古典の底力

2009年10月14日 (水)

古典の底力・その16

日頃「今日の占い」といったたぐいは見ることがないし、たまに見るとそれに捕らわれてしまう自分もいやなので、占いに頼ることはあまりない。だからその手の日常生活での「儀式」みたいなものは極力持たないようにしているのだが、ある一時期毎日やっていたことがある。

それは「今日の『老子』」というものである。入室して掃除やら何やらが一段落して、さて、となったときに「そうそう、そういえば」とばかり『老子』の文庫本を手にとって適当にパッと頁を開く。その開いたところにある章をじっくりと読む。ただそれだけのことだが、やり始めたらなかなか面白かった。

最近はほとんどやっていないので、昨日久しぶりにやってみた。目に飛び込んできたのは「第二十四章」である。

企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見る者は明らかならず、自ら是(ぜ)とする者は彰(あら)われず。自ら伐(ほ)むる者は功無く、自ら矜(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。其(そ)の道に在っては、餘食贅行(よしょくぜいこう)と曰う。物或(あるい)は之を悪(にく)む。故に道有る者は処(お)らず。

つまさきで立つものは、立ち尽くすことができない。大股であるくものは、(長く)あるくことはできない。自分を見せびらかすものには、何もよく見えない。みずから是(ただ)しいとするものは、他人よりきわだって見えることはない。自分でほめるものは、何も成功しない。(した仕事を)誇りにするものは、長つづきしない。それらのものは「道」の立場からいうと、余分の料理や無用の付着物とよばれる。それらを生物はおそらく嫌い、斥けるであろう。だから、「道」を有する人は、そんなところに長居はしないのだ。(中公文庫『老子』 小川環樹訳注)

老荘思想と一口に言うが、『老子』の文はご覧のように逆説的で比喩的、象徴的表現が多いのでまるで天啓のように響く章がいたるところに見つかる。「今日の占い」はその日で終わってしまうが、「今日の『老子』」はよく理解できなくてこれは何を言いたいのだろうと考えることがあり、しばらくの間楽しめる。

適当に開いて読み、どんどん忘れてしまうので残念ながら『老子』をまだ全編通して読んでいない。『老子』を授業で扱うことはまれである。したがって「今日の『老子』」はほとんど実用的な面では役に立たないと言える。だが、先にも述べたように天啓とも思えるような短い文章はスルメのように味わい深い。よく噛まないと味が出てこないが、何度でも楽しめるし放って置いてもわるくならない。

巻末に付いている小川環樹氏の解説によると、老子の存在に関して「架空の人物である」と言う学者もあるらしい。しかし小川氏は実在の人だと思うと述べ、次のように司馬遷の『史記』老子伝を引く。

「老子は楚(そ)の苦(こ)県の人。名は耳(じ)。字(あざな)はタン(耳へん+冉)、姓は李氏。周の蔵室を管理した史官であった」。これによると老子が生まれたのは苦県、現在の河南省鹿邑(ろくゆう)県の東、安徽(あんき)省との境に近いところになる。蔵室とは宮廷の図書館だという。ここの周とは、現在の洛陽市(河南省)をさす。「老子は道と徳とを修めた。その学説は自己をかくし無名でいることを要務とする。周の都に長く住んだが、周の国力の衰えを見て、やがて立ち去り関(かん)まで来た。そのとき関所の監督官であった尹喜(いんき)がいった。『あなたはこれから隠者になられるのでしょう。むりとは思いますが、私のために書物を書いてください』。そのとき、老子ははじめて上下二篇の書を著し、『道』と『徳』の意義を述べること五千余言。そして立ち去り、どこで死んだか知るものはない」。関はおそらく函谷関(かんこくかん)。とすれば、老子はその西方、今の陝西(せんせい)地方のどこかまで行ったことになる。(同上書、解説頁より)

なるほど。その後道教と結びついて神仙思想と親和性が高くなるのもうなずける。老荘思想の大師匠の老子自身が隠者になったのであれば、後の時代の人間がそれに倣って仙人のごとき存在をめざしても不思議ではないと思う。含蓄のある章をもう一つ取り上げてまとめにしたい。第七十六章である。

人の生ずるや柔弱にして、其(そ)の死するや堅強なり。草木の生ずるや柔脆(じゅうぜい)にして、其の死するや枯コウ(木へん+高)なり。故に堅強なる者は生の徒なり。是(ここ)を以て兵は強ければ則(すなわ)ち勝たず、木は強ければ則ち折る。強大なるは下(しも)に処(お)り、柔弱なるは上(かみ)に処る。

人が生まれるときには柔らかく弱々しく、死ぬときには堅くてこわばっている。草や木が生きているあいだは柔らかでしなやかであり、死んだときは、くだけやすくかわいている。だから、堅くてこわばっているのは死の仲間であり、柔らかで弱々しいのが生の仲間である。それゆえに武器があまりに強(かた)ければ勝つことがないであろうし、強(かた)い質の木は折れる。強(かた)くて大きなもの(たとえば木の幹)は下にあり、柔らかで弱いもの(たとえば枝や葉)が高いところにある。(同上書より)

柳に雪折れなし、などとも言うなあ、たしかに。

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2009年8月30日 (日)

古典の底力・その15

前回に続き『大鏡』に見える、藤原氏のエピソードを中心に紹介していきたい。

「三平」と呼ばれた基経の息子たち、時平、仲平、忠平のうち忠平のエピソードを取り上げたいと前回の最後に触れた。それは藤原北家の中で冬嗣-良房-基経-忠平と続いてきた系列の次に、師輔-兼家-道長-頼通という摂関政治全盛期を形作る藤原氏の主流派が連なるからだ。

この摂関家の本流にいる中心人物に関する叙述を見ていくと、興味深いことが浮かんでくる。まず、忠平から取り上げよう。

藤原冬嗣が筑紫から勧請した宗像三神(宗像明神)を、忠平は邸内に祀っていた。その忠平に、宗像明神が実際に話しかけるという話が取り上げられている。普通、祀られている神様は、夢の中などに現れてお告げを聞かせたりすることはあっても、直接姿を現して話しかけるということはしない。そういう点からこれは希有なことである。

もう一つ、忠平と南殿の鬼のエピソードも興味深い。醍醐帝か朱雀帝の頃、南殿(紫宸殿)の御帳(正面の玉座)のうしろを忠平が通ったとき、鬼が忠平の太刀の石突(刀剣の鞘の先を包んだ飾り)をつかまえた。しかし忠平は、ひるむことなく太刀を引き抜き鬼の手をとらえた。すると鬼は手を放して鬼門へ逃げてしまったという。

次に忠平の息子、師輔もおもしろい話を持つ。百鬼夜行(やぎょう)にあう話は特に興味深い。「百鬼夜行」とは種々の妖怪が夜間列をなして歩くことをいう。師輔が九条邸に向かい東大宮大路を南へ下り、二条大路と大宮大路の四つ角(あははの辻)にさしかかったとき百鬼夜行にでくわす。師輔は、鬼の難を逃れるという「仏頂尊勝陀羅尼経」を車中で読経し、半時(約一時間)ほどして難を逃れる。

また同じ師輔の話に、冷泉帝の大乗会の御禊のとき、師輔が守護の霊となって守ったというものがある。ここでは藤原元方と桓算供奉(かんざんぐぶ)の物の怪が出ている。桓算供奉は前回も触れたように三条帝の目が見えなくなった原因として挙げられている僧侶である。よっぽど藤原氏に恨みがあったのだろうか。

藤原元方は同じ藤原氏ではあるのだが、主流派の北家ではなく南家の人である。娘の祐姫の腹に生まれた広平親王(村上帝の子)の立太子に敗れ、大納言藤原元方とその娘祐姫の霊は冷泉帝に祟る。冷泉院が幼少から心身とも病弱であるのは、二人の物の怪によるものだと信じられていた。こういうドロドロした権力争いの話がつきまとうのはやむを得ないことなのだとは思うが、どうにもおどろおどろしい。

さて師輔の息子の兼家の場合はどうか。兼家の別邸は東二条院という。この別邸で、月のすばらしい晩に、目には見えない鬼が格子をばたばたと全部下ろしてしまうという悪さをする。兼家は太刀を引き抜いて一喝し、見えない鬼にまた格子を上げさせたという話がある。

兼家は亡くなる二日前に東二条院を仏寺となし、法興院と称した。気味の悪い所で、物の怪が恐ろしい所という評判の立っていた別邸でもあった。自分の死後、寺にでもしなければいっそう気味の悪い「悪所」となるとでも考えたのだろうか。

ここまでの忠平-師輔-兼家の三者が鬼や百鬼夜行や物の怪にまさっている姿は、偶然に取り上げられたのではないと思う。これはみな道長の豪胆さを強調し納得させるための布石となっている。『大鏡』の中のよく知られた章段の一つである「肝試し」の部分で、兄たちの道隆や道兼とは比較にならない道長の豪胆さが示される。この道長の胆力を父祖から受け継いだ資質と納得させるため、忠平から兼家までのエピソードにこの手の話が集中しているのだと思う。

つまり、いかに道長が常人離れした存在であるかということを読み手に印象づけるための手口だと言ってよいだろう。全ては道長の栄華を強調するため。そう考えると『栄華物語』とは異なるものの、『大鏡』も道長の権勢に合わせて叙述している部分が意外にあるということなのだろう。

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2009年8月16日 (日)

古典の底力・その14

前回取り上げた『大鏡』は、帝や藤原氏をめぐるさまざまなエピソードが満載で面白い。

たとえば、語り手である二人の老人、大宅世継(おおやけのよつぎ)と夏山繁樹(なつやまのしげき)はともに百歳を超えるスーパー爺さんたちなのだが、夏山繁樹は養父に七条辺りで実母から買い取られたという話をする。なぜそうなったかというと、繁樹の父親が四十歳のとき五月に生まれたためだという。これは「四十二のふたつ子」という俗信によるらしい。父親が四十二歳の時に二歳になる男児は、父子の歳を加えると四四、つまり死に通じるため嫌われたということのようだ。また五月に生まれた子は成長して父母を害すると信じられていたようである。この五月生まれ云々については漢籍の典拠があるらしいのだが、未確認。

夏山繁樹の場合は、この二つが重なっているため実母は災厄が降りかからないうちに手放そうと思ったのだろう。それにしても七条辺りで養父に買い取られたというのもすごい設定だ。

帝のエピソードでは、朱雀帝が菅原道真の怨霊を恐れ、三歳まで格子を上げず、昼も灯をともして御帳の内で養育されたというのが興味深い。道真公は今では学問の神様として有名だが、最初は祟りなす怨霊を鎮めるために天神様として神様に祀りあげられた。この朱雀帝のエピソードなどを見るといかに藤原氏が道真の祟りを恐れていたかうかがえる。また、この帝の在位中に平将門・藤原純友の乱があり、乱平定の報賽に天慶五年(942)石清水八幡宮の臨時の祭が始まったという。

『蜻蛉日記』の作者、右大将道綱母のもとに通った藤原兼家を外祖父にもつ三条帝のエピソードにも不思議な話がある。三条帝は上皇になってから(実際は譲位する前から)目が見えなくなったらしく、その原因を桓算供奉(かんざんぐぶ)という僧侶が物の怪となって目を見えなくさせているからだという話が出ている。目の病だったのであろうが、物の怪の存在がリアルに感じられる時代だったからこのようなエピソードが残ったのだろう。

さてさきほど朱雀帝の話が出たが、朱雀帝の外祖父が藤原基経であり、その息子たちに「三平」と呼ばれる時平、仲平、忠平がいる。

この三人の息子のうち、左大臣時平が讒言によって右大臣菅原道真を大宰府に左遷し、後に祟られることになる。その道真の神霊が雷となって清涼殿に落ちかかったとき、時平が太刀を抜き放って「次位のものが秩序を乱してはならぬ」と一喝すると、雷となった道真の霊がおとなしく退散したという話も出ている。怨霊となってからも位階序列を乱さない道真の妙な律儀さが印象的な話である。

時平には笑い出すと止まらなくなる癖があったようだ。太政官の主典(さかん)である「史」(書記官)が時平に文書を差し出すとき、屈んだ拍子に放屁して時平を笑わせるという話がある。どうも時平という人はよく分からない人物だ。実際の人物はどのような人だったのか興味深い。

「三平」の中のもう一人、忠平のエピソードを紹介しようと思ったが、例によって長くなりそうなので、次回の「古典の底力」にて。

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2009年8月 1日 (土)

古典の底力・その13

清少納言が仕えている一条帝中宮定子のもとへ、時折兄弟の伊周(これちか)と隆家が遊びに来る話は『枕草子』にも出てくる。定子も伊周、隆家もみな関白道隆の子どもたちである。特に漢学の才豊かな定子は一条帝に愛され、道隆存命中はそのうしろだてもあり、中宮定子周辺は活気のあるさまを呈していた。

ところが、父道隆が急逝し、一条帝の母詮子の支持を取りつけた道長が権力争いに勝つと入れ替わって道長の娘彰子のサロンに優秀な女房たちが集められ、一条帝のお出でになる機会も多くなる。

この道隆の急逝に関しては、『大鏡』によると当時蔓延した流行病ではなく、酒の飲み過ぎ(あるいは糖尿病とも)で亡くなったらしい。小一条大将済時(なりとき)、閑院大将朝光(あさみつ)らが飲み仲間で、大酒していたようだ。ただ、道隆は酔いから覚めるのも早かったというエピソードも載っている。その道隆がいよいよ臨終という時、飲み仲間の済時や朝光らも極楽にいるだろうかと言ったそうで、いやはや何とも心配する事柄が違うだろうとつっこみをいれたくなる。

道隆が関白だったころ、不遇だった道長がふらっと道隆邸に現れ、伊周の主催した二条邸南の院での弓遊びに加わるという話が『大鏡』にある。教科書にもよく載っている競射のくだりである。ここでの道長はふてぶてしいまでの自信にあふれ、いずれ自分が権力を握るのだというギラギラした意志をむき出しにする。

道長の矢数が伊周を二つ上回ると、関白道隆はあともう二回延長なさいと横車を押す。不満に思いながらも道長は「ならば、延長なさい」と同意する。しかし、射る段になると「道長の家から、帝や后がお立ちになるはずのものならば、この矢当たれ」と言って射る。放たれた矢は的の真ん中にあたる。伊周はその勢いに臆してとんでもないところに矢をはずしてしまう。その次の矢を射るときにも道長は「自分が摂政・関白になるはずの運命なら、この矢当たれ」と言い、的が破れるばかりに同じ真ん中に当ててしまう。思わぬ事態の展開に関白道隆は蒼白になり、矢を射ようとする伊周を「なんで射るのか、射るんじゃない」と制し、興ざめした雰囲気のうちに競射は取りやめとなる。

『大鏡』ではこういう描写である。ところが、この話は二人の年齢差から現実性に欠ける話で、伊周の卑小さ、道長の豪胆さが誇張増幅されて語られているのだそうだ。女院詮子の石山詣での際の伊周と道長のやり取りなど、他の話でも道長と対照的に伊周が卑小化されている。しかし伊周の実像はこれらと異なり、朝廷の評議の場である「杖座」で道長と激論を戦わすなどの一面もあったという。

赤染衛門が書いたと言われる『栄華物語』であれば、中宮彰子付きの女房が書いた話だから道長びいきの記述に傾くのはやむをえない。しかし道長に対しても少し距離を置いて批判的に見ているとされる『大鏡』でさえ道長の姿を誇張し大きく描くとなると、藤原氏の頂点に立った道長の権力の大きさが影響しているのだろうかと思ってしまう。

『大鏡』には、道長と伊周の確執を描く話がいくつか載っているが、その他にも藤原氏にまつわるさまざまなエピソードが面白い。長くなるので、他のエピソードの紹介は次回の「古典の底力」で。

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2009年7月 3日 (金)

古典の底力・その12

七夕が近いので「枕草子」で清少納言がなにか七夕について書いていないだろうかと調べてみたら、七段(新日本古典文学大系の章段による)にこんな箇所があった。

七月七日は、くもり暮らして、夕がたは晴(はれ)たる。空に月いとあかく、星の数も見へたる。

七夕の日は、日中は曇り空でだいじょうぶだろうかと気をもませて、星の時刻には晴れるというのが趣がある。空に月が明るく、星の数は減るがはっきりと数えられるのも趣深い。というような内容である。いかにもという感じがする。

最近では夜でも照明の光で明るいため天の河がぼんやりとしか見えない。海や山へ行けば降るような天の河が見えるのかもしれないが、里ではこころもとない。

「伊勢物語」八十二段(章段数は同上大系による)にも七夕を題材にした歌のやりとりがあったなと思ったが、確認してみたらこれは七夕の日の話ではなかった。「天の河」と呼ばれる川のほとりにやってきたところでその川の名前にちなんで歌を詠めと惟喬親王(これたかのみこ)から言われた右馬頭(うまのかみ)在原業平が
   狩り暮らし棚機つ女(たなばたつめ)に宿からむ天の河原に我は来にけり
と詠む。惟喬親王は返しが出来ず、紀有常が代わって
   一年(ひととせ)にひとたび来ます君まてば宿かす人もあらじとぞ思(おもふ)
と返しを詠む。

一日中狩りをして日を暮らし、今夜は棚機さまに宿を借りるとしましょう、幸い私は天の河のほとりに来てしまっているので。いやいや、棚機さまは一年に一度だけ通っていらっしゃる彦星を待っているのですから、その方以外に宿を貸すことはあるまいとおもいますよ。

教科書などにも載る「交野の桜」の一部である。七夕の話ではないが、地名に掛けたしゃれたやりとりになっている。もう少し調べてみると他の古典にもあるのかもしれない。それにしても中国から伝わった織姫と彦星の話が、千年以上も昔から今に至るまでずっと語り継がれているというのが面白い。

季節感が薄れてしまった現代でも、こういう七夕のような年中行事は残しておきたいものの一つである。

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2009年6月24日 (水)

古典の底力・その11

菅原孝標女が書いた「更級日記」の中に長谷寺へ参籠しようと思い立ち、都を早朝に発つ場面がある。

折しもその日は後冷泉帝の大嘗会の御禊の日にあたり、一世一代の儀式を見物に田舎から人々が都へ上ってくる。更級日記作者とその一行は、その流れと逆行して長谷寺へと向かう。当然の事ながら道々、奇異な目で見られる。遠慮会釈のない視線にさらされながら、一行は都を抜け出す。

作者が大嘗会の御禊の日に長谷寺へゆくと言い出したとき、兄弟や周りの人間はみな反対する。何もよりによって一度しかない大嘗会の御禊の日にしなくても、いくらでも他に日はあるだろうという意見である。

確かにそれも一理ある。しかし、作者の気持ちは動かない。幸い夫の橘俊通だけが、それほどまでに思っているのなら行ってきなさいと理解を示す。おそらく夫も反対したら、作者は行くことをためらったかもしれない。

さて何がそこまで作者、菅原孝標女の心を動かしたのか。

初瀬の長谷寺は観音信仰で名高い寺である。特に女性の参籠者が多く、初瀬詣では都を出ることの少なかった女性たちにしてみれば一大旅行といえる旅であった。見るもの聞くもの都とは違ってもの珍しかったことであろう。しかし、作者は単なる物見遊山に行ったのではなかろう。そうでなければ、周囲の反対を押し切ってまで特別な日に出立した意味が分からない。

少女時代の作者は信仰心より文学に熱をあげていた。等身の薬師仏にぬかずいても、それは早く都へ上らせて物語を思う存分読ませてほしいと願う、現世利益のためであり、信心深さからではなかった。都に戻ってからもそうだ。夢に清らかな僧侶が現れ「法華経」をすぐに習いなさい、とせっかくのお告げがあったにもかかわらず信仰心は芽生えない。いや、信仰心がなかったわけではない。切実なものではなかった。それよりも物語の世界へのあこがれの方が強かった。

作者の乳母が亡くなり、同じころ侍従大納言藤原行成の御女の死を伝え聞き、さらに小さな子どもを残して亡くなった姉の死を身近に経験し、作者の周囲に濃厚に無常の霧がしのびよってくる。そういった死の影がよぎる度に彼女の仏道への思いは少しずつ水位を上げていく。おそらくある時にそれが一気に堰を切って決壊したのであろう。

大嘗会の儀式は天皇が即位したその年の秋にしか行われない。その大嘗会のために賀茂川で禊ぎをする。これが大嘗会の御禊である。盛大な儀式であり、しかも一代に一度しか見ることが出来ない。現代のようにテレビで中継されるわけでも新聞や雑誌に写真が載るわけでもない。見逃すと次の御代まで何年か、あるいは何十年か待たなければならない。

その希少な儀式よりも優先された初瀬詣で。作者には、盛大な儀式も現世の無常なできごとのひとつとしか思えなかったのだろう。それよりも浄土への往生、それこそが切実な現実だったのであろう。

この浄土への思いが彼女だけのものではないと分かるのは、御禊見物の支度をしているある貴人の桟敷の前を過ぎていくときである。多くの者たちが作者一行を嘲笑的に見ている中で、一人だけではあるが、このようなときにこそ物など見ずに仏道の修行に励んだ方がよほどいいとつぶやく人物が出てくる。特筆しているのだから作者にとってどれほど心励まされるひと言だったか想像がつく。

更級日記に限らないが、平安時代の貴族階級に共有されていた浄土への思いをきちんと捕らえないと、なぜあれほど物詣でに出かけたり仏道のお勤めに励んだりしているのかうまく理解できないのではないかと思う。

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2009年5月 6日 (水)

古典の底力・その10

このところ平安時代の古典をまとめて読んでいる。いよいよ「源氏物語」に取りかからなければ、ということで始めたわけではない。いや、半分くらいはあるかな。そろそろ「源氏物語」を読もうと思い立ったものの、登山と同じでいきなりエベレストに挑戦というのは無理である。足慣らしがどうしても必要になる。そこでまずは平安時代の物語や日記などから手をつけてみるかと考えた。

「竹取物語」が新鮮だった。最初から最後まで通しで読むのは何年ぶりだろう。高校生に古文を教えるときに必要になる箇所は限られている。そのため部分的に読み直すことは何度かあったが、全編読み通すのは大学以来かもしれない。

竹取の翁がかぐや姫を竹の中から見つける冒頭部分は中学の教科書にも載っているほど有名な箇所だ。ここで素朴な疑問。「竹取物語」はなぜ「竹取」物語なのだろう。竹取の翁は主要人物ではあるが、主人公はかぐや姫ではないか。「かぐや物語」あるいは「かぐや姫物語」なら分かるのだが。この冒頭部分の話が題名を決めているのだろうか。

五人の貴公子に求婚され、それを受けたくないかぐや姫は難題をそれぞれに出す。貴公子というと若者のイメージだが、右大臣阿部御主人(あべのみうし)や大納言大伴御行(おおとものみゆき)はどう考えても若者ではない。五人の貴人としておいたほうがいいかもしれない。五人の求婚はうまく退けるが、帝の求婚は断りがたい。しかしかぐや姫は拒否し続ける。どうしてもかぐや姫に会いたい帝は行幸に事寄せて不意に翁の家に立ち寄り、強引にかぐや姫に会う。その時かぐや姫はふっと姿を消し、帝は宮中に連れ帰ることをあきらめる。このあたりからかぐや姫の常人ではないことがさりげなく出てくる。

月の天人が迎えに来てのやりとりは、高校の教科書でもよく取り上げられている箇所だろう。帝のつかわした軍勢が金縛りにあったように戦意を無くし、塗込(ぬりごめ)の中に嫗といたかぐや姫が引き寄せられるように外へ出ていくなど超常的場面が続く。かぐや姫は月へ帰り、帝はかぐや姫が残した不死の仙薬を山の頂上で焼かせる。そこから「不死の山」=「富士山」と呼ばれるようなったというだじゃれのようなコメントで物語は終わりとなる。

今回読み返して、この親父ギャグのようなだじゃれ的語源説明が多くちりばめられているのに驚いた。商人にだまされて偽物の火鼠の裘(かわごろも)をつかまされた右大臣阿部御主人のエピソードの終わりには、「あへなし(どうしようもない)」=「阿部無し」という語の語源説明を入れている。えっ、ここにも、というくらい語呂合わせの語源説明がある。物語の進行とはあまり関係がないのではという気がする一方で、だじゃれが止まらなくなってしまった親父状態のようでなんだか笑ってしまった。

岩波書店の新日本古典文学大系によると、「竹取物語」に先行して「万葉集」に竹取の翁の詠んだ長歌というのが載っているのだそうだ。調べてみると、確かにある。竹取の翁が、丘の上で羮(あつもの、スープのたぐい)を煮ている九人の若い天女に出会う。「おじいさん、おじいさん、ここに来て火を吹いてちょうだい」と呼ばれた翁は「はいはい」と素直に応じる。ところが翁が天女たちのところに行くと、くすくす笑うばかりで、挙げ句に「誰がこんなおじいさん呼んだの?」と言われてしまう。翁はなれなれしく近寄った罪は歌を作って許してもらおうと長歌を詠む。若い頃はこれでも女性にもてはやされたもんですが、今じゃ皆さんに笑われるような爺さんになってしまいましたと嘆く内容の長歌である。

この万葉集の竹取の翁の話も「竹取物語」には関連があるらしい。新日本古典大系には田中大秀という江戸後期の国学者がまとめた「竹取翁物語解」の一部が載っていて、膨大な類話や関連のある話が紹介されている。どうやら「竹取物語」以前にさまざまな話があったことがうかがわれる。先行する話を吸収しつつ今の形になっていったようである。「今昔物語集」にも「竹取の翁、女児を見つけて養う語(こと)」という説話がある。この説話では求婚譚が五人ではなく三人であり、古い形の話の存在を推測させる。当然「今昔物語集」の方が時代的には後なのだが、説話として語り継がれてきた話に簡略な原形がとどめられているということなのだろう。

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2009年4月22日 (水)

古典の底力・その9

説話集を読むのは楽しい。新聞の三面記事がお好きな方は説話集を同じように楽しめると思う。説話集は当時の三面記事ばかりを拾い集めたようなものだからである。

九世紀の初めに成立した「日本霊異記」という仏教説話集が一番古いものだそうで、成立は平安時代だが内容は奈良時代の説話が大半で奈良時代の人々の生活がよく表れていると言われている。仏教説話は霊験譚を載せることで信仰心をかきたてる目的があったのだろうが、世俗説話を集めることも行われるようになり、源隆国の「宇治大納言物語」はその初めではないかと思われている。ただ残念なことに原本は散佚(さんいつ)してしまっており、「今昔物語集」や「古本説話集」に隆国の説話集の影響が残っているばかりだという。

鎌倉時代の「宇治拾遺物語」の冒頭に、源隆国が宇治にこもり往来の者を身分を問わず集めて昔物語をさせ大きな帳面に書き取ったという話が出てくる。聞き書きであるという点が面白い。三面記事的内容が多いのもそのためなのであろうし、うわさ話の域を出ない話も多かったにちがいない。それでも奇異な話に興味を覚えるというのはいつの時代も変わらない。

このように説話集はどれをとってもそれぞれ興味深い話が載っているのだが、その中でも仏教説話から世俗説話まで膨大な量を載せる説話集「今昔物語集」は、まさに説話の宝庫だ。岩波の新日本古典文学大系でも五巻本で全て読み通すには相当な時間がかかる。しかし、タイトルを斜め読みして行くだけでもこれは面白そうだなあと期待させるものが多い。

この「今昔物語集」に入っている説話で一つだけ紹介したいものがある。教科書にはまず載ることがないだろうし、一般に紹介されたり引用されたりすることもまれだと思われる話なので興味のある方はぜひ原文もご覧になることをおすすめする。岩波の新日本古典文学大系では今昔物語集五、本朝付雑事の巻第三十一に入っている。タイトルは「陸奥の国の安倍頼時、胡国に行きて空(むな)しく返る語(こと)」というもの。安倍頼時は前九年の役勃発当時安倍氏の中心だった人物で、貞任・宗任らの父親。こういう話である。

安倍氏が国府側から奥地の蝦夷との連携を疑われて責めを受けそうになったとき、一族の者を船に乗せて胡国をめざした。船は胡国の沿岸に近づいたものの上陸できそうな場所がない。そこで川を遡行して内陸部へと船を進めると、あるところで胡人たちの騎馬の一軍を目にする。芦の陰からうかがっていると話し声が聞こえてくるのだが、何を話しているのかまったく分からない。習俗がかなり違うようだと思い、安倍氏の一行は上陸をあきらめて帰ってきた。こういう話を九州にいた宗任法師が語ったのを聞いたという話である。

史実ではどうなのかまったく確認する資料がない。しかし、これは大いに興味をそそられる説話である。まず、安倍氏の一行が北方の「胡国」の存在を知っていてそこを目指したということ。この「胡国」にあたるのがはたしてどこなのか。津軽半島辺りを指しているのか、それとも北海道なのか。あるいはロシアの沿海州から中国東北部辺りを指すのか。中国東北部なら女真族かもしれないなどと空想が膨らむ。そもそも「胡国」まで船で行き着くことが当時可能だったのか。これは可能性は高いという気がする。時代が下って奥州藤原氏の時代に北方との交易を思わせる物は多く確認されている。奥州藤原氏の時代にいきなりそういう交易が成立したのではなく、それ以前からあったのだろうと考えても不思議ではない。仮に大陸の商人たちが日本へ品物を持ってきていたのだとしても、船で日本に来ることができるのなら逆に大陸へ行くことも可能だろうということである。

もう一つ。この説話は宗任が語ったことを誰かが伝え聞いたという形になっている。しかも九州にいた宗任から聞いたという。宗任が源頼義に降って京から伊予、さらに大宰府へ移送されたことは史料で確認できる。だから九州にいたというのは不思議ではないのだが、その宗任から聞いたという点がまた興味深い。宗任は遠く異郷で生涯を終えたのだと思われるが、近くにいただれかに前九年の役当時の話を語っていた可能性は十分にある。その中の一つが形を変えてこういう説話として残ったと考えると、説話だからと切り捨てるのではなく、説話が残った背景を考えた方がいいのではないかという気がする。陸奥国への望郷の念を抱きながら語った宗任の姿がぼんやりと浮かんできて複雑な気持ちにもなるのではあるが。

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2009年4月13日 (月)

古典の底力・その8

「平家物語」は音読してみるとよいかもしれない。あるいは音読してもらう方がわかりやすいのかもしれない。

何を分かり切ったことをとお思いかもしれないが、もともと琵琶法師が「平曲」として語ったものが「平家物語」として残されているのだから、その「音」なり「声」なりに耳を傾けてみることを忘れてはいけないのだろう。

現代のわれわれは、活字になったものを黙々と目で追って読んでいくという物語の享受方法が一般的になってしまったため、耳で語りを追いかけ場面を思い描くという伝統的な方法になじみがなくなってしまった。せいぜいがラジオドラマくらいだろうか。しかし、たとえば稲川淳二の怪談話がなぜ受けるのかということを考えると、意外に「語り」の伝統はしぶとく生き続けているのかもしれない。

稲川淳二の怪談話はどんどん「様式化」が進んでいるように思うのは気のせいだろうか。さあ来るぞ来るぞと思っているところへ期待通りのぞっとする瞬間をぶつけてくる。「平家物語」の語りにしても本来はそういうものだったのではなかろうか。聞き手の期待に合わせて涙を誘う場面を盛り上げたり、勇ましい合戦の場では臨場感あふれる描写を重ねていったりという琵琶法師の語りの様式化があったはずだ。

それにしても滅びた平家一族の物語を琵琶法師が語って歩くというのは一体どういうわけなのだろう。鎮魂という意味合いが「平曲」には込められているのだろうか。専門家の研究によると、東北地方には「田村語り」「安倍語り」という伝承があったらしい。「田村語り」は坂上田村麻呂が主人公だから敗れた側ではないが、「安倍語り」は「平曲」と同じように前九年の役で敗れた者たちへの鎮魂の意味があったのか。そういえば源義経を主人公とする古浄瑠璃もあるようだ。能楽になると明らかに亡霊が登場する話が多くなり、鎮魂の意味があるのだろうなと思われる。時代はぐっと下るけれど、元禄の赤穂浪士の話がこれだけ歌舞伎やらなにやらで演じられたのも、赤穂浪士の面々が仇討ち後切腹したからではないのだろうか。すなわち鎮魂歌である。

話を平家物語に戻す。平家物語には数々の印象的な場面があるのだが、熊谷直実が平敦盛を自分の手で討ち取るところは印象的だ。平家の公達と見て駒を寄せて組み伏せると、自分の息子ほどの年齢の若武者である。ふと父親の気持ちになる直実は助けてやろうという気持ちを起こすが、すでに味方の源氏の軍勢が押し掛けてくる。自分が逃がしてもおそらく追っ手に捕まって討たれてしまう。ならばと直実はみずから敦盛の首を取る。熊谷直実はその後、武士であることの罪深さをしみじみと感じ出家してしまう。昔、この場面について生徒とキャスティングをめぐってあれこれ話したことがある。もし映画でこのシーンを撮るとしたら熊谷直実をだれにするか。私は今でも奥田瑛二がいいと思うのだが、いかがなものか。一方の平敦盛も重要だ。今なら誰なんだろうな。昔は滝沢秀明君あたりかというところに話が落ち着いたのだが。

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2009年4月 7日 (火)

古典の底力・その7

今回紹介したいのは「堤中納言物語」。これは平安時代の短編集である。以前「伊勢物語」の筒井筒の段を紹介したとき(こちら )に歌徳説話の類例として「堤中納言物語」に入っている「はいずみ」という話を取り上げた。この「はいずみ」などは現代の短編小説に焼き直してもいいくらい話の展開が面白い。

ここで文学史のおさらいをしておくと、「竹取物語」に始まる「作り物語」の系統と「伊勢物語」に始まる「歌物語」の系統が「源氏物語」で統合され、一つのピークを迎える。「源氏物語」があまりにもすぐれた作品であったため、それ以降の物語(特に長編の物語)は「源氏物語」の亜流であることを避けられなかった。物語の享受者たちも「源氏物語」で味わった面白さを要求したであろうから、後から来た作者たちには気の毒といえば気の毒な話だ。だがあまりにも影響力の大きい傑作長編物語の後では、いかなる長編物語を作ってもかすんでしか見えなかっただろう。その中で「堤中納言物語」は異彩を放っている。

まず短編であるということ。各短編の色合いが一色ではないということ。源氏物語の亜流に飽きた物語享受層に向けて目新しいものをということで作られたわけでもなかろうが、珍奇な話が集められている。十編の話からなり、その中で「逢坂越えぬ権中納言」という短編が天喜三年(1055年)の「物語合わせ」に小式部作として提出されたことが知られるだけで他は制作年代等不明である。

小式部といえば後冷泉帝の皇后寛子に仕えていた女房の一人ではないか。また天喜三年というと陸奥国守として任地に下っていた源頼義の任期が終わる前年である。翌天喜四年、頼義一行が鎮守府の府務を終えて帰る途中阿久利川のほとりで、随行していた藤原光貞・元貞らの人馬が殺傷される。この阿久利川事件をきっかけに頼義は安倍氏を攻め、前九年の役が再燃する。

そのような時期にと思わないわけでもないが、都を遠く離れた地方の争乱は後宮までは影響を及ぼさなかったのであろう。十編の中の一つ「虫めづる姫君」には芋虫から蝶になるまでの過程を観察するのが好きな一風変わった姫君が登場する。現代なら理系に進む女の子ということで何も不思議がられはしない。しかし平安末頃には相当奇異な目で見られたであろう。眉毛を抜くことをいやがったという描写もあり、なんだか筒井康隆の「時越半四郎」の平安時代版みたいな感じもする。

一番好きな話は「貝合(あはせ)」だ。樋口一葉の「たけくらべ」の世界に通じるような、子どもから大人への入り口あたりにいる少年少女たちの姿が繊細な筆致で描かれている。淡いパステル調の絵を見ているような気分になる。貴公子は出てくるが基本的に大人は出てこない。このあたりが繊細な叙情性を強く感じさせる一因かもしれない。

この「貝合」もそうだが、今なら少女漫画家あたりが「堤中納言物語」をコミックとして世に出すと意外に受けるかもしれない。短編だから描きやすいし、「はいずみ」などはしっかりオチもあるし。ちょっとひねった恋愛譚が多いのだからコミック向きではないか。それとももうすでに誰か描いているんだろうか。

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2009年3月31日 (火)

古典の底力・その6

講談社学術文庫の一冊に藤井貞和の著した「古典の読み方」という本がある。古典を本格的に読もうと思う方には最良の入門書になると思う。この本の冒頭に面白いことが書いてある。

…『源氏物語』を読んだ方がよい読者などというものが現代社会にはじめから存在しているとは考えられない。「何々を読んだほうがよい」という考え方こそ、古典を求道書か、さもなければ受験参考書かにおしこめる端緒となるものではなかろうか。(中略)現代における悩める精神の持ち主は、現代社会に立ち向かうことによってのみ健康になるのでなければならない。現代から逃避して、古典によって癒される、と考えるところに頽廃がしのびよる。古典はただ現代に生きてゆくもののためにだいじな人生上の情報を提供してくれるだけである。古典が求道書であってはならない理由だ。

「古典はただ現代に生きてゆくもののためにだいじな人生上の情報を提供してくれるだけである」という部分が新鮮だった。そこに道を求めるのではなく、大事な人生上の情報を読むという読み方は現代の我々が古典以外の本を読むときの態度と基本的に変わらないということだ。逃避や求道の手段としてではなく、一個の書物として接するという考え方は当たり前のようだが、なかなか気がつかない視点である。ついつい古典は別格というか、勉強しなければならないもの、学ばなければならないものという意識で読まれていることが多いような気がする。

昨年度まで在籍していた生徒に古典の大好きな生徒がいた。彼女は古典を読むのが「面白いから」読むのだと言っていた。現代作家の小説も古典も同じ平面上にあって、古典だから大事とか逆に古い話だからいやだとかいう感じ方とは無縁のようだった。そういう古典との接し方もあるんだろうなあとしか受け止めなかったが、上にあげた藤井貞和の文章を読んだとき、彼女の接し方が至極まっとうなものであることに気がついた。

遊びをせむとや生まれけむ たわぶれせむとや生まれけむ
遊ぶ子どもの声聞けば わが身さへこそゆるがるれ

平安末期の「今様」という当時の流行歌を後白河法皇がまとめた歌謡集「梁塵秘抄」に載る白拍子の歌である。今様は七五調の四句からなる。七五調のリズムは口になじみやすい。上の歌も声に出してみればその調子の良さを納得していただけるはず。この今様を歌った白拍子がどのような女性だったのかは分からない。けれども、この歌に込められた思いは八百数十年を経た現在の我々にも共鳴する。人の世にあることから生まれる諸々の思いには普遍性を持つものが多々あるのではないだろうか

そのように古人を隣人のごとく感じられる部分があれば、それが「現代に生きてゆくもののためにだいじな人生上の情報」となっていくのではないかという気がする。

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2009年3月19日 (木)

古典の底力・その5

百人一首というものがある。「小倉百人一首」と呼ばれているものが一般的だと思うが、カルタ取りを連想される方も多いであろう。

私の高校時代の友人に百人一首好き、つまりはカルタ好きな一家の男がいる。お父さんも本人も弟も妹もみな理系の一家である。まちがっても文学部などは選択しないというお宅なのだが、どういうわけかカルタと百人一首は必須教養になっている。文学部でしかも国文科であるにもかかわらず百人一首を知らない私は、その友人宅では格好の餌食にされていた。「国文科で百人一首を知らないっていうのは、どうなんだろうね」とお父さん。「はあ…」と私。まったく一言もない。覚える機会がなかったものは今さらジタバタしてもしょうがない。「まあ、百人一首を覚えなくても単位は取れますから」とごにょごにょ言葉を濁すのが関の山だった。

この友人から教わった一首で印象深いのが崇徳院の詠んだ
    瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末にあはんとぞ思ふ
流れが速いので岩に隔てられて分かれてしまうように、あなたと別れ別れになっても末にはきっと一緒になろうと思います、という歌だ。一体何のきっかけでこの歌が出てきたのか覚えていないが、歌だけはずっと記憶している。

この歌に引っ掛けた落語に「崇徳院」という噺がある。若旦那の恋わずらいを心配した大旦那から頼まれた熊さんが、大声で「瀬をはやみ~」と触れ回りながら相手のお嬢さん捜しをする笑える噺だ。江戸人の文学教養は古今集と唐詩選であると喝破したのは石川淳であったが(『文學大概』所載「江戸人の発想法について」を参照下さい)、この「崇徳院」の噺などを聞いていると、歌を元に落語ができるくらい一般に本歌が知られていたのであろうと思わないわけにはいかない。百人一首を知らない私からすれば「みなさんよくご存じで」としか言いようのない教養がごく当たり前にあったということになる。そういえば「千早振る」という落語もあったなあ。これまた百人一首にある「千早振る神代も聞かず龍田川から紅に水くくるとは」という在原業平の歌の内容を聞かれてご隠居がいい加減な解釈をするという内容だ。

実は息子がまだ小さかった頃、百人一首を覚えようと思ったことがある。家内が面白がって息子と一緒に覚えようとしたのだが、私も含めてみな途中で飽きてしまい、結局ものにならなかった。我が家で唯一ほぼ全部の歌をそらんじているのは、若い頃から百人一首に親しんでいた私の父親だけである(ただし家で百人一首のカルタ取りをしたことは一度もない)。いつ、どんなきっかけで百人一首を覚えたのか尋ねたことがないので、なぜ父親が知っているのかは不明である。

和歌の素養というものはもはや廃れかけたのかと思いきや、実は新聞の歌壇への投稿は活況を呈しているのをご存じだろうか。特に朝日新聞の朝日歌壇への投稿者で、どうやらホームレスの境遇にある方の歌が毎週選に入って話題になっている。「天声人語」にもその方へ呼びかけた記事が載っていた。どのような身の上の方なのか不明だが、自分の置かれている境遇を題材とした歌は厳しい現実を映し出しながらも何か凛とした気配を漂わせている。短歌がその方の支えになっているのだろうと何か切なく思わずにいられない。

百人一首には入っていないのだが、この時期になると志貴皇子(しきのみこ)の詠んだ
    石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出(い)づる春になりにけるかも
を思い浮かべる。早春の情景である。滝のしぶきと芽を出したばかりのワラビの柔らかな緑色がすがすがしく感じられる歌である。

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2009年3月13日 (金)

古典の底力・その4

作家の嵐山光三郎さんが、雑誌のインタビューか何かで「徒然草は四十過ぎてから読み返すとよくわかるんだよ」と語っていたのを若いころに読んだことがある。

その当時はあまりピンとこなかったのだが、自分が四十の坂を越えてみて何気なく徒然草の一節を目にすると、なるほどなあと思うことがよくあった。古文の教科書や問題集に載っているところは、徒然草のほんの一部でしかない。その一部がいちいち「そうだよなあ」とうなずいてしまうような内容を含んでいる。

どうも徒然草というと、小林秀雄の「無常といふ事」の影響か(この方の文章には現代文の問題で苦しめられましたが)人の世は無常ではかないものだから仏道修行の道に入った方がいい、というような出家の勧めの話が多くてなんだか抹香臭い内容ばかりじゃないかと思っている方も多いのでは。

もちろんそういう話も確かに多い。だが、こういった話もある。

自分にとって名誉になるように言われたウソは、人はあまり反対しない。また、その場に居合わせた人がみな面白がっているウソは、自分だけが「そうでもなかったのに」と言ってみてもしかたがないので、黙っていると、そのうちにその話が事実であることの証人にまでもされて、それが事実ということに決まってしまうだろう。

「世に語り伝ふること」で始まる章段の一部。なあんだ現代と変わりないじゃないかと、思わず言いたくなる。兼好の時代から七百年弱の時間ではそれほど人間のありようは変わらないということか。こういった人間観察の面白さが徒然草のあちらこちらに散らばっている。「仁和寺」というお寺の名前を耳にすると反射的に徒然草が浮かんでくるが、兼好によって取り上げられた仁和寺の僧侶たちの行状も面白い。

教科書にも載る有名な章段は「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ」で始まるものではないだろうか。長年石清水八幡宮を参詣したことがないので一人で歩いて参詣した仁和寺のお坊さんが、ふもとにある極楽寺や高良社を石清水八幡宮だと思いこんで帰ってきてしまったという話である。兼好はこのエピソードの結びに「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」と何事にも指導してくれる人は必要なことであると教訓を加えている。

そうかと思えば、仁和寺の別の坊さんが酔っぱらって鼎(三本足のついた釜)をかぶってふざけているうちに抜けなくなり、大騒ぎになったという話もある。結局この坊さん、命だけでも助かればということで思いっきり力任せに鼎を引っぱってもらい、耳や鼻はもげてしまったが命は助かったという妙なエピソードである。この話には先の話のような教訓はない。あまりにバカバカしくて教訓をつけるまでもないと兼好が思ったのかどうか。

何事か新しい物事を始めるときに思い出すのは、「能をつかんとする人」の章段だ。何かの芸能を身につけようとする人は、うまくなってから人中に出ようと思っているようでは一つも習得できない。まだ未熟なうちから上手な人たちの中に立ち交じり、笑われても平気で熱心に練習をする人が最後には名声を得るまでになるのである。このように兼好は物事を習得するコツを教える。まったくその通りで、下手でも何でもまずは上手い人の中に交じって揉まれることが何よりも大事なことだと思う。下手で恥をかくというリスクを負う代わりしっかり上達するということであり、実践にまさる教材はないということなのであろう。

こうしてみると確かにある程度人生経験を重ねてからの方が、思い当たる節が多いだけになるほどと共感して楽しめるのかもしれない。個人的には教科書に載っていない妙なエピソードの方に面白いものが多いような気がするが、教訓的な章段でもなかなか含蓄があって捨てがたい。子どもの頃に受け付けなかった食べ物でも年齢とともに食べられるようになるものだ。塩辛やホヤなどが美味いなあと感じるようになった方は、同じように徒然草が楽しめるのではないかという気がする。

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2008年9月29日 (月)

古典の底力・その3

今年は源氏物語の千年紀だそうで、あちらこちらで源氏物語の特集を見かけます。紫式部日記の寛弘五年(1008)に「若紫」や「源氏」などの記述があることから、この年を基準に今年を千年紀としているようです。

さて、楽屋内をさらすようで恥ずかしいのですが、国文科に行きながらワタクシ源氏物語の原文を全巻通して読んだことがありません。自宅に岩波書店の新日本古典大系版で五巻の「源氏物語」はありますが、目を通しているのは古典の指導で必要になる部分のみです。たとえば冒頭の「桐壺」であったり、「若紫」であったり、教科書に載っていて問題を作らねばとなった巻はお世話になっておりますが、その他はよく分かりません。

長年、源氏物語を読んでいないということがのどに刺さった魚の骨のようにチクチクと気になり、今年こそ読まねばと思うものの、挫折の連続となっております。どうも今年も気持ちだけはあったのに例年のごとく過ぎてしまいそうです。それなら、せめて現代語訳でもと思い、谷崎潤一郎訳の源氏物語を手にしてみたものの、これまた5巻ある文庫のうち2巻目で挫折したまま。じゃあ、英訳ならどうだ、とサイデンステッカー訳の"The Tale of Genji"も遥か昔に入手いたしました。が、やはり「積ん読」状態。ああ、いつまで経っても読み切れない源氏物語。瀬戸内寂聴尼の現代語訳がベストセラーとなったものだそうですので、かすかに期待はあるのですが…。お前自身の意欲が一番問題じゃあないのか、ハイ、その通りです。全く一言もございません。第一ねえ、日ごろ生徒に何て言ってるんだい、お前さん。コツコツと毎日少しずつ続けなさいとうるさく言ってるのは一体誰だい?いけませんよ、そんなことじゃ。と、小言の多い大家さんから叱られている店子のようなワタクシです。

ということで、源氏物語についてはおこがましくて何も語れませんが、作者紫式部に関連して周辺的事実を一つだけ書いてみようと思います。

紫式部の夫が藤原宣孝だということはご存じの方もあるかと思います。この宣孝との間に生まれた賢子という女性がいます。岩波の新日本古典大系版「後拾遺和歌集」の人名索引によると、「藤原兼隆に嫁し後の後冷泉天皇の乳母となる。のちに大宰大弐高階成章と結婚し、天皇即位に際し従三位典侍に至る。」大宰大弐の高階成章と結婚し、従三位となったことから「大弐三位」と呼ばれていますが、他に藤三位、越後弁、越後弁乳母などとも呼ばれているようです。

つまり紫式部の娘が後冷泉帝の乳母をしていたということです。後冷泉帝の頃といえば摂政関白は藤原頼通ですが、この頼通が賀陽親王邸を自邸として拡張した高陽院(かやのいん、賀陽院とも)で、歌合がしばしば開催されます。大弐三位の賢子もさまざまな歌合に歌人として登場します。

後冷泉帝期は一条帝期に次ぐ王朝文学の黄金期で、この賢子をはじめ、多くの歌人が活躍しています。とはいうものの、母親の紫式部の一条帝期には枕草子の清少納言や、和泉式部、赤染衛門など著名な女流文学者がそろっているのに比べ、後冷泉帝期の歌人たちは一般的ではないと思います。具体的には「後拾遺集」に入集歌の多い、相模や小弁といった女流歌人、能因、藤原頼宗、藤原範永などです。能因法師の「都をば霞とともに…」の歌は問題集などにも登場しますが、他はなじみがないのではないでしょうか。

さらにもう一つ。この紫式部の娘、賢子さんの夫となった高階成章の「またいとこ」にあたるのが、康平五年に陸奥守として下向した高階経重です。国府の官人が前司源頼義の指示に従うため、下向したもののすぐに帰洛したと「陸奥話記」には出ています。実は、陸奥話記の時代を調べていて、当時の公卿のほとんどが藤原氏か源氏である中、一人だけ高階成章が入っていることがなぜなのか不思議でした。妻が後冷泉帝の乳母であればなるほどと思いますし、康平五年の陸奥守に高階経重が選ばれた経緯もなんとなく見えてきます。

この賢子さん後冷泉帝には無理が言えたらしく、天喜四年に開かれた皇后宮寛子春秋歌合で乳母の大弐三位が自分の歌の代作として後冷泉帝の御製を急に申し請い、歌合では良し悪しを述べるまでもなく左方の勝ちとなったというエピソードもあるようです。まあ、乳母ですからねえ。後冷泉帝も断りきれなかったのでしょう。

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2008年6月 5日 (木)

古典の底力・その2

筒井筒井筒にかけしまろがたけ過ぎにけらしな妹見ざるまに

伊勢物語の「二十三段」(新日本古典文学大系の章段数による)の初めに出てくる歌です。歌の冒頭が「筒井つの井筒」となっているテキストもあるようで、新日本古典文学大系は後者になっています。

注釈によると「筒井」はまるく掘った井戸。「井筒」は井戸のふちを保護する囲いだそうです。その筒井の井筒の高さと背くらべした私の背丈も、今ではもっと高くなったようです、あなたと逢わないでいるうちに。という内容は高校の古典の教科書でご存じの方も多いのでは。

この章段、前半は幼なじみの二人が大きくなってもお互いを思う気持ちが無くなるどころかますますつのり、めでたく結婚することになるという話ですが、話のポイントは後半の結婚後数年経てからの方にあります。

当時は男性が女性のもとに足を運ぶ通い婚が一般的ですから、女性が男性の一切を世話します。親が健在なうちはよかったのですが、亡くなってからは経済的なうしろだてがないため、男性の世話が出来なくなります。男性はこの困窮した妻とふがいない暮らしをするよりは、と河内の高安郡に新たに通う所ができます。ところが、元の妻は非難がましいことも言わず男を送り出します。男は元の妻が他の男性を通わせているのではないかと疑い、河内へ出向いたふりをして庭の植え込みに隠れて見ていると、きちんと身なりを整えた妻が夫の身を案じ、

風吹けば沖つ白浪たつた山夜半にや君がひとり越ゆらん

風が吹けば沖の白波が立つようにけわしくさびしい立田山を、夜更けにあの人はひとりで越えていくのでしょうか、と詠むわけです。

それから男は河内へは行かなくなるのですが、時たま訪れてみると、直接自分の手でしゃもじを取ってご飯を盛る高安の女の様子を目にして嫌気がさし、通うのをやめてしまいます。古典の教科書では、だいたいこの辺までで話がおしまいですが、実はまだ続きがあります。河内の女性から

君があたり見つつを居らん生駒山雲なかくしそ雨は降るとも

あなたのお住まいの辺りをずっと見続けておりましょう。雨が降ったとしても雲よ生駒山を隠さないでください。こう詠んで寄こしますが、男はそちらへ行こうと返事はするものの実際に訪れることはなく、あてにはしないけれど恋しく思っておりますという女からの歌が最後になってこの章段は終わりになります。

この伊勢物語第二十三段の「筒井筒」と同じようなパターンの話は、実はよくあり、二人妻説話とか歌徳説話と言われる類型に入るそうです。たしか大和物語にも似たような話があったはずで、そちらでは新しく通い始めた妻(都から来た若い女性)のところで鹿の鳴き声を耳にして、山の鹿も相手を慕って鳴くのだなあと言うと、鹿のことを「煮ても焼いてもおいしいもの」とゲンナリするような反応が返ってくる。もとの妻は「私もあなたのことを慕ってしのび音に泣いております」というような歌を読む。この歌のやりとりから結局男はもとの妻のところへ戻っていくというものです。

現代短編小説にも通じるような展開を見せるのは、堤中納言物語に入っている「はいずみ」という話です。この話でも男は若い女性のところへ新たに通い始めるのですが、ある時、知らせもせず訪れてみると大あわてで少しお待ちくださいとすぐには通してくれない。女性は、男が訪ねてくると思っていなかったので何も準備をしておらず化粧すらしていない。大急ぎでまず化粧を始めるのだが、暗い中で化粧を始めたため白粉(おしろい)と「はいずみ」(まゆ墨)をまちがえて顔中に塗りたくってしまう。おまちどおさま、という女の顔を見ると墨を塗りたくった中に目だけがキョロキョロしているというありさま。男は「また来る」とだけ言い残して帰ってしまい、婿がすぐに帰ったと聞いて女性の両親も部屋にやって来るが、墨で真っ黒の顔を見て腰を抜かしてしまう。陰陽師がよばれたりして大騒ぎになるけれども、女性の涙で墨が少し落ち始め一件落着となります。

フェミニストの方には不評だと思いますが、確かに男性に都合のいい展開です。女性の立場はどうなるの?と詰め寄られると、ま、ま、そうお腹立ちなさらずに…としか言えません。ただ、この二人妻説話の類型というのは、案外現代のドラマ設定などにも下敷きとして使えるのではないかという気がします。特に零落するもとの妻への同情と、最後にもとの妻が幸せになるという結末は安定した構図を提供するのではないでしょうか。

どなたか、現代風にアレンジして全く新しい話を作ってみませんか。

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2008年1月25日 (金)

古典の底力・その1

伊勢物語の第六段にこういう話があります。

むかしある男が、妻とすることができそうもない高貴な身分の女を、長年言い寄ってやっとのことでひそかに連れ出すことができた。たいそう暗い中、芥川という川のほとりを連れていくと、草の上に降りた露を見て「あれは何」と女が尋ねる。男はそれに答えず、雷雨を避けるため一軒のあばら屋に女を押し入れて、夜が明けるのを待つ。しかし夜が明けてみると、連れてきた女は、中にいた鬼に食い殺されてしまっていた。雷の鳴る音にかき消されて、女の悲鳴が聞こえなかったのだ。
   白玉かなにぞと人の問ひし時露とこたへて消えなましものを
あの人があれは白玉でしょうか何でしょうかと尋ねたときに、これが露ですよと答えて、その露のように私も消えてしまえばよかったのに。

高校の教科書で、伊勢物語を習った(あるいは習っている)という方も多いかと思います。古今集の代表的歌人で六歌仙の一人でもある在原業平の歌をもとに作られた、いわゆる「歌物語」系統の最初にくる作品です。「作り物語」系統の最初である竹取物語とともに、文学史上のポイントとなる作品だからしっかり覚えるように、と強調する古典の先生も多いはず。

おそらく教科書で習ったことがあるのは、「東下り」(八段)・「筒井筒」(二十三段)・「ゆく蛍」(四十五段)・「交野の桜」(八十二段)・「さらぬ別れ」(八十四段)あたりでしょうか。おもしろかったという印象をお持ちですか?それは結構なことです。私自身は、高校生の頃に伊勢物語をおもしろいと思ったことがありませんでした。特に「交野の桜」に出てくる惟喬(これたか)の親王(みこ)と右の馬頭(うまのかみ、業平のこと)のやりとりはチンプンカンプンで、何が一体おもしろいんだろうと思ったものです。

ところが大学の国文学講読の時間にこの伊勢物語を読んで、初めてその魅力が分かりました。業平の歌がいいんです、やはり。当たり前の話ですが、在原業平の歌がまず最初にあって、その上に物語が作られているのですから、歌のよさが前面に出てくるように構成されているわけです。中には歌と物語のバランスがあまりよくないと思われる章段もありますが、冒頭にあげた第六段のようにみごとに融合されたものも多くあります。

そしてそこに描かれた物語の持つ普遍性、つまりいつの時代にも通じるものが、現代に生きる私たちにも響いてきます。人の心や感情の機微は、時代が変わってもそう大きく変わるものではないんだなあ、ということです。冒頭の第六段については、坂口安吾という作家が「文学のふるさと」という評論の中で、シャルル・ペローの「赤ずきん」とともに触れています。興味のある方は図書館などで、冬樹社から出ている『坂口安吾評論全集1 文学思想篇Ⅰ』をお探し下さい。この坂口氏の評論も伊勢物語のよさを知る大事なきっかけになりました。

せっかく一緒になれたのに、白露のようにはかなく消えてしまった女性。失ってしまったものの大きさに呆然とする男。四十五段の「ゆく蛍」には、告白できず恋いこがれて死んでしまう娘の話が出てきます。亡くなってから娘の想いを伝えられ、男はぼんやりもの思いに沈みます。「さらぬ別れ」(八十四段)には、年老いて避けられない別れ(死別)が近づいているからぜひ会いたいという母親と、世の中に避けられない別れなどなければいいのにと答える息子の姿が描かれます。

こうして見ていくと、伊勢物語には喪失感や失意があふれています。よくよく考えると在原業平自身が藤原氏主流の宮廷にあって、低い官位に甘んじなければならなかった傍流貴族の一人でした。「交野の桜」に出てくる惟喬の親王も、文徳天皇の第一皇子でありながら、藤原良房らの圧力で皇位を継承できず出家隠棲した人です。

不遇であることや失意を抱えていること、喪失感をいだきながら日々を送るといったことは一般にはネガティブなものと受け止められがちです。はたしてそうでしょうか。必ずしもそうとは言えないような気がします。はかなさやもののあわれに感じる入る心性は、日本文化の底に脈々として流れ続けています。ここ数年、話題になった小説や映画の内容を思い出してみて下さい。いかに私たちが、もろくはかないものに共感をいだいているか、喪失感や失意に共鳴しているかよく分かると思います。

古典を読むことは、現代ではあまり意味がないことのように思われがちです。しかし、私たちのものの感じ方の源流に触れることは意味のないことではないでしょう。教科書ではおもしろくなくても、古典には深い底力が秘められています。

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