風景

2009年11月15日 (日)

虹の柱

今朝奥州市の教室に向かう途中、しばらくぶりに虹を目にした。ほんの数分しか見られなかったが、なんだか得をした気分になってしまった。何気なく西の空を見やったときに、一部分だけの虹が目に入ってきた。アーチ状になる手前で消えているので、虹の柱がすっと立っているように見えた。

西の空は雨雲なのか暗い色の雲が空に広がっていて、その濃い灰色を背景に虹の柱が鮮やかだった。朝の日差しを東から受けてできたものだろう。途中まで見えていたが、江刺区と水沢区の境あたりまで来ると見えなくなった。

昨日の記事で紹介した吉野弘さんの詩に「虹の足」という詩があったはずだなあ、と思い出す。バスの中から虹を目にして、遠くにある家々が虹の足の中にあることに気がつく。おそらく虹の足の中にいる人々は、自分たちが虹の中にいるとは気がついていないだろうという思いを抱く。この詩では虹は幸せの比喩になっていたように思う。

空気中の水分がプリズムのように作用して虹ができるのだと分かっていても、不思議な光景である。古代中国では虹を龍に結びつけて考えていたという話を何かで読んだように記憶しているのだが、出典が見つからない。記憶違いかもしれない。

「虹の彼方に」という曲については、ずいぶん以前の記事に書いたことがある。この間書いた架空FM放送の記事でもアート・ペッパーの吹く1曲を入れておいた。虹を見ると遠いところにある何かに自然に思いが向いていく。なかなか実際に見ることが少ないだけに余計にそんなふうに感じるのだろうか。

外は風が強い。少し雨も降ってきたようだ。ひと雨ごとに寒さに向かっていく時期になった。

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2009年11月 9日 (月)

たまには遠回り

昨日は記事に書いたように、白ゆりプレテストがあったので昼過ぎまで試験監督をし、解答用紙他を宅配便に頼んで午後の早い時間に仕事が終わった。宅配業者の集配所に直接持っていたため、いつもと違う帰宅ルートとなった。

金ヶ崎町を通る県道へと車を入れ、胆沢城跡のすぐ脇を過ぎ鎮守府八幡神社の大きな立て看板と鳥居を横目に北へ向かった。胆沢川にかかる橋を渡る直前、左斜め前方に視線を向けると国道4号線の向こう側に鳥海柵跡の林が目に入る。鎮守府のあった胆沢城から数分の胆沢川のほとりまで来ると、対岸にそびえ立つ鳥海柵がかつては見えたはずだと思う。

『陸奥話記』の中で、源頼義が清原武則の援軍を受けて鳥海柵に入ることができたとき、「長年、鳥海柵の名は聞いていましたが、その実際を見ることはできませんでした」と武則に向かって告げる場面がある。当時すでに胆沢城の建物は無くなっていたという説を聞いたことがあるのだが、鎮守府の府務を行うためにやって来た陸奥守源頼義がどこにやってきたのだろうと疑問に思ったのは、胆沢城と鳥海柵との近さからだった。建物が無くなっていたとはいえ、鎮守府のあった胆沢城の所在地へ足を運んでいたのであれば、胆沢川の川岸に来るだけで鳥海柵は目に入ったはずなのだが。頼義はここまで来ていなかったのではないのか。それとも武則に感謝の意を込めて、誇張して言っただけなのだろうか。

金ヶ崎本町に入るとすぐの信号を右折して北上川に向かう。金ヶ崎本町から奥州市江刺区へ向かう橋を渡る。前からも後ろからもやってくる車がないので、スピードを落としてゆっくりと景色を眺めながら橋の上を走らせる。北上川がヘアピンのように大きく湾曲した所にかかっている橋なので、いい眺めだ。渡りきったところから数分で、いつもの帰宅路と交差する地点にさしかかる。一旦いつもの帰宅路に入り、新幹線の高架と平行する道をふだんのように走る。日曜日の午後だから、私が帰る平日の深夜とはくらべものにならないくらい交通量がある。

北上市の展勝地が近くなると、紅葉した低い山が連なって目に入ってくる。前から一度走ってみたかった山へ向かう道へ右折する。男山の南隣にある低山だが、上り道だけをいつも見ているだけで実際に入ってみたことがなかった。ところが右折して右カーブの上り道を登り切ると人家が並ぶ集落があり、道はすぐ平坦になり、下りとなり別の道へつながるT字路に出てしまうだけだった。これでは肝心の山の上の方へはいけないではないかと思い、T字路を左折し山の上の方を目指す。道はアップダウンを繰り返すが、知っている道であった。

まっすぐ進むと一遍上人の訪れた「聖塚」、左折すると国見山という十字路に出る。左折して国見山方向へと車を走らせる。そのまま国見山方面に進んだのでは知っている道なので、国見山の東側に連なる山の方へ向かう道を走ってみた。正面の山はみごとに紅葉している。車がほとんど走っていないので、ゆっくりと景色を眺めながら走る。道路案内の表示も少ないのだが、大体こちらの方向だろうという道へ車を入れていく。結局、国見山の一帯をぐるりと迂回する形で、東陵中学校下を通って北上市内へと向かう国道107号線に出た。

見知らぬ道をゆっくりと走りながら、紅葉した低い山並みを眺めるのはいいものだ。午後に入って空が晴れてきたことも幸いした。西へ傾いていく秋の日差しに黄や赤や茶に色を変えた木々の葉が照らし出され、ああ秋が深くなったなあとしみじみ季節の移り変わりを実感した。ほんのちょっと脇道に入って遠回りしただけなのに、見知らぬ土地を走るような小旅行気分を味わうことができた。

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2009年10月12日 (月)

月の光がまぶしい

中秋の名月ももう過ぎたのだと思うが、下弦の月となっているこの数日の月もいい。おとといの夜、教室から帰宅する途中、東の空にかかった雲が妙に明るいので何だろうと思ったら月にかかった雲だった。

運転しながらちらちら見ていると、雲が流れてきれいな下弦の月が姿を現した。東の空に見える下弦の月は、弦が上にきているので上弦の月と勘違いしやすいが、西の空に沈む頃にはきちんと弦が下に来る「下弦」となる。あまりにも明るい月で見入ってしまった。といっても車を運転しながらだから、それほど長い時間ではない。

ときどき雲が月を覆い、すぐに流れ過ぎていく。「月に叢雲」という言い回しが浮かぶが、続きが思い出せない。何だっけ?そうか「月に叢雲花に風」か。好事魔多しとおなじようなことわざなんだろうな。

満月だった月が少しずつ欠けて、いつの間にか微かな爪痕のような三日月になる。人の心も同じように満ち欠けしていると感じる。満月のようにしっかりと充実した心のときもあれば、新月のようにまったく光のない日もある。

月が自ら光っているのではなく、太陽の光を反射しているのは象徴的だ。太陽のように自ら光る恒星を目指す人もいるのだろうが、絶えることなく燃焼し続けるのは誰にでも可能というわけではない。月は燃える太陽の光を反射しているだけであるが、それ故に昼の明るさの中では気づかない闇の深さを教えてくれる。本当は昼の明るさの向こうに果てしない闇が広がっているのに、昼の太陽の明るさはそれを覆い隠してしまう。月の光は日の光と違って控え目だ。しかし、闇の中にぽっかりと浮かぶ月を見ていると、ほっとするのはなぜだろう。昼の太陽が覆ってしまっている闇の深さを背後に示し、その中で光を反射し続けているからだろうか。

心の満ち欠けに、もう少し素直になった方がいいのかもしれないと思う。欠けていく時に無理に満ちようと思わなくてもいいのではないか。いずれ時が過ぎれば、また満ちてくるのだ。満ちて充実したときに精一杯の光を反射すればいいのではないか。

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2009年10月 8日 (木)

秋田へ小旅行

昨日、日帰りで秋田へ行ってきた。義理の叔父の仏送り(ふた七日)の法要があり、湯沢市を訪れた。母親の妹である私の叔母のつれあいということになるが、ひょうきんな人で、人が集まる席となると決まって面白いことを言って笑わせてくれる人だった。

七年前に倒れ、寝たきりとなったままよくならず先月逝ってしまった。葬儀の時は母親が出席し、今回の法要に私が出ることになった。家族と親戚だけのこじんまりとした法要であったが、従妹弟を始めなつかしい顔を目にすることができてよかった。

高速道路を利用すると北上市から湯沢市まで1時間もかからず、ずいぶん時間が短く済むようになったものだと感心した。その一方で、横手ジャンクションから湯沢市まで南下する区間は高速道路の両側にススキが丈高く伸び、走行する車両もまばらで、高速道路を走っているという感じがしなかった。まだ整備途中だという事情もあるのかもしれないが、道路維持管理に回る予算が少なくなったからなのか、なんともお寒い風景であった。

しかし、久々に秋田を訪れてあれこれと気がついたこともあった。北上川に沿って盆地が広がる岩手と同じように、秋田は雄物川流域に横手盆地を始めとした平野部が広がっている。よく似たような、ただし東北地方の背骨とも言える奥羽山脈が東側になるので岩手の風景の鏡像とでもいうべき風景である。

叔母の家ではまだお墓を持っていないので、お寺に遺骨を預かってもらうことになった。自宅で法要を終えるとマイクロバスでお寺へと向かう。西側の低い山地へ入ったところにあるお寺で、曹洞宗になって六百年以上、その前は天台宗の寺として開山した秋田県内でも有数の古寺である。曹洞宗では秋田で一番古いと住職が語っていた。樹齢二百年以上のもみの木が二本、山門のように並んで高々と伸びている。本堂までの石畳は苔むし、古びた風情を強く漂わせている。山の中腹あたりに位置することからも、もともと天台宗の寺であったということがうなずける。周囲の山を見渡しても、あまり高くないが回峰行にふさわしいような峰が続いている。ちょうど北上市の国見山のあたりの風景に似ている。

天台の寺としていつ開山したかは不明である。もし十一世紀よりも前ということになると清原氏との結びつきもあったのではないかと考えたが、それを確認できるようなものは何も残っていないようだった。しかし、東北の天台系の寺院は慈覚大師開基という伝承を持つ寺が多く、同じくらいの時期に天台宗の僧侶が出羽や陸奥へ布教活動をしている。そう考えると、もともと相当古い寺だったのではないかとも思われる。横手から雄勝にかけての地域は清原氏の本拠地である。清原氏との結びつきも可能性としては十分あり得るのではないかという気がした。岩手側、つまり陸奥国でも、安倍氏が厨川柵で滅んだのち出羽国から陸奥国へ移り住んだ清原氏が寺院の庇護者となっていたと見られている。本拠地の出羽でもおそらく清原氏ゆかりの寺院は多いはずである。

お寺からホテルへ移動し、会食となった。叔父の遺影が正面に据えられた。十年ほど前の元気だった頃の姿だ。笑顔がなつかしい、いい写真だった。よく冗談を言って笑わせてくれる陽気な人だった。お酒はほとんど飲まず、甘党だったなという思い出話になる。ギャンブルが好きで、倒れる前まで麻雀と競馬はやめられなかったようだ。叔父も叔母も湯沢市内で理容師をしていた。腕のいい理容師で、叔父をひいきにして通ってくる常連の客も多かったと聞く。きっと叔父の面白い話が聞きたくて通っていた客もあるのだろうと思う。

人が亡くなると、いつも思うことがある。この席にこの人がいたらこんな風だったろうに、なぜ今ここにいないのだろう。不在ゆえに亡くなった人の存在をかえって強く感じる。その欠落感は埋め合わせることができない。埋め合わせることできないまま時だけが過ぎて、いつしか身を切るような欠落感は薄れていく。しかし無くなってしまうわけではない。いつまでも埋まらないままの欠落として残り続ける。親しい人の死は、いつもそのような形で自分の心の中にしかるべき位置をみつけて納まっていく。

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2009年8月 7日 (金)

花火の記憶

昨日は奥州市水沢区の花火大会の日だった。去年ブログに「遠い花火」 という記事を書いてからもう一年になるのか、と教室の窓から花火を眺めながら思っていた。

一関市川崎地区の花火大会が経済情勢の厳しさを受けて今年は取りやめになったと聞く。奥州市水沢区も景気がいいわけではない。どうだろうと思っていたが、例年通り上がっている。去年より心なしか上がる数が多いような気さえする。景気がよくないときだからこそパアッと景気づけに、ということで多くなったのだろうか。少し早めに終わったようではあるが、雨にもあわずまずまずの花火大会だったのではなかろうか。

雲間隠れに満月が見え、その下に大輪の花火が開いていく様子は何とも不思議な眺めだった。晴天の夜、降るような星空に上がる花火を眺めるのもいいものだが、昨夜のような曇天の花火も風情があるものだ。

花火を一番最初に見た記憶はいつだったろう。おそらく小学校の一年生くらいのころではなかったか。秋田の母の実家をお盆で訪れたとき、横手の花火大会を見に行ったのだと思う。大工の棟梁だった母方の祖父が健在のころだ。私は初めて見る花火に興奮していた。大勢の人ごみの中、迷子にならないようしっかり手を握ってもらい、大きな音と空気を伝わる振動とともに大輪の花火が開くのを飽きずに眺めた。

歩き疲れた私を途中から祖父が背負ってくれた。祖父にとって私は初孫だった。もちろん外孫ではあるが、初孫であることで私は母方の祖父母からかわいがられた。祖父は口数の多い人ではなかった。それでも私や妹にはいろいろな話をしてくれた。今思い返すと、とても大事にしてもらったのだとよく分かる。

花火大会が終わって母の実家に戻るときも私は祖父に背負ってもらったままだった。たぶん途中で眠ってしまったのかもしれない。それでも花火の記憶は鮮明だ。夏休みの図画の宿題にも迷わず、横手の花火大会の絵を描いた。

それからいくつもの花火を見てきた。忘れがたい花火の一つは、産婦人科の窓越しに見た花火だ。私の住む北上市は8月に「みちのく芸能まつり」と銘打って毎年、郷土芸能の公演パレードを中心とした夏祭りを行っている。この祭りは三日間続くのだが、最終日に北上川で花火大会が行われる。子どものころから何度も見てきた花火だ。川面には無数の灯籠が流される。以前はお盆の時期に行われる花火大会だった。

その年の夏、身ごもった妻が流産のおそれがあるからと産科に入院することになった。私は以前勤めていた塾の夏期講習を終えて、妻のいる産婦人科へ向かった。ちょうど花火大会の日だった。病室で話をしていると花火の上がる大きな音がし始め、そうだ今日は花火大会だったと思い出した。帰りがけに2階の廊下の窓から、打ち上げられる花火を眺めた。暑い夏だった。窓を振るわせて大きな花火が夜空に開いていく。子どもが無事に生まれてきますように。ぼんやりと花火を眺めながら、それだけを祈っていた。妻は暑い夏の時期を産科で過ごし無事に退院できた。

頭上に大きな音とともに開く花火を見上げるのもいいし、遠くに上がるどこかの花火をぼんやりと眺めるのもいいものだ。生徒がみな帰ってしまった教室からぼんやりと花火を眺めていると、さまざまな思いが去来して感傷的な気分になる。花火を見るといつもどこか少し寂しくなってしまう。ああ、もうじきお盆になる。夏が少しずつ過ぎてゆく。花火が闇の中にすうっと消えていく様を見ながらそんな思いに包まれる。一年が過ぎ、季節は確実に動いている。

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2009年7月26日 (日)

緑の海を渡る風

自宅から教室のある奥州市水沢区へ向かうとき、ほぼ毎日、同じ奥州市の江刺区を抜ける。

道の両側は水田が広がり、出穂期前のこの時期は一面緑の海だ。風が吹くと稲の葉がなびき、その通り道が波頭のようにサアッと動いていく。鮮やかな緑だ。まるで何面ものサッカー場があるようにも見える。

江刺区は米どころとして名高い。大正14年、東京深川精米市場に出品し最高位の格付けを獲得し、昭和5年に岩手県穀物検査所の許可を得て「金札」を付けて出荷したことから「江刺金札米」と呼ばれている。食味ランキング10年連続最高評価の「特A」をうけている江刺金札米の「ひとめぼれ」は、5キロで2,500円ほど。さすがに高級米だ。残念ながら、そのような高級米は食したことがない。

この「金札米」の産地も減反政策の影響を受けているのか、ところどころ豆の植えられたところや水を張っただけのところがあり、緑の海が虫食いになっている。遠くまで一面緑の海だったところが、そのように虫食い状態であるのを目にすると果たしてこれはいいことなのかと思ってしまう。

私は農家ではないので、減反政策の意図を正確につかんでいるわけではないが、唯一高い自給率を維持している米をわざわざ作るなというのはよく分からない。農家を保護するためであるという名目なのかもしれないが、米剰りで米価が安定しないことを心配するのであればそれこそ助成金を出すとか調整のしかたはあるように思うのだが。

それにしても本当にこの緑の海は美しい。稲の葉先の高さがほぼそろっているので、まるで芝生のようだ。草取りの手間をかけ、粟やヒエがまじらないようにしているからこんなふうにそろっているのだろう。

もうじき出穂期を迎える。十分な日照があるといいのだが。実り豊かな黄金色の海に変貌するころ、季節はすっかり秋になる。

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2009年5月 5日 (火)

一番好きな季節

雑木林や近くの里山が淡い緑色に包まれている。一年で一番好きな季節がやってきた。桜の花が散り、さくらまつりの終わる展勝地、国見山にもパステルカラーのような新緑の淡い緑色が広がっている。

この淡い色合いの景色は長く続かない。あっという間に緑が濃くなり、初夏の日差しを照り返して生命力の旺盛さを強く感じさせる風景へと変わってしまう。そうなるまでのごくわずかな期間、いつも幸せな気持ちでこの貴重な景色を眺めている。

桜の花もたしかにきれいだが、桜は山一面にあるわけではない。新緑の淡い緑は山や雑木林の全体をぼんやりとベールに包んだように見せる。その中に遅咲きの山桜の花や八重桜の花がちらほらまじっていたりする風景はこの時期ならではだ。

一年が過ぎたのだなという気持ちを新たにする。もしかすると桜の時期よりもその感じは強いかもしれない。桜の時期はお花見のにぎやかさに紛れてしまうところがある。

どこにでもある、ありふれた風景である。しかし、そのありふれた風景がなぜかいとおしく思える。人生の折り返し点を確実に回ってしまっているからだろうか。杜甫の「城春にして草木深し」の感慨がしみじみと分かる気がする。季節は永久に巡り続ける。毎年毎年新たな生命を芽吹かせ、自然は残り続ける。だからどうだというわけではない。もう若くないのだということを嘆くとかそういうことでもない。ただ、このありふれた風景を飽きることなく眺めていたい。巡ってきた美しい季節の中にいることの幸福感をかみしめていたい。それだけのことかもしれない。

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2009年4月18日 (土)

今日から北上展勝地さくらまつり

だいぶ暖かくなり、今日は天気もよい。風があって少し冷たく感じるけれどまずまずのお花見日和ではないだろうか。

今日から北上展勝地のさくらまつりが始まる。5月5日までの期間が例年さくらまつりの期間とされ、各地から観光客が訪れる。去年のさくらまつりの初日は雨だった(去年の記事)。ちょうど桜の花が見頃を迎えているので、今年はいいスタートとなるのではないかと思う。

昨夜も教室からの帰り道、展勝地付近を通過しながら灯りに照らされた桜の枝々が目に入った。ぼうっと白っぽく闇の中に浮かび上がる花びらを見ると何だか不思議な気分になった。毎年目にしているのだけれど今年の桜は去年の桜とは違うのだろうなと、当たり前のことをあらためて考えた。同じように咲き、同じように散って、同じように葉桜となっていく。 俵万智さんの「さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園」という「サラダ記念日」の歌を思い出す。

ほぼ毎日北上展勝地を通過しながら仕事場である教室に向かい、夜の展勝地を通過しながら自宅に帰る。さすがにさくらまつりの期間の土曜日だけは別ルートで教室に行く。そのようにして毎日通う道の途中にある展勝地は、私にとっては日常のごくありふれた風景の一つでしかない。それでも桜の花が満開になると春が来たんだなあという気持ちが満ちあふれてくる。

展勝地を訪れる方に一箇所だけお薦め地点をあげておきたい。これは昨日偶然気がついた場所なのだが、桜の写真をアップでしかもボリュームたっぷりで撮りたい方にお勧めの地点だと思う。それは北上川にかかる珊瑚橋という橋の展勝地側(市内から見て向こう岸)のY字路交差点の信号付近。

橋の道路脇には片側だけ歩行者通路がある。その通路に覆いかぶさるように桜の枝がかかっている。その向こうは桜並木であり、下は小公園になっていて花見客がシートの上でのんびりしている。この場所ですぐ手の届くところにある、目の前の桜を一眼レフのカメラで熱心に撮影している女性の二人組をお見かけした。なるほど、ここは桜の花を画面一杯にとるにはベストポイントだなあと感心。ズームを使う必要もなく、ほとんど接写に近い状態で撮ることが可能だと思う。

さくらまつりの詳細な情報は北上市のさくらまつりホームページ(こちら)をどうぞ。

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2008年8月12日 (火)

遠い花火

夏期講習がやっと終わりました。

講習の後半日程の途中、8月7日は奥州市水沢区の花火大会がありました。何年か前から水沢競馬場が花火会場となり、教室の窓からも夜空に打ち上げられる花火がよく見えます。花火大会の日はさすがに生徒達も早めに授業を受けて帰ったり、今日は休みますと連絡を寄こすことが多く、もうそういう時期になったんだなあと季節の経過を実感します。

今年も花火の打ち上げが間近の頃には誰も生徒が残っておらず、一人教室で翌日の準備をしておりました。窓の外に花火の鮮やかな光が広がり、やがてドーンという音が夜の空気を振るわせて聞こえてくると、私も思わず仕事を止めて窓を開けました。古いビルの三階に教室があるため、見晴らしは最高です。南西方向に上がる花火がよく見えます。

水沢の花火大会はそれほど数多くの花火が上がるわけではありませんが、かえって打ち上げと打ち上げの間に間があっていいと思います。花火を遠くから見ていると、何故か夏の終わりという感じが強く迫ってきます。実際にはまだまだ暑い日々ですが、花火の一瞬のきらめきと消えてしまった後のはかなさや闇の静けさを味わっているとすでに夏の盛りを過ぎてしまったのだという感傷に襲われます。

こういう、夏が終わりに向かっているという感触は子どもの頃から好きでした。夕暮れ時のヒグラシの声。日が沈んでも明るい西の空。夏休みの終わり。お盆の辺りの季節が微妙に変わりつつある感じ。藤原敏行朝臣の

   秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

という歌に重なる微妙な季節の移ろいは、妙に切ない気持ちにさせてくれます。ぎらぎらとした夏の日々が過ぎ、秋が来る。盛んだったものが衰微へと向かう。その変化に少し寂しさを覚えるのはやはり日本人だからなのでしょうか。季節感のない生活を送りながらも、季節の変わり目にはなんとなくしみじみとしてしまいます。

13日からはお盆休みとなります。教室の再開は16日、土曜日からです。

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2008年7月13日 (日)

盆地人と平野人

先日、大験セミナーの金田校長のご好意に甘えて、旧磐井郡から旧栗原郡にかけて車で案内していただきました。旧磐井郡・旧栗原郡というのは平安時代の呼称です。現在はそれぞれ岩手県一関市・宮城県栗原市となっています。

北上高地の旧磐井郡から仙台平野北部の旧栗原郡に出ると、急に視界が開け遠くまで続く水田地帯が広がっています。その風景を見ながら「こういう風景を見ながら育った人間と山に囲まれ視界を遮られて育った人間って、考え方に違いが出てくるんじゃないですか。」と金田校長のひと言。確かに、毎日眺めている風景ですが、どこまでも広がっていく平野部の風景を日常とする人と、ぐるりと周りを取り囲まれるように壁のような山々を目にする人では空間認識に違いが出てきそうな気がします。

以来、車で北上市から奥州市まで通勤途中に目にしている普段の風景が気になってしょうがなくなりました。北上川に沿った北上盆地は西を奥羽山脈(「西山」と呼ぶ人もいます)、東を北上高地に挟まれていますので、東西を結ぶ道を走っているときは前方の視界もバックミラーに映る後方の視界も山々で限られます。南北の道でも左右からせり出してくる山々が視界を狭めますので、なんとなく遠くにある塀に囲まれているような感じがしてきます。

さて、ここからは思いつきの話になりますので、単なる与太話と思ってあまり真に受けないで下さい。

日本の国土は4分の3が山地で平野部は4分の1しかありません。山がちな国土であるため、川は短くて急流になる、なんていう地理の解答例もあります。盆地に住む人間にとって海は「一山越えた」向こうにあるもので、今ほど交通手段が発達していなかった時代には生涯海を目にすることなく終えてしまった人もいるだろうと思われます。一方、平野に住む人にとっては海は遠くても地続きの果てにある場所ですから、多少時間はかかっても意を決して行かなければたどり着けない場所ではなかったでしょう。

つまり盆地は閉じた空間であり、ものや人が滞留する場であり、その空間を出ることには(あるいは外からその空間に入ることにも)意志的な行動が要求されるところだと思います。これに対し平野は開かれた空間であり、流通性・通過性が場の特性と考えられ、出入りには格別の意志を要さないと言えるのではないでしょうか。当然のことながら、市(いち)ができ人が集まり都市が形成されていくのは後者の平野部でしょう。情報の流通も今と違って人間を介して伝わった時代には平野部の方がはるかに多かったと思われます。

室町時代の後半、戦国時代を全国統一へと進めていく織田信長、豊臣秀吉が二人とも濃尾平野出身者であるのは興味深いところです。信長は近江に安土城を築きますが、琵琶湖を移動空間と考えると、近江は盆地ではなく平野的な空間になります。秀吉は大阪平野に大坂城を築きます。濃尾平野で育った二人は平野部の特徴である、流通性・通過性・開放性を自らの思考の基本に置いていたのではないかと思います。閉じた空間にいなかったから全国を統一するというビジョンが強く持てたのではという気がしてなりません。

山々は前進を阻むものであり、防御的方向へ向かうことはあっても拡張的・侵略的な発想へは進展しにくく、平野部は防御には不利ですが拡張への意志は容易に形成されそうです。徳川家康は関東平野に移ってから天下人のビジョンを初めて持つようになったのではないかと想像します。あれほど信長の背後を突くことは容易だったはずなのに、決して同盟を裏切ることの無かった家康は、関東平野に移り住むまでは天下統一というイメージが具体的な空間の感覚としてつかめなかったのでは。

じゃあ甲府盆地の武田信玄はどうなのか、信玄は盆地育ちだけど天下を目指したじゃないかと言われそうですが、仮に天下人を目指す途中で亡くならなかったとしても、信玄には全国統一ができなかったと思います。山梨の方には申し訳ないですが、自国の盆地空間を越えた全国という空間の広がりが感覚的にイメージできなかったと思うからです。その感覚の違いは、信玄亡き後の武田勝頼と織田信長の長篠の合戦に象徴的に示されているでしょう。単に鉄砲という新しい武器の勝利ではないと思います。

仙台平野にいた伊達政宗や越後平野にいた上杉謙信などはその点からすると、天下人候補になり得たかもしれません。ただどちらも上洛を目指すことを考えると、少し遠い点が残念ですが。

と、大風呂敷を広げましたが、近江商人・伊勢商人・大阪商人がいずれも平野部または平野的空間に生まれてきたということや、蝦夷の中でも仙台平野の蝦夷が、朝廷に従順な熟蝦夷(にぎえみし)に変わっていくのに対し、北上盆地の蝦夷は反抗的な荒蝦夷(あらえみし)が多かったということの背景には、こうした空間に対する感覚の違いがあらわれているように思われてなりません。



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