古典の底力

2016年5月29日 (日)

古典の底力・その28

人でも時代でも年数を区切るときには十年ごとの刻みがよく使われる。確かに十年も経てば人も物事もがらりと入れ替わっていたりするのだから、十年の刻みというのはそれなりに便利な区切りなのかもしれない。

しかし、人の生涯を区切って考えるときには別の区切り方もあるという話をどこかで読んだことがある。それは『論語』に出てくる孔子の有名な一節、

子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩       
(『論語』  為政)

これを引用しての話だった。

十五で学問に志し、三十で一人前となり、四十になってあれこれ迷わず、五十で天命をわきまえ、六十になって人のことばが素直に聞かれ、七十になると思うままにふるまって道をはずれないようになったという内容だが、最初の区切りが十五年ずつであるのがおもしろい。

三十までは十五年ずつ、三十からは十年刻み。孔子は別に奇をてらって言ったわけではないだろう。学問に志すのに十五年かかるのだから、その学問が一人前となるのにも同じくらいの時間がかかると考えれば、もう十五年加えて三十ということなのだろう。その先は区切りよく十年ずつ。

ここで孔子が言いたかったのは、教訓でも説教でもなく、自分の生涯をふり返った素朴な感慨なのではないかという気がする。この通りに歩めということではなく、このように私は歩んできたという述懐ではないか。それでいてやはりひとつのモデルとなる区分ではある。弟子たちにとっても、おそらく、その年代になったときに自分も師と同じような所に至っているだろうかと振り返る目安になったのだろう。

簡潔であるがゆえに普遍性を感じさせる内容である。だから現代でも「而立」や「不惑」という言い方はしっかりと根付いて残っているのだと思う。本来の意味、つまり孔子が述べていた元々の意味から多少遠ざかってはいても、やはり「不惑」という言葉を目にすると、四十代になった人は、それまで自分がやってきたことを顧みてこの道でよいのだと思ったりする。

もう数年すると「耳順」に至る。さてさて、人のことばが素直に聞かれるようになっているだろうか。その先の、思うままにふるまって道をはずれない境地となると、さらにぼうっと霞んでしまう。まだまだ先は長い。

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2013年9月25日 (水)

古典の底力・その27

ここ数日、いい天気が続いている。空気もだいぶ澄んできて、秋の気配が濃くなってきた。夕暮れ時、西の空の夕焼けも鮮やかな色合いだ。

『枕草子』で「秋は夕ぐれ」と書いてあるように、秋の夕暮れ時の趣は他に替えがたいものがある。茜色に染まった西の空が刻々と色を変えていく様子を飽きることなく眺めていると、そうだ新古今集にも「三夕の歌」があったなと思い出した。

藤原定家

見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

見渡すと桜の花(がないのはもちろんのことだが)も、もみじも何もないのだなあ。海辺の苫葺きの海人(あま)の小屋のあたりの秋の夕暮れは。

西行法師

心なき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮れ

もののあわれを解しない出家した私のような身にもしみじみとした趣は自然と感じられるのだなあ。しぎが飛び立つ沢の秋の夕暮れは。

この二つまでは思い出せたのだが、最後の寂蓮法師の歌が、まったく出てこない。あれこれ確認して、ようやく見つけた。

寂蓮法師

寂しさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮れ

この寂しさは、特にどの色によるというものではないのだなあ。檜などの樹木が茂っている山の秋の夕暮れは。

寂蓮法師の歌をまったく思い出せなかったのは、問題集や授業で扱ったことがほとんどなかったからだと思う。定家と西行の歌は、さまざまな問題で見かけることが多く、歌の解釈も含めておなじみさんだった。ところが「三夕の歌」の一つでありながら、寂連の歌には接する機会が少なかった。

定家は花も紅葉もない殺風景な海辺の秋を詠んだ。この荒涼とした浜辺の様子は、定家の心象風景なのであろうか。西行は沢で目にした秋の夕暮れ。しぎの飛び立つ羽音が、沢の静寂を一層引き立てている。そして寂連の歌は山の夕暮れ。「その色としもなかりけり」とあるのは、檜をはじめとする常緑樹が群れ立つ山だからだろう。

こうしてみると三首とも共通しているのは、色彩の欠如である。秋といえば紅葉した山の錦模様であったり、川面を唐紅に染め上げるもみじの鮮やかな赤だったり、色彩のあふれる情景が浮かぶ。ところがこの三首には色が無い。定家は「花ももみじも」ないと言っている。西行は薄闇の立ちこめる沢辺で、しぎが飛び立つのを見ている。寂蓮は山にいるものの、「まき立つ山」で常緑樹であり、しかも夕暮れ時とくれば、緑も黒みを帯びたものであろう。

この徹底したモノトーンの世界は何なのだろう。法師二人の詠んだ歌が、色彩を欠いたモノトーンの風景というのは、何となく分かる。おきまりの「仏教的無常観」というひと言でくくってしまってもいい。しかし、定家の歌の荒涼感は一体何なのだろう。この寒々とした殺風景な心象は、新古今の歌人たちの拠って立つ共通基盤だったのだろうか。

どうも、この荒涼とした「三夕の歌」の世界は此岸ではなく彼岸へと通じているような気がする。メメント・モリ、ということか。

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2011年5月20日 (金)

古典の底力・その26

善く士為(た)る者は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は与(くみ)せず。善く人を用うる者は之が下と為る。是れを不争の徳と謂い、是れを人の力を用うと謂い、是れを天の極に配すと謂う。

すぐれた戦士は荒々しくはない。戦闘にすぐれたものは怒気をあらわさない。最もよく敵に勝つものは(敵を)相手にしない。人を最もよく使うものは、かれらに対しへりくだる。これが争わないことの「徳」といわれ、人びとの能力を使うことと言われ、天の至上さに匹敵するものといわれる。

『老子』 第六十八章   小川環樹 訳注、中公文庫より

昨日に続いて、「古典の底力」シリーズだが、今日は久々の漢文。ずいぶん以前にも記事にした記憶があるが、一時期毎日のように、この中公文庫の『老子』をパッと開いて出た頁を読んでいた。教室に入ると真っ先にやっていたので、仕事を始める前の儀式みたいにもなっていたのだが、意外に面白かった。

やらなくなってしばらく経つ。震災後、ふと思い立って以前と同じように『老子』の文庫を取り上げ開いてみた。たまたま開いた頁が冒頭に引用した第六十八章である。

最初の一文から目が釘付けになった。え、『老子』にこんな内容の文があったのか。老子の思想というともっと茫洋としていて、神仙思想みたいなものに近い印象しかなかった。抽象的で深遠な仙人の思考。そういうイメージがどこか『老子』にはつきまとう。しかし、よくよく考えてみるとこの引用部分の内容は、教科書に使われることが多い「水は方円の器に随う」などといった章段と同じような考えでもある。

剛直なもの、こわばったもの、固定したものは実は脆いものであり、柔弱なもの、しなやかなもの、流動的なものこそ本当に強いものなのだという老子の思想がある。堅いもの硬直したものは「死」の仲間であり、柔らかく流動するものは「生」の仲間なのだという見方には、太極拳のゆったりした動きのような心地よさを感じる。

「無為自然」という言葉で老子の思想は表されることが多い。人為をできるだけ排し、自然にまかせる。政治思想においても、一人の聖人が小さな共同体を「徳」によって治める「小国寡民」を理想とした。大きくなればなるほど「人為」が加わらざるを得なくなる。だから鶏や犬の鳴き声が聞こえる範囲までの大きさの共同体が理想的な規模になるのだろう。そこに住む人びともまた聖人に統治されているという意識を持たず、「鼓腹撃壌」のようなユートピアができあがる。

それゆえ老荘思想は道教と一緒になって後の神仙思想を用意し、桃源郷というアジア的ユートピアを生み出す元になっていくのだろう。「小国寡民」という桃源郷のイメージには、郷愁にも似た感触を覚える。だが、一方であり得ない社会の在り方だとも思う。一人の聖人が「徳」によって世の中を治めるという「徳治主義」は、社会の規模が大きなものになっていくという必然性から考えても不可能な政治思想だ。そのような聖人のパターナルな徳治は複雑に拡大した社会では成り立ちえない。

しかし、個人の日常のレベルで考えると、この文章の言うところは味わい深い。人の力を引き出すとはどういうことなのか、熟読玩味に耐える内容だと思う。

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2011年5月19日 (木)

古典の底力・その25

震災以降、何に心を癒されただろうか。しばし考えてみる。不思議なことにあまり読むことが好きではなかった古典が、自分にとって一番ほっとするものであったことに気付かされた。昨日の記事と矛盾するような内容だが、古典のもつ奥行きとでもいうものが心休まる空間なのだと新鮮に感じられた。

先日、『方丈記』に載る元暦の大地震の記事を紹介したときに、岩波書店の「新日本古典文学大系」の『方丈記』を参照したのだが、同じ巻に『徒然草』が収録されている。高校生の定期試験前などに何度もお世話になっている『徒然草』であるが、何気なく頁をめくっているうちについつい引き込まれてしまった。

『徒然草』にしても『伊勢物語』にしても、教科書に載るあまりにも有名な章段や部分は、たしかに教科書に載るにふさわしい精髄とでも呼ぶべき箇所だ。しかし、教科書に載らないごくごく短い章段や部分にも、はっと目を開かれるような思いをすることがある。

なにがしとかやいひし世捨て人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空のなごりのみぞおしき」と言ひしこそ、まことにさも覚えぬべけれ。
(『徒然草』 第二十段 新日本古典文学大系)

この世捨て人の科白がなぜか心にしみる。「現世につなぎとめるきずなとなるもの(妻子や財産など)は持っていない身なのに、ただ空のようすだけが名残惜しい」仏道に志して出家した人でもあろうか。自分と現世とをつなぐ「ほだし」(きずなとなるもの)を捨て去った身なのに、空のようす、これだけが名残惜しいという心持ち。澄み切った秋の青空だろうか。それとも雲が風にながれていく空だろうか。あるいは切なくなるような、朱に染まった夕暮れ時の西の空だろうか。

いかなる空のさまを見てこのように言ったのかは分からない。しかし、この気持ちは分かるような気がする。空は変わることなくいつもそこにある。自分がこの世界に生まれてくる遙か以前からそこにあり、自分がこの世界からいなくなった後も永遠にそこにあると思わせる。地上に何事があろうと空は関わりを持たない。永遠なるものと有限な時間を与えられたものとの対比。あるいは二度と同じ光景には巡り会えない、一瞬の美しさ。いつもそこにあるものなのに、空の青さや夕暮れの赤い空は心にしみる。

西行の有名な歌が浮かんでくる

こころなき身にもあはれは知られけりしぎ立つ沢の秋の夕暮れ

『新古今和歌集』に載る「三夕の歌」の一つである。『徒然草』の注には「空のなごり」を、空のようすとしか記していなかったが、「なごり」の語感から夕暮れの空なのではなかろうかという気がする。しかも「ただ空のなごりのみぞおしき」という部分から、現世との別れがそう遠くないと感じているような気配すら漂う。西行の目に映る「しぎ立つ沢の秋の夕暮れ」も、出家した身である「こころなき身」にさえしみじみとした思いを自然にいだかせる光景だ。どうも、この西行の歌などが「なにがしとかやいひし世捨て人」の意識にも上っていたのかもしれない。

『徒然草』の第二十段は、上に引用したものですべてである。ごく短い章段で、他に何も余計なことが書かれていない。それだけに読む側が勝手にあれこれと深読みして味わえるように思う。

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2010年12月 3日 (金)

古典の底力・その24

昨日に引き続き、旋頭歌についての話。

昨日の記事を書くときに、実は『古今和歌集』のどこに収録されているのか思い出せず、岩波書店の新日本古典文学大系に付属する「八代集総索引」で調べてみた。岩波の新日本古典文学大系は本編の各巻もすばらしいが、付属する各索引が秀逸である。この「八代集総索引」のほかに「万葉集索引」「続日本紀索引」「源氏物語索引」「今昔物語索引」があり、いずれも重宝する。

古今和歌集に始まる勅撰集のうち、古今集から新古今集までの八集をとくに「八代集」と呼ぶのだが、その索引である「八代集総索引」を使って「うちわたす」で始まる歌を調べてみた。すると『古今和歌集』のほかに『新古今和歌集』にも一首あることがわかった。こちらは旋頭歌ではなく、五七五七七という普通の和歌である。

 五月許(ばかり)、物へまかりける道に、いと白くくちなしの花の
 咲けりけるを、かれはなにの花ぞと人に問ひ侍(はべり)けれど
 申さざりければ
                                 小弁

うちわたすをちかた人にこと問へど答へぬからにしるき花かな

 五月ごろ、もの詣でに行く途中に、たいそう白くクチナシの花が
 
咲いていたのを、あれは何の花かと人に尋ねましたが答えな
 
かったので

ずっと向こうの遠くの方にお尋ねするけれど返事がないので、さてはその花とわかりましたよ。

『新古今和歌集』巻第十六 雑歌上に載る歌である。作者の小弁は後朱雀帝の皇女祐子内親王の女房で、長元五年(1032)「上東門院菊合」や永承四年(1049)「六条斎院歌合」、同五年(1050)「祐子内親王家歌合」などに出て詠んでいる歌人のようだ。

冒頭の「うちわたすをちかた人に」からも分かるように、前回取り上げた『古今和歌集』の旋頭歌を本歌にしたものである。後半が面白い。尋ねたけれども答えがなかったのでその花だとわかりましたよ、というのは何のことだろうと思ったら、答えないことを「口無し」と判じて「クチナシ」の花だとわかりましたという意味だった。言葉遊びのようなものだが、これはこれで洒落たやりとりである。前回の旋頭歌で「白い花」をクチナシの花ではないかと言ったのも、この小弁の歌を目にしたからだ。

それにしても本歌取りされるくらいだし、『古今和歌集』にも収録されるほど有名な旋頭歌だったのだなとあらためて思う。なぜ友人がこの歌を知ったのか、いきさつを聞きそびれたのか忘れてしまったのかして全く覚えていない。ただ、「この旋頭歌はいい」と力説していたことだけ妙にはっきりと覚えている。

ずいぶん昔に教えてもらった一つの旋頭歌から二つの記事ができあがった。感謝を込めて、もう何十年も音沙汰がない古い友人に手紙でも出してみようかと思っている。

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2010年12月 2日 (木)

古典の底力・その23

このシリーズはしばらくぶりである。この数日、昔のことを思い出しての記事が続いているが、そういえばと思い出したことがある。ネタ切れ状態だった古典の底力に使えそうなので書いてみようと思う。

「旋頭歌」という歌体をご存じだろうか。「せどうか」と読み、辞書的な定義では五七七・五七七を基本形とし民謡的な問答体が多い歌、なのだそうだ。万葉集の頃から平安の初期頃くらいまでしか歌われていない古い形式のようで、『古今和歌集』巻第十九の「雑体」にも四首しか載っていない。旋頭歌については(こちら )の説明が詳しいのであわせてご覧いただければと思う。

参照したサイトに掲載されている説明によると、「片歌問答」という四句体の歌謡から派生したとある。つまり五七七という前句に続いて五七七と読まれる後句が問答形式であったり、唱和であったりという複数の歌い手を想定できる形式であったようだ。コール・アンド・レスポンスというやつである。前句と後句の関係は、問答以外では主題の提示とその説明、特に後句の説明は恋愛の情景に転換するものが多いという。

さて、思い出したのは『古今和歌集』巻第十九の「雑体」にのる次の旋頭歌である。

うちわたす 遠方人(をちかたびと)に もの申す 我
そのそこに 白く咲けるは なにの花ぞも

ずっとそちらの遠いところにいる方におたずねします。そう、わたしですよ。そのあなたの側に咲いている白い花は何の花ですか。

この歌は「題しらず」で「よみ人しらず」となっている。おそらく奈良時代か平安時代初期の古い歌を収録したのではないかと思う。何やらのんびりとした情景のようにも思える歌である。旋頭歌の解説にもあったように、恋愛の情景に転換するものが多いという後句の性格を考えると、「そのそこに 白く咲ける」花というは、実際の白い花(クチナシかなにか)に引っ掛けてあなたはどなたですかと女性に問いかけている歌のようにも思えてくる。そう考えるとなかなか洒落た雰囲気のやりとりが浮かんでくる歌でもある。

国文科の学生でありながら、この歌はまったく知らなかった。教えてくれたのは、別の大学で英文科に通う作家志望の友人である。この男に関してはエピソードがいろいろあるのだが、面白い男であった。何の時だったのか忘れたが、「おまえ国文だったら、この歌は知ってるんだろうな」といきなりさきほどの旋頭歌を突きつけられた。「なんだこれ。五七五七七じゃないじゃないか」「知らないのか。旋頭歌っていう五七七・五七七の形式さ。おまえ国文だろ、もっと勉強しろよな」「そんなこと言われても知らないものは知らないよ」

思えばその男の言うとおり、私は不勉強な学生であった。旋頭歌という形式については用語だけ耳にしたことはあったのだが、何句でどういう形で、どのような歌の例があるかなどは全く知らなかった。この友人は、この旋頭歌の良さについてひとしきり私に講釈した。ふしぎなヤツであった。英文科なのに英文の本の話をすることが全くなかった。古典や近代小説や詩の話ばかり出てくるので、本当は国文科に進みたかったのかもしれない。

さて、今回記事にするにあたり『古今和歌集』巻第十九を開いて驚いた。実はこの旋頭歌には「返し」の旋頭歌がついていたのである。

春されば 野辺にまづ咲く 見れどあかぬ
花まひなしに ただ名のるべき 花の名なれや

春が来ると野原にまっさきに咲く。いつ見ても飽きないものだ。花のお礼なしにそのまま名乗っていいような花の名ではないよ。

「まひ」というのは謝礼や贈り物の意味を表す語で、万葉時代の語のようだ。後句の意味は名前を名乗ったらそれなりの謝礼・贈答はあるのでしょうね、つまり私のことを思って下さるのでしょうね、ということなのだろう。そうでなければただは名前を教えませんよという冗談めかした女性の受け答えなのだと思われる。

先の旋頭歌に対して「返し」となっているこの旋頭歌が二重に問答形式をつくり出して、面白いやりとりだと思う。もう少し関連する話があるのだが、長くなってしまったので続きは次回に。

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2010年10月19日 (火)

古典の底力・その22

昨日記事にした栗城さんのメンタルトレーニングの方法、「実際にやる」という話を読みながら『徒然草』の第150段「能をつかんとするする人は」を思い出していた。

能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得てさし出でたらんこそ、いと心にくからめ。」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。

芸能を身につけようとするときに、ひそかに練習しうまくなってから人中へ出ようなどと言っている人は、一芸も習得できないという。なぜか。兼好法師は続ける。

いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、そしり笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎてたしなむ人、天性その骨(こつ)なけれども、道になづまず、みだりにせずして年を送れば、堪能(かんのう)のたしなまざるよりは、つひに上手の位にいたり、徳たけ、人に許されて、ならびなき名を得ることなり。

下手なうちから上手の中にまじって練習し、笑われても平気で押し通して熱心に練習する人が大成すると兼好は述べる。生まれつきの素質(「骨」)がなくても、その道の修行において停滞することもなくいい加減にしないで年を重ねれば、天分のある人(「堪能」)なのに熱心に練習しない人より名人になり、世人からも認められ名声を得るという。

ウサギとカメの話みたいな所もあるが、なるほどと思う。シミュレーションを重ねるよりまず実際の場でトレーニングせよということなのであろう。畳の上で泳ぎの練習をしても泳げるようにはならないとも言うし、実際の場が何よりの経験になるということなのだろう。

失敗を恐れず、笑われても平気で押し通して熱心に練習せよというアドバイスは、その通りかもしれない。失敗から学ぶことも多い。だれでも最初は初心者である。レベルが上がるためには一定量の練習と時間がかかる。それを通過しなければブレイクスルーは訪れない。そのために実際の場でトレーニングすることが必要なのだと思う。実際の場の緊張感の中で場数を踏むことによって経験値は上がっていくのだろう。

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2010年7月31日 (土)

古典の底力・その21

牡丹切って気のおとろひし夕哉     蕪村

与謝蕪村のこの句を見るといつも不思議な感じがする。なぜ牡丹を切ったのか。切り花にして活けようとしたのか。切ったのは夕方なのか。それとも日中に切って、そのことで「気のおとろ」えを感じている夕方なのか。そもそも、牡丹を切って何ゆえ「気のおとろひし」なのか。

牡丹の花は大概が大輪である。大きな花びらが幾重にもかさなり、芯の部分は黄色い花粉を大量にふりまいたような派手な美しさを持つ。いかにも豪勢な感じのする花であるのは確かだ。咲く前のつぼみにさえ蟻がよじのぼり、開いた花へはひっきりなしに蜂や花虻が訪れる。

牡丹が夏の季語であることから分かるように、おそらく夏の夕方の情景なのであろう。蕪村は絵もよくした人だから、もしかすると切った牡丹の花は絵の題材だったのかもしれない。

夏の庭に豪華に咲く牡丹を切る。ずしりと重い花が手の中にある。切らなければよかったと心のどこかで思う。おそらく切り花にしてしまえば、数日しかもたないであろう。そうなると分かっていながら、見事に咲いた大輪の牡丹を切ってしまった。そういう微妙な後悔の念がまじる「気のおろろひし」なのかもしれない。

芭蕉の句や一茶の句を何かの折にふと思い出すということはないのだが、蕪村の句は折にふれて浮かんでくる。たとえば中秋の名月の頃でなくても、満月が空高く見える晩は

月天心貧しき町を通りけり

という句を思い出す。これまた実はよく分からない部分が多い句である。「月天心」とあるので、月が南天高くのぼっている情景であろう。その月影で町の家並みが見えるくらいだから、おそらく満月だと思われる。「貧しき町」だとどこから判断したのだろう。何もその根拠は示されない。粗末な屋根からそう思ったのか、それともぼんやり月明かりに浮かび上がる家々のつくりからそのように感じたのか。「町」とあるのだから、長屋、それも裏長屋の続く一画にでもさしかかっていたのかもしれない。

「通りけり」の主語は蕪村自身であろう。一般的な解釈はそうである。もしかすると月も自分も「通りけり」という気持ちもあるのかもしれない。それにしてもなぜ蕪村はそのような時に「貧しき町」を通ったのだろう。情景から受ける静謐な印象からすると、宵の頃ではなく夜更けなのではないかという気がする。人々が寝静まった「貧しき町」を月明かりの中、歩いていく蕪村。俳諧の席の帰りなのであろうか。

鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな

野分の吹き荒れる中、五六騎の武者が鳥羽殿の方へ駆けてゆく。という内容であろうが、実景ではないのだろう。蕪村の生きた時代に鳥羽殿へ向かって騎馬武者が馳せるような情景はあり得ないことで、おそらく絵巻物の中の一場面のように蕪村の頭の中に浮かんだ光景であろう。野分の強い雨風に吹きつけられ、ギシギシと家全体がきしみをあげているような日なのかもしれない。野分の日の不穏な雰囲気が、鳥羽殿へ急ぐ騎馬武者というイメージを生み出したのでもあろうか。

蕪村の句は鮮やかなイメージを読者に残す。それは俳画をよくした蕪村の画家としての天性からくるものかもしれない。鮮やかではあるのだが、細部まで緻密に描き込まれた絵ではなく、省略の多い、余白の多い、それでいていくらでもイメージの膨らむような絵である。読む側は切り取られた一瞬のイメージからその前後の時間を想像し、前景に描かれない物語を読み込む。そのような読み方が蕪村の句には似つかわしいのではないか。

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2010年7月16日 (金)

古典の底力・その20

昨日、大験セミナーの金田先生 から電話があり、慈覚大師円仁の話となった。私も以前から関心があり、少しだけ調べたこともあったのだが、うろ覚えの知識になっていてあまり役に立つようなことは伝えられなかった。その後いくつか確認できたこともあるので、久々の「古典の底力」のネタにしようかと思う。

まず、唐の五台山巡礼を記録した『入唐求法巡礼行記』(平凡社東洋文庫、全二巻)があるのだが、これは未読。いずれ読もうと思ったまま年月を過ごしてしまった。

慈覚大師は最後の遣唐船に乗り込み、短期の留学僧という資格で唐に渡ったため、目的としていた天台山への旅行許可が下りない。これは短期留学僧では日程的に無理と判断されたためのようで、円仁は唐の皇帝に何度も許可を求める。しかし、許可が下りないため円仁は遣唐使の一行から離れ、不法滞在を決意する。ここから紆余曲折があって天台山はあきらめるが、五台山巡礼を果たし9年6カ月の旅を終えて帰国する。

この『入唐求法巡礼行記』は日本人が書いた最初の本格的旅行記のようで、唐の武帝による「会昌の廃仏」の様子を伝える歴史的な資料としても価値があるものなのだそうだ。元駐日大使のエドウィン・ライシャワー氏が英訳して欧米に紹介したことで、広く知られるようになったとも聞く。

それとは別に『今昔物語集』本朝仏法部に慈覚大師の説話が載っている。巻第十一「慈覚大師亘宋伝顕密法帰来語」という話がそれである。史実としては「宋」ではなく「唐」なのだが、直前に載る師の伝教大師最澄の説話より長い話だ。

冒頭は下野国に生まれ、比叡山に上がり得度するまでの話。唐に渡り「顕密の法」を習い極めようと決意し唐に渡ったのが承和二年(835年)となっている。史実では一回目の渡航失敗がこの年なので、それを指しているのであろう。

天台山に登り、五台山に参り…」と続くがこのあたりは史実通りではない。

恵正天子(武帝)と云ふ天皇の代に、此の天皇仏法を亡す宣旨を下して、寺塔を破り壊て正教(仏教の経典)を焼き失ひ、法師を捕て令還俗(げんぞくせし)む。

武帝の「会昌の廃仏」のことに触れる部分である。その際に武帝の命を受けた役人たちが各地の寺を壊し僧侶たちを還俗させ、外国僧は国外追放になった。慈覚大師円仁も役人に発見されて捕まりそうになる。ある寺の堂に入り仏像の間に紛れ、不動明王に助けてくれるよう念じていると、追っ手の役人たちからは新しい不動尊が一体増えたとしか見えなかった。それを役人たちが下ろしてみると元の円仁の姿に戻った。不思議に思った役人たちが円仁に問う。

使、「何(いか)なる人ぞ」と問ふに、「日本の国より法を求めむが為に来れる僧也」と答ふ。使恐れて、令還俗(げんぞくせしむ)る事をば暫く止めて、天皇(武帝)に此の由を奏す。宣旨に云く、「他国の聖也。速に可追棄(おいすつべ)し」と。然れば、使大師を免(ゆるし)つ。

というわけで、慈覚大師は他国へ逃げ出そうとする間、城壁に囲まれたある豪邸に偶然たどり着く。中に招じ入れられ、しばらく滞在するように言われる。あまりに静かなところだが、もしや仏像や教典などがあるのではないかと広い屋敷の敷地を探索していると、後方の建物から人の苦しげな声が聞こえる。はて何だろう。

怪しと思て、臨(のぞい)て見れば、人を縛り上て鉤(つ)り懸て、下に壺を置て、其壺に血を垂れ入る。是を見るに惣(すべ)て不心得ねば、問へども、不答へ。

慈覚大師は別のところへ行き、そこでも青ざめた病人のような人々の姿を目にする。その中の一人を手招きすると、近くにやってきて糸のようにやせ衰えた腕に木片を持ち、地面に文字を書いてこう教えてくれた。

是は纐纈(こうけち)の城也。不知(しらず)して此に来ぬる人をば、先づ物を不云(いは)ぬ薬を令食(くはしめ)て、次に肥ゆる薬を令食む。其後に、高き所に釣り保て、所々を差し切て、血を出して壺に垂れ、其血を以て纐纈を染めて結つつ世を経る所を、…

これに続いて、出された物を食べたふりをし、物が言えなくなった演技をしてうめき声を上げなさいと教えられる。慈覚大師はとんでもないところに来てしまったと思うが、教えられたとおり食べ物を食べたように見せかけ、口がきけなくなった演技をする。その後、比叡山の本尊である薬師如来に助け給えと一心に祈る。すると、どこからともなく一匹の大きな犬が現れ大師の衣を引いて水路に導き、大師は無事脱出するという話である。

なんだか、『西遊記』にでも出てきそうな話だが、「会昌の廃仏」当時の大変さが反映した説話なのであろうと思う。

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2010年6月 7日 (月)

古典の底力・その19

今年は高校教室に古典を受けている生徒がいないため、「古典の底力」シリーズもとんとごぶさたしていた。ひさびさの「古典の底力」である。

旧暦の六月は「水無月(みなづき)」と呼ばれていた。現在の暦では七月中旬あたりなので梅雨が明けた暑いころである。それで「水無月」なのだろうが、この旧六月三十日に行われる神事が「水無月祓へ(みなづきばらへ)」である。

「夏越しの祓へ(なごしのはらへ)」とも呼ばれていて、川原や海辺で茅の輪(ちのわ)を作ってくぐったり、人形(ひとがた)を作って身体をなでたものを流したりして、祓いをするものである。今年の半年間の罪、穢れを祓い清める儀式として「水無月祓へ」は古典に登場してくる。

たとえば「徒然草」の第十九段

六月のころ、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊やり火ふすぶるもあはれなり。六月祓へ(みなづきばらへ)またをかし。

うちの近所にある神社では、毎年、新暦の六月三十日に「夏越しの祓へ」の神事を行っている。平日の夕方、おおむね教室のある時間帯から始まることが多い。そのためこれまで参加したことがないのだが、去年行われた「夏越しの祓へ」の様子をビデオ撮影したもので見る機会があった。

古式通り、「茅の輪」を作って参列した人々が次々とくぐっていく。思っていたよりも参加者が多いのだなあ、と感心してしまった。神楽関係者と氏子総代がほとんどなのかもしれないが、輪をくぐっていく人々の列は長い。

「夏越しの祓へ」が近くなると氏子総代の方が町内を回って、人形(ひとがた)を配り、お祓いを希望する人は玉串料を添えてお願いする。最近はお祓いやお祭りの案内を持っていっても、何のことだと関心を持たれないことも多いし、玄関払いされるケースも他の地区ではあるらしいと総代の方が話していた。

うかつな話だがつい先日まで、この「夏越しの祓へ」が「水無月祓へ」であることに全く気が付かなかった。平安時代のころから行われていた年中行事が、まだ実際に続いているということに想像力が追いつかなかったというわけである。しかし、端午の節句にしても七夕にしても平安時代から続いている年中行事なのだから、それを考えれば他に続いているものがあっても不思議ではない。

昔は梅雨が明けて本格的に暑くなってきた時期に、うまく夏を乗り切っていけるようにという思いも込めて行われたのではないかと思う。ちょうど一年の半分が終わる時期に行われるこの神事で、今年前半のあれこれを「お祓い」してもらうというのもいいかもしれない。

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