師の教え・余談
先日、地域で行われている火防祭の祭礼に出た後、神社で直会(なおらい)の席が設けられいろいろな人と歓談した。
その席に中学時代の同級生が私も含めて四人おり、期せずしてミニミニ同級会となった。四人とも小・中を通じた同級生である。二クラスしかない小さな小・中学校だったこともあるのだが、お互い旧知の間柄だ。二人は神楽の関係者で囃子方をしており、毎年火防祭の神楽巡行に加わっている。一人は地区の祭典委員をしており去年も直会の席を共にした。
私は自治会長宛に来た招きに応じての出席。実はこの火防祭の祭典委員長をしている方が同じ自治会の方で、次の行政区長をお願いした方でもある。他の自治会の会長さんはだれも出席がなく、来賓席に座ったのは私と神社の氏子総代長の方のみ。ただ、氏子総代長も公民館の建て替えの時にお世話になった大工の棟梁さんなので、あまり堅苦しい席にもならず歓談できた。
さてミニミニ同級会のようになった四人の席でたまたま話が中学時代の英語の恩師、平沢先生(以前の記事「師の教え・その1」を参照下さい)のことになった。他の三人は平沢先生が亡くなったことを知らず、そのことを話すと一様に驚いたが同時にいろいろな思い出話となった。
「師の教え・その1」にも書いたビンタ事件のことはみなよく記憶していた。ただ神楽で太鼓を担当している同級生はクラス全員で職員室に謝りに行ったと自信を持って言い切っていたが、これは違うような気がする。当時の中学校の職員室は狭かったし、職員室前の廊下にしても半間ほどの幅だったから、四十数人の生徒が押し掛けたら身動きがとれない状態だったはずで、やはり代表者たちが職員室に謝りに行ったのだと思う。面白かったのは一様に「やさしい、いい先生だったよな」と思っていることで、厳しかったとかいやだったとかいう声はなかった。
へえ、そんなこともあったのかと思ったのは、祭典委員をしている同級生の話だった。彼はリンクしていただいている「ちびやまめさん」と同じ野球部で確か内野手だったと思うが(ちなみに「ちびやまめさん」はうちの中学でサウスポーのエースピッチャーでした)、平沢先生をすごいなあと思ったのは鉄棒の大車輪を見せてくれたときだという話を始めた。体育の小原先生の間違いじゃないのかと思って聞いていると、「体育の小原先生なら分かるけど、英語の平沢先生が鉄棒の大車輪をやって見せてくれたんだよ。あれにはびっくりしたしすごいなあと思ったもんだよ」という。これは私も初耳で、意外な一面があったのだと楽しかった。
逆に平沢先生が横浜で沖中士をしていたことがあると私が言うと、他の連中は「ほお」という顔をした。大車輪の話をした同級生は「いつそんな話をきいたのか」と聞くので「ほら冬場になると、なんだっけ、ほらあのストーブ」「石炭ストーブか?」「そうそう石炭ストーブの周りに集まって雑談してるときに平沢先生が混じって昔話をしてくれたことがあったんだよ」「ふーん、すぐ教員になったわけじゃないんだ」というやりとりになった。
そういう話をしながら、こうして亡くなった後も話題にのぼって懐かしく思ってもらえる先生はうらやましいなあとふと思った。以前の記事に「ちびやまめさん」が寄せてくれたコメントも平沢先生らしいエピソードなのであらためて引用したい。
>何でも気軽に頼める先生でした。
当時流行していたラジオ深夜放送オールナイトニッポンに投稿するために、声の録音(カセットテープ)をお願いしたことがありました。「先生、怒った感じで怒鳴りまくってもらいたいんだけど」平沢先生、すぐにやってくれましたっけ。でも、あの事件での怒りとは程遠いものでした。(笑)オールナイトニッポンでは不採用でしたが懐かしい思い出です。
煙草の話になり、先生がパイプをくわえている姿を思い出すよ、と一人が言う。そうそうと他の連中がうなずく。「あまり先生らしくなかったよな、そういえば」「そうだな、確かに」私もそう思う。当時ラジオから流れていたRCサクセションの「僕の好きな先生」という曲に出てくる教師のイメージが重なる。あの曲では美術の先生だったと思うが、「僕の好きな先生、僕の好きなおじさん」という一節が平沢先生にもあてはまる気がしてしょうがない。
今の学校にもああいう先生らしくない先生はいるんだろうか?
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