陸奥話記関係

2011年9月14日 (水)

『陸奥話記』現代語訳の訂正について

二年ほど前にまとめた『陸奥話記』の現代語訳の「解説」頁に誤りがみつかったので訂正したい。


82頁8行目

  誤) 着金+太(ちゃくたい)の部分をつかんで持つのである

  正) 着金+太(ちゃくだ)にこれを持たせるのである


PDFファイルの方で確認していただければ幸いだが、「ちゃくだ」の「だ」の漢字(金+太)はうまく変換できない。

お恥ずかしい話だが、つい先日まで「ちゃくだ(着金+太)」と呼ばれた罪人の存在を知らなかった。内部被曝についてかなり詳細な解説をまとめていらっしゃるこちら のサイトを再訪し、たまたま別の論文のタイトルを見てびっくりした。「ちゃくだ(着金+太)」について詳細な論文が出ている(これこれ )。

読んでみると、まさしく私が引用した源俊房の日記『水左記(すいさき)』に載る、貞任らの首級入京部分ではないか。詳しく解説された内容を読んでみると、どうも「だ(金+太)」というのは鉄製の足かせのことらしく、この「だ(金+太)」をつけてつないで使役された三、四人の罪人のことを「ちゃくだ(着金+太)」と呼んだようだ。

貞任らの件で言えば、陸奥国から京に運ばれた首級を傔杖(けんじょう)の藤原季俊から受け取った検非違使は、罪人である「ちゃくだ」にこの首級を刺した鉾を持たせた。ここに罪人を用いているのは、触穢の思想からきているのだろう。

官符によって追討された貞任らの首を都の中に入れるために、罪人には罪人をもって当たらせる。死の穢れを京へ持ち込むことも「ちゃくだ」という罪人に持たせることで相殺される。一般の民衆は安心して、西の獄門の楝(おうち)の木にさらされる首級を、またとないイベントとして享受することができた。どうもそのような構図であるようだ。

源俊房の『水左記』という日記は漢文で書かれているため、「解説」部分に引用したときは、私の現代語訳で載せたのだが、「ちゃくだ」という一つの歴史用語を知らなかったため、完全に誤訳していた。まったくうかつな話で、お恥ずかしい限りだ。

製本した現代語訳をお持ちのみなさまには、まことに申し訳ありませんが、各自訂正していただければ幸いです。

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2010年9月18日 (土)

藤原清衡・その7

樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」(岩手大学人文社会科学部紀要、2008年)を紹介しながら清衡の生涯を見てきた記事も今回が最終回となる。

前回の最後に引用した部分に、「恒久平和な仏国土建設という理想」という言葉があった。平泉の世界遺産登録に向けてアピールするのであれば、この清衡の恒久平和への願いこそ前面に出すべきものではないかと私も思っていた。浄土思想にもとづく景観などと言われてもピンとこないが、恒久平和の仏国土をめざした清衡の、そして声なき多くの民衆の悲願には血が通っている。この願いこそ普遍性を持って世界へ訴えかける力があると思う。

清衡は江刺郡の益沢院を中心に、嫡妻北方平氏とともに金銀字交書一切経(現存するものは四六〇〇余巻)を八年間にわたって書写する。この一切経の書写が完了した天治元年(1124)に金色堂が上棟される。大治元年(1126)には釈迦堂や金銀字交書一切経を収める経蔵などから成る伽藍一区を造営し、時の権力者、白河院に奉献した。この伽藍の落慶供養のために書かれたのが、「中尊寺供養願文」である。

この供養願文の中で、二階鐘楼一宇に触れた部分が何といっても感銘を受ける。現代語で意訳すれば「一音響いて至るところの艱難を消し、平等に喜びを授ける。かつての戦乱における死者は官軍・夷狄を問わず、鳥獣魚介の域を越えて精魂皆去り、塵になり果てている。鐘音と共にすべての恨みを消し去り、浄土に皆の霊を導かんと願う。」なんと深い祈りであることか。

それから二年後の大治三年(1128)七月に、清衡は七十三歳で人生の幕をおろす。恒久平和の仏国土建設を願った清衡であったが、その死後、後継者の座をめぐって長子惟衡と庶弟基衡の間に骨肉の争いが再現されたのは何とも皮肉としか言いようがない。

延々と七回に渡って樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」を紹介してきたが、最初の回にも述べた通り、小説より面白い学術論文だった。大学の紀要に収められたままでは一般の目に触れる機会が少ないのではないかと余計なでしゃばりをしてしまったが、高橋富雄氏が一般向けに『藤原清衡』(清水書院、1971年)を著したように、樋口氏が一般向けの『藤原清衡』を執筆されることを切望する。最新の研究成果を踏まえた清衡像は、きっと我々に新鮮な驚きをもたらすことと思う。

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2010年9月17日 (金)

藤原清衡・その6

第六回となったが、今回も岩手大学人文社会科学部紀要第82・83号(2008年)に掲載された樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」を基に、清衡の後半生を見ていきたい。

戦乱と骨肉の争いに明け暮れた前半生にくらべると、清衡の後半生は、平泉を開府し中尊寺造営に深く入れ込み、仏教的世界に沈潜する穏やかな日々に見える。

所伝によると、陸奥・出羽両国を仏国土にしようという清衡の構想は壮大である。白河関から外浜までの二十余日の道程の一町ごとに金色の傘卒塔婆を立て、陸奥・出羽両国の一万余の村ごとに伽藍を建て仏性燈油田を寄進したといわれている。

樋口氏は、この一万余の村ごとに伽藍を建てたという所伝について、相当な誇張はあるものの、多くの村々で以前から仏教文化が普及しており、清衡がそうした在来の仏教信仰を保護し、それなりの経済的援助を施すことで自らの傘下に組織したという程度に読めば、荒唐無稽の作り話とならないであろう、と述べている。むしろ清衡の仏教政策は、陸奥国押領使としての職権を最大限利用することで推進されてきた一面もあると樋口氏はみる。

では、陸奥・出羽を仏国土にしたいという清衡の思いはどこから生まれたのか。この点について樋口氏は、誉田慶信氏の説を引いて次のように述べる。

関山丘陵における寺院造営は、前九年・後三年合戦の忌まわしい戦禍を記憶する民衆たちの平和への希求の思いを汲み上げた清衡(彼自身も強烈な戦争体験を有する)によって、前九年合戦の激戦地の真中に位置した平泉の地に聖なる仏国土を建設しようという意図の下におこなわれた。そしてその宗教理念は王権擁護や神国思想を根幹とする京都の顕密主義とは一線を画するもので、法華経の教えにもとづく一仏乗(衆生の絶対平等)の恒久平和な常寂光土を奥羽の地に具現化しようというものであった。」(岩手大学人文社会科学部紀要第83号、106頁)

そしてこの誉田氏の見解について樋口氏は、次のようにまとめている。「ともすれば都の仏教文化の忠実なコピーに過ぎず独創性に乏しいとみられがちであった平泉仏教文化の中に中央のものとは異質な独自の宗教理念が存在したことを説くものであり、その所論はきわめて斬新かつ魅力的である。清衡によって構想された仏教政策が単なる都風の豪奢な物質文化の模倣にとどまるものではなく、逆に敢えて中央とは色調を異にする宗教理念の下に奥羽を染め上げることを意図する側面をも有していた可能性は、私にもかなり蓋然性が高いことのように思われる。もとよりそれは、院政期国家内で独自の政治的地歩を占めようとする彼の政治家としての戦略とも深く関わるものであったと思われるが、やはりそこでめざされた恒久平和な仏国土建設という理想は、彼自身の辛苦に塗られた戦争体験に根ざした切実な願望を出発点としていたものであったと考えたい。」(前掲同紀要第83号、107頁)

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2010年9月16日 (木)

藤原清衡・その5

奥州藤原氏初代の清衡の生涯を、樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」(岩手大学人文社会科学部紀要第82・83号、2008年)を参照しながら振り返ってきたがすでに第五回である。

さて前回と話は前後するのだが、源有宗・藤原実宗・藤原基頼という三人の陸奥守の前に陸奥守であった藤原基家のときに、清衡が何者かを相手に合戦に及びそうな気配であると朝廷に通報されたことがあったという。その同じ年、義家の弟義綱が陸奥守に任じられる。義綱自身は、陸奥守として下向後、出羽国で叛逆者追討の軍事行動を取ったことで奥羽に対する野心を警戒されたためか、一年余りで美濃守転出となるのだが、樋口氏は興味深い説を述べている。

『中右記』という右大臣藤原宗忠の日記の嘉保元年(1094)五月四日条に「兵衛尉清衡」なる平氏姓の人物が登場し、承徳元年(1097)正月三十日条には「平清衡」が左衛門権少尉に任じられたという記述があるらしい。この「平清衡」なる人物を、樋口氏は藤原清衡のことではないかと推測する。大胆な推論ではあるが、一方でなるほどとも思える説である。

まず嘉保元年という年は義綱が陸奥守として現地に下向してくる年であり、そうなれば叛逆者の汚名を着せられて追討されるおそれがある、と清衡が思ったとしても不思議ではないということ。次に嫡妻北方の平氏姓を称したのは以前に述べたように義家とともに奥羽に荒廃をもたらした張本人と通報されていたため本名で在京生活を送ることは不可能だったと考えられるということ。さらに当時の都における最先端の仏教思想や造寺・造仏に関する知識などをどうやって清衡が手に入れたのかを考えるとき、一歩も陸奥国を出たことがなかったと考えるより在京生活の期間に吸収したのではないかとみる方が自然ではないかということ。

樋口氏はこれらの論拠をあげて、寛治七年か嘉保元年から四、五年間在京したのではないかと考えている。これは実に面白い見解である。高橋富雄氏の『藤原清衡』(清水書院、1971年)に源師時の日記『長秋記』大治五年(1130)六月八日の記事として清衡の元妻が、京で検非違使の義成という者に再嫁し、あちこちで散財したという話が紹介されていたように思う。その話を読んだとき、京と平泉を行き来することがあったのだなというくらいにしか受けとめなかったが、清衡が京で生活したという可能性も十分に有り得ることのように思われる。

さて、清衡が奥六郡主の地位を手中にしたのは、陸奥国守藤原基頼の在任期間ではなかったかと樋口氏はみている。基頼は陸奥守の在任期間が二期八年余と長く、その在任中に清衡から関白忠実を始めとして中央への貢馬が盛んに行われているようだ。

こうして奥六郡、山北三郡の実質的支配を確立した清衡が中尊寺の多宝寺(最初院)の造営に着手したのは、長治二年(1105)のことである。旅人が往還する「関路」が多宝寺の伽藍の中を通るように造られたという。この多宝寺の造営に始まる中尊寺の寺院造営に着手したとき、清衡はちょうど五十歳になったばかりであった。

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2010年9月15日 (水)

藤原清衡・その4

樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」(岩手大学人文社会科学部紀要、2008年)を基に清衡の生涯を振り返ってみようという記事も第四回となった。今回は後三年合戦終結後の清衡についてである。

後三年合戦といえば、清原氏一族の内紛に陸奥国守の源義家が介入したものの、私戦とみなされたため論功行賞がおこなわれず、義家はむなしく陸奥国を去ることになった合戦である。清原真衡・家衡という兄弟がいなくなり、一人残った清衡が安倍氏・清原氏の遺産を継ぐ者として陸奥・出羽両国を支配していった。従来の説では、そのように清衡が一人勝ちする結果となったと述べられていた。

ところが樋口氏の説によると、後三年合戦終結後の清衡は、しばらくの間、奥六郡主(奥六郡は現在の岩手内陸部)の座を占めることすらできずにいたらしい。「要するに、後三年合戦終結後の清衡は愛する妻子や、家衡・武衡ら近しい肉親・親族や、奥六郡主の一族としての政治的権威や、国家政府・陸奥国府より得ていた政治的信頼などありとあらゆるものを一時に喪失してしまったのであり、同族内での抗争に勝ち残ったとはいっても、その結果なにがしかの恩恵を蒙ることができた訳でもなかった。おそらく彼は茫然自失、深い悲しみに沈み、自責の念に苛まれる日々の中で、暫くはどうすることもできなかったのではなかろうか。」(岩手大学人文社会科学部紀要第83号、93頁)と樋口氏は推測する。

清衡が仏教に強く心を動かされ真の信心を生ずるきっかけを得たのはこの頃のことではなかったか、と樋口氏は続ける。後に平泉に中尊寺を開き仏教文化を花開かせることになる清衡であるが、幼少期から戦乱とともに過ごし、骨肉の争いに手を染めなければならなかった己の罪深さや妻子、親族を多く失った虚脱感は想像以上に深かったのだと思う。

源義家にとっても陸奥国に源氏の棟梁として君臨できなかったことは遺恨となった。子孫の頼朝の代になって奥州征伐が敢行され、わざわざ厨川柵陥落の九月十七日に、奥州藤原氏四代目泰衡の首を厨川ではりつけにしたのも「私の宿意」のためである。前九年合戦・後三年合戦を通じて陸奥・出羽両国に棟梁権を確立できなかった源氏の(特には義家の)遺恨の深さが推し測られる。義経追討は征伐の理由の一つでしかなかったのであろう。

義家も去り、清衡も支配権を確立できずにいたということからすると、政治的空白のようなものが生まれたと思われるが、その中で清衡は茫然自失の状態から抜け出し自分を取り戻していく。平氏姓を持つ女性と再婚し徐々に清原氏一族をまとめていくことになる。

樋口氏によると、義家とともに奥羽に荒廃をもたらした張本人として清衡は、朝廷や陸奥国府から危険人物視されていたのではないかという。それが村上源氏の源有宗から藤原実宗、そして藤原基頼という三人の陸奥国守の在任中に協調的な関係が築かれ、清衡がこの期間を通じて奥六郡と山北三郡の両方を実質的に支配していくようになったのではないかと樋口氏はみている。宿館を江刺郡の豊田館から平泉に移して平泉開府、中尊寺の寺坊造営に着手したのもこの頃ではないかという。

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2010年9月14日 (火)

藤原清衡・その3

樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」(岩手大学人文社会科学部紀要掲載、2008年)を基に清衡の生涯を見ていこうという記事の三回目である。

陸奥国守源義家に降伏を願い出た清衡・家衡は、単に降伏を許されたばかりか、真衡が生前治めていた奥六郡を南北三郡ずつ分割して与えられることになる。ちなみに中原康富の日記『康富記』には、真衡が清衡たちの降伏する以前に病死したということが唐突に述べられている。何か不自然さが漂う箇所でもある。

この清衡・家衡に奥六郡を分割して与えたことに関して、樋口氏は義家の意図を次のように述べている。「真衡が死亡したといっても、彼には嫡子成衡がいるのであるから、本来であれば奥六郡は成衡が相続すべきであるが、そうはなっていない。明らかに義家が清原氏の内部に介入し、成衡を廃嫡して奥六郡を清衡・家衡に均等相続させたとみる他ない。」(岩手大学人文社会科学部紀要第82号、108頁)

形の上では均等だが南三郡にくらべて北三郡は生産力が低かったはずである。南の江刺郡や胆沢郡は現在でも米どころになっているくらいだ。しかも義家はその後しきりに清衡ばかりを引き立てている。樋口氏は、わざと兄弟仲が悪くなるように仕向けていた疑いが濃厚であり、義家は最初から守旧派の頂点にいた清衡に目をつけて利用しようとしていたのではないかと推測している。

この義家の狙い通り事態は進んでいく。家衡が義家に対して清衡のことを讒言すると逆に咎められ、ますます清衡ばかりが引き立てられる。家衡は清衡の館に同居していたとき、青侍の某に清衡の殺害を依頼する。カインとアベルみたいなものである。

清衡はそのことを先に知って叢の中に身を隠して難をのがれるが、家衡は清衡の館に火を放ち、清衡の妻子を殺害する。全てを失った清衡は義家の許に参じ、義家自ら数千騎を率いて家衡の籠もる沼柵を攻めに向かうという展開となる。この骨肉の争いは凄惨である。血で血を洗う罪深さがあふれている。しかし、それを仕掛けた張本人はほかならぬ義家である。

ただ、この部分について樋口氏は注意をうながしている。それは『後三年記』の祖本は、当事者の清衡その人の影響下に成立した可能性が高いと現在では見られているということである。『康富記』に見える、家衡が兄への嫉妬から殺害を企てたという記述や家衡を出羽の沼柵に攻めたのはあくまで義家の意志によるものだったと受け取られるような記述の仕方は、清衡に戦乱の責任を負わせたくない『後三年記』作者の心情が反映したものではないかと樋口氏は述べる。

家衡は沼柵から叔父の武衡とともに金沢柵へ移動し、『後三年記』最大の山場である金沢柵攻防戦となる。金沢柵は義家の軍勢に包囲され籠城戦となるが、まことに凄絶で悲惨な結末を迎える。この金沢柵攻防戦の長大な記述の中に清衡が登場するのは、たった一箇所だけである、と樋口氏は指摘する。これも先ほどの例と同じように、酸鼻をきわめた金沢柵包囲戦における清衡の関わりをできるだけ無化したいという『後三年記』作者の意図なのであろう。

家衡も武衡も斬首された。金沢柵陥落時の清衡について樋口氏は次のように述べる。「清衡はおそらく、金沢柵包囲網の一角に位置する自軍の陣中において、武衡・家衡らの最期のありさまを伝え聞いたものと推測される。同族内での分裂・抗争劇の招いた結末とはいえ、源氏の側に与して武衡・家衡を攻めていた彼は、彼らの無慚な最期をいったいどのように受け止めたのであろうか。時に清衡三十二歳であった。」(前掲同紀要、112頁)

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2010年9月13日 (月)

藤原清衡・その2

2008年の岩手大学人文社会科学部紀要に掲載された樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」を紹介しながら、清衡の生涯に触れてみようという第二回である。

清原氏に迎え入れられた清衡は、そこで元服する。従来の説では、前九年合戦終結後に戦利品のような扱いで清衡の母が清原武貞の許に嫁し、清衡も辛い幼少期を過ごしたと考えられてきた。しかし、前回も述べたように樋口氏の説によると、清衡の母は清原氏出身の女性を母親に持ち、合戦終結後も身柄を保護されるようにして迎え入れられたのだという。快適な環境ではなかったであろうが、清衡にとって辛い幼少期だったとは必ずしも言えないようである。

さて、成長した清衡が歴史の表舞台に登場してくるのは後三年合戦の折である。この合戦は大雑把にまとめると、清原氏一族の内紛に始まり、陸奥守であった源義家が介入することで複雑化していった合戦だったが、朝廷はこれを義家の私戦とみなした。それゆえ前九年合戦の時のような恩賞は全くなかった。

『後三年記』という戦記物語に詳しいが、ことの発端は清原氏嫡宗の真衡が海道小太郎成衡という少年を養子に迎え、常陸国の多気権守平宗基の娘とめあわせようとした婚礼にあった。このとき、前九年合戦で第三陣の押領使をつとめた吉彦秀武が朱塗りの盤に金を積んで捧げ持ち真衡に献上しようとした。だが、奈良法師との碁に夢中になっていた真衡は全く顧みず、この無礼さに腹を立てた秀武は清衡・家衡と連携し真衡に反旗を翻す。

樋口氏は、この婚礼祝宴の記述にはそれなりに事実の一面が伝えられているだろうが、単にこの場面だけの感情的衝突が合戦の原因であるとは考えにくいと述べる。嫡宗への権力集中とその嫡宗に清原の血を持たない養子を据えようという真衡。それに対し清原氏内部で抵抗勢力が形成され、守旧派とも呼ぶべきその一派の長老的存在が吉彦秀武だったのではないか、と樋口氏は見る。

こうして秀武と連携して兵を挙げた清衡・家衡は、真衡が新任の陸奥国守源義家への饗応を終え、出羽の秀武を討つため進発した後の留守宅を襲撃する。このとき真衡の妻が義家の郎党であった兵藤正経と伴助兼に援軍を要請し、正経と助兼は真衡宅に駆けつける。しかし清衡・家衡の軍勢に苦戦し、ついに源義家自らが精兵を率いて駆けつける事態へと発展する。

『後三年記』では正経と助兼が援軍に来た所から後の相当な分量が脱落している。樋口氏によれば全六巻中の二巻分というから、全体の三分の一に当たる。この脱落部分については中原康富という官人の日記『康富記』に、後三年合戦絵巻を目にしてその概略をまとめた箇所が存在し、その記述で補うことができる。

この『康富記』によると、清衡・家衡は国守義家との合戦を避けようと考えたが、清衡の親族にあたる重光という人物が「一天の君といっても恐れるべきではない。まして相手は一介の国守ではないか」と強硬論を主張し、結局義家と合戦におよぶ。重光は斬られ、清衡・家衡らは死んだ重光に責めを負わせ義家に降伏を願い出る。

樋口氏は、この重光についても興味深い見解を示している。『陸奥話記』の終末部で源頼義から提出された国解に「斬獲したる賊徒」として名前のある藤原重久を、清衡の実父藤原経清の兄弟ではないかと推測する。重光という人物は、後に名前がでてくる重宗ととに、前九年合戦で戦死したこの重久の息子ではないかと樋口氏は見る。そうであれば「清衡之親族」という『康富記』の記述も大いに納得のいくものとなるし、重光の発言が清衡たちを義家との全面対決へ導くことになった重みもよく理解できる。樋口氏の卓越した見解であると思う。

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2010年9月12日 (日)

藤原清衡・その1

平泉の世界遺産登録に向けた動きが活発化してきたようだと新聞で見かけたが、その平泉を開いた奥州藤原氏の初代清衡の生涯を論じた樋口知志氏の「藤原清衡論(上)(下)」を再読してみた。

2008年の岩手大学人文社会科学部紀要に掲載された樋口氏の清衡論は、小説よりも面白く大胆な清衡像を提示しており、こんなに面白い学術論文を書いて大丈夫なのだろうかと心配になるくらいの内容である。以下樋口氏の論文に大幅に寄りかかって清衡の生涯に触れてみたい。

藤原清衡はご存じのように奥州藤原氏の初代である。父親は亘理権大夫藤原経清、母親は安倍頼時の娘で、二人の間に清衡が生まれたのは天喜四年(1056)と考えられている。樋口氏によると幼少期の名は清衡ではないだろうという。前九年合戦終結まで呼ばれていた幼名は推測できないが、終結後母とともに清原氏の人となって元服してからは、祖父・継父となった清原武則・武貞から類推すると「武清」と呼ばれたのではないかとする。その後、武貞の死後義父となった貞衡から「衡」字をもらい「清衡」となったと樋口氏は想定している。

これは考えたこともない事柄であった。血のつながりがない兄の清原真衡、異父同母弟の家衡、みな「衡」字がついている。清原氏の人となった清衡も同様に「衡」字をもらったというわけだ。

ところで、厨川柵陥落のとき七歳だった清衡とその母はどこにいたのか。清衡の父、藤原経清を激しく憎んで鈍刀で頸を斬らせた鎮守府将軍源頼義からすれば、経清の子の清衡も生かしてはおかなかったはずである。出陣姿のけなげさを見て将軍が助命しようと思った貞任の息子千世童子でさえ、清原武則の「小さな義を思って巨大な害を忘れてはいけません」という冷徹なひと言で斬殺されたくらいだから、清衡が捕らえられていたとしたら命は無かったのではないかと思っていた。

これに対し樋口氏の論は大胆である。まず経清の妻、清衡の母である安倍氏の娘を生んだのが清原氏の女性であるとし安倍頼時の嫡妻であったとする。樋口氏はこの嫡妻の女性を前九年合戦当時の清原氏の当主光頼の妹あるいは娘ではないかと見ている。また三男の宗任、五男の正任を清衡母と同母の兄弟と推測している。その一方で、次男貞任、八男則任らの母親は磐井郡の金氏の出身と推測する。

そしてさらに大胆な説であるのだが、源頼義から再三にわたり援軍を要請された清原氏が参戦したのは、安倍氏を滅ぼすためではなく、本来安倍氏の嫡子であった宗任の地位を脅かすほどのカリスマ性と軍事的実力を持ち始めた貞任とその一家を滅ぼすことが目的であったと推察している。だから、清原武則は貞任の息子の千世童子を斬らせたのか、と納得。武則の狙いは貞任らを取り除き、合戦終結後に宗任らを擁立し安倍氏を継承させようというものだったと論じている。合戦終結後のそうした動きを察して妨害しようと源頼義は陸奥国に居座り続け、最終的に宗任、正任らを連れて上洛することになったという指摘には驚いた。

清衡とその母親は合戦中、どこか人里離れた場所におり、武則らが密かに母子の身柄を保護したのではないかと樋口氏は見ている。だとすれば、おそらく北上川東岸のどこかであろう。北上市の国見山廃寺をはじめとして北上川の東岸には安倍氏清原氏時代の仏教寺院が多く存在する。豊田館や益沢院のことを考えると江刺郡にいた可能性が高いのではないかと思うのだが、どうだろう。

こうして母とともに生き延び、清原氏に迎え入れられてから清衡は激しい運命の奔流に巻き込まれることになる。

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2010年6月28日 (月)

『陸奥話記』現代語訳 PDF版の公開

先日、大験セミナーの金田先生 が『陸奥話記』の時代をモチーフにした曲を作って下さった(こちら) 。ブログにアップされた歌詞だけしか読んでいないのに、メロディが聞こえてくるような錯覚を味わった。

昨年の暮れ、『陸奥話記』の現代語訳を小冊子にまとめ簡易製本して友人、知人などごく少数の方々の手に届けた。あれからほぼ半年経過してしまったが、もうすでに何年も前のことのような妙に遠い記憶になってしまった。

この半年間、陸奥話記関連のその後の作業は何一つ手を着けていない。小冊子という形にまとめてひと区切りつけてしまったためだろうか。本当はピリオドではなくカンマのつもりだったのだが、なぜか前九年合戦、後三年合戦のころの時代に向き合う気力が充実しないままいたずらに日々を送ってきた。

上り坂をヒイヒイ言いながら登っているうちはよかったのだが、峠に達すると急に疲れが出てきたようなものか。本当はこれから越えなければならない峠がまだまだいくつもある。峠の茶屋でのんきに景色を眺めているうちに日が暮れてしまっては何にもならない。そうは思いながら、なかなか次へ向かうきっかけがつかめずにきた。

そういえば製本したものに何カ所か入力ミスがあったなと思い出し、その訂正をしているうちに、PDF原本を公開してみようかと思いついた。製本用の印刷に用いたPDF原本だから、これをプリントアウトしてもらえればそのまま本になる。もし前九年合戦のことに興味を持っていらっしゃる方がおられたら、ご紹介願えれば幸いである。

『陸奥話記』現代語訳 ダウンロードページ

上記のリンク頁にダウンロードリンクがあります。製本版をお持ちの方は訂正頁を確認なさっていただければと思います。

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2010年3月 5日 (金)

ありがたい頂き物

去年の初め、大験セミナーの金田先生 が一関の「青空」さんの二階を借りてライブコンサートを開かれたときに知遇を得た大東町の菊池先生(もしかすると菊地先生かもしれません)が教室を訪ねて下さった。

『陸奥話記』現代語訳をお送りしたお礼にということで、御手製の夾算(しおり)をいただいた。ごく薄い板に秀衡塗りの漆を塗った夾算で、長さは18センチほどの定規状のものである。黒漆の質感はなめらかで実に素敵な夾算である。さっそく使わせていただいているが、紙のしおりと違って厚みがあるため頁がすぐに開きやすく使い勝手もよい。ありがたいものをいただいたと思う。

さらに、これは読んだでしょうかと頂いたのが、岩手大学人文科学部の研究紀要のコピーである。『陸奥話記』現代語訳の際にも論文を参照させていただいた樋口知志氏の、「藤原清衡論」上・下と「『奥州後三年記』について」の三つの論文が載っている。これは何よりありがたい。「藤原清衡論」は2008年、「『奥州後三年記』について」は2009年の紀要なので最新の研究である。岩手大学の紀要を調べて見るということは全くやっていなかったので、うれしい驚きである。

さっそく生徒が来る前に「藤原清衡論」上だけ読んでみた。いやあ、驚いた。これを早く読んでいたら『陸奥話記』の現代語訳の原稿を大幅に書き改めたのだが、と新たな論点に蒙を啓かれた。幾つも秀逸な着眼があるのだが、その中で一番すごいと思ったのは、宗任・正任と経清の妻で藤原清衡の母にあたる女性が同母のきょうだいで、その母親というのが清原氏の出身であるという考察である。貞任らは宗任らの母とは別の女性を母とするとしている。藤原経清が厨川で源頼義に鋸引きに頸を斬られたにもかかわらず、その嫡男である清衡が母親と一緒に清原氏の元へ引き取られていったのも、母親が清原一族に連なる者だったからだという指摘は全く考えもつかなかった。

まだ「下」の方まで読んでいないので、全体を把握していないのだが、いずれ機会を改めて紹介したいと思う。菊池(菊地)先生、ありがとうございました。

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