言葉・言語

2017年2月11日 (土)

途中経過報告・その3

さて、最後に具体的な方法をお伝えしたい。

まず、12000語の英単語をどのようにして選んだか。最初は、以前に作っていた単語ノートがあり、ここに600語ほど覚えるものを見つけた。しかし、1日50語をノルマにすると二週間も経たないうちに無くなってしまう。次に目をつけたのは、ずいぶん昔に買ったまま「積ん読」状態のボキャブラリー読本。雑誌の「タイム」に出てくる語彙を1000語ずつ2冊のシリーズにしたものである。タイムの記事から抜粋が載っているのだが、レーガン政権時代の話題が出ていることから分かるようにもう三十年も昔の、タイムスリップしたような話ばかりだった。しかし、目的は英単語の確保なので、この二冊で四十日分くらいにはなる。

その次をどうしようかと考えた。まず思いついたのは、アルクという出版社から出ているユメタンのシリーズに確か12000語レベルまであったのではなかったかということ。そこでアマゾンなどネット検索をしてみた。そのときに、有志の方が12000語の単語を1000語ずつレベル1からレベル12まで一覧表形式にしてアップしたものを、たまたま見つけた。シンプルだが、単語カード作りにはかえってありがたい。発音記号がついていないのが惜しまれるが、それくらいは自分で調べろよなということで文句は言えない。

レベル1・レベル2は中学英語の単語が多いので、ここの分はほぼスルーして、まずはレベル3から覚えていない単語を拾い出しカードに写していった。レベル5だったかレベル6あたりから、これは1000語まるまる写したほうがいいなと感じ、残りはレベル12まですべて単語カードに写していった。これで先にあげた2600語と合わせてトータルで10000枚ちょっとのカードになった。12000語レベルといってもレベル1・レベル2の単語は飛ばしているので、それくらいの数でおさまったわけだ。単語のだぶりはかなりある。同じ単語を2回か3回カードにしたものもあるのだが、覚えていないのだから、まあいいかである。

あとはひたすらカードをめくる日々である。途中で何度か挫折しかかったが、そしてまた、練習しなかった日の分を翌日合わせて二日分覚えた時もあったが、とにかくカードそのものは10000枚以上の現物が手許にある。まだまだ覚えている途中であるし、忘却率も高いのだが、このあとしつこくダメ押しを続けていけば、うまくするとまる一年で、それがダメでも年末か来年の年明けくらいまでに完全に覚えきることができるのではないかと思っている。

とにかく公言するとよい。生徒にも「何やってるんですか?」と聞かれると、英単語を12000語覚えようと思っているのだよと事あるごとに吹聴し、カードリングに束ねた単語カードも目につくところに置いてある。こうすると適当なところで逃げられない。ひたすら覚えまくるしかないという事である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 9日 (木)

途中経過報告・その2

昨日の続きである。

物事には、いい面と悪い面がある。まずは悪い面から。

この半年間毎日英単語を覚えることに時間を費やしてきたので、さぞかし効果があっただろうとお思いの方は、期待過剰というもの。2ヶ月後復習・3ヶ月後復習の際に忘却率が何%になるのか必ず計算しているのだが、これが毎回トホホな成績。忘却率が50%を切り、半分以上を覚えているということはごくまれで、大概50〜60%、ひどい場合は70%以上を覚えていないという悲惨な結果になっている。3ヶ月後復習の時は同じ単語の9巡目のはずだが、まったく意味が出てこない。まあなあ、もうじき還暦だし、記憶力なんて衰えていく一方だし、四割でも残っていればいいかと思うしかない。

そしてまた、この程度の単語量では、劇的に英文の意味が分かるようになりました、とはならないのである。多少読む速度が上がったかな、とか、字幕付き映画のセリフが少し聴き取れるようになった気がする程度のものだ。大学受験の高校生と試験問題を読んでいても、辞書を引いて意味を確認しなければいけない単語の数はさほど変わったような気がしない。昨日の記事に書いた英語学習のサイトとは別のブログに、「12000語をマスターすると、英文を日本文と同じように読めるようになる」と書いてあった。本当にそうか?そういう疑り深い考えで始めたからでもなかろうが、あまり変化がないような感じがする。もっとも四割しか覚えていないのだから、12000語レベルのはるか手前の単語力しか身についていないわけで、これが完全に12000語をマスターしたら、もしかすると日本文を読む感覚で英文が読めるという夢のような状態になっているのかもしれない。あくまでも途中経過報告なので、なんとも言いようがない。

実は12000語という単語レベルは、アメリカの小学校卒業時の単語レベルなのだそうだ。もうちょい甘くしてもせいぜい中1レベル。大学卒業レベルだと3万とか4万の単語数だという。ただ、実際のところ日常生活の中や新聞・雑誌をみて意味がわかるということであれば、12000語で足りるらしい。これだけ苦労して覚えてもアメリカの中1新入生かよ、と思うと脱力する。しかも、まだその四割しか達していないので、脱力を通り越して放心状態になりそうだ。

しかし、悪い面ばかりではない。まず何と言っても、間違えて覚えていた発音とアクセントを覚えなおすことができた。これは無数にありすぎて例がすぐに出てこないが、たとえば " via " という単語がある。 " via +地名 " で「〜経由で」などの用例が多い単語だが、長年この単語は「ヴィア」としか発音しないと思い込んでいた。ところが「ヴァイア」という発音があることを知った。これと同じように長年間違えて覚えていた発音やアクセントがゴロゴロしている。それを矯正できただけでもよしとしなければならない。

二つ目は、妙な単語が記憶に引っかかるという事実にあらためて気付かされた。たとえば、 " amble " という単語がある。馬術をやっている方はご存知なのだろうが、「側対歩」という同じ側の両脚を片側ずつ同時に上げて進む上下動の少ない、のんびりした馬の歩ませ方を言うのだそうだ。こんな単語はこれまで一度もお目にかかったことがなかった。こういう単語はなぜか印象に残る。馬に乗る場面のある小説などを読むときに役に立つのかもしれないが、普段はおそらくお目にかからないだろう。

三つ目は、これが一番大事なことなのかもしれないと思うのだが、自分も学習者の立場になると学ぶということがいかに大変なことなのかと実感できたことだ。知らないことを学んで覚えていくことは、楽しいことである一方で苦しい作業でもある。少しずつでも身についているという実感が持てれば、「楽苦(たのくる)しい」学びを続けていこうという気持ちの励みになる。逆に、成果が出てこないと投げ出したくなるものでもある。そういうことを実感として味わえたのが(今もまだ味わっている途中だが)収穫だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 8日 (水)

途中経過報告

前回からあっという間に二カ月以上が過ぎてしまった。月日が経つのは早い。

さて、この半年ほど新しい学びに取りかかっていたのだが、それは英単語を12000語覚えようという試みである。きっかけは例によっていいかげんなものだ。たまたまネットの語学サイトをあれこれと見ていたときに、偶然英単語のマスターを主目的に掲げた学習サービスを提供しているところを見つけた。その有料サービスを利用したわけではない。その学習サイトの主宰者が載せていたコラムが興味深かったので、じゃあ一丁やってみっかという軽いノリで始めてしまったということである。

そのコラムに書いてあったのは、記憶の忘却曲線に合わせて繰り返していく方法で、1日後・2日後・4日後・8日後・16日後・32日後で1サイクル。その後、2ヶ月後・3ヶ月後にまた繰り返すというもの。三カ月かけないと記憶が長期保存に移行しないのだそうだ。

そのサイトは、反復学習を効率的に進められるコースを有料で提供しているところだったが、私は、単語カードという一番費用のかからない原始的な方法でやってみることにした。「発音できない単語は覚えられない」とあったので、カードの表には英単語と発音記号を書き裏に日本語の意味を書いた。

七月下旬から始めて三月頃で12000枚目に達するようにしようと思い、1日50語をノルマと決めてスタートした。最初は順調だった。1日分の単語カードを作るのも、発音記号を調べて書くのが手間だったがなんとかこなした。日を追うにしたがって復習分の単語が重なってくる。1ヶ月ほど過ぎたときに最初のカードの32日後復習が重なり、一日のノルマが、復習分を合わせて350語になっていた。しまった、こんな数になるとは考えていなかった。というか、そもそも、まあ何とかなるでしょうというお気楽な考えで始めたので、現実にどういう状況になるのか想像力が追いついていなかった。しかし、この段階はまだよかった。

十月下旬に最初のカードが3ヶ月後復習を迎えた時からは、一日のノルマが450語という笑いの引きつるような数になってしまった。発音をするだけでも数十分。意味のチェックをするのに1時間はかかる。そのうえ新しいカードの作成がある。ほぼ毎日、英単語の消化のために時間を費やしていたようなものである。実際、この半年ろくに本も読んでいない。ときどき何のためにこんなことを始めたんだっけと疑問符が頭の回りをぐるぐる飛び回った。

しかし、である。やはりある程度お金をかけると「もったいない」というケチな考えが強くなる。市販のカードでは高くつくと思ったので、A4サイズの中厚口のカラー用紙を三色用意し、裁断機でカットして自前でカードを作り、二穴パンチで穴をあけ、カードリングに通して150語分を一組とした。32日後復習まで一巡し、2ヶ月後復習・3ヶ月後復習待ちのカードを束ねる径70ミリの大きなカードリングも用意した。最小限ではあるが、費用はかけている。これを無駄にしていいのか。このケチな思いのみでこの半年続けてきたような気がする。

どうも長くなりそうだ。この半年間のアレやコレやの屈折した思いがたまっているので、続きは次回に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年4月 5日 (火)

「たそがれ」あるいは「かはたれ」

つい先日終わってしまった『昭和元禄落語心中』というアニメが、とてもおもしろかった。第一回が始まるときに、ちょうど帰省していた息子に教えられて一緒に観ることになったのだが、昭和の落語の世界をしっかりと背景に置き、落語のネタの選び方もなかなかシャレていた。惜しむらくは、放映時間の関係でやむを得ないのだろうが、古典落語の一席をそのまますべて語らせることができず噺のエッセンスだけを抽出して紹介していた点だ。これだと落語ファンはすぐに「ああ、あの噺か」と分かるものの、そうでない人には何のことか意味不明なままだったのではないか。八代目有楽亭八雲が得意とする「死神」にしても、サワリだけなので、この噺のおもしろさが十分に伝わらないのが残念だった。

それはそれとして、後の八代目有楽亭八雲となる菊比古と、二代目有楽亭助六となる初太郎こと「信さん」とのほろ苦い友情の描き方がたまらなくよかった。対照的なタイプの二人の落語家。菊比古は、おそらく六代目三遊亭圓生や三代目古今亭志ん朝などがモデルとなっているのだろう。一方の初太郎(助六)は、五代目古今亭志ん生や自称五代目の立川談志などがモデルだろうか。「人情噺」をやらないという助六の設定は、八代目桂文楽にも通じるところだが。その助六が第十二話で人情噺「芝浜」を演じた。これはなかなか切ない場面だった。

この『昭和元禄落語心中』のエンディング・テーマが『かは、たれどき』という曲だった。澁江夏奈さんの作曲・編曲になるスロー・バラードで、トランペットの柔らかな響きが耳にのこるいい曲だ。エンディングのタイトルロールも、曲と一体になってじわりと郷愁を呼び起こす映像となっていた。

「かはたれ」という言葉は「たそがれ」と同義だ。どちらも「あれは誰?」というのが直訳となる。つまり、「か(彼)はたれ(誰)」であり、「た(誰)そかれ(彼)」である。夕闇が降り始め、はっきりと人の姿の見分けがつかなくなってきたころの時間帯を指す。

「たそがれ」は、漢字で書けば「黄昏」だが、「かはたれ」や「たそがれ」という言葉を目にすると何とも名状しがたい感触に包まれる。なぜだろう。昭和の昔の子どもたちは、黄昏時まで外で遊んでいた。「じゃあ、また明日」と別れをつげてそれぞれの家路を急ぐころ、街灯が灯り始め、どこかの台所から夕飯の仕度をする匂いが漂ってきたり、茜色に染まった西の空を眺めながら明日もいい天気だと思ったり、そんな記憶と結びついているからなのか。それもあるのかもしれない。

あるいは、すっかり夜の闇が降りてしまう前のほんのひと時だからだろうか。人や物の姿がぼんやりとながらもまだ見える時間帯。だんだん輪郭がぼやけて見えなくなっていくのは分かっている。しかし、まだ今少しの間はかすかに姿が分かる。境界の時間。人も時代も、そういう「黄昏」の時間に差しかかってきたと意識すると、来し方行く末のことが何となく思われてしまう。「明日もいい天気だ」と子どもの頃のように無邪気に思ってばかりいられなくなった。年齢を重ねるというのはそういうことなのか。

【追記】
「たそがれ」は主に夕方、「かはたれ」は主に明け方に用いるようです。アニメのエンディングからどちらも夕暮れ時だろうと思い込んでいました。

本来はどちらも人の姿の見分けがつかない時間帯を表していたのが、「たそがれ」が主に夕方に定着すると、「かはたれ」が明け方について用いられるようになったとのことです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年4月 9日 (木)

枕草子と言えば

『源氏物語』が「あはれ」の文学であるのに対し、『枕草子』は、「をかし」の文学だと言われる。後に「おかしい」という意味へと転化していく「をかし」は、深く入り込んでいかない表層的な興趣に用いられ、ドライな語感を持っている。だから、「をかし」が頻繁に登場する『枕草子』は、清少納言の興味の網に引っかかった様々な事象が、それこそ趣味的に並べ立てられているものだ、という印象が一般的ではないだろうか。

確かに、事象を列挙した「ものづくし」と言われる章段を見ていると、清少納言の趣味に叶うかどうかで持ち上げられたり貶されたりしている。清少納言という宮廷に仕えた一女性のフィルターを通した審美的判断の累積だと考えることができるのだろう。「ものづくし」ではない、宮廷生活のひとこまを活写した章段も、清少納言の審美基準に叶う(あるいは叶わない)エピソードだから書かれたのであろう。

そこでなんとなく、「うつくしきもの」や「花は」などの章段のように、「をかし」きものに通ずる肯定的な評価や感情が大勢を占めているように錯覚してしまう。実際、「ものづくし」の章段は、清少納言が良いと思うものを取り上げているものが多い。

ところが、岩波書店の新日本古典文学大系版『枕草子』の巻末に所載されている「枕草子心状語要覧」という古語解説を読んでいるうちに、あれっ、なんだか変だなと気づいた。

この「枕草子心状語要覧」という解説は、一つひとつの語について詳細な説明がされており、似たような心状を区別する際にたいへん参考になる。「枕草子」だけでなく平安時代の古文を教材として教えたり、学んだりする人にはまことに重宝な解説だと思う。おそらく一般的には知られていないのではないかと思うので、興味のある方はぜひ実際に原文をごらんいただきたい。

で、何が変だなと思ったのか。「不快感」を表す語がやたらに多いのだ。美しいものや好感の持てるものを評する語ではなく、不調和や違和感や不快をもたらす対象を評する語が圧倒的多数を占めている。つまり、審美基準に叶わないものを貶すために用いられている語彙が、それだけ豊富だということでもある。

あるものごとを評価するとき、積極的に肯定の語を連ねて述べることができると思う。その一方、否定することによってその対極に位置する理想型を浮かび上がらせるというやり方もあるだろう。ただし、後者のやり方は辛辣な酷評に流れておしまいということになりかねない危険はあるが。

ということは、清少納言は『枕草子』で結構あれこれと「毒づいている」ということなのだ。鋭角的な表現、と言えば聞こえはいいのだが、キツイ言い方でバッサリと斬り捨てられたものや人がてんこ盛りになっていると思うと、今までと違った感触で『枕草子』を見直すことができるかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年9月16日 (月)

カタカナ語

この間、ニュースなどで意味の不明なカタカナ語を多用されて精神的な苦痛を受けたとして、NHKを相手に損害賠償請求訴訟を起こした人がいたが、少しその気持ちは分かる。

やはり、コーポレイト・ガバナンスに意識を向けないといけない時代になりましたね。コンプライアンスについてもコンシューマーは厳しく見ていますから、下手な対応をするとコーポレイト・イメージにクリティカルなダメージを与えることになりますよ。

この手の会話や文章は、よく耳にするし目にする。「ガバナンス」は管理または運営の意味で用いられているのだろうから、コーポレイト・ガバナンスは企業管理あるいは企業運営とでもなるか。「コンプライアンス」は、元がcomplianceなのだと思うが、この単語の意味は「(要求・命令などに)従うこと」である。そこから法令遵守という意味で用いられているのだろう。

やはり、企業管理に意識を向けないといけない時代になりましたね。法令遵守についても消費者は厳しく見ていますから、下手な対応をすると企業のイメージに致命的な損傷を与えることになりますよ。

「イメージ」だけは「像」では、収まりが悪いのでカタカナ語のままにした。それ以外はカタカナ語である必要などないのではないか。日本語だけで十分に表現できる。カタカナ語を多用すると、伝えたい内容がぼやけてくる。もっとも、多用している人はそれが狙いなのかもしれないが。つまり、なんとなく雰囲気が伝わればよくて、中味は二の次ということなのかもしれない。

もちろん日本語はこれまでたえず変化してきたのであり、外来語として定着させてきた語も多くある。そもそも漢語自体が外来のものではないか、と言えなくもない。

しかし、カタカナ語と漢語との決定的な違いは、その造語力と伝達力の違いである。カタカナ語はいくら逆立ちしても、漢語にかなわない。漢語の最大の強みは伝達力で、漢字を見た途端に意味内容がある程度推測できる。だから、明治の初頭に西洋から怒濤のように押し寄せてきた新知識を、先輩たちが片端から漢語に変換してくれた功績は計り知れないものがある。

現代のカタカナ語の多用は、なんとなく気に入らない。それは、うまく内容を表す日本語表現をどうにか見つけようという努力が、あっさり放棄されているように見えるからだろう。とりあえずカタカナ語でも通じるんだから、それでいいじゃん。そのうち気にならなくなるだろうしさ。確かにそういう考え方もある。

この手の話は、最終的には個人的な好みの問題になるのかもしれない。「クリティカルなダメージを与えることになりますよ」などという言い方も、別に気にならない人もあるだろうが、どうも私などは「ドラクエ」や「ファイナルファンタジー」を連想してしまう。ちなみにロール・プレイング・ゲーム(RPG)という語は、カタカナ語としてはこなれてきたのだろうか。「役割演技遊び」とか、訳語として流通しているものがないようだから、カタカナ語としてそのまま定着したのかもしれない。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月30日 (金)

五音七音・その2

千年以上も続いている和歌の伝統を、現代に生きるわれわれは実感することが少ない。中学や高校の国語で、万葉集・古今集・新古今集の秀歌を抜粋して習い、加えて現代短歌の粋をいくつか覚える程度だろう。

和歌も俳句も短詩形の詩歌として学ばれるものの、日常的にそれらの短詩を詠む機会は、ほとんどなくなってしまった。趣味として俳句や短歌の会に入っている人もいるだろうし、句会を楽しみにしている人だっているだろう。百人一首の競技カルタに打ち込んでいる人もいることとは思う。けれども、これらの短詩はもはやコミュニケーション・ツールではないし、言語遊戯の手段でもなくなってしまった。

では、まったく無縁のものになってしまったのかと言えば、必ずしもそうではない。五音七音の伝統は根強く残っている。潜在意識の底にあるとでも言えばいいのだろうか、日本語の韻文の伝統はしぶとく息づいている。

それは何気ないところで顔を出す。たとえば、さまざまな標語。「ちょっと待て 車は急に 止まれない」「お出かけは 一声かけて 鍵掛けて」「セブンイレブン いい気分」「いつやるの 今でしょう」などなど、五音と七音の音数のこれでもかというほどの氾濫。

交通標語などが五七五の俳句と同じ定型になりやすいのは、その形式が完結した内容を表せる最小単位だからだろう。そうでなくても、五音と七音の組み合わせは、耳に残り安定した印象を残す。五音と七音が心地よい安定をもたらすのは、それこそ千年以上も続く和歌の伝統、五音七音の音数の伝統がなせる技なのではないか。

五音七音の音数は、さらに分解すれば二音三音の音数を最小の単位とするものだという説を聞いたことがある。二音+三音、二音+二音+三音などという構成になるのだろうか。どの文章で読んだのか出典が思い出せないのだが、作詞家の阿久悠氏が、この二音三音の構成に意識的だったという。

阿久悠氏が作詞し、石川さゆりさんが歌った「津軽海峡冬景色」の歌い出しをご記憶だろうか。「上野 発の 夜行 列車 降りた とき から 青 森 駅は 雪の 中」という始まりは、みごとに二音と三音の音数を意識して作られている。これに続く歌詞を見ても同様に、二音三音の音数が心地よいリズムを生み出している。阿久悠氏は、意図的にこの音数を利用したのだと思う。日本語の基盤になっている音数に乗せれば、安定した歌詞が生まれることに、おそらく早くから気がついていたのではないだろうか。

五音七音の伝統あなどりがたし、である。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年8月29日 (木)

五音七音・その1

九月の実力試験範囲表を見ると、国語の詩歌は短歌の出題となっている。表現技法と句切れの話はしておかなきゃなあ、と思いながら、そうだ字余りや字足らずの短歌の定型に関した問題もあったなあと浮かんできた。

短歌を詠む方は、どれくらいいるのだろう。専門歌人は別として、日常的に短歌を作ったり新聞の歌壇に投稿している人口は、ハテいくらぐらいなのか。全人口の数%ととしても、数百万にはなるが、そのくらいは存在するのだろうか。

ふと何気なくこういう疑問が浮かんだのは、現代のわれわれが和歌の伝統から切れてしまったところにいるのではないか、と感じていたからだ。

少なくとも江戸時代、近世まではごくごく当たり前に和歌を詠む人びとがあちらこちらに存在していた。菅江真澄の日記を読むと、東北の片田舎の人びとが、ごく当たり前のように歌を詠んで真澄とやりとりしている。もちろん、詠んでいる人びとは、庄屋さんだったり少し学のある人びとだったりするのだが、それでも驚くほど和歌を詠む人びとの裾野が広いことに気付く。

考えてみれば、それは不思議なことではないのかもしれない。万葉集に収められた歌は、ありとあらゆる階層の人が詠んだものである。名も知られていない東国の農民やら、防人やらの歌から天皇の歌まで揃っている。つまり、誰もが歌を詠むのが当たり前であったのだ。古今集の「仮名序」で紀貫之が、「生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりける」と書いたのもうなずける。

平安時代の和歌は、コミュニケーション・ツールであり、現代で言えばメールやラインと同様、当たり前にやり取りできないと社会生活に不都合が生じるものだった。あるときには恋文であり、あるときには当為即妙な言葉の応酬であり、ある場合には苦境を訴える陳情だったりした。歌一つで人と人との関係ができあがったり、修復されたりしていたのである。

しかも、その流れは連綿として続いていく。中世の連歌から俳諧連歌が派生し、近世は俳諧の方が盛んであるようにも見えるが、和歌の流れは決して途絶えてはいない。江戸の庶民ですら古今集や百人一首の歌はそらんじていたのであり、落語の「崇徳院」や「千早振る」なども歌の意味が分かっているからこそおかしさが出てくる。また、一方に狂歌という形で社会風刺や滑稽味のきいた歌が広まっていくが、これにしても本歌を知っているから余計に面白みが味わえる仕掛けになっている。

こうして続いてきた和歌の伝統が、文明開化の明治になったからといって急に消えてしまうわけではない。正岡子規による短歌の革新運動が起き、新しい文芸としてむしろ盛んになったと言ってもいいのではないだろうか。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年4月11日 (木)

「じぇ」または「じゃ」

昨日の記事の続きになるが、「じゃ」と「じぇ」という感動詞について少し考えてみたい。

NHKの朝ドラ「あまちゃん」では、登場する役者さんたちは方言指導を受けて「じぇ」「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」と発音している。だが、もしかすると実際の発音は「じぇ」と「じゃ」の中間ではないのか。これは確証はない。久慈の小袖海岸方面の方がどう発音しているのか実際を聞いたことがないからだ。

しかし、aとeの中間形のような発音は実際に発音するのが難しく、また表記も「じぇぁ」しか思いつかない。だから、ネイティブ久慈民が発音しているのは、ドラマで発音されている明瞭な「じぇ」ではなく、英語のappleやcatにでてくる[ae]というaとeの中間みたいな音の「じぇ」ではないかと想像する。

昨日も書いたように旧南部領の内陸部、たとえば北上市や花巻市では「じゃ」が標準形である。盛岡でもそうだと思う。地元放送局の番組で「じゃじゃじゃTV」というタイトルのものがあるからだ。これが沿岸部の久慈では「じぇ」に変化したと思われるが、元が「じゃ」であれば、ja→jeと変化する過程でjaeあるいはjeaという中間形の発音があっても不思議ではない。

では、「じゃ」や「じぇ」の語源は何か。このところずっと考えているのだが、よく分からない。もしかすると「いや」だろうか。iyaが重なったiyaiyaiya「いやいやいや」を速く発音していくうちにjajaja「じゃじゃじゃ」に変化していったのではないか。古語の「いや」には「程度がはなはだしい、非常に」の意味を持つ副詞と、感嘆したときなどに発する感動詞の「いや」がある。これが元になっているのではなかろうか。

なぜiyaからjaに発音が変わるのか。これも思いつきなので信じ込まれても困るのだが、おそらく口をあまり開かずに発音されるからではないか。東北方言、特に岩手など北東北の方言が濁音や不明瞭な発音になるのは口の開き方が小さいからだと思う。理由は簡単で、寒いからだ。冬の期間が長く雪に閉じこめられる。そうでなくても口の重い人びとが多い土地柄である。会話もボソボソと聞き取りにくい発音で交わされることが多かったのではないか。寒いところで明瞭に発音しようと思えば、表情筋を意識的に動かすくらいのつもりでないとうまくいかない。濁音化や不明瞭化は自然な流れであろう。

方言には古語の意味が残っているものがある。たとえば、恥ずかしいという意味を表す「しょし」「しょす」あるいは「おしょしぃ」。これらは「笑止」からきているのだろう。『大辞泉』の定義では「ばかばかしいこと」の他に「気の毒なこと」「困っていること」に加えて、「恥ずかしく思うこと」というものが載っている。現代語では「笑止」に恥ずかしいという意味を持たせて使うことはなくなっているが、方言には残っているということなのだろう。

おそらく「じゃ」や「じぇ」も、古語の用法から残ってきた方言なのではなかろうかと思うのだが。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月24日 (月)

え、そうだったの?

先日、文化庁の国語世論調査の結果が発表されていた。ニュース等でごらんになった方も多いのではないか。「なにげに」「半端ない」「○○みたく」はさすがに使わないが、「あの人は私より1コ上だ」や「真逆」は、使っているような気がする。

まあこの辺は、中高生とのやりとりや若い人と話すときによく耳にする言い回しなので、あまり驚きはなかったのだが、どちらの意味で使うかの項目にはまいった。

①「にやける」
  ア  なよなよとしている        14.7%
  イ  薄笑いを浮かべている      76.5%

②「失笑する」
  ア  こらえきれず吹き出して笑う   27.7%
  イ  笑いも出ないくらいあきれる   60.4%

③「割愛する」
  ア  惜しいと思うものを手放す    17.6%
  イ  不必要なものを切り捨てる   65.1%

いずれも本来の意味はアの方である。この三つについては、ずっとイの意味だと思い込んできた。もともとの意味について考えたり、辞書を使って調べたりしたことすらなかった。特に③の「割愛する」などは「今日は時間がありませんので詳しい説明は割愛しますが…」というぐあいに使っていたりする。

結局、本来の意味や言い方でない方を使う人が多くなれば、そちらの方が定着していくということなのだろう。言葉は生き物だから、長い年月のあいだにすっかり変わってしまうのはよくあることだ。現代語と同じだからと思って同じ意味だと思うとまったく異なる意味だったりすることが古語では珍しくない。

  世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

山上憶良の有名な歌である。「世の中をいやだなあ、つらいなあと思っても、その世の中から飛び立っていくわけにはいかない、鳥ではないのだから」というくらいの内容であるが、この歌に出てくる「やさし」など意味が変わってしまった語の典型ではないか。

「やさし」はもともとは、身が痩せるほどつらいという意味の語である。それが他人のことに関してつらく感じることへも用いられるようになり、そのように感じられる人が「やさしい」人なのだととらえられるようになった。そういう説明を読んだことがある。

言葉の乱れにめくじらを立てる人もいるが、私は、言葉が変化していくのはやむを得ないことなのではないかと思う。最近の若者は言葉づかいがなっとらん、と怒ったところで、そういう我々の言葉づかいにしても百年単位で時代をさかのぼれば同じように「なっとらん」と叱られるはずである。

自分が使うかどうかはともかくとして、生きている言葉の生態に目を向けることは大事であろう。それとともに本来の意味や言い方に関心を持つことも忘れずにいた方がよさそうである。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧