架空対談

2009年12月27日 (日)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その16(最終回)

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:いよいよこの架空対談も最終回を迎えることになりました。経清さんにも宗任さんにも大変お世話になりましたが、最後の対談ですのでよろしくお願いします。
経清 :こちらこそ。
宗任 :あのさぁ、ホントにこれでおしまい?なんだか寂しいなあ。次から「宗任氏に学ぶ処世術講座」とか「宗任氏直伝・人はこう動かせ」なんて特集組まない?ギャラは安くてもいいからさ。
学び舎:いやあ、今のところその手の企画は無いものですから…。
宗任 :じゃあ、今日でお別れ?なんか寂しいよなあ。
経清 :みなそれぞれに事情があることだし、「人生即離別」サヨナラだけが人生だ、とも言うではないか、宗任。
宗任 :そりゃ分かるけどさ。分かった、分かったよ。最終回くらいきちんとまとめろってことだろ?
経清 :そういうことだ。

学び舎:では、さっそく本題に入ります。宗任さんたちは頼義将軍の許に帰降してからずいぶん陸奥国で待機させられてますね。
宗任 :そうなんだよ。早いとこ連れていって京見物でもさせてくれりゃあいいものを、いつまでもこっちに居座ってやがった。
学び舎:貞任さんたちの首級が入京してから一年以上経ってやっと上洛ということですが。
経清 :どうも太政官からの命令書である官符が出なかったみたいですね。それでしびれを切らして頼義将軍が報告書を出し、降人を引き連れて上るという話になったようです。
学び舎:京まで連れて行かれた安倍氏の一族はどなただったんですか?
宗任 :ええと。まずおれだろ。それから正任と家任と則任。あ、則任は坊主になってたから良増ってえ名前だったけどな。それから良昭叔父は先に出羽守の源齊頼(ただより)に捕まって、おれたちとは別に京へ送られたなあ。
学び舎:あのぉ、資料によって連れて行かれた顔ぶれが違ってるんですけど…、これはどういうことなんでしょう。
宗任 :おれに聞かれても分かるわけねえじゃねえか。だいたい後から書いた連中がよく分からねえもんだから、適当に書いたんだろ。
経清 :そうかもしれぬが、お前がさっき名前をあげた五人は確実に降人として連れていかれたのではないのか?
宗任 :まあ、それはそうだ。
学び舎:宗任さんとたちと一緒についていった人たちもいたようですが。
宗任 :ああ、身内の中で一緒に行きたいと願い出た連中だ。身の回りの世話もあるし、正任なんか大所帯でゾロゾロと連れていきやがった。

学び舎:それで、京についてから洛中には入れなかったようですね。
宗任 :すぐに頼義のおっさんの任地に引っぱっていかれた。
経清 :頼義殿の任地といえば伊予ではないか?
宗任 :そうそう。瀬戸内海を船で伊予まで渡り、しばらくはそこにいた。ところが、一緒に行った連中の中で陸奥へ帰りたいと言い出す奴が出てきて、それが頼義将軍の耳に入っちまった。それで、今度は大宰府まで移送されることになった。良昭叔父は観世音寺の預かりとなり、おれたちもそれぞれ分散して暮らすことになった。
学び舎:宗任さんは九州に渡ってから出家されたんですか?
宗任 :おれが?坊主に?ホントになるわけねえだろ、馬鹿馬鹿しい。
学び舎:でも、『今昔物語集』に出ている説話では九州にいた「宗任法師」が語ったことになってますよ。
宗任 :あのねえ、説話なんてものはどうにでもなるものなんだから、話半分に聞いとかないとだめだよ。
学び舎:はあ、そういうものでしょうか。
経清 :この男のことだから、たぶん年を取ってから「法師」を自称していたんでしょう。僧侶のまねごとなんかして善男善女からお布施を巻き上げていたんだと思いますよ。
宗任 :そういえば、そんなだったかも。

学び舎:最後にどうしても疑問に思っていることが一つだけありますので、お二人にお聞きしていいでしょうか。
経清 :何でしょう。
宗任 :今どんなお気持ちですか、なんて馬鹿なこと聞くつもりじゃねえだろうな。
学び舎:いえ、違います。お二人の御子孫の話です。
宗任 :子孫?何のこった、そりゃ。
学び舎:実は前九年の役の後に起きた後三年の役を通じて、最後に残ったのは経清さんの息子さんの藤原清衡さんでした。
宗任 :ああ、そうなんだってな。喜ばしい限りじゃねえか。
学び舎:それで、その清衡さんの息子の奥州藤原氏二代目、藤原基衡さんの奥さんというのが宗任さんの娘さんだということなんですが。
宗任 :はあ?何でおれの娘が経清ちゃんの孫と一緒になんなきゃいけないわけ?
経清 :それはこっちの科白だ。
学び舎:ともかく資料ではそうなっているんですが、年齢的にありうる話なのか、ずっと疑問なんですよ。
経清 :おそらく宗任が伊予か九州で設けた娘が何かの事情で陸奥へ送られて養育されたか何かしたのではないですか。
宗任 :たぶんな。おれにもよく分からねえな、その話は。
学び舎:そうですか。もしかしたら基衡さんじゃなくて清衡さんの奥さんのことなのではないかとも思ったのですが、どの資料を見ても基衡さんになっているので気になっていました。
宗任 :でもよ、そうすると経清ちゃんとは孫や娘の代になっても親戚ってえわけかい?
学び舎:そうなりますね。
経清 :つくづく腐れ縁ではないかとあきらめています。
宗任 :お、言ってくれるじゃないの。

学び舎:まあまあ、最後ですから仲良くお願いします。16回という長きに渡り対談においでいただき、本当にありがとうございます。
経清 :こちらこそ。
宗任 :おれ、途中からだから16回は出てないよ。もっと延ばしてくれねえかなあ。
学び舎:申し訳ありませんが、今日が対談の最終回です。
宗任 :そうなのかい?まあ、しょうがねえか。
学び舎:経清さんのご子息の清衡さんが平泉に中尊寺を建立されるときの供養願文に、心動かされる一文がありますので、お終いにそれをご紹介しておきます。
宗任 :ほお。あの小さかった清衡がなあ。何て言ってんだ?
学び舎:二階建ての鐘楼を造り、巨大な鐘を据える目的を述べたところですが、こうです。「一音響いて至るところの艱難(かんなん)を消し、平等に喜びを授ける。かつての戦乱(前九年の役、後三年の役)における死者は官軍・夷狄を問わず、鳥獣魚介の域を越えて精魂皆去り、塵になり果てている。鐘音と共にすべての恨みを消し去り、浄土に皆の霊を導かんと願う。」ここには、清衡さんの深い祈りが込められているように思います。
経清 :恩讐の彼方に、というところですか。あいつも苦労を重ねたのだなと思います、親馬鹿ですが。
宗任 :「鐘音と共にすべての恨みを消し去り、浄土に皆の霊を導かんと願う」にはグッとくるじゃねえか。戦がおわっちまえば、頼義のおっさんもそんなに憎らしいわけじゃなかったしな。ま、お互い行きがかり上やむを得なかったってこった。
学び舎:平泉を世界遺産に推すのなら、この清衡さんの敵味方を越えて平等に供養しようという平和への願いを前面に出したらどうなのかと思います。恒久平和を願う気持ちは普遍性があるという気がするんですけど…。
宗任 :そうかも知れねえな。

学び舎:それでは経清さん、宗任さん、長きに渡り、本当にありがとうございました。
経清 :では、いつかまた。
宗任 :呼んでくれたらギャラが安くてもすぐ来るからさ、またよろしくたのむぜ。
学び舎:また機会がありましたらお願いします。それでは。

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2009年12月23日 (水)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その15

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:前回は厨川柵が陥落して前九年の役が終結するところまで伺いました。今日も経清さんと宗任さんのお二人にお越しいただいております。どうも、よろしくお願いします。
宗任 :あのさあ、厨川柵が陥落したんだからさ、その後の話はどうでもいいんじゃねえの?だれか興味があんの?
経清 :まだ首級が入京する部分は話していないぞ。
宗任 :首級が入京ったって、お前さん覚えてねえだろ。それともなにかい落語の『首提灯』みたいに自分が斬られたことが分からず生きてたのかい?
経清 :馬鹿なことを言うものではない。この身は斬られたとはいえ、魂魄はまだ留まっておったのだ。京に運ばれたときのこともしっかりと覚えている。
宗任 :けっ、執念深い野郎だぜ、まったく。

学び舎:三人の首級が京へ運ばれたのは厨川柵陥落の翌年の旧暦二月十六日ですね。
経清 :そうです。
学び舎:首級を京に運んで行くとき、誰が担いだんですか。
経清 :それぞれの従者だった者たちが担ぎました。
学び舎:一行を率いたのは藤原秀俊あるいは季俊とも言われる人ですね。
宗任 :季俊なら、経清ちゃんの親戚じゃねえか。たしかお前さんの従兄弟にあたる頼俊のせがれだろ?
経清 :その通りだ。
学び舎:じゃあ一族の中で敵味方に分かれていたわけですか。
経清 :やむを得ないことです。私だって乱が勃発した当初は頼義将軍の麾下(きか)に馳せ参じたのですから。
宗任 :因果なもんだよな。でもよ、その後の除目(じもく)であいつ右馬允(うまのじょう)かなんかに出世しやがっただろ?
経清 :そのようだな。
宗任 :なかなか抜け目のねえ奴だな。

学び舎:あのぉ、近江国甲賀郡に来たときに首箱から首級を出して櫛で髪を整えることになったとき、貞任さんの従者だった方が秀俊さんあるいは季俊さんに櫛がないことを告げると「おまえたちの私用の櫛があるであろう。それでくしけずればよいではないか」と言われてますね。
経清 :あの時は正直言って、わが一族の人間ながら何と情けを知らぬ奴だと腹が立ちました。もっとも私は首だけになっていたので何もできませんでしたが。
宗任 :出世することしか頭にねえ野郎なんだろ、たぶん。だから平気でそんなことが言えたんじゃねえのか。
学び舎:その時に貞任さんの従者だった方が、「わが主(あるじ)が生きていらっしゃったときは、そのお姿を高い天のように仰いでおりました。思いもいたしませなんだ、わが垢じみた櫛で、かたじけなくもその御髪をくしけずることになろうとは」と涙を流しながら言ったということですが。
宗任 :グッと泣ける話じゃねえか。兄貴もそこまで慕われて幸せ者だぜ、まったく。
経清 :その者のひと言には見物もみな心を動かされたのか、涙を誘われた者が多かったようです。

学び舎:それで、京に入ってからはどうだったんですか。
経清 :まず、京に入るに先立って粟田山に行き、それから夕方になって洛中を目指し、検非違使(けびいし)の待つ四条京極の間で受け渡しとなりました。それぞれの名前が朱漆で書かれた検非違使の鉾に刺しかえられると、貞任殿、重任殿、私の順に行列をなして四条大路を運ばれました。
宗任 :やたらに見物が多かったっていうじゃねえか。
経清 :それはもう大変でした。牛車の車軸を覆う部分がぶつかり合い、人と人の肩がすれるほどの込みようでした。
学び舎:そのまま四条大路を西の獄門まで進んだわけですね。
経清 :そうなります。そして最後に西の獄門にある楝(おうち)の木にさらされたのです。
宗任 :あまり思い浮かべたくないような眺めだな、そいつは。

学び舎:除目が行われたのは同じ旧暦二月二十五日ですね。
経清 :ええ。頼義将軍は正四位下伊予守となり、長男の義家殿は従五位下出羽守、次男の義綱殿は左衛門尉(さえもんのじょう)。清原武則殿は従五位下鎮守府将軍になりました。
宗任 :武則が鎮守府将軍ってのには驚いたぜ。まさか地元の人間がなるとはなあ。いくら功績があるからたってよ、義家が黙っちゃいねえだろ。
学び舎:義家さんは出羽守になったものの着任したかどうか分からないみたいですね。
宗任 :そりゃ当たり前だろ。出羽守になってやって来てみろ、仙北の清原のとこと陸奥の奥六郡には手も足も出せねえんだぜ。出羽国府の辺りでぶらぶら暇つぶしでもしてるしかすることがなかっただろうからな。
経清 :そうでしょうね。出羽と陸奥の北半分は清原の領分ということになったわけですから。

学び舎:では、いよいよこの架空対談も次回が最終回となります。宗任さんたちが降人となってからどのように過ごされたかお聞きしたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
宗任 :任せときな、たっぷり聞かせてやるからよ。
学び舎:あ、いや、あのぉ、最終回ですのでそれほどたっぷりとはいかないと思いますが…。
宗任 :じゃあ、最終回・その2とか最終回・その3とかやりゃあいいじゃねえか。お前さんよく「その2」とか「その3」とかつけるの好きだろ?
学び舎:え!?よくご存じで。
宗任 :冗談だよ。ちゃんとまとめてやるから心配すんなって。
経清 :大丈夫です、私が一緒に来ますので。
学び舎:よろしくお願いします。

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2009年12月19日 (土)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その14

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:藤原経清氏と安倍宗任氏をお招きしてお話をうかがって参りましたが、早いもので14回目となりました。今日は前回に引き続き、厨川柵決戦の三回目をお届けします。経清さん、宗任さんどうぞよろしくお願いします。
経清 :こちらこそ。
宗任 :今回も早いじゃねえか。おかげで絶好調だぜ。
経清 :お前にも調子が悪いときがあるのか?
宗任 :お、言ってくれるねえ。おれだって丸たん棒じゃあねえや。血も涙もある男ってえことよ。おっと「男」じゃなくて「漢(おとこ)」で頼むぜ、学び舎さんよ。
学び舎:はあ…。
経清 :気にせず話を進めましょう。

学び舎:分かりました。さて厨川柵を落とされた後、嫗戸(うばと)柵に籠もっての戦闘となったわけですが、経清さんが生け捕りになったのはその時ですか。
経清 :そうです。貞任殿と重任殿の軍勢とともに嫗戸柵から出て、国府軍と戦いました。乱軍の中で気がつくと周りを国府軍に取り囲まれ、ふがいなくも捕まってしまいました。
学び舎:頼義将軍は経清さんを語気強く責めていますが、そんなに憎まれていたんですか。
経清 :まあ、頼義将軍にしてみれば、私が「白符」を用いて官物の米を収奪したことが許せなかったんでしょう。
学び舎:「白符」っていうのは国府の朱印が押していない私的徴税書ですね。
経清 :そうです。正式の徴税書類には朱印があるので「赤符」と呼ばれていたのです。黄海の合戦後に我々の支配地域が磐井郡に伸びていくのをどうすることもできなかったという将軍の悔しさが、私に対する憎しみに凝縮されているのだと思います。
宗任 :あのさあ、なまくら刀でのこぎり引きにされてどうでした、なんて間抜けなこと聞くつもりじゃないだろうね。
学び舎:ドキッ。
宗任 :痛いに決まってんだろう、どう考えても。言語に絶する痛みってやつだぜ、おそらく。
経清 :お前にしては難しい言い回しだな。
宗任 :へへ、おれだってちったあ学があるってところを見せておかねえとな。

学び舎:貞任さんはどんなふうに捕らえられたんですか。
宗任 :兄貴はなんてたって体はでかいし、まともに近づいたらブンブン振り回される刀で斬られるだけだから、遠巻きにして長刀で刺しやがったみたいだ。大楯に載せて六人で担ぎ上げて頼義のおっさんの前に連れてったらしい。重任が斬られたのもその前後だと思う。
学び舎:貞任さんの息子さんの話も伝わってますが。
宗任 :ああ、千世坊のことだろ。さすが貞任兄貴の息子だとみんなが誉めてたよ。きれいな顔立ちでな、今ならジャニーズ事務所に入れたかもしれねえな。
経清 :わずか十三歳でしたが、鎧を身にまとい柵の外で勇敢に戦う姿には風格がありました。頼義将軍は哀れんで助けようとされたようですが、清原武則殿が「小さな義を思って大きな害を忘れてはいけません」と聞き入れなかったそうです。
宗任 :そういやあ、お前のとこの清衡はどうした?
経清 :まだ七つでしたから戦には出ませんでした。
宗任 :そうか、そのくらいだったのか。
学び舎:あのぉ。貞任さんは厨川柵で亡くなったとき、お幾つだったんですか?一説では三十四歳とも四十四歳とも言われてますが。
宗任 :それが実はよくわからねえんだよ。だから、おれが幾つだったのかも分からない。
経清 :息子さんの千世童子が十三歳ですから三十四でも四十四でもおかしくはないでしょうけども、貞任殿の年齢については決め手がありません。
宗任 :年齢不詳なのはお前も同じだよな。
経清 :確かに。

学び舎:宗任さんは嫗戸(うばと)柵から負傷して脱出されたようですが、実際はどうだったんですか。
宗任 :負傷ったって、蚊に食われたようなもんさ。逃げのびるには西から北の沼地しか場所がなかった。その頃は乱戦になっていて味方の軍勢がどれくらい残っているのか分からねえし、弟たちもバラバラだった。則任だけは近くに引っぱっていたんだがな。柵を脱出してから行方が分からなくなっちまったのさ。
学び舎:安倍為元さんとか、宗任さんの弟の家任さんは比較的早い時期に投降したみたいですね。
宗任 :そうらしいな。おれたちは出羽へ逃げ込んで再起を図ろうかと本気で考えたんだが、そこに行くまでの食い物も何も手許にありゃしねえ。配下の連中と相談して投降するしかないかということで話がまとまったんだよ。
学び舎:則任さんは出家してから投降されたんですね。
宗任 :前回話したように、則任は自分の妻子が淵に身を投げてからふぬけたようになってしまった。ほんとは寺に籠もったまま菩提を弔う気でいたと思うが、おそらく寺の坊主に投降するように言われたんだろう。
学び舎:正任さんや良昭さんは出羽でどうしてたんでしょう。
経清 :私はすでに頸を斬られてましたのでお目にかかってはいませんが、なんでも良昭殿は出羽国守の源齊頼(ただより)殿に捕らえられたそうです。正任殿も清原頼遠殿の許に隠れて北の俘囚と連絡を取ろうとしていたようですが、結局ご兄弟が投降されたことを耳にして出てきたようです。
宗任 :貞任兄貴の目論んだ通り出羽に残党が結集できれば、もうひと戦できたんだがな。おれたちに運がなかったってことよ。

学び舎:では、前九年の役終結後のお話は次回にお聞きしたいと思います。どうもありがとうございました。

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2009年12月16日 (水)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その13

(「架空対談」の全文はこちら
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学び舎:前回に引き続き厨川柵の決戦について経清さんと宗任さんをお招きしてお話を伺いたいと思います。どうぞ、よろしくお願いします。
経清 :こちらこそ。
宗任 :今日は早いじゃないの。
学び舎:前回までの間隔が長すぎたものですから。
宗任 :ふーん。ま、いいや。で、どこからだっけ?
学び舎:ええと、旧暦九月十六日の国府軍の攻撃からです。
宗任 :んーと、一日中攻められたけどこちらはほとんど被害を受けなかったってえ話からだな。
学び舎:そうです。

宗任 :ところがな、翌日の九月十七日の昼を過ぎてからだよ、動きがあったのは。
経清 :そうでした。源頼義将軍は、村々に入って家を壊してそれを運び込み空堀を埋めるよう士卒に命じました。一方ですすきを刈り取り数カ所に積み上げさせてもいました。
宗任 :空堀を埋め始めたところでまずいなとは思った。だけどよ、柵から出て行くわけにもいかねえしな。
経清 :そうこうしていると、頼義将軍は八幡神に祈ってすすきの山に火をつけました。折からの風にあおられ煙と炎が高く立ち上り、それが風に乗って柵の面にささった矢羽に燃え移りました。柵には一面に矢が刺さっていましたから燃え始めると一気に火の手が上がったのです。
学び舎:火攻めに対する手だてはなかったのですか?
経清 :手桶で水を上からかけたりはしたのですが、火の勢いの方が強くてとても間に合いませんでした。

宗任 :そうなってからは大騒ぎよ。あちこちから悲鳴は上がるわ、淵に身を投げる者や自害する者も出てきた。
学び舎:国府軍が埋めた空堀を越えて柵に押し寄せてきたわけですね。
経清 :そうです。やむなく我々は嫗戸(うばと)柵へ籠もろうと考えたのですが、座して死を待つよりはと決死の覚悟を決めた者たちが国府軍に向かって猛然と攻め込みました。
宗任 :命を無駄にするなと止めたんだがな。奴らは奴らで死に場所を求めようとしていたのさ。
学び舎:実際、この決死隊の攻撃で国府側に死傷者がたくさん出ていますね。
宗任 :死ぬつもりで当たっていたからな。ところが、清原武則の計略にはまってしまった。
学び舎:というと。
経清 :武則殿は軍略に通じた方だから、決死の兵に当たっても勝てないことは分かっていたようです。そこでわざと囲みを解いたのです。それまでは死ぬことしか考えていなかった決死隊の中に、もしかしたら脱出できるかもしれないという甘い考えを持つ者が出始めました。
宗任 :そうなると、もろいもんさ。あっという間に包み込まれて討ち死にというわけだ。少しでも助かりたいという気持ちがアダになったんだ。

学び舎:安倍氏の主だった人々はみな嫗戸柵に籠もったのですか。
宗任 :貞任兄貴と、重任、家任、則任たちはおれたちと一緒だった。正任は、そもそも厨川の決戦の前に叔父貴と出羽へ逃げていたから、その場にいなかったしな。
経清 :前にも話しましたように、正任殿と良昭殿は清原頼遠殿を頼って出羽へ行かれました。
学び舎:もしかして、それは厨川柵陥落後の拠点づくりですか。
経清 :貞任殿が指示していたようです。小松柵を落とされた後、厨川柵まで国府の軍勢が攻め込んできたらどうするかを貞任殿は考えておられました。貞任殿自身は厨川柵と命運をともにするつもりでいたようですが、一族の中で生き残った者が安倍氏に手を貸してくれる勢力を集めて抵抗を続ければいいという考えも一方では持っていました。
宗任 :ある時な、兄貴に言われたんだよ。自分がこの戦の原因を作ってみんなを巻き込んでしまったのだから、生き残るつもりはない。厨川まで攻め込まれたら柵とともに討ち死にする覚悟でいる。だけど、おれや他の弟たちは残る必要はないと言われた。逃げて再起を図れということさ、経清の言う通り。
経清 :貞任殿には一族の方々をこの戦に巻き込んだことに対する自責の念がいつもあったようです。
宗任 :兄貴には気にすんなって言ってたんだけどな。そもそも、おれたちと権守(ごんのかみ)説貞(ときさだ)のせがれの光貞や元貞たちとは反りが合わなかったんだし、いつかぶつかることになるってえのは分かっていたことだ。たまたま頼義のおっさんがいるうちに戦が始まっちまったから、おれたちは国府軍に弓を引いた賊軍ということになってしまったがな。
経清 :そこが貞任殿の頭領たるゆえんでしょう。最後は自分の身一つで全てを受ければいいとお考えのようだった。

学び舎:他の兄弟の間で、意見の違いはなかったのですか。
宗任 :あったよ。重任は貞任兄貴に似たところがあって融通がきかねえ野郎だ。自分も貞任兄貴と最後まで戦うと言って譲らなかった。家任は鳥海弥三郎っていう字(あざな)があることでも分かるだろうが、おれと似ている。口先でぱあぱあ言うが、生き延びてやろうじゃねえかという気持ちも強かった。
経清 :則任殿が一番不憫でした。
宗任 :ああ、則任なあ。そうなんだよな。あいつはどういうわけか兄弟の中で一番線が細かった。おれや家任みたいにヘラヘラしているわけでもないし、かといって貞任兄貴や重任みたいに頑固なわけでもなかった。もっとも、カミさんをもらって間もないし、子どもも生まれたばかりだったからな。分からないわけじゃねえや。
経清 :厨川柵の破られるとき、則任殿の奥方は「自分一人だけ生きることはできないから則任殿の前で死なせてほしい」と乳飲み子を抱きかかえたまま深い淵に身を投げられたと聞きました。
宗任 :その後だよ、則任がふぬけのようになったのは。嫗戸柵が破られるとき必死の思いで抜け出したのに、ふらっと行方をくらましたかと思ったら坊主になりやがった。目が虚ろだったからよ、則任から目を離すなよと配下の者には言い聞かせてあったんだが、いつの間にかいなくなっていた。後で則任の従者に聞いたら、寺に籠もってカミさんや子どもに経を上げていたらしい。出家なんぞしたって浮かばれるわけねえじゃねえか。馬鹿だよ、あいつは。
経清 :お若いだけに則任殿の苦悩も深かったのでしょう。

学び舎:では、厨川柵の決戦の続きは次回にまたお願いしますので、今日はここまででよろしいでしょうか。
宗任 :なるべく間を空けずに呼んでくれよ。ダレちまうからな。
経清 :それではまた、次回に。

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2009年12月13日 (日)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その12

(「架空対談」の全文はこちら
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学び舎:ずいぶんごぶさたしてしまいましたが、久々に経清さんと宗任さんをお迎えして前九年の役を振り返るシリーズをお送りしたいと思います。よろしくお願いします。
宗任 :忘れられちゃったのかと心配してたよ。8月以来4ヶ月ぶりだぜ。お前さんそんなに忙しいのかい?
学び舎:いえ、そんなに忙しいわけでは…。
宗任 :そんなら、もっと早く呼んでくれないと。こっちもさ年末になるといろいろとあるんだから。
学び舎:そうなんですか?
宗任 :おれなんか忘年会の幹事だし、経清ちゃんは年末調整の準備があるしさ。なにかと気ぜわしいじゃねえか。
経清 :宗任の言うことは気にしなくていいですよ。どうせこの男は忘年会をいくつも掛け持ちして忙しいだけですから。
学び舎:はあ。

宗任 :で、今日はいよいよ厨川柵の話かい?
学び舎:そうなります。
経清 :少し気が重いですね。
学び舎:やっぱり。
宗任 :そりゃそうだよ、経清ちゃんは厨川柵で頸を斬られちまったんだもんな。
経清 :それだけではない。安倍氏一族の敗北が決まってしまった決戦を振り返るのが気が重いのだ。
宗任 :じゃあ、いいよ。おれが話してやるよ、今日は。
学び舎:じゃあ、さっそく旧暦九月十五日の話からお聞きしていいですか?
宗任 :いいよ。
学び舎:国府軍が厨川柵に到着したのは酉の刻ということですから日没ごろですか?
宗任 :そうそう、そうだった。厨川柵と嫗戸(うばと)柵を包囲したのはそのあたりだったなあ。
経清 :これまでの戦闘で数を減らしているとはいえ、一万近い軍勢が囲んだのですから壮観でした。
学び舎:厨川柵は厳重な防御の態勢をとっていたようですが。
経清 :そうです。厨川柵から嫗戸柵まで直線距離で1㎞くらいのものでしたから、この二つの柵を合わせて国府軍に臨む態勢をとりました。うまい具合に西から北は沼地でしたし、東から南は北上川と雫石(しずくいし)川で守られていましたから、まずは天然の障壁があったのです。
宗任 :それでな、川と柵の間には空堀を作ってあったのよ。
学び舎:空堀?
宗任 :ああ。底に刀を逆さまに立ててある空堀だから、落ちたらまず助からねえ。運良く上にあがっても今度はまきびしが一面に撒いてある。その上、柵の上から弩(いしゆみ)で遠くから射かけられる。だからおいそれと柵には近づけねえってわけよ。
学び舎:なるほど。
宗任 :それでもかいくぐってきた奴には石をぶつけたり、柵下までたどり着いた奴には煮え湯を頭からかけて歓迎してやったけどな。
学び舎:なんだかアクション・ゲームみたいですね。
宗任 :スーパー貞任ブラザーズってか。(爆笑)
経清 :ともかく、準備だけはしっかりしてありました。

学び舎:国府軍が到着したときに柵の楼の上から挑発していますね。
経清 :あれは、この男の発案です。
宗任 :へっへっへ。どうせ戦を始めるなら景気よく始めてえじゃねえか。まずは軽く大口を叩いてからってことでね、声のでかい野郎に挑発さして、それから下働きのかあちゃん達に上がってもらい頼義将軍を歓迎する歌を歌わせたのさ。
学び舎:どんな歌だったんですか?
宗任 :え?言ってもいいの?お前さんのとこ塾のブログだろ、まずいと思うよ、これは。
学び舎:下ネタ満載の歌詞ってことですか?
経清 :ええ、詳しいことは訊かない方がいいですよ。この男なら平気で言いかねませんから。
宗任 :またそうやっておれを悪者にしようとしやがって。あれだって結構受けたんだからな。味方からは、やんやの拍手喝采だったろうが。
経清 :まあ、その点は認めるよ。
宗任 :だろ、だろ。やっぱりおれの作詞能力がものを言ったというわけだ。
学び舎:え?宗任さんが歌詞をつけたんですか?
宗任 :そうよ。まあ日ごろから、かあちゃん達と無駄口をきいていたのも役に立ったということさ。みんな「やだよ、こんな歌は」とか言いながら、しっかり化粧して楼上に集まってくれたしな。
経清 :そういうところが、この男の不思議なところです。なんだかんだ言っても宗任のために動いてくれる人間が大勢いました。
宗任 :お、珍しいじゃないの。誉めてくれるわけ。
経清 :私だって、お前の力は認めているのだ。すこし調子に乗りすぎるところがあるのが玉に瑕だがな。

学び舎:国府側の本格的な攻撃は翌九月十六日の夜明けごろからですが、一日中攻撃しているのに国府側に数百人の戦死者が出るだけで、安倍氏の方は無傷ですね。
経清 :ええ。国府軍はまとまった人数で柵下に攻め寄ることができませんでしたから、こちらはほとんど被害を出していません。
学び舎:さきほど宗任さんの話の中に弩(いしゆみ)が出てきましたが、そんなものがあったんですね。
宗任 :ああ。まあ、今の人にはボウガンと言ったほうが分かりやすいだろうな。柵に備え付けてあったのはもちろん大型の弩で、数人がかりでなけりゃ引けない代物だったよ。そんなものがなぜ安倍氏のところにあったのかって?胆沢城には蝦夷討伐戦の頃からの名残で、大型の弩がしこたまあったのよ。それをそのまま頂いたというだけのことさ。
学び舎:なるほど、そうですか。
宗任 :ただ、弩は遠くまで飛ばせるものの狙いがな…。とにかく乱発すりゃあどれかは当たるってなもんで、やたら数だけは多く放ったはずさ。
経清 :まとまった人数を近づけないという目的は十分に果たしていましたね。
学び舎:では、厨川柵の決戦は長くなると思いますので、今回はここまでにしたいと思います。
宗任 :すぐまた呼んでくれるんだろうね?
学び舎:ええ、間を置かずにお願いします。お忙しい時期とは思いますが。
経清 :では、また近々。
宗任 :じゃあな。

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2009年8月 3日 (月)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その11

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:少し間隔が開いてしまいましたが、今日も経清さんと宗任さんをお迎えしております。どうぞよろしく。
宗任 :この前が衣川関陥落の話で、今日は何だっけ?
学び舎:ええと、鳥海(とのみ)柵の件です。
宗任 :なんか負け戦の話だからなぁ、盛り上がりに欠けるんだよね。
経清 :何から話せばいいでしょうか。

学び舎:まず国府軍は旧暦九月七日に胆沢郡白鳥村に入り、続いて大麻生野柵と瀬原柵を落とします。九月十一日の夜明けに国府軍は鳥海柵へ押し寄せてきますが、白鳥村から鳥海柵までって距離にして二十㎞あるかどうかの近さです。それなのに四日もかかっているのはなぜなんですか?
経清 :おそらく兵粮の関係だと思います。衣川関を破った後、これから「奥六郡」と呼ばれた安倍の本拠地内部に踏み込んでいくわけですし、十分な兵粮を確保しておかないと北上するのが難しいと考えたのでしょう。
宗任 :まあ、磐井郡までとは話は違うわな、そりゃ。
学び舎:なるほど。すると兵粮を整えるのに数日かかったということですか。
経清 :後方からの輜重隊を待ったのかもしれません。

学び舎:さて鳥海柵ですが…。
宗任 :鳥海柵跡にさ、行ってみた?
学び舎:ええ。何度か行ったことがあります。
宗任 :東北自動車道のすぐ近くだろ?国道4号線の金ヶ崎大橋からの眺めがいいよなぁ。
学び舎:よくご存じで…。
宗任 :あそこはいい柵だったのよ。何といってもこの宗任さんの守る柵だからねぇ、そんじょそこらの柵とはわけが違う。
経清 :深い堀もあり、台地状の土地にそびえる大きな柵は壮観でした。
学び舎:相当大きな柵ですが、この柵が安倍氏の政治・経済・軍事の中心的な柵だったのではないですか。
経清 :そうです。鎮守府の建物はとうに無くなっていましたから、鎮守府が持っていた統治機能は鳥海柵と安倍が肩代わりしたようなものです。
宗任 :親父が安倍富忠の伏兵に深手を負わされ、運び込まれて亡くなったのもここだった。

学び舎:そうでしたね。その鳥海柵に国府軍が攻め込んでみると中はもぬけの殻。これはどういうことだったんですか。
宗任 :わざと明け渡したんだよ、無傷で。
学び舎:え?だって鳥海柵は安倍氏の最重要拠点じゃないんですか?
宗任 :だから明け渡したのよ。お前さんも、のみ込みの悪い野郎だねぇ。いいかい、この柵には有りとあらゆる書類やら台帳やらがあったんだ。一時明け渡しても、いずれ俺たちは取り返すつもりでいたから、そのままにしておいたんだよ。ここを戦場にして小松柵みたいに灰にしてみろ、取り戻してからが大変だろ。だから無傷のまま一旦将軍さんに貸しとこうかって思ったわけ。
経清 :主戦論ももちろんあった。鳥海柵を一戦もせずに明け渡すという法はなかろうという強硬な声も上がったが、私たちが説得したのです。
宗任 :「私たちが」って、ほとんど俺が説得したんじゃねえか。
経清 :お前一人ですべて事を運んだわけじゃないだろ。あちこちに声を掛けたのは私も同じだ。
宗任 :ああ、そうですか。そいつはご苦労様でしたね。へっ、せっかく酒を用意させてひと騒ぎしてから離れようと思ったのによ、国府の連中が迫ってるから早く抜け出せってうるさく言いやがって。
経清 :あ、お前そんなケチなことを根にもってたのか?どうしようもないね、まったく。
宗任 :長年世話になった鳥海柵に別れを告げる前に、みんなでドンチャンやりてえってのは当たり前じゃねえか。それを、やれ急げ、遅れると大変だぞとか触れ回るからみんなあわてたんだ。
経清 :実際すぐそこまで来ていただろうが。
宗任 :だけどよ、何もみすみすうまそうな酒を国府の連中に飲ませることはなかっただろって話だよ。

学び舎:源頼義将軍は酒に毒が仕込んであると思ったようです。
宗任 :せこい爺さんだよ、全く。毒味かなんかさせたんだろ、きっと。
学び舎:いえ、それが雑用係の連中がうまそうな酒に我慢できず、飲んでみたらしいんです。ところが何ともないので、それじゃあみんなで一杯やろうかということになったようですよ。
宗任 :ふーん。ほんとに毒でも仕込んどけばよかったな。
学び舎:その時に頼義将軍が清原武則さんに向かって「長年、鳥海柵の名前は聞いていたがその実際を見ることが出来なかった」と感謝の言葉をかけているんですが、鳥海柵を見たことがないというのは本当だったんですか?
宗任 :たぶん本当だろうな。頼義のおっさんが陸奥守の任期が終わる間際に鎮守府の府務を処理しに来たときも、鳥海柵周辺は見せなかったのよ。
学び舎:そんなことが可能だったんですか。陸奥守で鎮守府将軍が見たいといったら見せないわけにはいかなかったと思うんですが。
宗任 :ところがさ、そんときは親父が接待攻勢に出て将軍にも部下の連中にも十分すぎる鼻薬をかがせてやったから、言い出しにくかったんだろ、きっと。金やら馬やら琥珀やら山と積まれてしまったら無理に見せろとはねえ、言えねえだろ。
学び舎:なるほど。
宗任 :それもあったから、鳥海柵に入ったときはよっぽどうれしかったんじゃないの。

学び舎:その後、勢いがついた国府軍は、正任さんの黒沢尻柵を落とし鶴脛(つるはぎ)柵・比与鳥(ひよどり)柵と立て続けに攻め落としていきますが。
経清 :鳥海柵を手放した時点で決戦の地は厨川柵と決めていました。貞任殿には迎え撃つ支度をお願いして先に入ってもらっていましたし、他の柵を死守するつもりはありませんでした。
宗任 :お前は柵主じゃねえから、あっさり「死守するつもりはありませんでした」なんて涼しい顔で言えるだろうけど、正任にしたってその部下の連中にしたってだれ一人好きこのんで柵を手放した奴はいねえんだぜ。鳥海柵みたいによ、後から取り返すことが決まっていたっていい気持ちがしなかったんだ。まして明け渡した後どうなるか分からない柵を守っていた連中の気持ちになってみろってんだ。
経清 :私だって平気だったわけじゃない。しかし戦況を見渡してみたら、戦力を各柵に分散しておくより厨川柵に集結して守り抜くという策しか思いつかなかったのだ。
宗任 :言いたいことは分かるさ、俺にもな。だけどよ、理屈で分かることと気持ちで分かることとは違うんだよ。頭の中じゃ、仕方がないと思っている。でもな敵が攻め込んできて自分の柵が奪われていくのを黙ってみていろって方が酷じゃねえのか。
経清 :分かるけれども、それを認めるわけにはいかなかった。厨川柵には将兵だけが逃げ込んだわけではないんだ。我々を信じて付き従ってくれた民を守らねばならなかったのだ。
宗任 :知ってるよ。鳥海柵を明け渡す前に策を練ったとき、散々議論し尽くしたことだからな。お前の考えの方が冷静に考えれば正しいんだろ、たぶん。それでも肚の底から納得できねえ奴もいたってことよ。口惜しいじゃねえか。むざむざとよ。
経清 :(学び舎に向かって)今日はここまでにしませんか。
学び舎:そ、そうですね。では、次回からいよいよ厨川柵の攻防に入ります。またよろしくお願いします。
宗任 :厨川柵か、ついに。
経清 :では、また。

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2009年7月21日 (火)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その10

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:「前九年の役」を振り返るこの対談も10回を迎えました。今日も経清さん、宗任さんのお二人をお招きしております。
宗任 :久しぶりなんだけど、今日は出番あるんだよね?
学び舎:ええ。たぶん。
宗任 :せっかく来たのにさ、あんまりしゃべるところがないとつまんないんだよね。
経清 :お前の方で頼み込んで出してもらったんだろ。
宗任 :だけどさぁ、飽きるんだよなぁ…、話が長いと。
学び舎:ま、今日は衣川関の攻防ですし、宗任さんにも語っていただきますので…。
宗任 :じゃ、ひとつパアッといきますか。
経清 :飲み会を始めるんじゃあるまいし、衣川関が陥落する話でパアッとできるか。

学び舎:ええ、お腹立ちはごもっともですが、さっそく本題に移りたいと思います。貞任さんの八千を越える軍勢が六千五百の国府軍に破られて後退し、さらに清原武則さんの夜襲で火をかけられ潰走した、ということでしたよね?
経清 :そうです。
宗任 :それで、しょうがないから衣川関まで逃げ込んだのよ。
学び舎:当時の衣川関は「一人の人間が険しいところで防御すれば一万人の人間といっても進むことが出来ないような関」と言われてますが、これは本当にそうだったんですか?
宗任 :そんなわけあるはずないだろ、どう考えても。ハッタリかましていただけ。まあ、道が狭まった場所であることは確かだけどな。いいかい、一人で防げるんだったら誰も苦労しねえだろ。
経清 :まあ、付近の木を切り倒して道を封鎖してましたし、衣川を渡渉する地点は岸を崩しておきましたから清原勢にはすぐには衣川関を破られないだろうと考えていたのです。

学び舎:ところが破られてしまった。そもそも国府軍はどう攻めてきたのですか?
経清 :まず、清原武則殿の息子である武貞殿が関の正面を攻撃し、武則殿自身は北上川寄りの衣川下流、武則殿の甥の橘頼貞殿が衣川上流を攻めるという布陣でした。
宗任 :あのさぁ、橘頼貞ってさ、どっちだっけ?
経清 :どっちとは?
宗任 :兄貴の方か、それとも弟の方かってことだよ。
経清 :貞頼殿が兄で、頼貞殿が弟だ。
宗任 :まったく、紛らわしい兄弟だぜ。いつも頭がこんがらがるのよ、こいつらの名前を聞くと。
経清 :お前の頭が単純すぎるんじゃないのか。
宗任 :おっ、言ってくれるじゃない。この宗任さんに喧嘩を売ろうってぇの?
学び舎:まあまあ、予定調和的口論はこの辺で納めていただいて、一つ疑問に思っていることを聞いてもいいですか。
経清 :どうぞ。
宗任 :業近柵のことなら、おれだぜ。

学び舎:業近(なりちか)さんのことは後で伺うとして、衣川関って衣川の南岸にあったんですか?
経清 :そうです。
学び舎:とすると、衣川を背に衣川関から上流方面と下流方面に展開して清原勢と対峙したわけですね。
宗任 :だから、川向こうの業近柵から火の手が上がったときに動揺しちまったのさ。
学び舎:川の水かさが、雨の影響か増えてますが。
経清 :それもあってこちらの防衛線の引き方は割合楽だったのです。水量が多くなっているため、川幅があり深い地点は渡河が容易ではないから攻め込まれない。したがって我々安倍側は、渡河点になり得る地点を守りきればよいと考えていました。万一破られても岸は崩してありますので、すぐに渡河は出来ず足止めをくわせることが出来るという判断でした。
宗任 :しゃくにさわるのはあの久清って奴だ。猿のような野郎だったぜ。
経清 :清原武則殿は下流域を攻めていたのですが、配下にいた久清という者に策を授けて向こう岸に渡らせました。久清は川面を覆うように伸びていた木の枝をそれこそ猿のように伝って渡り、体に葛をまとって迷彩し縄を掛けて三十名ほどの兵士を渡らせました。
学び舎:それってなんだかレンジャー部隊の話みたいですね。
経清 :川をすぐに越えられるという点は予想していませんでしたからね、これは衝撃が大きかった。
宗任 :ま、しょうがないわな。今さらああだこうだ言っても、元には戻らねえわけだし。

学び舎:あのぉ、業近(なりちか)さんのこと伺ってもいいですか。
宗任 :いいよ。業近はおれがガキの頃から見守ってくれていた。親父代わりみたいな存在でな。「大藤内」って呼ばれてることからも一目置かれているのが分かるだろ?安倍勢の中じゃ、重鎮の一人だよ。「腹心」とか言われてもいるけれど、おれにとっては「相談役」みたいな感じだった。とにかく、業近に任せておけば何も心配はいらないと思っていた。
経清 :安倍頼時殿が亡くなられてから、藤原業近殿の存在は頼りになる大きな存在でした。もちろん貞任殿には求心力がありましたが、業近殿の長年の経験に裏打ちされた判断は傾聴に値するものでした。
宗任 :まあ、親父と一緒に安倍の勢力を大きくしてきた古参の武将だからな。業近の柵が簡単に焼け落ちるなんて誰も思わなかったのさ。あり得ない、どう考えても。

学び舎:それは宗任さんや経清さんだけでなく、安倍方の将兵に共通の意識だったんでしょうね。それで業近柵が焼失したときにあれだけ動揺が走り、衝撃が大きかったというのも分かるような気がします。ところで、衣川関からどうやって鳥海(とのみ)柵目指して逃げたんですか?
経清 :衣川の渡河点は分かってましたが、増水していることに加えて岸を崩していましたので、遙か上流へ迂回し川幅の狭い地点へ退却しながら衣川を越えました。
学び舎:では、犠牲もそれなりに大きかったんじゃないですか。
経清 :平孝忠殿、金師道(こんのもろみち)殿、安倍時任殿、安倍貞行殿、金依方(こんのよりかた)殿などが衣川関陥落前後からその後の大麻生野(おおあそうの)柵、瀬原(せばら)柵陥落までの合戦の中で亡くなられました。特に衣川関からの退却時も犠牲は大きかったと言えます。
宗任 :全軍の中で殿軍(しんがり)を務める部隊が犠牲を出して、仲間を逃がしてくれたんだ。最後まで踏みとどまってくれた連中をおれは忘れない。
経清 :我々が逃げ延びることが出来たのは、いつもそうした味方の捨て身の戦いがあったからです。
宗任 :一度負け始めると変なもんだよな、負け癖がついちまう。清原の連中が参戦した当初は負ける気がしなかったんだけどな。悪い方に考えちまうからなんだろう、たぶん。
経清 :そういう意味で宗任と私の責任は大きいと言えます。
宗任 :だからさっきも言ったろ。今さらああだこうだ言っても、元には戻らねえんだよ。

学び舎:それでは次回は鳥海柵を無傷のまま明け渡した真相についてお聞きしたいと思いますので、またお二人によろしくお願いします。
経清 :こちらこそ。
宗任 :今日は少ししんみりしちまったな。次はパアッと派手にいきますか。

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2009年6月25日 (木)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その9

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:回を重ねて架空対談も9回目となりました。今日は小松柵焼失後の小休止をはさんで、貞任さんの軍勢が国府軍を襲撃するところからお聞きしたいと思います。経清さん、よろしくお願いします。宗任さんも…、あれっ、宗任さん来てないんですか?
経清 :たぶんトイレだと思います。
学び舎:え!?収録が始まるときになって…。
経清 :今日は最初のうちはあまり話すこともないだろうから途中から顔を出すとか言ってました。
学び舎:あれだけ出たがっていたのにですか?
経清 :だから、あの男の言うことはまともに受け取らない方がいいって忠告したんですよ。ま、黙っていても割り込んでくるでしょうから始めましょう。

学び舎:分かりました。それでは貞任さんが八千余人の軍勢で源頼義将軍の国府軍を襲撃した話からお伺いします。
経清 :前回にも出ましたが、国府軍は後続の輜重隊を襲われて兵粮不足となりました。このため頼義将軍は栗原郡に千人ほど兵を派遣し、輜重隊の安全を確保する一方、三千人を超える兵を磐井郡仲村に遣わして兵粮になる稲や粟を刈り取らせたのです。
学び舎:そうすると、小松柵からほど遠くない野営地にとどまっていた国府軍はどれくらいだったのですか。
経清 :たしか六千五百人ほどでした。
学び舎:そこへ八千人を上回る軍勢で攻め込んだわけですね。
経清 :どう考えてもわれわれの方が有利だった。まず国府側は兵粮が不足している。あちこちに兵力が分散していて、将軍や清原武則殿のいる本隊は営岡(たむろがおか)に勢揃えしたときの半数になっている。こういった情報から勝てると判断したわけです。
学び舎:なるほど。ところがその予想が覆ってしまった。
経清 :そうです。清原武則殿が分析していたように、われわれは引いて構えているべきだった。国府軍は兵粮に不安があるから、安倍側に引かれてしまうと長く攻め続けることが出来ない。それがこの時はこちらからわざわざ攻め込んだわけですから、国府軍の待ち望んでいた決戦へ即座に持ち込めると判断されてしまった。
学び舎:でも、数の上では安倍側が多かったんですよね。
経清 :結果論だが、それもよくなかったのかもしれない。数の上でも圧倒しているのだからという気のゆるみが、全くなかったと言えば嘘になるでしょう。

学び舎:とにかく本隊同士のぶつかり合いですから激戦になったんでしょうね。
経清 :その通りです。正午に始まった戦が日没近くまで続いた。国府軍は孫子の兵法にもある「常山の蛇勢」という布陣、。首をたたけば尾が立ち上がり、尾をたたけば首が持ち上がり、中ほどを攻撃すれば首尾両方とも立ち向かってくるという戦法です。これは国府軍の主体が実質的に清原軍だったから出来たことだと思います。連携が取れないと「常山の蛇勢」という布陣はできませんからね。
学び舎:どこで勝敗が分かれたのですか。
経清 :うーん、これは難しいです。ほぼ互角に近い闘いだったと貞任殿は振り返っておられた。おそらくじりじりと国府軍の勢いに押され始めて、楽勝の予想が外れたという気持ちが将兵の間に広がっていったのだと思います。戦力が拮抗している間はいいんですが、一旦そういう気持ちになると雪崩をうったように崩されていきますから。
学び舎:日没間近の時点でどれくらいの損耗が出ていたんですか。
経清 :射殺された者が百名以上。馬も三百匹以上を奪われてしまった。
学び舎:総崩れになると追撃されて討たれた数も多かったんじゃないですか。
経清 :おっしゃる通りです。日没とともに磐井川の渡河点が分からなくなってしまったり、崖から落ちたりして相当数が命を失っています。

学び舎:夜に入ってからはどうでしたか。
経清 :清原武則殿が八百名ほどを率いて掃討に出て、特に貞任殿の陣に潜入した五十人の一隊が中から火の手をあげた。慌てた安倍側は同士討ちになり、かなりの数を失いました。ついには高梨宿と石坂柵を捨てて衣川関へ逃げ込むところまで追い込まれたのです。
学び舎:あ、宗任さん。
宗任 :そろそろ話が終わる頃じゃないかと思ってさ。それよりここのトイレ、水の出が悪いよ。見てもらった方がいいな、あれは。
学び舎:収録が始まるときに、トイレはないと思うんですが…。
宗任 :だって今日は出番があまりないんだろ?
学び舎:それはそうですけど。
宗任 :ま、次回は衣川関の話だろうから、大いに語りますよ。
経清 :あまり語らなくてもいいんだけど…。
宗任 :なんか言った?
学び舎:では、次回をお楽しみに。

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2009年6月17日 (水)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その8

(「架空対談」の全文はこちら
(前九年の役の概略は「架空対談をお楽しみいただくために」をご覧下さい)

学び舎:みなさんお元気でしょうか。今回も経清さんと宗任さんをお迎えしております。よろしくお願いします。
宗任 :あのさぁ、タイトル変えた方がいいんじゃない。やっぱりさ「安倍宗任氏・藤原経清氏と振り返る…」だろっ?
学び舎:いや、このタイトルでもう8回目ですので、今から変えるわけには…。
宗任 :固いこと言わないでさぁ、ねぇ、ねぇ、今回から「宗任氏・経清氏と振り返る…」にしようよ。何なら経清抜きで、「宗任氏と振り返る…」でもいいよ。
経清 :いい加減にしろ、宗任。小松柵に詳しいから連れてきただけで、この先ずっとレギュラーとは限らないんだぞ。
宗任 :(学び舎に)えっ、そうなの?そりゃ、さびしい話じゃないの。小松柵の話が終わったらお払い箱なんてさ。
学び舎:あのぉ、必要に応じてお呼びしますが…。
宗任 :だよね。これっきりってわけじゃないよな。それ聞いて安心したワ。じゃあ、今日も張り切っていきますか。

学び舎:はあ。では、小松柵焼失後の情勢をお聞きします。
宗任 :いいよ。で、何から?
学び舎:小松柵が焼失した後、戦闘が小休止に入りますね。これはどういうことだったんですか。
宗任 :んーとね、たしか長雨のせいじゃなかったっけ。
経清 :確かに。長雨が数日続くと足許がぬかるむので、人馬とも進退が難しくなりました。ま、ちょうどいい休息になると国府側では考えたようですがね。
学び舎:ところが国府軍の兵粮が不足する。
宗任 :へへへ、俺が後方攪乱の手配をしておいたのよ。
学び舎:どういうことですか。

宗任 :あんだけの軍勢だろっ、後から兵粮を積んだ輜重隊が来るだろうとにらんだわけ。でさぁ、当たっちゃったのよ、その読みが。アハハ。
経清 :この男がうまく磐井以南の諸郡を回って、国府軍の輜重を奪うように焚き付けていたんです。
学び舎:でも、磐井郡はともかくとして、それより南の諸郡て国府の支配地域じゃないんですか。
宗任 :そうよ。そこがおもしろいとこだろ。敵の支配地域を舌先三寸で丸め込んでくる。楽しくてたまりませんよ、これは。
経清 :どうせこの男のことだから、口から出まかせを並べてたぶらかしてきたんでしょうけどね。
宗任 :何?俺の手柄にケチつけようっての?
学び舎:ま、まま、落ち着いてください。ともかく宗任さんのそそのかしがうまくいって国府軍の輜重は本隊に届かないということになったんですね。
宗任 :そういうこと。

学び舎:国府軍はどう対応したんですか?
経清 :ここは私が説明しましょう。まず、国府軍の輜重を奪っていた連中を追補するため、源頼義将軍は栗原郡に千人ほど兵を送ります。それだけでは当面の兵粮が確保できないので、磐井郡の仲村というところに三千人あまりの部隊を派遣し、稲とか粟を刈り取らせています。
学び舎:磐井郡の仲村って、今の花泉駅の西北の辺りですか。表記は「中村」ですが。
宗任 :そう、そう。運動公園かなんかあるだろ、その東隣りの辺りだよ。大験セミナーの金田先生の家からも遠くねえと思うけどな。
び舎:よ、よくご存じで。
宗任 :地獄耳の宗ちゃんて有名だったのよ、知らなかったっけ?
学び舎:そうなんですか。
経清 :あちこちに自分の情報網を持っていたんですよ、この男。人たらしにかけては一番だと認めざるをえません。とにかく味方を作ることに関しては天才的ですね。
宗任 :え、経清ちゃんほめてくれんの?へへ。でもさ身内だから何にも出ないよ、ほめても。
経清 :この後当分出番がないと思うから花を持たせたんだよ。

宗任 :………。(学び舎に)ねえ、ホントに次の回は出番無いの?寂しい話じゃありませんか、やっぱり。ちょいとこの、宗任さんを隅っこに置いておこうとかって気にはならない?
学び舎:鳥海(とのみ)柵の話になるまでは、たぶん出番が無いと思うんですが…。
経清 :ほらほら、司会者を困らせちゃいけないでしょ。
宗任 :あんまり口をはさまないからさぁ。ねぇ、ねぇ、いいよね。
経清 :しつこいよ、宗任。
宗任 :お前さんに聞いてるんじゃなくて、この人に聞いてんだよ。貞任兄貴のことだって俺の方がよく知ってるんだし、衣川関の攻防戦の話になったら業近(なりちか)の柵のことも出てくるだろ?
学び舎:そういえば業近さんて宗任さんの腹心でしたね。
宗任 :そう。そうなのよ。経清に聞くより俺に聞いた方が詳しいよ。
学び舎:そうですねえ。(経清がダメダメと目配せをする)経清さんは不満のようですが、分かりました。ただし、こちらが聞くまでは黙っていることが条件ですよ。
宗任 :いいの?え、ホント。アハ、アハハ、アハ。
経清 :(学び舎に)ダメだよ、この男に甘い顔見せちゃ。収拾がつかなくなりますよ。
学び舎:でも、宗任さんの裏情報も聞いてみたい気がするんです。
宗任 :お、いいこと言うねぇ。一寸の虫にも五分の魂。イワシの頭も信心から。
学び舎:なんか違うと思うんですが…。
宗任 :いいの、いいの、細かいことは気にしなくて。
学び舎:では、ともかく今日はここまでといたします。また次回よろしくお願いします。

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2009年6月12日 (金)

架空対談:藤原経清氏と振り返る「前九年の役」・その7

(「架空対談」の全文はこちら
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学び舎:早いものでこのシリーズも7回目を迎えました。前回に引き続き、経清さんと宗任さんのお二人をゲストにお招きしております。
宗任 :どーもぉ。いやぁ、今日もがんばっちゃうから、よろしくね。
学び舎:はあ。
経清 :あのね、この男のことはあまり考えないほうがいいですよ。あれこれ心配するほうが馬鹿を見るから。
宗任 :言ってくれるじゃない。だけど今日は小松柵攻防戦の話だろ?俺に聞かなくて誰に聞くってぇの?経清ちゃん出てないじゃん、この戦(いくさ)
経清 :それはそうだが。
宗任 :だろっ。じゃあ、話は決まりだな。今日は俺が仕切るからな。
経清 :(しぶしぶ)どうぞ、お好きに。

学び舎:あのぉ、それではさっそくですが、清原勢が攻撃を始めた時の様子から伺ってよろしいですか。
宗任 :いいよぉ。
学び舎:そもそも攻撃開始のきっかけは何だったんですか?
宗任 :んーとね、たしか清原武貞と橘頼貞の二人が偵察に来たのよ。でね、偵察だけのつもりだったんだけど、どっちの手下か知らねぇけど、フライングした野郎がいたわけよ。
学び舎:フライング?
宗任 :そう。小松柵の周りは芦原だったんだけどさ、命令も出てないのにそこに火つけやがった奴がいたのよ。こっちは様子見だろうと思ってたのに、火をつけられちゃあ黙っていられない。生かして帰すなとばかり矢を射かけたわけ。

学び舎:なるほど。ところで小松柵って良昭さんの柵ですよね?
宗任 :そうよ。
学び舎:宗任さんは、なぜ小松柵に居たんですか。偶然ですか?
宗任 :いや、偶然じゃあない。営岡(たむろがおか)に頼義将軍のおっさんと清原勢が勢揃えしたっていう情報が入ったとき、最初に攻め込まれる柵は小松柵だろうって分かっていた。それに叔父貴のとこは居心地がよかったんで、しょっちゅう行ってた。叔父貴は親父と違ってファンキーだったからね。
経清 :この男と良昭殿は似た者同士ですよ。どれだけわれわれが振り回されたか。
宗任 :何言ってやがんだ。お前さんとか貞任兄貴とかみたいな堅物ばかりだったら、とっくに俺たちは国府の連中にやられてただろうよ。良昭叔父や俺ががんばったから、なんとか厨川の決戦まで持ちこたえられたんだぜ。そこんとこ、よろしく。
経清 :よく言うよ。結局、小松柵を焼かれてしまったくせに。
宗任 :あ、そういうこと言うわけ。いくら義弟でも、今のは許せねぇよ。
経清 :許せなかったら、どうする?

学び舎:ちょ、ちょっと待っていただけますか。身内の争いは収録が終わってからにして下さい。それより、小松柵の様子をもう少し詳しくお聞かせ願えますか。
宗任 :(経清をにらみつけながら)小松柵はね、いい柵だったよ。南東が深い淵になっていて北西に岩壁があったからね。攻め入るのは容易じゃなかったはずさ。
学び舎:でも、結局焼かれてしまいますね。どこからほころびが出たのですか。
宗任 :絶対に無理だと思ってた南東の淵と北西の岩壁から攻め込まれた。有り得ないと思ってたんだよ。深江是則(ふかえのこれのり)と大伴員季(おおとものかずすえ)の決死隊が柵内に乱入してきたときは、驚いた。

学び舎:その混乱の中で、宗任さんは柵外に出て八百騎を率い果敢に国府軍を攻撃していますね。
宗任 :フ、フフ。そうなのよ。あん時は気持ちいいくらい押しまくった。
学び舎:柵の中に八百騎もいたんですか?
宗任 :いや、野営させてたのさ。柵内に入れる余裕は無かったし、騎馬の連中は馬といっしょに外にいる方が好きだったしな。
学び舎:圧倒的に優勢に立っていたのに、なぜ形勢が変わったのでしょう。
宗任 :新手の軍勢にやられたのよ。国府の奴らのほうが数は多かったからね。こっちが疲れてきた頃に新手を繰り出してきやがった。
経清 :遊撃隊を三十騎だけにしたのもまずかった。
宗任 :(むっとして)しょうがなかったんだよ。それ以上の人数は割けなかった。それに遊撃隊の三十騎だって精鋭の連中だった。ま、結果的に俺の指揮が悪かったということにはなるがな。
経清 :珍しく、しおらしいな。
宗任 :馬鹿野郎。死なせなくてもいい部下を死なせちまったんだぞ。あいつらに顔向けができると思ってんのか?
学び舎:遊撃隊はほぼ全滅だったんですね?
宗任 :そう。
学び舎:で、小松柵は焼かれてしまう。
宗任 :ああ。遠くから立ち上る火の手と煙を振り返って見たときは、口惜しくってしょうがなかった。

学び舎:では、今回はここまでといたします。次回は小松柵焼失後の戦況について、また宗任さんにお聞きしたいと思います。
宗任 :あ、また出られるわけ?そいつはありがた山のカントンチキだな。
学び舎:何ですか、それ?
宗任 :五代目古今亭志ん生の落語に出てくるフレーズだよ。だめだよ、お前さん。落語ファンなら、すぐ気がつかなきゃ。
経清 :この男の言うことは気にしなくていいですよ。どうせロクなことは言わないんだから。
学び舎:はあ。では、またお二人ともよろしくお願いします。

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