ひとりごと

2018年4月 2日 (月)

「道徳」という教科

今年度から、「道徳」が教科化されるという(平成30年度から小学校で、31年度から中学校で)。政府の資料によると、「教科」というのは従来、  

   ①数値による評価を行う
   ②検定教科書を使用する
   ③中学校以上の担当教員については、教科ごとの免許を設ける

といった原則があったそうだが、それが「道徳」という教科については

   ①数値による評価は行わない。記述式など他の評価の在り方を検討する。
   ②検定教科書を作成するかどうか。しない場合、学習指導要領の指導内容に
    沿った教材を使用する。(各教育委員会で作成されている郷土の教材など)
   ③中学校においても、小学校同様、徳育の担当教員は設けず、学級担任が
    指導することとするかどうか。
   ④中学校については、名称を徳育ではなく、「人間科」にすることなども検討
    する。

このような取り扱いにするのだそうだ。特に①の「数値による評価は行わない。記述式など他の評価の在り方を検討する」というところに関心が集まるのではないかと思うのだが、これは得点で評価するテストではなく、小論文や作文のようなテストで評価するというこのなのだろうか。文部科学省のサイトを見ると、「道徳の評価の基本的な考え方に関するQ&A」という項目があり、そこに回答が載っている。

   ・道徳科の評価は、道徳科の授業で自分のこととして考えている、他人の考え
   などをしっかり受け止めているといった成長の様子を丁寧に見て行う、記述に
   よる「励まし、伸ばす」積極的評価を行います。
   ・このような道徳科の評価は入試にはなじまず、入試で活用したり調査書
   (内申書)に記載したりはしません。

数値評価はせず入試にも活用しない。とりあえずは、なるほどと思う。思った上でなお、「道徳」は教科として指導できるものなのだろうかという疑問が消えない。

このもやもや感は何だろう。小学生はともかく、中学生には材料だけ与えて自分で考えさせそれぞれが自分の道徳観を形作るほうがいいのではないか。「記述による「励まし、伸ばす」積極的評価」すら無くてもいいのではないか。たとえば、指導する教員の道徳観と大きくかけ離れたような道徳観を持つ生徒に対して、「積極的評価」をできるものだろうか。

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2018年3月31日 (土)

節目

年度末である。季節感もなく年がら年中同じような毎日を送っていると、また似たような一日が始まるのだなあ、くらいの気持ちにしかならないが、それでも年度が変わるとそれで一区切りがついたような気もするのだから妙なものだ。

大晦日から元日へと年が変わっていくことにさして大きな変化があるわけではないのだが、それでも新年ということになればやはり何か気持ちが改まる、と吉田兼好は『徒然草』で言っていたような気がするが、それに似ている。

のんべんだらりと金太郎飴みたいな日々であっても、どこかで区切りをつけて仕切直ししないとやりきれない。だから、年末年始や年度が変わるというのは、思っているよりもいい効果を与えているのかもしれない。

つまり、変化ということだ。テレビの番組が変わる。クラス替えが行なわれる。担当者が変わる。部署が移動する。何でもいいのである。目先が変わったくらいで中身が変わるわけではなくても、人は外側にだまされる。それで気分が新たになれば、結構なことではないか。

もっとも、忘れないというしつこさや、いつまでも同じことを続けているという愚直さも一方では必要である。ただ、長い時間変わらずに続くと、たいがいの人は飽きる。飽きると繰り返しにうんざりする。ますますうんざりする。この悪循環を切り抜ける手だては、変化することしかないのだろう。

目先を変えることで、気分を変えることで、それまで続けてきたことも新しい意味や感触をもって見えてくるようになる。それでいいのではないか。十年一日、毎度毎度バカバカしい一席をと続けていくために、節目という隠し味は必要なのだと思う。

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2018年3月15日 (木)

一つずつ

朝、着替えをしながら思う。ものごとは一つずつしか片付かないな。シャツのボタンを止めながら、靴下を履こうと思っても同時にはできない。まず、一つを終わらせてから次に進むしかない。

大概のものごとは、そういうものなのではないか。大震災からまる七年経って、復興が遅々として進んでいないように感じる。しかし、これとて一つずつしか解決していかないのだろう。同時に進めていけることがらにはおのずから限度がある。まずは一つを終わらせる。歯がゆく思っても、そこからしか次のものごとに取り掛かる手だてがない。

あれもこれもと多くを望む。それが人の常かもしれない。あれもやって、これもやってと気持ちばかりが空回りするときもある。けれども、焦ってみてもその時に実際に片付けることができるのは一つなのだ。マルチタスクで処理するコンピュータみたいなわけにはいかない。

地に足をつけるというのは、そういうことだと思う。まだ実現されていない願望の姿を語ることもときには必要だろうが、遠い先ばかりを眺めていても足元がおぼつかなくなるばかりだ。今できること、今続けなければならないこと、今片付けてしまわなければならないこと。それに集中することが遠回りのようで近道になる。

一気に大逆転、みたいな話は気をつけたほうがいい。短期間で成績が確実に上がりますということをうたい文句にしている塾もあるが、宣伝のためのキャッチコピーだと見たほうががっかりせずにすむ。入塾を検討して訪れる保護者には、いつも「成績が上がるのには時間がかかります」と告げている。最低でも三カ月。一カ月目で少し前より分かるようになったかもしれないと感じ、三カ月経過するあたりからはっきり以前より力がついたと実感する。学習に関して言えば、これがまともなところだろう。もちろん個人差はある。もっと短い期間で力がつく場合もある。それは、単に教える技術とか教材とかだけの問題ではない。それまでの本人の蓄積、学習習慣、学習への意欲などなどさまざまな要素がからんでくる。

しかし、三ヶ月間まともな努力を継続すれば、着実に力はつく。成績になって現われるためには、試験の時の解答作成技術も関係してくるから、その部分が弱いと「成績が向上した」という結果にたどりつかない。力はついているのに、表現できないという状態だ。

今年高校受験をした数学が苦手な生徒には、目標点は75点でよいと告げた。他の教科が十分取れているので、一番苦手な数学で八割や九割を目指さなくてもいい。75点満点だと思って、できるだけ確実に得点できる問題に集中するよう指示した。

苦手な教科は、そうやってまず現実的な目標点を達成することが大事ではないか。つまり、「一つずつ」ということである。一つ片づいたらその先に進む。この繰り返しで漸進するのが、誰にでもできる成績向上法だと思う。あるところで一気に理解が進み、飛躍的に分かるということもあるだろう。それとて一つずつ積み重ねていく継続の先にしか見えてこない風景だ。

今日は、午後から公立高校の合格発表。数学が苦手な生徒は、その数学で七割弱を得点していた。まずは想定していた通りの点数だ。いい結果につながるだろうと思っている。

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2018年3月 1日 (木)

雪かき・続き

そういえば思い出した。チンパンジーと人間の脳の働きで決定的に異なるのは、目の前にないものやことがらを思い浮かべることができるかどうかなのだそうだ。

チンパンジーの脳は人間の脳より小さいらしい。その分だけ脳の働きは限定される。森の中で暮らすチンパンジーは、目の前に現れたものが敵なのかどうか瞬時に判断しなければならない。だから、瞬間的に現われる数字を追いかけるゲームをすると、子どものチンパンジーにすら人間はかなわないのだそうだ。

しかし、そのチンパンジーには、目の前にない将来の時間を考えることができない。ある動物園のチンパンジーは半身不随となっても、まったく将来を悲観しないのだという。食事の時間となり、飼育係の人が餌を持ってくると、いつものようにうれしそうに飼育係の方へ近付こうとする。うまく体が動かせないということが分かっても、そのことで落ち込むようなことはないのだそうだ。瞬間的なことがらの把握に脳の機能を割り振っているため、将来の時間を想定することができない。それが人間との大きな違いであるらしい。

シジフォスも瞬間的なことがらしか考えなければ、底なしの徒労感に襲われることはないだろう。けれども、永劫に続く時間の長さに思いが至るから徒労感にとらわれずにはいられない。人間を人間たらしめている脳の機能が、一面では人間に不幸であるという感情をもたらす。将来の時間のことを考えなければ、人は不安になったり悲観したりすることはないのだ。

とすると、幸福に生きるためには瞬間に重点を置き、先のことをあれこれ考えないほうがいいのか。余計なことを考えるヒマがあったら体を動かして働け。そういうことなのだろう。確かに、古代ギリシア人が哲学者でありえたのは、奴隷制に支えられていたからだ。自ら体を動かして働く必要がなく時間が有り余っていれば、余計なことを考える。

考えることは必要なのだが、それによって不安になったり悲観したりするのでは不幸になるだけだ。幸福でいるためには適当な所で思考を停止し、今という瞬間を楽しむことが必要なのかもしれない。つまり、できるだけ動物に近い感覚で、体を動かし、外からの刺激に反応するほうが幸せなのかもしれない。

要はバランスの問題なのだろう。人間は目の前にない時間やものごとを考えずにはいられない。そのような働きをする脳をもちあわせた存在だ。しかし、その働きが強すぎると不安や悲観を生み出す。そこから今という目の前の瞬間に視線を移動させれば、その働きをいくらかでも抑えることができる。一方、本能的な、あるいは動物的な感覚ばかりではそこから何かを創り出していくことはできない。目の前にないものをあれこれと思考する力がそういう場面で求められる。

そのようなことを、ああでもないこうでもないと考えながら雪かきしているといつの間にか作業は終わっている。

さて、雪かきのコツは何だろう。個人的に思い浮かぶものはいくつかある。その1、スノースコップで押す雪の量を欲張らない。欲張っても重くなるだけ。その2、一気呵成に短時間で終わらせようとしない。だらだらと雪かきしたほうが疲れない。その3、完璧を目指さない。いずれまた雪は降り積もる。こんなところだろうか。

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2018年2月28日 (水)

雪かき

明日から3月というのに、昨夜からどか雪となり、ひさびさに雪かきをした。夜帰宅したときに一度払っておいたが、朝起きてみるとその上からまた積もり、あらためて雪かきしなければならなかった。

昨夜は水分の多い重いベタ雪だったが、明け方にかけて冷えたのかサラリとした軽い雪になっている。朝日に照らされてまぶしいものの、軽い雪だから比較的楽な作業だ。いつものように玄関から道路までの緩いスロープを4、5回に分けてまず片付ける。

それから道路の雪かきにとりかかる。市道ではなく私道なので除雪車が入ってこないため、各自で雪を片付けなければならない。ご近所は、積もったまま自然に融けるのにまかせている家が多い。以前は私もそうだった。それが、こまめに雪かきをするようになったのは、デイサービスの車がほぼ毎朝父親を迎えに来るからだ。

今朝のように晴れ渡った空の下で雪かきするのは楽だ。降りしきる雪の中で雪かきをしていると、最初に片付けたところがもう真っ白に積もり、一からやり直しとなる。黙々とスノースコップを押していると、あれこれと妙なことを考える。単調な作業だからなのか、体を動かしながら頭のほうが勝手に働く。

たとえば、大雪の中で雪かきをしていると、ついさっきかいた所がすぐに白くなってゆく。まるでシジフォスの神話みたいだ。麓から山の頂上まで、シジフォスは大きな岩を押し上げる。頂上に押し上げた瞬間に岩は麓まで転がり落ちる。シジフォスはまた最初からやり直す。何度も何度も永劫にそれを繰り返す。意味のない徒労としか思えないが、ではその他の意味のあるように思える行為は本当に意味があるのか。意味があるように思えるのは、限られた時間の中で考えているからではないか。時間の幅を限りなく広げてみれば、意味のあるように見えていることがらだってシジフォスの徒労と変わりがないのではないか。

積もった雪もいずれ融ける。だから、放置しておいても困りはしない。出入りに多少の不便は感じるが、それだけのことだ。北陸や秋田のように軒下まで雪に埋もれてしまうわけではない。それでも、雪が降ると雪かきをせずにはいられない。おそらくそれは、作業の成果がすぐ目に見えるからなのだろう。あとからあとから雪が降り続く日は別として、今日みたいに晴れた日なら、すっかり払われた箇所は広々として見える。また雪が降れば同じことなのだが、それでも除雪しようと思ったときの心像通りに雪を払うことができると、それなりの満足感がある。

シジフォスの神話も別の捉え方ができるのかもしれない。徒労といえば徒労だが、頂上まで押し上げるという目標に一旦はたどり着く。そこから岩が転がり落ちて一からやり直しとなり、それが永劫に続くと思うと底なしの徒労感に襲われる。しかし、「そうか、ではまた頂上まで岩を押し上げるか」と同じ作業を新たな目標として捉え直すことができれば、つまり永劫に続く先の時間を考えなければ、一瞬の達成感は味わえるのではないか。

だが、とここで考えは反転する。永劫に続く時間を考えずにはいられないのが人間ではないか。それゆえ、シジフォスの神話は果てしない徒労感を与えるのだ。

といったような役にも立たないような考えが、あとからあとから降ってくる雪のように無限にループしていく。雪かき作業が楽しいのは、そういう無駄な思考ができる時間だからなのかもしれない。

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2018年2月25日 (日)

属人的

何十年かぶりに中上健次の文章を読んだ。高校生のときに『岬』を読んで衝撃を受け、二十代の前半ころまではいくつかの作品を手に取った。文芸誌や新聞に載る評論やエッセーもときどき目にしていた。読まなくなってからもいつもどこかで気になり続ける作家だった。

図書館でたまたま手にしたエッセー集をパラパラとめくっているうちに、引きこまれてしまった。どこを切り取っても「中上健次」なのだ。忘れていた感触が急速に拡がり、ああそうだ、そうだった、こういう文章を読みたかったんだと思い出した。

同じような感触は、音楽を聴いているときにも味わう。ビル・エバンスの『You must believe in spring』という、1977年に録音されエバンスの死後1980年に発売されたアルバムを聴いていると、ビル・エバンスのピアノの音は、他の誰にも似ていなくてビル・エバンスそのものだと改めて思う。

上手いピアニストはいくらでもいる。聴いていて楽しいピアノ奏者も数多い。けれども、この人の音が聴きたいと思わせるピアニストになると数が絞られる。最初の一音が鳴り出した瞬間に、ああ、この音が聴きたかったとしみじみ思う。

何が凡百の作家やピアニストと彼らを分けるのか。誤解を恐れずに言えば、それはある種の「狂気」なのだと思う。ある線が引かれてあり、凡庸な芸術家は、その直前まで迫ることができてもそこから引き返してしまう。おそらく自己を保つための安全装置が無意識のうちに危険を知らせるからなのだろう。

しかし、中上健次もビル・エバンスも、あるいはコルトレーンでもバド・パウエルでもいい、小説ならドストエフスキーでもジョイスでもいい、突き抜けた才能を示した芸術家は軽々と引かれた線を越えてゆく。越えずにはいられない、というほうが正確かもしれない。表現を求める内側の過剰な欲求に忠実に従えば、知らないうちに線を越えてしまう。

ときにはその過剰さが芸術家自身を浸蝕し、破滅的な結果を導くこともあるだろうが、劇薬のような危険さと隣り合わせでなければ迫ることのできない世界もあるはずだ。中空にピンと張られたロープの上で繰り広げられる綱渡りを目にするかのように、我々はハラハラしたりドキドキしたりしながら、彼らの表現を追いかける。

この世界は、きわめて属人的なものだと思う。その人でなければ表せないもの。他の誰にも代わりができないもの。一瞬でその人だと分かるもの。それこそが、人びとを魅了し続けるのだと思う。

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2017年11月 5日 (日)

少数派のぼやき

総選挙も終わり、低い投票率の中、自公政権の圧勝という予想外なのか想定内なのかよく分からない結果となった。投票せず丸投げした人も含めて、世の中の多数派は「経済が安定していること」を、「民主的な手続き」や「政治家の説明責任」や「官僚の隠蔽体質」の問題よりも重視したということだ。

これは当然といえば当然のことだろう。清廉潔白な政治が行なわれても、食うに困るような毎日では生活できない。経済的なゆとりがあってこその社会的安定。衣食足りて礼節を知ると昔から言うじゃないですか。確かにその通りだ。天変地異が起きても日本で暴動や掠奪が起きないのは、そこそこ経済的なゆとりが社会にあるからだろう。その逆であれば、人びとは生き延びるために奪い合うことをためらわないはずだ。社会が安定的なものであるためにも、経済的なゆとりが不可欠である。それは間違ってはいない。

間違ってはいないが、依って立つ原理・原則に正当性が担保されていなければ、結果的に豊かになったからいいじゃないかで済ませてしまうわけにはいかない。結果ではなく、その過程を問題にするということだ。

「過程に問題があり結果もよくない」
「過程に問題はあったが結果はよい」
「過程に問題はなかったが結果はよくない」
「過程に問題がなく結果もよい」

この4パターンの中で、「結果」を重視すると、「過程に問題はあったが結果はよい」という選択肢はありということになる。一方、「過程」を重んじる場合は、「過程に問題はなかったが結果はよくない」を受け入れる覚悟がなければならないだろう。

第三次産業の従事者が圧倒的に多く、その第三次産業は「結果」重視のビジネスが多数派であると考えれば、世の中の多数派が「過程に問題はあったが結果はよい」という「終わり良ければ全て良し」的な傾向を持つのは自然なことだ。原理・原則や手続きといった「過程」を重視しても「結果」がよくなかったらお終いじゃないか。そういう声が聞こえてきそうだ。

つまりは世の中、声の大きい人間が勝つということで、無理を通せば道理など引っ込んでもかまわないということだ。声の小さい人間や弱い立場にいる人間は、黙って引っ込んでいろ。決まったことに文句をつけるんじゃない。そんなふうに一喝されて終わりだ。だから、同じことなら「勝ち馬」に乗ったほうがいいということになり、身も蓋もなく「結果」の出そうなところに擦り寄っていく。道理や倫理で飯は食えませんからね。確かに。

だが、本当にそれでいいのか。「過程」を問わなくて本当にいいのか。気がついたらブラック企業だらけ、気がついたら偽装だらけ、ウソとごまかしだけが全てです、でいいのか。そのようにして「結果」を追い求めて、人びとは幸せになっているのか。この社会に生きていることの幸福感を多くの人が感じているのか。

もうそろそろ、正しく没落していく方策を求めるべき時なのではないか。すでにGDPは中国に追い抜かれ、人口減少社会に突入し、経済大国という過去の幻影にいつまでもすがりついている時代でもなかろう。どうやったら暴動や掠奪を起こさずに正しく没落していけるか。「過程」を問うという在り方に軸を移していくべきではないか。少しでもましな形で社会を維持していけるのは、そちらの道ではないのかと思う。

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2017年10月17日 (火)

それにつけても…・その3

話を価値の交換に戻す。等価であると見なされれば、本来交換は何を使ってもよかったはずだ。「抜け雀」のところで上げたように、娘を嫁に差し上げるから絵を譲ってくれとか、好きなだけお酒を召し上がって結構ですから絵は私に、ということもありうる。黄鶴楼で酒代に絵を描いていった仙人もいたではないか。けれども、最も普遍的に流通すると思われている価値がお金だから、あれこれ考えなくても済む分だけ簡便である。誰にとっても、分かりやすいという話だ。

だが、だからといって札束で横っ面をひっぱたくようにして交換を迫ることに対しては、嫌な気持ちになる。ひっぱたく方は別かもれないが、ひっぱたかれる方はそう感じる。それは何故か。等価交換だから問題ないじゃないか。問題はない。ないのだが、やはりある。

金払ったんだからいいだろというのは、やはり違うのではないか。たとえば、大道芸に対するお捻りや投げ銭のようなものを思い浮かべると、分かりやすいかもしれない。お捻りや投げ銭は、強要されて出すものではない。強面のお兄さんが強制的に巻き上げる場合もあるかもしれないが、それは例外的な話で、任意のものである。いいものを見せてもらったという謝意をお捻りや投げ銭として表すのだから、そこまでは感心しなかったという人は出さなくてもよいのだ。

つまり気持ちの代替物としてのお金だから、同じお金ではあるが付与されている意味が違う。お金に色がついているわけじゃない、いいお金も悪いお金もおんなじだ。そういう考えもある。気持ちがこもっていようといまいと、お金はお金でしかない。確かにそうかもしれない。だが、気持ちを表すものは、もともとは他のものでもよかったはずである。食事を出す、宿を提供する、洗い物を引き受ける。そういうことでも交換できたのだ。しかし、それではいつでもどこでも交換するというわけにはいかなくなる。だから簡便な方法としてお金がそれらを代替することになったのだ。

交換というやりとりに気持ちという要素が皆無であれば、金払ったんだからという考え方も分からなくはない。大量に生産された製品を買うときに、そこへ気持ちという要素は入りにくい。売る側が気持ちという物語を付加したり、買う側が自分の思いを付加するという場合はあるだろうが、消費物を買うときにその要素は限りなくゼロに近い。だから、スーパーのレジで合計金額を支払うときは、何も感じることなく言われたお金を払うのであり、それに対してレジ係の方でもマニュアル通りにお買い上げありがとうございますと返してくるのである。

マス化されるほど交換の場に気持ちは不要となってくる。これが一点ものに近くなってくると、にわかに気持ちの要素が前面に出てくる。肉筆のたった一枚しかない絵を売る側も、それを買う側も、本来的にはお捻りや投げ銭感覚でやりとりしていたのではないか。だから、絵の雀と鳥屋の鳥を同じ次元で扱う宿屋の主は笑われるのだ。

その一点ものの絵が、描いた当人も買い入れた当人もいなくなると、気持ちの要素は薄くなる。当事者がいないのだから当然とえいえば当然かもしれない。そうなると、その絵は描かれた当初の事情から切り離され、絵画市場で取引される「商品」という性質が強くなる。値上がりが見込まれれば投機の対象にもなる。

ここで逆転現象が起きるのではないか。その絵に内在する価値を認めるからお金で交換したいということから、お金で評価されないものは価値がないということへの逆転。その絵に価値があるのなら値がつくはずである。誰も買いたいと思わないようなものであれば、つまりお金を払ってもいいと思われるものでなければ、その絵には価値がない。理路としてはそうなのだろう。

だが、そう割り切ってしまっていいのだろうか。芸術作品の価値は、ある時代だけで確定されるものではない。伊藤若冲は自分の絵は数百年後になれば理解されると思っていたらしいが、その通りになっているではないか。同時代やそれに続く数世紀に評価されなくとも、はるか後世に「発見」されることだってある。

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2017年10月16日 (月)

それにつけても…・その2

話を元に戻せば、すべての価値をお金という価値に一元化するという拝金主義に違和感を覚えるのは、金銭化できないものだってあるのではないかとどこかで感じるからなのだが、たとえば同じ落語の「井戸の茶碗」という噺などが浮かんでくる。

「井戸の茶碗」では、易で暮らしを立てている長屋住まいの浪人が、くず屋に先祖伝来の小さな仏像を売り払い、中から五十両の金がでてきて騒動になる。仏像を購入して五十両を見つけた細川藩士は、おれは仏像を買ったのであって五十両を買ったのではないからこの金は元の持ち主に返してこいと、くず屋に命じる。浪人は浪人で、手放した以上仏像から何が出てこようと自分には関わりがないと、これまた取り付くしまもない。その後、あれこれと展開はあるが、最後は浪人が自分の娘をその細川藩士の嫁に出すということで落着する。

この噺は徹底的に金銭的な価値で測れないものがあるのだというテーマを反復する。

浪人も、細川藩士も、意地になって金を受け取らない。こまったくず屋が浪人の住む長屋の大家に相談し、仲裁に入ってもらう。くず屋に十両、残りを二十両ずつ折半ということで落ち着く。落ち着きはするのだが、浪人はそれでは相済まぬと言う。では何か気持ちを差し上げてはとくず屋に勧められ、これはワシがふだん使っておる茶碗だがこれしか差し上げるものがないと、浪人が頼む。これが実は「井戸の茶碗」という天下の名器。細川の殿様が三百両で買い上げ、今度は百五十両ずつ折半することになる。百五十両を届けたくず屋に浪人が、その細川藩士は妻帯しているかと尋ねる。独り者だと判ると、では娘を嫁に、という展開だ。

出だしが五十両受け取りの拒否である。浪人も細川藩士も筋の通らぬ金は受け取れないと、頑なに拒む。次が、五十両折半後の、それではワシの気が済まぬという浪人の茶碗進上だ。お金の謝礼にお金では気持ちが表せない。だから、なにかモノを差し上げたい。そういうことだろう。さらに三百両折半の後は、自分の娘を嫁に出すという最上級の謝意である。

金銭のカウンターとして提出されるものが、茶碗であったり娘であったり、いずれも金銭的価値に換算されないものばかりだ。茶碗は細川の殿様が三百両で買い上げたし、娘だって吉原に連れていけば五十両にはなるじゃないか。確かにそうである。が、それは相手が拝金主義者の場合ならそう受け止めるだろうという話だ。それを金銭に換算できない気持ちとして受けてくれるであろうと思ったから浪人はくず屋に託したのであり、細川藩士もまたそのように受け止めたのである。

この噺がうまくできているのは、金銭の折半に対する謝意を何で表すかという構成になっているからだ。交換するものとして金銭が出てこられない場面で、何を提出するか。そこに焦点が当たっている。「お金では買えないものがある、ってえのは貧乏人のやせ我慢だ」と喝破したのは談志だったか。やせ我慢にはやせ我慢の美学がある。武士は食わねど高楊枝。この噺が、浪人者と細川藩士というお侍さん同士でなければならない所以でもある。

拝金主義への違和感は、金でしか交換できないという思想に対して生じるのではないか。人の気持ちだって金で買える。まあ、そうかもしれない。だが、いくら金を積まれてもいやなものはいやだ、そう断る人間だっている。いまどきそんな人間はいないって?それほど世の中捨てたものではない。絶滅危惧種のような存在かもしれないが、金がすべてとは限らないと考えている人間はいるはずだ。落語がいまだに滅びることなく受容されていることが、その何よりの証だ。

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2017年10月15日 (日)

それにつけても…・その1

すべてをお金という価値に一元化する拝金主義に違和感をおぼえるのはなぜだろう。

人であれ、物であれ、お金で測れない部分があるのではないか。おそらくそのように感じるときがあるから、あらゆるものを金銭というひとつの物差しで測ってしまうことに、何か違うのではないかと心のどこかがつぶやく。

「抜け雀」という落語がある。勘当された若い絵師が一文無しで泊まり、宿賃の代わりに白い衝立へ雀の絵を描く。これを形(かた)において後で払いに来るからそれまで取っておけと、主に言いつける。このときのやり取りがおかしい。

絵師は衝立に雀を五羽描く。宿の主は、最初それが何の絵なのか分からない。絵師に雀だと言われてなるほど雀ですなと納得する。絵師は「一羽一両。五羽で五両だ。」と告げる。それを聞いて主は「そりゃあ高いや。高い、高すぎる。おもての鳥屋に行ってごらんなさい。こんな大きな鳥が二十文で買えますよ。」と手を広げる。

この科白は、同じ次元で比較できないはずの絵と鳥料理を、金額で比べるおかしさなのだが、つまりは芸術作品の価値と消費物の価値を同じ尺度で比べるおかしさであるのだが、宿の主をひとしきり笑った後でふと考えこむ。

では、金銭以外の価値で芸術を測ることができるものはあるのか。「抜け雀」の噺にしても、小田原の大久保加賀守が絵と衝立を千両で買いたいと評価したことで絵師の評価が上がる。これが、誰も買いたいという人間が現われなかったら、いくら素晴らしい作品であろうと評価の低いままで終わってしまう。

だが、ここでもう一度考えは反転する。この絵を大久保加賀守が千両出しても買いたいと思ったのはなぜか。それは、朝日があたると衝立から雀が抜け出るという絵だからだ。つまり、絵そのものに価値があり、それを金銭という尺度で交換してもらうためには、千両出してもいい。そのように評価されたからではないのか。

ということは、交換の尺度は何も金銭に限らないのではないか。たとえば、自分の娘を嫁にやるから絵を譲ってくれ、という展開もありうる。この先好きなだけお酒を差し上げますので、この絵は私のものに、ということだって可能だ。

つまり、もともと交換したいという気持ちを抱かせる価値が作品に内在しており、それを何と交換するのかという話だったものが、分かりやすいから金銭という尺度で交換してもらおうということになったのではないか。分かりやすい、というのは共通した尺度として流通しやすいという意味である。

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