先日、大験セミナーの金田校長のご好意に甘えて、旧磐井郡から旧栗原郡にかけて車で案内していただきました。旧磐井郡・旧栗原郡というのは平安時代の呼称です。現在はそれぞれ岩手県一関市・宮城県栗原市となっています。
北上高地の旧磐井郡から仙台平野北部の旧栗原郡に出ると、急に視界が開け遠くまで続く水田地帯が広がっています。その風景を見ながら「こういう風景を見ながら育った人間と山に囲まれ視界を遮られて育った人間って、考え方に違いが出てくるんじゃないですか。」と金田校長のひと言。確かに、毎日眺めている風景ですが、どこまでも広がっていく平野部の風景を日常とする人と、ぐるりと周りを取り囲まれるように壁のような山々を目にする人では空間認識に違いが出てきそうな気がします。
以来、車で北上市から奥州市まで通勤途中に目にしている普段の風景が気になってしょうがなくなりました。北上川に沿った北上盆地は西を奥羽山脈(「西山」と呼ぶ人もいます)、東を北上高地に挟まれていますので、東西を結ぶ道を走っているときは前方の視界もバックミラーに映る後方の視界も山々で限られます。南北の道でも左右からせり出してくる山々が視界を狭めますので、なんとなく遠くにある塀に囲まれているような感じがしてきます。
さて、ここからは思いつきの話になりますので、単なる与太話と思ってあまり真に受けないで下さい。
日本の国土は4分の3が山地で平野部は4分の1しかありません。山がちな国土であるため、川は短くて急流になる、なんていう地理の解答例もあります。盆地に住む人間にとって海は「一山越えた」向こうにあるもので、今ほど交通手段が発達していなかった時代には生涯海を目にすることなく終えてしまった人もいるだろうと思われます。一方、平野に住む人にとっては海は遠くても地続きの果てにある場所ですから、多少時間はかかっても意を決して行かなければたどり着けない場所ではなかったでしょう。
つまり盆地は閉じた空間であり、ものや人が滞留する場であり、その空間を出ることには(あるいは外からその空間に入ることにも)意志的な行動が要求されるところだと思います。これに対し平野は開かれた空間であり、流通性・通過性が場の特性と考えられ、出入りには格別の意志を要さないと言えるのではないでしょうか。当然のことながら、市(いち)ができ人が集まり都市が形成されていくのは後者の平野部でしょう。情報の流通も今と違って人間を介して伝わった時代には平野部の方がはるかに多かったと思われます。
室町時代の後半、戦国時代を全国統一へと進めていく織田信長、豊臣秀吉が二人とも濃尾平野出身者であるのは興味深いところです。信長は近江に安土城を築きますが、琵琶湖を移動空間と考えると、近江は盆地ではなく平野的な空間になります。秀吉は大阪平野に大坂城を築きます。濃尾平野で育った二人は平野部の特徴である、流通性・通過性・開放性を自らの思考の基本に置いていたのではないかと思います。閉じた空間にいなかったから全国を統一するというビジョンが強く持てたのではという気がしてなりません。
山々は前進を阻むものであり、防御的方向へ向かうことはあっても拡張的・侵略的な発想へは進展しにくく、平野部は防御には不利ですが拡張への意志は容易に形成されそうです。徳川家康は関東平野に移ってから天下人のビジョンを初めて持つようになったのではないかと想像します。あれほど信長の背後を突くことは容易だったはずなのに、決して同盟を裏切ることの無かった家康は、関東平野に移り住むまでは天下統一というイメージが具体的な空間の感覚としてつかめなかったのでは。
じゃあ甲府盆地の武田信玄はどうなのか、信玄は盆地育ちだけど天下を目指したじゃないかと言われそうですが、仮に天下人を目指す途中で亡くならなかったとしても、信玄には全国統一ができなかったと思います。山梨の方には申し訳ないですが、自国の盆地空間を越えた全国という空間の広がりが感覚的にイメージできなかったと思うからです。その感覚の違いは、信玄亡き後の武田勝頼と織田信長の長篠の合戦に象徴的に示されているでしょう。単に鉄砲という新しい武器の勝利ではないと思います。
仙台平野にいた伊達政宗や越後平野にいた上杉謙信などはその点からすると、天下人候補になり得たかもしれません。ただどちらも上洛を目指すことを考えると、少し遠い点が残念ですが。
と、大風呂敷を広げましたが、近江商人・伊勢商人・大阪商人がいずれも平野部または平野的空間に生まれてきたということや、蝦夷の中でも仙台平野の蝦夷が、朝廷に従順な熟蝦夷(にぎえみし)に変わっていくのに対し、北上盆地の蝦夷は反抗的な荒蝦夷(あらえみし)が多かったということの背景には、こうした空間に対する感覚の違いがあらわれているように思われてなりません。
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