師の教え

2010年9月 3日 (金)

人生は腰だ

高校時代の体育の先生は、ことあるごとに「人生は腰だ」と口走る面白い人だった。高校生だった我々は別の意味に受け取ってニヤニヤしていたが、このひと言は至言だとつくづく思う。

何事も腰が据わっていないと力がこもらない。腰が入るためには、重心を下げなければならない。体を支えスムースに動かすのにも腰が重要な役割を果たす。

おそらくあらゆるスポーツで、腰を回転したり腰に力をためたりということが求められるのではないだろうか。野球やゴルフやテニスのように体の回転でボールを打つスポーツは腰の回転を伴わなければ球速は増さないだろう。ラグビーや相撲のように相手を押したり、逆に相手の押しを受けたりする場合は腰に力が入らないと踏ん張れない。ボクシングや空手などのパンチや突きも腕だけでは威力がなく、腰の回転が加わって、つまり腰が入ってこそ強力な破壊力を示す。

慣用的に使われる言い方にも「腰」という語が入るものはある。ふらふらしていて一つのことに集中しないと「腰が据わらない」と言われる。反対にじっくり長期戦で行こうというときには「腰を据えて」事にあたる。なかなか行動しないと「腰が重い」ということになる。「腰が低い」という言い方もある。物事に対するときの基本姿勢や行動を「腰」という語で表しているということなのだろう。

そう考えると腰は重要なのであり、確かに「人生は腰だ」ということになりそうだ。この言葉をよく口にしていた体育の先生は剣道部の顧問であり、三十歳そこそこで七段という高段者であった。あまり細かいことは言わない豪快な人だった。

残念ながら若くして亡くなられた。我々が卒業して数年経ってからのことだが、剣道の大会に出場し、よけた相手の突きが頸動脈を直撃したと聞く。元気のかたまりのような姿しか記憶に残っていないので、未だに亡くなられたという実感がない。

最近は暑い日が続いているので大丈夫だが、寒くなってくると思い出したように腰痛がぶり返してくる。そんなとき「人生は腰だ」という言葉が、大きな笑い声とともに浮かんでくる。

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2009年3月12日 (木)

師の教え・余談

先日、地域で行われている火防祭の祭礼に出た後、神社で直会(なおらい)の席が設けられいろいろな人と歓談した。

その席に中学時代の同級生が私も含めて四人おり、期せずしてミニミニ同級会となった。四人とも小・中を通じた同級生である。二クラスしかない小さな小・中学校だったこともあるのだが、お互い旧知の間柄だ。二人は神楽の関係者で囃子方をしており、毎年火防祭の神楽巡行に加わっている。一人は地区の祭典委員をしており去年も直会の席を共にした。

私は自治会長宛に来た招きに応じての出席。実はこの火防祭の祭典委員長をしている方が同じ自治会の方で、次の行政区長をお願いした方でもある。他の自治会の会長さんはだれも出席がなく、来賓席に座ったのは私と神社の氏子総代長の方のみ。ただ、氏子総代長も公民館の建て替えの時にお世話になった大工の棟梁さんなので、あまり堅苦しい席にもならず歓談できた。

さてミニミニ同級会のようになった四人の席でたまたま話が中学時代の英語の恩師、平沢先生(以前の記事「師の教え・その1」を参照下さい)のことになった。他の三人は平沢先生が亡くなったことを知らず、そのことを話すと一様に驚いたが同時にいろいろな思い出話となった。

「師の教え・その1」にも書いたビンタ事件のことはみなよく記憶していた。ただ神楽で太鼓を担当している同級生はクラス全員で職員室に謝りに行ったと自信を持って言い切っていたが、これは違うような気がする。当時の中学校の職員室は狭かったし、職員室前の廊下にしても半間ほどの幅だったから、四十数人の生徒が押し掛けたら身動きがとれない状態だったはずで、やはり代表者たちが職員室に謝りに行ったのだと思う。面白かったのは一様に「やさしい、いい先生だったよな」と思っていることで、厳しかったとかいやだったとかいう声はなかった。

へえ、そんなこともあったのかと思ったのは、祭典委員をしている同級生の話だった。彼はリンクしていただいている「ちびやまめさん」と同じ野球部で確か内野手だったと思うが(ちなみに「ちびやまめさん」はうちの中学でサウスポーのエースピッチャーでした)、平沢先生をすごいなあと思ったのは鉄棒の大車輪を見せてくれたときだという話を始めた。体育の小原先生の間違いじゃないのかと思って聞いていると、「体育の小原先生なら分かるけど、英語の平沢先生が鉄棒の大車輪をやって見せてくれたんだよ。あれにはびっくりしたしすごいなあと思ったもんだよ」という。これは私も初耳で、意外な一面があったのだと楽しかった。

逆に平沢先生が横浜で沖中士をしていたことがあると私が言うと、他の連中は「ほお」という顔をした。大車輪の話をした同級生は「いつそんな話をきいたのか」と聞くので「ほら冬場になると、なんだっけ、ほらあのストーブ」「石炭ストーブか?」「そうそう石炭ストーブの周りに集まって雑談してるときに平沢先生が混じって昔話をしてくれたことがあったんだよ」「ふーん、すぐ教員になったわけじゃないんだ」というやりとりになった。

そういう話をしながら、こうして亡くなった後も話題にのぼって懐かしく思ってもらえる先生はうらやましいなあとふと思った。以前の記事に「ちびやまめさん」が寄せてくれたコメントも平沢先生らしいエピソードなのであらためて引用したい。

>何でも気軽に頼める先生でした。
当時流行していたラジオ深夜放送オールナイトニッポンに投稿するために、声の録音(カセットテープ)をお願いしたことがありました。「先生、怒った感じで怒鳴りまくってもらいたいんだけど」平沢先生、すぐにやってくれましたっけ。でも、あの事件での怒りとは程遠いものでした。(笑)オールナイトニッポンでは不採用でしたが懐かしい思い出です。

煙草の話になり、先生がパイプをくわえている姿を思い出すよ、と一人が言う。そうそうと他の連中がうなずく。「あまり先生らしくなかったよな、そういえば」「そうだな、確かに」私もそう思う。当時ラジオから流れていたRCサクセションの「僕の好きな先生」という曲に出てくる教師のイメージが重なる。あの曲では美術の先生だったと思うが、「僕の好きな先生、僕の好きなおじさん」という一節が平沢先生にもあてはまる気がしてしょうがない。

今の学校にもああいう先生らしくない先生はいるんだろうか?

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2008年12月11日 (木)

師の教え・その3

大学時代、私は日本漢文を専門に勉強しようかと思っていました。

文学部に入ったときには江戸文学を専攻したかったのですが、その大学には江戸の専門家がいないということに入学後気付きました。まったくうかつな話です。ですが、今のようにネットで調べればどこの大学にどんな先生がいて何をやっているかすぐに分かる時代ではありませんでしたし、研究論文を載せた専門誌を調べてみるというような発想がそもそもできませんでした。大学に行けばどこでも勉強できるだろう、ぐらいの考えでした。

もちろん大学の先生たちは自分の専門以外の時代についても学生など足許にも及ばないほどの知識を持っているのですが、学問の世界というのは蛸壺のようなもので(あるいは井戸を掘るという喩えの方がふさわしいかもしれませんが)一つの分野を狭く深く究めていくものです。専門分野以外の指導は十分にできないよと言われてもやむを得ません。

さてどうしようかと思った私は近代文学にするかなと方向転換し、あわてて文学史の教科書に載っている明治の作家の代表作を読み始めたりしました。そんなとき受講していた漢文講読の担当だった先生が、「今年受講届けを出したみなさんの中で国文のひとはいますか?」と我々に尋ねました。専攻はまだ最終決定ではなかったものの国文にしていた私も近くにいた連中と一緒に何事だろうと手を挙げました。すると中国哲学を専門とするその先生はニヤリと山猫のような笑みを浮かべ、「そうですか。それはよかった。今年も国文の諸君には頑張ってもらおうかと考えていたので、これくらいの人数がいれば大丈夫です。」???何のことだろう。わけが分からずにいると、「私は国文の諸君をしごきますので覚悟しておいてください。詳しいことは追々話します。」とだけ話し、その日は授業に入りました。

その年の漢文講読の教材は「孟子」朱子集注(しっちゅう)というもので、朱子が注釈をつけた「孟子」でした。原本は江戸時代の版本でそのコピーが配布されました。ご覧になったことが無い方はイメージしにくいかもしれませんが、漢字だけが並んでいるテキストです。孟子の本文が大きめの文字で並び、その4分の1くらいの大きさの文字で二行に分割された朱子の注釈(割り注といいます)がそのところどころに入っています。「孟子」の本文は現代語訳がいくらでもありますので、解釈のネタ本には困りませんが、朱子の注釈はどこを探しても現代語訳など見つかりません。そこが先生のねらい目です。探しても現代語訳が見つからない朱子の注釈部分は学生が自分で解釈するしかないわけですから、漢文講読の目的である白文を読み込んでいくトレーニングが十分にできることになります。

まさにトレーニングでした。漢和辞典をひたすら引くことの繰り返しでした。それでも解釈できずお手上げ状態で講義を受けるときもありましたが、先生の解釈を聞くとなるほどと思ったものです。

その中でいくつか印象に残っている部分があります。一つは孟子が説く学問の意義についてです。「孟子は学問の意義を鏡の喩えを使ってこう述べています。人間の本性は鏡のように曇りのないものである。それがさまざまな理由で曇ってくる。だから学問をするのは鏡の曇りを取り除いて本来の姿を取り戻すためなのであると。」性善説を唱えた孟子らしい考え方ですが、なるほどと思ったものです。二つめは、「開国後の日本が西欧の近代哲学を吸収できたのは、江戸時代の儒学の伝統があったからです。現象学などで議論されているのと同じレベルの議論が江戸の儒学者の間でも交わされていたから、維新後新しい西欧の文物が入ってきたときもそれを消化することができたのです。」という指摘。先生は朱子学と陽明学の専門家で江戸の儒学にも詳しい方でしたから、この指摘は新鮮でした。

そして三つ目。なぜ先生が国文の学生に頑張ってもらいたいと思っていたのかという理由です。実は日本漢文の資料は未整理のまま全国の各地に眠っているものが多く、東北の中に限っても山形の酒田をはじめとして相当数あるのにだれも手をつけていない、と先生はある日の講義で話しました。国文の人たちは源氏物語や枕草子といった和文の研究に忙しく、日本漢文を専門としている人はごく一部でそれこそ数えるくらいしかいない。中国文学や中国哲学の人たちも本家の研究に時間を取られるので、日本漢文など見向きもしない。このままだと文字通り虫に喰われて朽ちていく資料が山のようにある。だから国文の諸君の中で我こそはと思う人がいたらこの道に進んでみないか。そのような内容の話でした。

私の頭の中に浮かんできたのは、どこかの書庫の片隅でほこりをかぶったまま紙魚に食い荒らされていく、山のように積み重ねられた和綴じの書籍の姿でした。若い頃というのは単純ですから、先生の話を聞いてその気になってしまった私は講義が終わると先生の教官室を訪ねました。先生は現状を詳しく話してくださり、こう締めくくりました。「この道に進めば少なくとも君は開拓者になれる。誰も手をつけたことがない宝の山が眠っている。だけど人生は短い。君が生涯掛けて研究しても多分ほんの一部しかできないかもしれない。それでもいいんだよ。君がつけた道を後から来た弟子や孫弟子が継いでいけば、その道は大きな道になる。」そう言って先生は、例の山猫のような笑みをニヤリと浮かべました。話が壮大すぎて私はぼんやりしてしまいました。

その後も折にふれて教官室によく遊びに行きました。文字通り「遊び」に行ってこちらのレベルが低い質問を先生に投げかけるだけでしたが、先生は嫌な顔もせずつき合ってくれました。教官室の机は大きな事務用デスクで、その上に回転式のスタンドがありそこに小さめのサイズの『諸橋大漢和辞典』が全巻納まっていました。

いろいろな事情があり私は大学を退学することになり、結局その道には進むことなく終わってしまいました。大学をやめる時、お世話になった先生にもあいさつに行きました。「そうか、それは残念だな。一つだけアドバイスしておこう。君がこれから何をしていくことになるのか分からないが、君はデスクワークには向かないかもしれない。体を動かしていく仕事を考える方がいいかもしれないな。」それまで雑談の中で先生に伝えていたさまざまな話から判断してそう言ってくださったのだと思いますが、今の自分の仕事を考えるとそのアドバイスに従っているような気もします。塾講師はデスクワークではありません。どちらかというと役者のようなパフォーマーだと思います。自分の体を動かし声を出して伝えたり説明したりしなければならないからです。

中学、高校時代の師は鬼籍に入られてしまいましたが、今回取り上げた大学時代の師とも言うべき吉田先生は元気で活躍しておられます。ネット時代になって便利になったものだと思うのはこういうときです。現在、東洋大学の文学部で教授をなさっています。吉田先生が書いたコラムもこちらで読めますので、興味のある方はどうぞ。

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2008年12月 8日 (月)

師の教え・その2

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

『一握の砂』冒頭を飾る石川啄木の歌としてあまりにも有名な歌です。この歌を目にすると、高校の時に門屋光昭先生から受けた現代国語の授業が今でも鮮やかに浮かんできます。

五・七・五・七・七の各句の間を少し開けて板書した先生は、「この啄木の歌の視線の絞り込みが分かりますか?」と我々に問いかけました。何のことかと思っていると、少し開いた各句の間に下向きの不等号を書き込み、「『東海の』から始まる冒頭は鳥の眼で見たような、鳥瞰の位置です。そこから『小島の』『磯の』『白砂に』とカメラが寄っていくようにズームアップしていくのが分かりますか。そこに泣きぬれている『われ』がいて『蟹』がいるわけです。つまり大空の高みから一気に作者の心まで急降下して、私たちは啄木の歌の世界へと引き込まれていくことになるのです。」と先生は説明されました。

ああ、そうなんだ、そういう構造をしているんだこの歌は。16歳だった私はわずか三十一音の短歌や和歌にそれまでほとんど興味を持ったことがありませんでしたが、この啄木の歌の講義を受けて目を開かれました。同じ門屋先生の授業で教わった若山牧水の歌も好きでした。

白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
幾山河(いくやまかは)こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

これらの歌が詠まれた背景の説明を聞きながら、海と空のあわいを漂うように飛ぶ一羽の海鳥の姿を思い浮かべていました。牧水が交際していた女性と行った旅先で目にした情景が元になっており、白鳥(しらとり)は一羽で寂しくないのだろうか、自分たちのように愛し合う相手もおらずにという気持ちが込められているのです、と先生は解説されました。どちらかというと私は一羽で漂う「白鳥」や幾山河越えて旅をしても消えることのない「寂しさ」の方に関心があったのですが、なるほどと思いました。

先生は昨年亡くなられ、一周忌も過ぎました。先生が亡くなられたときに思ったことはこちらの記事に書きましたので繰り返しませんけれども、今思うと高校生の私が大学で文学の勉強をしてみようという気持ちを強く持つようになったのは門屋先生の影響が大きかったんだなと思います。中学の頃から文学への興味は強くありましたが高校時代に先生との出会いがなければ実際に文学部に進むことを考えなかったかもしれません。高校2年・3年と担任でしたし、ほぼ毎日先生の話に耳を傾けていたわけですから知らず知らず影響を受けていたのだと思います。

昨年葬儀に出席できなかった私は後日先生のご自宅を訪れて遺影の前に手を合わせました。その折、先生の奥さまから「これは門屋の最後の本になりますが」と一冊の新刊を頂きました。『啄木への目線 -鴎外・道造・修司・周平』(洋々社、2007年)と題された先生のその本を読むと、どれほど先生が啄木や寺山修司の歌が好きだったのか分かりました。自分が愛着をもつ歌人だっただけにあれだけ熱のこもった授業だったのだと合点もいきました。

私は愛着をもつものを通して何か生徒に伝えることができているんだろうか、ふとそんな気持ちになります。

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2008年12月 7日 (日)

師の教え・その1

人にものを教える仕事を始めて来年で四半世紀になります。

しかし、そういう私もその前は人から教えを受ける1人の生徒でした。数多くの先生に出会い、反面教師とするしかないような人もいましたが、多くは何かしら貴重な教えを残してくれた気がします。

その中で、どうしても知っていただきたい何人かの先生について書いてみたいと思います。

一人目は中学の英語の先生で、部活の剣道部の顧問でもあった平沢先生。平沢先生は当時お幾つだったんだろうかと今でもよく思います。もしかすると今の私より若かったのかもしれません。柴田錬三郎みたいに渋い雰囲気の先生でした。職員室に行くといつもパイプ煙草をプカプカしていて、たぶん銘柄は「桃山」だったと思います。クリーム色に金の縁取りが入った煙草の缶が先生の机の上にありました。

平沢先生は兵役に就いたこともあり、寒い冬の日、石炭ストーブを囲んでいる私たちの輪に入って徴兵検査の話をしてくれたりしました。終戦後、横浜で沖中士をしていたことがあるという話もそんなストーブ話のときに聞いたような気がします。沢内村出身だった先生は臨時採用の教員となり、そのまま教員を続けることになったと言っていました。

この平沢先生から教わったことは言葉によるものではありません。先生の取った行為が未だに忘れられない貴重な教えになっています。

それは中学2年の時のことでした。いつものように英語の時間となり、平沢先生が教室にやってきて授業が始まりました。同じ剣道部だったN君がふざけて友だちと騒いでうるさくしていました。平沢先生は最初何も言いませんでした。おそらく自分たちが気付くだろうと考えていたのだと思います。しかしN君もその周囲の連中も調子に乗ってさらに悪ふざけを続けていました。先生は静かに何度か注意したように思います。けれども騒ぎは止むことなく続いていました。黙って教壇からN君の席まで行くと、平沢先生は平手で思いっきりN君を打ちました。一瞬にして教室はシーンと静まり返りました。「教育委員会に訴え出てもいい。家に帰って親に言え。今日はもう授業はやめだ。お前たちが授業を受ける気がないんだから、やっても無駄だ。」そう言うと先生は職員室に引き上げてしまいました。悪ふざけしていたN君がシュンとなったのはもちろんですが、残された私たちはどうしようかと相談を始めました。班長たちに集まってもらいどうする?と言うと、「やっぱり謝りに行った方がいいよ。」ということになり、学級委員をしていた私と班長たちが職員室に謝りに行きました。

先生は私たちの話を黙って聞いていました。そして「本当に授業を受ける気があるのか?」と念を押しました。ハイと答えた私たちをじっと見て平沢先生はしばらく何も言いませんでした。だめか、と思ったとき「分かった。もう少ししたら教室に行くから、先に戻っていなさい。」という一言。教室で待っていると先生は普段通りに教壇に立ち、いつものように授業を始めました。だれもがその日の授業を真剣に聞いたのはもちろんのことです。

私たちがそのとき学んだのは、大人が本気で怒るというのはどういうことなのかということでした。今なら私も先生の気持ちはよく分かります。これから長い人生のあるお前たちが、そんなちゃらんぽらんな中途半端な気持ちでホントにいいのか、そんな気持ちだったのではないかと思います。ただ騒いでいたから腹が立ったということではないと思います。普段は洒脱なとでも言った方がいいくらいサバけた先生で、多少のことは大目に見てくれる先生でしたから本気で怒ったときは本当に怖かったですし、自分たちが悪かったんだとも思いました。

体罰を肯定するわけではありません。今なら本当に教育委員会に訴える親もいるかもしれません。ですが、当時私たちはだれ一人平沢先生のことを悪く思いませんでした。それは日ごろから私たちとよく話をしてくれて信頼関係があったからだと思います。信頼関係といえば、今となっては笑える話ですがこんなこともありました。

中学三年の時のことです。中総体も終わり三年生は初段の試験を受けることが最後の目標になっていました。今はどうか分かりませんが、そのころ剣道の初段の試験は木刀による型の試技と竹刀による試合からなっていました。大学で剣道を続けているOBに頼み木刀の型を教えてもらい、さあ来週は初段の試験だというとき、剣道部の部長だった私は平沢先生に「先生、来週初段の試験ですが…」と確認に行きました。すると先生は、しまったという顔をして「すまん。初段の試験の申込用紙を出し忘れた。本当に申し訳ない。」えっ?一瞬何のことか分かりませんでしたが、初段の試験が受けられないということがようやく理解できました。部活でみんなが集まったときにこの話をすると、「そりゃないよ、この何週間かは一体何だったんだよ。」と大ブーイングでした。しかし、不思議なことにだれも平沢先生を恨んだりはしませんでした。まあ、平沢先生のことだからしょうがないかという気分がみんなの中にありました。

たぶん私たちは皆、平沢先生のことが好きだったんだと思います。普段いい加減なように見えて、肝心なときに必要なことを生徒に媚びずに言ってくれる先生は平沢先生だけでした。大人の生き方を背中で教えられたように今でも思っています。

その後同窓会の時に、一度だけ平沢先生とお酒を飲む機会がありました。すっかり髪は白くなっていましたが、相変わらずの先生でした。残念なことに亡くなられたという訃報を耳にしました。もう一度お会いして、あの中学2年の英語の授業の出来事について聞いてみたかったのですが、叶わぬ夢となってしまいました。

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