村上春樹を読む

2013年8月25日 (日)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その9(終)

村上春樹の長編小説の中で好きなものはどれですか、と訊ねられたら、たぶん一番に挙げるのはこの作品かもしれない。二番目は『海辺のカフカ』で、その次が『ねじまき鳥クロニクル』となるだろうか。

人によっては『ノルウェイの森』が一番だとか、いやいややはり『1Q84』でしょ、ということになるかもしれない。皆、それぞれの好みがあると思う。それはそれでいいと思うのだが、何と言っても私はこの作品が好きだ。

この作品は初期の長編であるだけに、技巧的な面から見れば、ポイントが低くなる要素もあるのかもしれない。けれども「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」という二つの世界が、弛緩することなく一定の強度を維持しながら展開していく様子は、読んでいて実に心地よい。

美しく結晶した物語がそこにはある。その物語には、読み終えてもうまく説明しきれない「何か」が残る。村上春樹の長編小説にはどれもそういう特徴があると思うのだが、この小説は特にその感じが強い。だから、本当はあと二回か三回読み直してみるといいのかもしれない。何度読み返しても、その都度発見するものがあるような気がする。

そして、この作品には後の村上作品を読み解く際のヒントとなるような記述がいたるところに散らばっている。二つの世界を交互に描きながら物語を駆動していくその手法も、非現実的なできごとのリアルな描写も、この作品が出発点になっているのではないか。

自分がなぜこの作品にこれほど引きつけられるのか。ここまで書いてきながら、やはりうまく説明できない。「僕」と「鼠」の初期三部作に引きつけられるのは、ぼんやりとながら分かる。「青年期」を過ぎてしまうことへの漠然とした「喪失感」に共鳴するものがあるからだ。では、この小説の何に自分は共鳴しているのか。長々と書いてきながら、はっきりと分からない。だから、いずれまた読み返してみなければならない。そのときに何か分かれば、あらためてまとめてみようと思っている。

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2013年8月24日 (土)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その8

二つの世界から成り立っているからというだけでなく、この小説には二重性のしかけがいくつかあるように思う。

「ハードボイルド・ワンダーランド」では光あふれる東京の地下に「やみくろ」たちの支配する世界が存在している。これは何の隠喩になっているのだろう。秩序だった意識の世界に対する、混沌とした無意識の世界があることの比喩なのか。それとも人々の内面に潜む暗黒面を象徴的に表したものか。闇があるゆえに光があるのだという、どこかで聞いたような一節も浮かんでくる。

いずれにしても、この地下の暗黒世界の描写は、おぞましいほどまでにリアルである。闇の持つ凶暴なまでの邪悪さ、人間の感覚を奪い取ってしまうような虚無の深淵。今回読み返したときに、一番印象に残ったのは、この地下世界を描いた部分だった。

この地下世界巡りは、冥界巡りのような趣があるのだが、視覚的要素以外で暗黒の空間をどう描いていくのかという点で興味深い部分になっている。ここでは、聴覚と触覚と嗅覚に関する描写が重ねられ、意識の底に引きずり込まれるような闇の恐ろしさをみごとに描き出している。

「世界の終り」では、「僕」に対する「影」の存在。本来、光と闇のように切り離し難く結びついているはずの「影」を切り離さないと、壁に囲まれた「街」の中へ入ることができない。「影」は「自我の母体」=「心」だと見なされているから、「街」に住む人間は心を失った人間ばかりということになる。

「影」は「自我の母体」なのだから、それ自身は善でも悪でもない。というか善でも悪でもあり得る。どちらか一方ではなく、どちらの要素も含んだものであろう。その「影」を切り離し、「影」が死んでしまった人間しか住んでいない「街」というのは、「不自然な」場所である。

しかも、完全性の中を循環しているかのように思える「街」の近くに、心を残した人々の住む「森」がある。壁に囲まれた世界の中に、そういう場所が設定されているのも面白い。

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2013年8月23日 (金)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その7

この作品には、村上春樹の世界で重要な意味を持つ「井戸」について率直な記述がある。

しかし彼女を家まで送りとどけて別れてしまうと、僕の喪失感は彼女と会う前よりもっと深くなっているように感じられた。そのとりとめのない欠落感を僕にはどうにもできなかった。その井戸はあまりにも深く、あまりにも暗く、どれほどの土もその空白を埋めることはできないのだ。
(「村上春樹全作品 1979-1989」第4巻 p203)

この記述から「井戸」=「とりとめのない欠落感」=「喪失感」であることが分かる。井戸が欠落感や喪失感の象徴であることが分かると、後の『ねじまき鳥クロニクル』で、主人公が井戸の底まで降りていく話も、納得のいくものになるのではないか。

この「喪失感」についても直接的な記述がすぐ後に続く。

おそらくその喪失感は僕の失われた記憶とどこかで結びついているのに違いないと僕は推測した。僕の記憶が彼女の何かを求めているのに、僕自身がそれに応えることができず、そのずれが僕の心に救いがたい空白を残していくのだろう。しかしそれは今のところ僕の手には負えない問題だった。僕自身の存在はあまりに弱く不確かなのだ。
(「村上春樹全作品 1979-1989」第4巻 p203)

これほど率直に、直接的に記述されている部分は、おそらく他の作品には見当たらないのではないだろうか。そういう意味でも、この作品は、村上春樹の世界を読み解く際の重要な案内役になると思う。

村上春樹の世界の底流にある喪失感は、初期三部作から一貫している。そしてまた、この喪失感にはある種の普遍性がある。日々失われていくものは誰にもあるのだ。それが損なわれているかどうかは別として。

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2013年8月22日 (木)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その6

「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の意識が消滅し、「世界の終り」の世界が残るのは象徴的だ。

現実的世界へのコミットではなく、内的世界への引きこもりとも思えるような展開である。しかし、この作品が世に出たのは1985年で、初期三部作の次に書かれた初めての書下ろし長編だったことを思えば、不思議な話ではないだろうと思う。

この作品の十年後、1995年に起きた二つの出来事が大きな影をおとす前の作品なのだということだ。阪神淡路大震災とオウム真理教事件。この二つの出来事は、日本の社会と日本人の意識に大きな衝撃を与えた。そしてそれらは、村上春樹が後にインタビューで「現実の社会にコミットするような作品を書いていきたい」と発言する契機に、おそらくなったのでもあろう。

現実の社会へコミットすることを指向する前の長編であることを思えば、内的世界へ向かおうとする結末は自然な流れである。ただ、「世界の終り」の「僕」が「影」と別れて壁の中の世界に留まることを決意し、図書館の女の子と共に生きていくために、彼女の心を一角獣の頭骨から拾い集めるというところに、一筋の光のようなものを感じる。

壁に囲まれた街の住人は、みな影を切り離して影が死んでしまった人間、つまり「自我の母体」、心を失った人間である。それゆえ街はひっそりとした時が静かに循環するだけの世界となっている。この世界では何も起こらない。誰も大声をあげて喜んだり怒ったり哀しんだり楽しんだりすることがない。その世界に心を取り戻した女の子と「僕」は生きていこうとする。

それは、「ハードボイルド…」の「私」の意識が無くなる直前の部分にも形を変えて描かれている。

私はこれで私の失ったものをとり戻すことができるのだ、と思った。それは一度失われたにせよ、決して損なわれてはいないのだ。
(「村上春樹全作品 1979-1989」第4巻 p586)

一度失われたけれども決して損なわれていないものが、「世界の終り」の世界には保たれている。そういうことだろうか。おそらく、それは街の中にではなく、発電所の向こうの森の中に。「影」と別れた「僕」が女の子と生きていく場所はそこしか考えられない。

それは、「影」が批判する「不完全な部分を不完全な存在に押しつけて、そしてそのうわずみだけを吸って生きている」街の完全性に訣別することだからだ。街に同化しないまま、森の中で生きていく。現実社会へのコミットでもなく、内的世界への逃避でもない、別の道。それを選択するところに、一筋の光が差しているように感じる。

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2013年8月21日 (水)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その5

この二つの世界の対比は鮮やかなイメージを喚起する。動的で活き活きした「ハードボイルド・ワンダーランド」の世界と、静謐さに満ちた「世界の終り」の世界。ところが、物語が中盤を過ぎたあたりから「世界の終り」が「ハードボイルド…」の「私」の意識に侵入し始める。

たとえば、「やみくろ」たちの襲撃を受けて隠れた「博士」を救出するため、「私」と「博士」の孫娘が地底をはい回っているとき、どこかで噴出し始めた水の音が引き金となって「私」はニュース・フィルムの記憶を思い出す。

ダムの放水がスクリーンに映し出され、その水流の影がダムの壁にうつっている。その影をじっと見ていると、それが「私」自身の影に変わり、湾曲したダムの壁で踊っているのに気がつく。気がつくけれどもどうにもできない。他の観客は誰も「私」の影には気付いていない。

この記憶は、真の記憶ではなく、「博士」が切り替えた脳内回路が作り出した偽りの記憶である可能性がある。しかし「世界の終り」で「影」が「僕」とともに街から脱出するために「南のたまり」にやってきて、「影」だけがそのたまりに飛び込む場面に直結している。このたまりに飛び込んだ「影」がダムの放水のニュース・フィルムに出てくる影なのだ。

一角獣の頭骨にしてもそうだ。「ハードボイルド…」の頭骨は、「博士」が精巧にこしらえたレプリカである。本物ではないはずなのに、「私」が図書館司書の女性の部屋で眠ったときに光り始める。それは「世界の終り」で「僕」が夢読みをしているときの光り方に似たような感じだ。

逆に「ハードボイルド…」の「私」の意識が「世界の終り」の世界に反映されたのではないかと思えるものもある。それは「ダニー・ボーイ」のメロディーである。

「ハードボイルド…」の冒頭で、「私」が「博士」に依頼された仕事の件でやって来たビルのエレベーターの中で、「私」が口笛で「ダニー・ボーイ」を吹いてみる場面が出てくる。このとき「私」の口笛は「肺炎をこじらせた犬のため息のような音しか出てこなかった。」

このメロディーが「世界の終り」で重要なシーンに登場する。「僕」が発電所の管理人からもらってきた手風琴を図書館の女の子に聞かせようとしている場面で、不意に「ダニー・ボーイ」のメロディーを見つけ出す。「世界の終り」の世界には唄が失われてしまっているので誰も楽器を弾かないし、唄を歌ったりもしない。

このすぐ後で「僕」は、一角獣の頭骨の中に散らばる光の中から、図書館の女の子の心を読みとりひとつにまとめようとする。それによって失われた彼女の心を取り戻そうとする。

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2013年8月20日 (火)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その4

「世界の終り」は、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」の脳内の意識の壁に囲まれた世界であり、「私」の記憶が押し込まれた世界である。それは「私」という人物の意識の核でもある。

しかし、その「世界の終り」の街には影を切り離して影が死んでしまった人間、つまり心を失った人間しか住むことができない。壁の外で影が死ぬと不完全な死しかあとに残らず、そのようにして心が残った人間は、街に住むことができず森の中で暮らさなければならなくなる。

「影」とは心なのであり、「自我の母体」である。一角獣は、壁の中の住人に日々生じる「心の泡のようなもの」を吸収し回収し外の世界に持っていく。冬が来ると、体の中に貯め込んだ自我の重みで一角獣は死んでいく。

門番によってその頭骨は切り離され、きれいに処理され、その後図書館の書庫に運ばれる。そして新しく街に入ったばかりの、まだ影が死んでいない人間が夢読みとなって、その頭骨に刻み込まれた自我を大気の中に放出する。

このような街のあり方を「僕」の「影」は批判する。

影が死ねば夢読みは夢読みであることをやめて、街に同化する。街はそんな風にして完全性の環の中を永久にまわりつづけているんだ。不完全な部分を不完全な存在に押しつけ、そしてそのうわずみだけを吸って生きているんだ。それが正しいことだと君は思うのかい?
(「村上春樹全作品 1979-1989」第4巻 p490)

だが、「僕」は「影」の誘いを断り、この街に残ることを決意する。

そして、博士が脳内回路を切り替えたまま元に戻すことができなくなったため、「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」は、自分の意識が消滅し「世界の終り」という自分の意識の核と呼ぶべき世界で永遠に彷徨することを運命づけられてしまう。

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2013年8月19日 (月)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その3

大まかにでも物語の筋を紹介すべきなのだろうが、これがどうにも気が重い。うまく伝えられるか全く自信が持てないからだ。

奇数章の「ハードボイルド・ワンダーランド」は、「計算士」である「私」が仕事を依頼されて、あるビルに足を踏み入れる場面から始まる。昇っているのか降っているのか分からないエレベーターを降りると、ピンクずくめの若い女の子にある部屋へと案内される。その部屋には壁に仕掛けがあり、地下へ降りていく入口がある。暗闇の中を進んでいき、「私」は仕事の依頼主である「博士」の出迎えを受ける。

仕事の中味は、「博士」の研究データを暗号化すること。「計算士」の仕事は、データを自分の脳内で暗号化するというものであり、ロボトミー手術を受けた上で特殊な訓練を受けた者しか「計算士」になれない。「計算士」は「組織」と呼ばれるシンジケートに所属しており、仕事は「組織」を通して依頼される。

一方、博士の研究成果を狙っている「記号士」と呼ばれる連中が出てくる。「記号士」は、暗黒の地下世界の住人である「やみくろ」の勢力と結び、博士の研究成果を手に入れようとしている。

ところが実は、この博士その人が「計算士」の生みの親であり、「組織」が保持している暗号化システムの設計者でもあった。ロボトミー手術を伴う「計算士」の養成に危険があることが分かり、博士は「組織」をやめる。そして、研究データの暗号化を依頼したいと称して「計算士」の「私」の脳内回路を切り替えさせようとする。これが「ハードボイルド・ワンダーランド」の大枠ということにでもなるだろうか。

一方の「世界の終り」の方は、壁に囲まれた街にやってきた「僕」が自分の「影」と切り離され、「夢読み」として図書館で一角獣の頭骨に閉じ込められた夢を読み取る話から始まる。

「僕」の「影」は、門番の隙をねらって「僕」と一緒にこの街から逃げ出そうと機会をうかがっている。しかし「僕」の方は「夢読み」として通う図書館で手伝ってくれる女の子に引かれていくようになり、街から抜け出す気持ちを失っていく。

脱出の機会が巡ってきたとき、「僕」は「影」と「南のたまり」と呼ばれる川の澱みまで来るのだが、最後の瞬間になって、この街に残ることを「影」に伝える。「影」だけが「南のたまり」に飛び込んで街を脱出する。

非常に粗いまとめだが、このような概略である。

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2013年8月18日 (日)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その2

まずは単純に比較できるところから対比して話を進めていきたい。

最初は章のタイトルから。奇数章の「ハードボイルド・ワンダーランド」は二から三個の語句を並べ、偶数章の「世界の終り」は一つの語句をタイトルにしている。しかも「ハードボイルド…」の方には地名や人名の固有名詞がふんだんにちりばめられている。たとえば9章「食欲、失意、レニングラード」とか17章「世界の終り、チャーリー・パーカー、時限爆弾」といった具合だ。一方の「世界の終り」の方は、6章「影」や16章「冬の到来」のように普通名詞のみで統一されている。

このタイトルの付け方は、それぞれの物語の世界が持つ色合いを的確に反映している。「ハードボイルド…」は「私」という主人公が生き、動き回る世界を舞台としており、それゆえ現実的で具体性に満ちている。登場する人物も通行人のチョイ役まで含めると相当な数になる。物語の中にも固有名詞が惜しげもなく並べたてられる。これらの人や固有名詞によって「ハードボイルド…」の世界は、動的でにぎやかで明るい色調の、テンポよいものになっている。

一方の「世界の終り」は「僕」という中心人物が生きる、「壁」に囲まれた閉じた街が舞台となっている。「ハードボイルド…」の世界とは対照的に、こちらは静的でひっそりしていてモノトーンの色調を帯びている。人物も限定的だし、固有名詞がほとんど登場しない世界だ。もちろん、「南のたまり」とか「西橋」とか「時計塔」といった特定の場所を示す語句は出てくるが、それらは固有名詞ではない。

「世界の終り」の章に入ると時間が遅く流れるように感じる。それは「ハードボイルド…」の章がインディ・ジョーンズみたいなジェットコースター的展開を見せるためで、それゆえもう一方の章をよりゆっくりとしたものに思わせるのかもしれない。

このように二つの物語は対照的ではあるのだが、共通する部分もある。「ハードボイルド…」の「私」に対して「図書館司書の女性」が重要な役割を果たすのと同様に、「世界の終り」の「僕」には「図書館の女の子」が配置されている。もっとも、「世界の終り」の物語に登場する「図書館」には本ではなく一角獣の頭骨やら何やらが収められているのであり、女の子も司書ではなく「夢読み」と呼ばれている「僕」の世話をするためだけに来ている。

「図書館」は村上春樹の描く小説世界の中で重要な場所になっている。確か『海辺のカフカ』で主人公が「図書館」を訪れ、その図書館の司書に助けられるという展開があったように思う。しかもそれは単なるエピソードではなく、物語の重要な展開の一部になっていたと記憶している。

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2013年8月17日 (土)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読む・その1

この村上春樹の長編小説は、いつもどこかに引っかかったまま気になる存在だった。「僕」と「鼠」の初期三部作の後に初めて書かれた書下ろしの長編であるということもさることながら、二つの物語が並行し最後に合流していくという形式も特徴的で、印象に残る。

『一九七三年のピンボール』でも「僕」と「鼠」の話が交互に語られていくという形式は試みられていた。しかし、あの作品では同じ世界(同じ位相というべきか)に属する二つの場所という違いだけで、この小説ほど二つの話がそれぞれ独立していたわけではない。

最初に読んだのは、随分昔のような気がする。今回読み返してみると、細部で忘れているところが多かった。それから最初に読んだときには分からなかった箇所も、おそらく多かったのではないかと思われた。もちろん、今回読んでも分からないままの箇所は残っている。もう一度最初から読み直してみた方がいいかもしれない。そうは思ったが、再読した今の時点でも書けることはあるのではないかと思い直した。きちんとまとまったことが書けるのかどうか心許ないが、ともかく書き出してみよう。

初めの方で触れたように、この小説は二つの物語で構成されている。全40章のうち、奇数章が「ハードボイルド・ワンダーランド」、偶数章が「世界の終り」となっている。だから小説全体のタイトルとしては『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』という長いものにしかならなかったのだろう。

「村上春樹全作品 1979-1989」(講談社)の各巻に入っている「自作を語る」という冊子をみると、出版社はこの題が気に入らず『世界の終り』だけにならないかという申し入れが何度かあったという。またこの作品が英語に翻訳されたときは逆に『ハードボイルド・ワンダーランド』だけにならないかという申し入れがあったそうだ。しかし作者自身が言うように、この二つの物語は二つで一つなのだから、やはり今のタイトル通りでなければならないと思う。

つまり、それぞれ独立した物語ではあるのだが密接につながっているのであり、一つ一つに切り離し一方を無視してしまえば、どちらの物語も死んでしまいかねない関係にある。ちょうど「世界の終り」の「僕」と「影」がもともと一体だったものを引きはがされたのと似たような感じかもしれない。

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2012年9月16日 (日)

『羊をめぐる冒険』を読む・10(終)

いくらでもずるずると続けてしまいそうなので、とりあえず10回目でひと区切りにしようと思う。最終回は、物語の本筋からすれば枝葉の部分となるサブ・ストーリーとサブ・キャラクターについてまとめておきたい。

たとえば、『風の歌を聴け』であれば、架空の作家デレク・ハートフィールドについての記述。『1973年のピンボール』であれば、ピンボールマシンについての小史。これらは本筋と関連しつつも、それほど書き込む必要があるのかどうか疑問が浮かぶところである。

しかし、この道草のような寄り道が村上春樹的世界の魅力の一つになっているのも、また確かだと思う。物語が直線的に進むのではなく、いくつもの脇道や迂回路を経て進行していく村上春樹の小説は、一見無駄とも思えるこうした脇道の道草を楽しめるかどうかで評価が分かれるのかもしれない。

『羊をめぐる冒険』で最も興味深かったサブ・ストーリーは「十二滝町の歴史」である。町史や村史の記述スタイルを模しながら、はるかに面白い小史が描かれている。これも架空の町の歴史だと思うのだが、北海道のどこかの町の歴史をたどれば、似たような変遷が見つけ出せそうな気持ちにさせられる。いかにもありそうな地域史なのである。

『1973年のピンボール』の中で、ピンボールマシンの変遷について書いた部分もそうだったが、村上春樹はこうした小史や年代記が好きなのかもしれない。そういえば『ねじまき鳥クロニクル』というタイトルの長編もあった。

ある一つの閉じられた歴史を記述してみるというのは、箱庭を作ったり、ミニチュアセットの街を作ったりするのと似たような感触があるのかもしれない。さっと俯瞰して全体がぱっと分かる小さな歴史。それを自分で作り出してゆくのは、結構楽しい作業なのではないか。

同じように、本筋に関係してはいるのだが、この人物がいなくても物語は成立するのではないかと思われるサブ・キャラクターが登場する。しかし、一度小説の中に登場してしまうと、本筋とは別に妙に印象に残る魅力的な人物たちでもある。

『羊をめぐる冒険』の中で一番印象に残るのは「先生」のお抱え運転手である。この運転手が、「僕」の飼っていた名前のない猫に「いわし」と命名する。それだけではなく、「僕」と交わす哲学的とも言える対話は、そこだけ独立させて短編小説に仕立てた方がいいのではないかと思うほど面白い。

いなくても本編の筋に大きな影響はないのかもしれないけれど、いざそうなったとすれば、何とも言えず寂しいなあと思わせる。そういう愛しのサブ・キャラクターの一人である。

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