。露骨なものでないから、奥ゆかしくて、すぐれていて、上品に感じる。こういう品のよさみたいなものは、現代では絶滅危惧種かもしれないが。

「枕草子心状語要覧」の解説を引いてみると

「こころにくし」
「にくし」の原義であった阻害感が、実体がよくわからないで疑問や関心が残りつづけることに用いられるようになり、そこから生まれた語。善悪に関係なく、実体がうまくつかめない、という意味にも用い得るし、後にはよからぬものへの予感にも使われるに至るが、枕草子では、専ら対象によいものを期待する感情として用いられる。つまり視覚や聴覚にとらえられる外面を手がかりにして、その奥にすばらしい実体があることを思い描く、という心のはたらきを表わす。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

この、奥にあるすばらしい実体から外側ににじみでてきたもの、つまり手がかりとなる外面が、「けはひ」である。そこで辞書では

「けはひ」…そぶり、感じ、雰囲気、あたりの様子、人品、ものごし、匂い、声、音、気温

といったような定義となる。「枕草子心状語要覧」でも次のように解説している。

「けはひ」
内面の備わりが外面ににじみ出す所をとらえる語が「けはひ」「ありさま」などで、紫式部はこの「けはひ」を愛用したが、清少納言が使う「けはひ」は(中略)事態を探る手がかりとしての外面を指し、紫式部のように、その外面であるが故にこの感覚を引き出したその外面、の意に使うことは見当たらない。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

少し分かりにくいところもあるが、要するに「けはひ」はあくまでも、「外面」に焦点を当てた語ということなのだろう。奥にあるすばらしい実体や内面の備わりそのものを取り上げるのではなく、外側、外面に注目するという語である。

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2016年6月25日 (土)

「こころもとなし」「おぼつかなし」と「ゆかし」「いぶかし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』に載っている「枕草子心状語要覧」を引用しながら、「心状語」についてまとめているが、今日は第五回。ここからは否定的な語感の語彙が増えるが、今回はまず「不安」「疑問」に関した語である「こころもとなし」と「おぼつかなし」。加えて「ゆかし」「いぶかし」を取り上げる。

まず、「こころもとなし」と「おぼつかなし」の辞書的な定義

「こころもとなし」…待ち遠しい、じれったい、落ち着かない、はっきりしない、気がせいてならぬ
「おぼつかなし」…はっきりしない、心細い、不安だ、待ち遠しい、これからどうなるのか気がかり

この定義だけでは、どういう違いがあるのかよく分からない。ほとんど同じじゃないか、とさえ思ってしまう。しかし、この二語には明らかな違いがある。それは「こころもとなし」がある程度情報が与えられていて、なおはっきりと確認ができないときの手応えのなさを言うのに対し、「おぼつかなし」のほうは、情報が無くて何が何だか分からないときの不安感を表すという違いだ。

たとえば、彼氏や彼女が今日どこに行って何をしているのかは知っているのだが、誰と一緒にいて何時ごろ戻ってくるのかなどが分からないのであれば、「こころもとなし」だろう。どこにいるのか、何をしているのか全く連絡が取れなくて情報もないというのであれば、「おぼつかなし」ということになる。

少し長いが、「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう

「こころもとなし」
どうしたらこれがうまく行くのか、本当にこれがそのものなのか、など、当面関心のある事への確たる解答が得られないための、不安感を表わす語。不安感を表わす似た語として「おぼつかなし」があるが、「おぼつかなし」が、何が何だか、情報が全くつかめない、と思った時の不安を言うのに対して、「こころもとなし」は、いま何かに関心を持っていることを、すでに情報と把握して、それへの解答が得られぬと感じた不安を言うもののようである。(中略)情報として把握される関心は、最もしばしばこちらの抱く期待であるから、その期待が実現しない時の、早く早くといらいらする思いや、悪くすると期待どおりに実現しないかもしれぬという頼りなさを表わすことが多く…(後略)

「おぼつかなし」
それが何なのか、何事が起こっているのか、関心のある者がいまどこにいてどうしているのか、など肝腎の情報が欠けているための、不安な気持ちを表わす語。「こころもとなし」も似た不安感を表わす語だが、それが何かの確認が出来ない手ごたえの無さ、を眼目とする不安であり、むしろ情報が不確定的には与えられている、と把握した時の思いであるのに対し、「おぼつかなし」は、情報そのものが与えられていない、と把握した時の、思いであると言ってよかろう。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

こういった「こころもとなし」「おぼつかなし」という状態にあると、わけが知りたいという気持ちになる。それを表す語が「ゆかし」であり「いぶかし」である。岩波古語辞典によると

「ゆかし」は、見たい、聞きたい、知りたいという点では「いぶかし」と同じだが、既に知っていることがあって、それをよしとして更に深く知りたいという場合が多い。
「いぶかし」は、どうしたのか変だから、そのわけ、事情が知りたいの意。平安時代になって、様子がよく分からないから見たい、知りたい、聞きたいの意。
(岩波古語辞典より)

ということは、大雑把な話だが、「こころもとなし」と思うことは「ゆかし」となるだろうし、「おぼつかなし」と思うことについては「いぶかし」となるのだろう。ただし、「ゆかし」には「それをよしとして更に深く知りたいという場合が多い」とあるので、いいなあと思うからもっと知りたいという感じで使うのだろう。

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2016年6月22日 (水)

「なつかし」と「こひし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」をもとに「心状語」をまとめる第四回。今回も肯定的な感情を表す語を取り上げるのだが、実は賞め言葉はこれでおしまい。肯定的な意味で使われる語は、もう少しある。だが、以前の記事にも書いたように、『枕草子』に出てくる「心状語」は圧倒的に否定的な感情や不快感を表す語が多い。そういった否定的な語感のものについては次回以降で延々紹介することになる。量が多いので、少し間をおいてからの予定。

とりあえず「なつかし」と「こひし」の辞書的定義から

「なつかし」…心が引かれる、かわいらしい、そばについていたい、離れがたい
「こひし」…(恋人に)逢いたい、なつかしい、慕わしい

端的に言えば、「なつかし」は親しみやすいという親近感を表す語で、「こひし」は現代語の「恋しい」と「なつかしい」を合わせたような語だということになる。

「枕草子心状語要覧」のまとめを見てみよう。

「なつかし」
賞め言葉の一つだが、形や色など外形の美とは関係なく、対象の中身、対象の備わりに関する賞賛である。その点で「きよし」や「うるはし」と基本線が異なり、むしろ「うつくし」に通ずる所がある。(中略)「なつかし」は「なつく」時の心の形容詞表現である。つまり親しみやすいという、近親感、心やすさを表す。(中略)要するにこちらが対象を好意的に見る以上に、肯定的に身近に受け入れようとする積極性を有する。

「こひし」
古代語の「恋し」と現代語の「恋しい」との間には一つの違いがあるようである。現代の「恋しい」は、昔あって今は無いものへの再現願望が強く、それが再現すれば解消する感情だが、二七段など、再現願望は強くないと思われ、その点現代語の「なつかしい」に近い。「なつかしい」は再び手に入らないものに寄せる情感で、ひたすら再現を望み現状否定の色彩の濃い「恋しい」とは異なって現状肯定を基盤とする。(中略)つまり古代語の「恋し」は、現代語の「恋しい」と「なつかしい」との双方にまたがる感情だった、と言ってよさそうである。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

なるほど。「うるはし」が形について、「きよし」が色について外形的な美を言う語だったのに対し、「なつかし」は対象の中身について言うのか。これはおそらく、「なつく」という動詞の持っている、相手が気に入って、密着していたいという語義からきているんだろうな。

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2016年6月21日 (火)

「うつくし」「らうたし」と「いとほし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」をもとに「心状語」をまとめる第三回。今回も肯定的感情を表す心状語の続きで、「うつくし」と「らうたし」。これに関連して「いとほし」を取り上げる。

まず「うつくし」と「らうたし」の辞書での定義から

「うつくし」…かわいい
「らうたし」…かわいらしい、いとしい、かわいがってやりたい

定義だけではあまり差がないようにも思うが、「うつくし」は植物くらいまでが対象となりうるのに対し、「らうたし」は人間に関してしか用いないのが原則。動物ならば人間に準じて扱い得るので「らうたし」の範囲に収まるかもしれないが、植物については無理なようだ。

「枕草子心状語要覧」のまとめを引用してみると

「うつくし」
現在は「美」の字を宛て、美一般を指す広い感覚の語だが、元来は可憐なものへの感情であった。動詞の「うつくしむ」が現代語の動詞「いつくしむ」と同根であることは「うつくし」の原義への最も強い証言であろう。(中略)小なるもの、弱なるもの、幼なるものなどへの感情で、大・強・長などの優性を備えた立場からの、保護したくなるような感情を言う。

「らうたし」
語源的には「労いたし」であるとされ、対象によって惹きおこされる感情が、心を痛めるような思いである、というのがその原義であろう。現代語の「いたいたしい」は、その原義に近いであろうか。ただし「らうたし」は、心を痛めるだけでなく、それを保護し、大切にしたい、という気持ちを伴うので、「いたいたしい」より遥に愛情が深く暖かい。その点は「うつくし」も同様だけれども、対象が人間に限られるだけに、一段と主情的で、幼い者、弱い者への、たまらない可愛さ、と言うに近い感情を表す。現代語の「いとしい」がほぼこれに近いかと思われるがどうであろうか。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

これら「うつくし」「らうたし」と同じように「かわいい」の意味を持つ「いとほし」という語があるが、辞書では

「いとほし」…(自分について)困る、いやだ
     (相手に対して)気の毒だ、かわいそうだ、いたいたしい、かわいい

となっている。「岩波古語辞典」には以下のような解説が載る。

「いとほし」
弱い者、劣った者を見て、辛く目をそむけたい気持ちになるのが原義。自分のことについては、困ると思う意。相手に対しては「気の毒」から「かわいそう」の気持ちに変わり、さらに「かわいい」と思う心を表すに至る。「いとし」はこれの転。

なるほどねえ。同情から愛情へというわけだ。

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2016年6月19日 (日)

「めでたし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」から引用して、「心状語」をまとめる第二回。

今回も肯定的な語彙から「めでたし」。まず辞書の定義では

「めでたし」…(申し分なく)すばらしい、賛嘆する以外にない

現代語の「めでたい」は祝いたくなるようなうれしい、よい状態を表すが、古語の「めでたし」は、まったく申し分なくすばらしいという所に中心がある。

「枕草子心状語要覧」ではつぎのようにまとめられている。

「めでたし」
動詞「めづ」の形容詞。「めづ」が無条件の賞賛を表すように、「めでたし」も、対象の中に無条件に優性を認める言葉であろう。「うつくし」や「なつかし」が、保護してやりたくなる弱小性や、親しみやすさ、といったことを条件とする賞め言葉であるのに比べると、無条件であるだけに対象の属性に関しては制限が緩く、かわりに賞賛の程度は最も高くなければならないという厳しさを持つ。全く申し分ない、といった気持である。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

同じ賞め言葉でも
「めでたし」…無条件
「うつくし」…弱小性に対して
「なつかし」…親しみやすさに対して
という使い分けがあるわけだ。

「うつくし」「なつかし」については次回に取り上げる予定だが、確かに『枕草子』の「うつくしきもの」の章段を思い浮かべると、小さなもの、かわいらしいもの、保護したくなるものをその対象として列挙していたなあ。

動詞「めづ」も無条件の賞賛を表すということは、『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」に出てくる姫君は、無条件に虫をすばらしいと思っていることになるわけだ。

無条件にすばらしいと思うわけだから、最高にすばらしいという感じにつながっていくのだろう。現代語の「めでたい」に連なる、この上なくよいことだという語感は、最初から備わっていたわけだ。

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2016年6月18日 (土)

「うるはし」と「きよし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』の巻末に収録されている「枕草子心状語要覧」が秀逸であるということに触れたのは、もう一年以上前のことだったか。これを引用して、枕草子に出てくる「心状語」をまとめてみようと思いながら、放置したままになっていた。

さて、まず第一回は「美」に関した古語である「うるはし」と「きよし」について。それぞれの辞書での定義は

「うるはし」…改まっている、折り目正しい、かたくるしい、きちんとしている、美しくりっぱだ
「きよし」…清澄だ、きれいだ、さわやかだ、きれいさっぱりと

などとなっている。

端的に述べれば、「うるはし」が容貌、態度、服装などの整った美しさ、つまりは「形」の美しさを言うのに対し、「きよし」は、汚れがない、不純物が混じっていないことなどを美と見た感覚を表し、「色」について言う。

この不純物が混じっていない美しさという点から、「きよし」の対義語は「きたなし」、澄んだ感じがさらに氷のように冷たく冴えて、くっきり澄んだ意になると類義語の「さやけし」となる。

「枕草子心状語要覧」には次のようにまとめられている。

「うるはし」
美なるものへの評語の一つだが、整った美しさを指す語。(中略)人間以外のものにも用いられるが、人間の手の加わったものに関して言う傾向が強い。(中略)その整った破綻の無さは、あまりにも隙がない、という負の角度から把握される危険があり、堅苦しい、儀式ばっている、といった悪い評語として使われることもある。(中略)人間の毛髪について言うのが最も多く、服装がそれにつぐ。(後略)

「きよし」
汚れのないこと、不純物が混じっていないこと、などを美と見た感覚を表わす。「うるはし」が主として形について言うのに対して、「きよし」が色について言うのは、その差の現われと言ってよいであろう。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

なお、「きよし」には「連用形」の形で「すっかり」「まるっきり」の意に用いられる用法もある。これは不純物を含まぬ百パーセントの意味からの転用らしく、「きよく知らで」「きよう忘れて」「きよう見え聞こえず」といった例があがっている。

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