古典

2020年8月 9日 (日)

「ク活用」と「シク活用」・続き

さて、ここからは個人的な思いつきなので、あまり信用せず話半分と思ってもらえれば幸いである。

実は松尾聡氏の『古文解釈のための国文法入門』で「発生・発達もシク活用形容詞はク活用形容詞に遅れると考えられている」という箇所を読んだとき、逆ではないのかと疑問に思ったのだ。

形容詞には「語幹の用法」というものがある。いくつかあるが、「体言+を+形容詞語幹+み」で原因・理由を示し「~が~なので」となるものがよく知られているのではないだろうか。たとえば、落語の「崇徳院」にも出てくる崇徳院の歌の初句「瀬をはやみ」(川瀬の流れが速いので)などである。

この形容詞の語幹が、ク活用では「し」をつけない形だが、シク活用では「し」のついた終止形を語幹のように考える。「はやし」はク活用だから「はや」が語幹だが、「なつかし」はシク活用なので「なつかし」を語幹のように扱う。だから「瀬をはやみ」の用法の形が「野をなつかしみ」といった形になる。

この語幹の形の違いから、ク活用は「語幹+し」、シク活用は「~し」までがひとまとまりなのではないかと考えた。そして古典文法の形容詞は「し」で言い切りの語であることを合わせて考えると、「~し」までひとかたまりのシク活用の方が本来的な形で、「語幹+し」となるク活用は後から生まれた形なのではないかと思った。

現代語で考えてみるとはっきりするのだが、古典文法のク活用形容詞は、語幹だけで意味が伝わるのではないか。たとえば、あっという間に解き終わった人を見て「速!」とか、金額を聞いて「高!」とか「安!」と言ったり、長々待たされたときに「遅!」と言ったりできるのではないか。これらはいずれも古典ではク活用の形容詞である。

はなはだ口語表現的ではあるが、これがシク活用になると、悲しいときに「悲!」とか、涼しいときに「涼!」とは言わないだろう。ク活用の「暑し」なら「暑!」と言えるのに、である。

と、ここまで書いてみると「発生・発達もシク活用形容詞はク活用形容詞に遅れると考えられている」というのは、その通りなのかもしれないと思えてきた。

つまり、ク活用の形容詞は、もともと語幹だけで物事の「状態」を形容できる意味を持っていたものが、それに「し」という語尾を追加することで、形容する働きを明示化したのだと考えれば、確かにク活用の方が本源的な形なのかもしれない。

国語学専攻の方で、ご存知の方がいらっしゃれば、詳しくご教授をお願いします。

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2020年8月 8日 (土)

「ク活用」と「シク活用」

先日、「UKY」さんという方から次のようなコメントをいただいた。

  「よし」はク活用で、「あし」はシク活用
  逆に、「よろし」はシク活用で、「わろし」はク活用
  なぜだろう。単に語感で決まっているのだろうか
  ご存知でしたらご教示ください

形容詞のク活用とシク活用の見分け方については、たとえば「て」をつけて「クて」となるか「シクて」となるか、あるいは「なる」をつけて「クなる」、「シクなる」で区別せよ、というようなことしか話していなかったので、「UKY」さんの根源的な疑問にはハッと胸を突かれた。つまり、これまでク活用とシク活用の違いが何によるものなのか、私も考えたことがなかった。

そこで、古い古典文法の解説書や教科書をひっくり返してみると、ちゃんと出ていた。

まず、松尾聡 著『古文解釈のための国文法入門』(研究社、1973)という半世紀ほど前の本では

 ク活用形容詞は情態的(注、状態的の意味か)な属性概念をあらわすものが多く、シク活用形容詞は情意的な意味をもつものが多いといわれる。発生・発達もシク活用形容詞はク活用形容詞に遅れると考えられている。(p294)

次に、江口正弘・山岡萬謙 編『<改訂版>新読解古典文法』(尚文出版、1984)には

 ク活用の形容詞は、「荒し・長し・清し」のように事物の状態を示すものが多く、シク活用は、「悲し・恋し・苦し」のように感情を示す語が多い。(p30)

と出ている。要するに「ク活用」の形容詞は「状態」、「シク活用」の形容詞は「気持ち」を示すものが多い、ということのようだ。

では「UKY」さんが疑問に思った四語についてはどうなるのか。『岩波古語辞典』に載るそれぞれの語義を引用すると次のようにまとめられる。

 よし(ク活用)吉凶、正邪、善悪、美醜、優劣などについて、一般的に好感、満足を得る状態である意 …(状態)

 よろし(シク活用)…その方へなびき寄り近づきたい気持ちがする意 …(気持ち)

 わろし(ク活用)…他と比較して、あるいは基準に当てて、質が落ちる、価値が劣る(状態である)意 …(状態)

 あし(シク活用)…ひどく不快である、嫌悪されるという感覚、情意を表現するのが本来の意味 …(気持ち)

つまり「よし」「わろし」は「状態」を示すのでク活用、「よろし」「あし」は「気持ち」を示すのでシク活用になるようだ。「語感で決まっているのだろうか」という推測は、広い意味では当たっているのではないかと思う。

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2019年5月21日 (火)

「私」をつくるもの

先日、このブログに書きためていた「古典の底力」を抜き出して小冊子にまとめてみた。『伊勢物語』をとりあげた「その1」が「です・ます」調で書かれていたので、それ以降の分も敬体にそろえ目次もつけた。全部で二十七回。「その1」は2008/1/25の日付で、「その27」は2013/9/25となっている。

その後六年近く「古典の底力」の新しい記事を書いていない。ほぼネタ切れというのが真相で、何か材料になるものがたまってこないと更新できそうにない。

目次だけ載せてみると次のようになる

その1・伊勢物語① その2・伊勢物語② その3・源氏物語 その4・徒然草① その5・百人一首 その6・藤井貞和『古典の読み方』・今様 その7・堤中納言物語 その8・平家物語 その9・今昔物語集① その10・竹取物語 その11・更級日記 その12・七夕(枕草子・伊勢物語3) その13・大鏡① その14・大鏡② その15・大鏡③ その16・老子① その17・万葉集(山上憶良・大伴家持) その18・世間胸算用 その19・徒然草② その20・今昔物語集② その21・与謝蕪村 その22・徒然草③ その23・古今和歌集①(旋頭歌) その24・古今和歌集②(旋頭歌) その25・徒然草④ その26・老子② その27・新古今和歌集(三夕の歌)

目次だけ眺めてみたら、思っていたより偏りがないので、意外な感じがした。それでも、その中身は私が好きなものしか取り上げていないので、やはり相当に偏っている。たとえば、『万葉集』で山上憶良と大伴家持しか触れず、柿本人麻呂をまったく取り上げないのは、ディズニーランドに行って、ミッキーマウスに会わないようなもので間の抜けた話だが、 ピンとこないものはしょうがない。

結局、「私」という人間が出来上がる過程で触れてきたものや、アンテナに引っかかったものしか残らなかったということなのだろう。そうしてみると、これは古典に限った話ではなく、他のあらゆるものにも当てはまることなのだろうと思われてくる。映画にしても音楽にしても、好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いだ。そうやってえり好みしながら生きてきた結果が今現在の「私」なのだ。つまり、他の人と異なる「私」というのは、私が選択してきたものの総体に支えられていて、それこそが他と交換のできない唯一性を担保しているのだ。

あなたの代わりはいくらでもいる、という入れ替え可能性に日々さらされると、つい自分が何の価値もない存在のように感じることがある。けれども、他と交換できない唯一性を自分が抱え持っていることに気づけば、少しはその感じも和らぐのではないか。自分の好きなものや気になるものをときどき見直してみるのは、精神衛生上悪くないことだと思う。

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2019年5月11日 (土)

説話はおもしろい

高校に入って古文の教科書で最初に習うのは、「児のそら寝」あたりだろうか。『宇治拾遺物語』に載る話で、ご存知の方も多いのでは。

今年教室に来ている高校一年生の古文教科書には、この「児のそら寝」ともう一つ「絵仏師良秀」も載っている。これも同じく『宇治拾遺物語』に収録されている。火事になって自宅を焼失し、妻子も焼け死んでしまうのだが、不動明王の火炎はこのように描けばよいのだと得心して喜ぶ絵仏師良秀の姿が印象的な話だ。確か芥川龍之介の「地獄変」という短編は、この話が元だったのではないかと記憶している。あるいは『今昔物語集』に載る話だったろうか。

この「絵仏師良秀」の現代語訳をさがしていたら、作家の町田康が訳したものをみつけた。『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集08』という河出書房新社から出ている一冊に、伊藤比呂美訳の『日本霊異記』『発心集』、福永武彦訳の『今昔物語』とともに、町田康訳の『宇治拾遺物語』が入っている。

どの説話もいくつかの章段を抜粋した訳ではあるが、とてもおもしろかった。特に町田康訳の『宇治拾遺物語』は、今の高校生が読んでもなじみやすい軽さがあり、古文に対する敷居がぐぐっと下がるような気がする。

説話は、いってみれば新聞の三面記事の寄せ集めみたいな所があり、おもしろい話、怖い話、悲しい話、しみじみした話、などさまざまな題材が取り上げられている。当時の人びとと現代のわれわれの間には、物事の受けとめ方の違いや感じ方の違いがあるのは確かだ。しかし、何百年経っていようが、基本的な喜怒哀楽の感情はそれほど大きく異なるわけではない。まるで、自分の知っている誰かさんや、ご近所の誰それさんの話ではないのかと思わされるような既視感を味わったりする。

そして好奇心がひとめぐりすると、人間て何だかおかしくて哀しい生き物だなあとしみじみ思う。人間の持っている愚かしさのようなものが、何とも言えずいとしく思われる。

自らを省みても思うことだが、人間そんなに立派に生きられるものではない。どこかで小ずるかったり、意地が悪かったり、欲が深かったりする。それでも奇跡のように、そのような卑小さを突き抜けた振る舞いに出ることもある。聖でもあり俗でもある人間という存在の不思議さを、説話の数々は存分に味わわせてくれるように思う。

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2019年5月 7日 (火)

「をしく」(形容詞の連用形の用法)

長々と続けてきた「心状語」の紹介も今回が最終回である。初回と第十一回の冒頭で触れたように、岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」があまりにもすばらしいので、古文を学習する高校生でも活用できるよう、類似した心状語をまとめて引用紹介しようと考えた。

第十回まで続けたところで中断し、三年近くの空白ができてしまったが、ようやく全て紹介し終わるところまでこぎつけた。以前に書いたことのくり返しとなるのだが、できれば図書館などで岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』を手に取って「枕草子心状語要覧」の全文に目を通されることを希望する。

特に国文科に進むことを考えている方(現実的にどれくらい存在するのか心もとないのではあるが)は、ぜひ熟読玩味し、平安時代の「心状語」の差異を知っておくことをお勧めしたい。

現代の私たちが平安時代の古文を読むことは、たとえて言えば外国語の文章を読むようなものである。だから、「心状語」を学ぶことで、微妙な感情の差異を見分けられるようになれば、作者の意図したかったことの把握も容易になるのではないかだろうか。大昔の国文科生でありながら、いまだに古文解釈が苦手な私が言うのもおかしいが、若い頃に「枕草子心状語要覧」のような解説に出会っていれば、もっと古文の世界に没入できただろうと思う。

ということで、今回は「をしく」を例として「形容詞の連用形の用法」について。

連用形は述語を連用修飾する用法が基本であるが、さらに次のような用法があるという。
①判断内容を示す連用形
②対等並列(いわゆる「並びの修飾」といわれるもの)
③先導批評(最初に評語を示し、その後に批評対象となる事実を言う)
④批評代入(程度を限定する連用修飾語の位置に評語が代入されるとき、批評代入の連用修飾語とみる)

今回の内容は文法的なものを中心としているので少しピンとこないかもしれないが、「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう。

<判断内容>
「をしく思ふ」のように、判断の内容を示す連用形で、「をしと思ふ」と言うのと同じ。広義の連用修飾の一つとは言えようが、判断動詞の前に立った時だけの用法であるのが特異。ただし判断動詞は「言ふ」「見る」「感ず」「覚ゆ」など多数ある上、判断動詞相当として使われる言い廻しは少くないから、実際の使用頻度は決して低くない。

<対等並列>
「をしく、あたらしき人」のように、後続する語句(この場合「あたらし」)と対等の関係で並べたてる時に使われる連用形。対等の関係を外せば、「をしき人、あたらしき人」となる所を、同じ対象(この場合「人」)に、同じ関係(この場合、連体修飾)で続く共通性を、いわば同類項の要約のように、一まとめにする表現。対等の関係だから、前項と後項とを入れ替えて、「あたらしく、をしき人」と言っても同じであるのが特色である。

<先導批評>
「をしく、えあはで帰りぬること」のように、後続する事実「えあはで帰りぬる」を、あらかじめ「をし」と批評しておいて、それに先導させる形で批評対象たる事実を言う表現法。これと同じ表現法が現代にないために、正当な理解をさまたげて来たが、「惜しいことに」「嬉しいことに」「珍しいことに」など今言うのと同じ表現法である。「をしくも」のように「も」を添えれば、「惜しくも、十票の差で落選した」のように、今でも使うことが稀でない。先導批評に用いられるのは、評語であり得る語(主として情意性形容詞)に限られるわけだが、評語たり得る語も少からずあり、また先導批評の使用は極めて活溌で、古代語において重い位置を占める。

<批評代入>
評語として使われる所の、例えば情意性形容詞が、連用形をとっていても、普通の連用修飾である場合もある。例えば「あさましう煤(すす)けたる几帳」などの場合である。もしこれが、几帳が煤けている事実を、「あさまし」と批評したのであれば先導批評だが、煤けていると言っても、それは程度の問題であることから、程度を限定する連用修飾語の位置に、評語が代入されることがあって、それだと見れば、批評代入の連用修飾である。「あさましきまで煤けたる几帳」の意と解し得る場合がこれである。一五四段の「うれしういひたり」は、発言内容に「うれし」という批評が代入されて、「うれしきことをいひたり」に等しい意を表わす場合で、これも連用修飾である。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

以上で全項目の紹介は終了となる。類語辞典的に使ってもらうためには、語と語の相関関係を示す図や心状ごとにまとめたインデックスが必要だが、そこまでは手が回らないので、とりあえず、このような形での紹介しかできなかった。調べたい語がある時は、ブログトップにある検索窓に、形容詞の基本形で入れて調べてみてほしい。

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2019年5月 5日 (日)

「つれなし」「あながち」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用紹介する第二十二回。今回は「否定的感情」を表す「つれなし」と「一方的」の意味合いを示す「あながち」を取り上げる。

まずは辞書の定義から。

「つれなし」…無情だ、冷淡だ、平気だ、そ知らぬふりをしている、無関心だ、あつかましい、(自然現象について)これといった変化もない、変わったこともない、特に注目すべきこともない、何の関係もない、何のゆかりもない、(人の切なる気持ちに対して)なんら応えるところがない
「あながち」…強引だ、度がはずれている、はなはだしい、むりである、(下に打消、禁止、反語を伴って)必ずしも、決して、いちずだ、むやみだ、身勝手だ、いい気、やむにやまれないさま

「つれなし」は、ある事態がめざしている方向に、別の事態が順応して動かないようすを言うのが原義だという。「連れ・なし」という連動しない感じを表し、順応しない事態を否定的に把握する語のようだ。

「あながち」の方は、「一方的だ」という意味合いが基本で、人間がある事柄について判断したり行動したりする態度について言うようで、弾力的に考えず自在さを欠いた柔軟性のない態度を表すという。そういう意味での否定的感情ということになる。

では、「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう。

「つれなし」
語源的には「連れ・なし」であろう。事態Aが一つの方向をめざして動いているのに、他の事態Bが、それに順応して動こうとしない様子、を言うのが原義と思われる。事態Aの側に寄ってBを、順応しない、と否定的に把握する言葉で、負の評価を伴うことが多い。現代語ではそうなって、「つれない仕打ち」のように、人の行為に対する批判にばかり使われる。それに対して平安時代では、負の評価への偏りは現代ほど顕著でなく、七八段の場合など、上文に「いささかなにとも思ひたらず」とある、その意に介さぬ態度を、評価ぬきに言ったものであろうし、(中略)「雪の山」に変化がないことを「つれなし」と言った例さえある。一三一段の「宮ぞいとつれなく御らんじて」の「つれなし」は、中宮が、しかけた悪戯の空とぼけをしている有様に用いたもので、犯人が中宮であることを問わず語りに語ってしまう、清少納言の正直さを示す言葉遣いとして興味深いものがある。

「あながち」
判断を下し行動をとる時の有様が、一方的であること。人間が判断し行動する態度について言うのを基本的性格とし、したがって自然現象などに関して言うことは多くない。弾力的に考えたり、進退自在に行ったりする柔軟性を欠く態度を意味するわけで、事態が他の形で実現する可能性もあり得る、とは思わない様子を表わす。後世には、一方的にこうだと判断することは出来ない、といった意味を表わすべく、否定表現と呼応する形で使われることが増えて、現在では「あながち悪いとも言い切れない」など、ほぼその用法に固定的に用いられるようになっている。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

さて、次回でようやく終了となる。「をしく」を例として、「形容詞の連用形の用法」を紹介する予定。

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2019年5月 3日 (金)

「ものの…」

新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用して「心状語」をまとめる第二十一回。今回は「しかるべき」という意味を込めて使われる「ものの…」という表現について。

「しかるべき」という意味を表す語というと「さるべき」が思い浮かぶ。「枕草子心状語要覧」には載っていないのだが、まず「さるべき」の辞書的定義をみてみよう。

「さるべき」…しかるべき、適当な、そうなるはずの、りっぱな、そうなる運命の、そうなるのが当然の

この「さるべき」に似た「ものの…」という言い方がある。まずは、この言い方に出てくる「もの」とは何か。「岩波古語辞典」には次のような語義解説が載っている。

「もの」
形があって手に触れることができる物体をはじめとして、広く出来事一般まで、人間が対象として感知、認識しうるものすべて。「こと」が時間の経過とともに進行する行為をいうのが原義であるのに対して、「もの」は推移変動の観念を含まない。むしろ、変動のない対象の意から転じて、既定の事実、避けがたいさだめ、不変の慣習・法則の意を表わす。また、恐怖の対象や、口に直接のぼせることをはばかる事柄などを個々に直接に指すことを避けて、漠然と一般的存在として把握し表現するのに広く用いられた。人間を「もの」と表現するのは、対象となる人間を「ひと」以下の一つの物体として蔑視した場合から始まっている。

では「枕草子心状語要覧」で「ものの…」についてどのように解説されているか見てみよう。

「ものの…」
「ものの大きさ」「ものの底」「ものの折」「ものの上手」などと使われる「ものの…」という言い方は、何かある具体的な対象がある、ということを言い添えるための、接頭語風な言葉。具体性を与えるためだけの言葉だから、格別のイメージを喚起する力はないけれども、場合によっては「しかるべき」といった、一定水準に達したもの、を含意することがあり得、その点では「さるべき」に似る。「ものの折」「ものの上手」、「ものの下部」などはそれと見ることが出来るであろう。「家のむすめ」が、しかるべき家の娘を意味するのと、似た表現法である。「ものの怪」「もののあはれ」などは、この言い方の固定した語、と見てよいようである。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は「否定的感情」を取り上げる。「否定的」な意味の「つれなし」、「一方的」という意味合いの「あながち」の二つ。

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2019年5月 2日 (木)

「さるは」「さすがに」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用紹介する第二十回。今回は、前回「当然」を表す「さる」から進展し、接続詞的に用いられるようになった「さるは」と、合わせて「さすがに」。どちらも「矛盾」を表す。

いつものように辞書の定義から。

「さるは」…それにもかかわらず、そうではあるが、とはいってもだが、そういうわけで
「さすがに」…やはり、そうはいいうものの、他のものと違ってやはりなんといっても、それだけのことはあってやはり、当然とはいえやはり、それに矛盾して、矛盾したことだが

「岩波古語辞典」によると、「さるは」は、前に述べた内容をとりあげて、その隠れた実情、実態、他の一面を説明強調する、とある。一方「さすがに」は、前にあった様子や事情から当然予想されるのとは矛盾する事態が現われた場合に使う語で、予想と違うよい事態が現われた場合にも使われ、「何といっても、たいしたもの」という賞賛にも使うようになったらしい。

「さすがに」の、この賞賛に使う用法が現代語の「さすがだ」につながっているのだろう。一方で古語と同じような「そうはいうものの」という「さすがに」も、たとえば、「徹夜の次の日は、さすがに眠い」などといったような言い方に残っているような気がする。

「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう。

「さるは」
中古文においては現代のような意味での接続詞はない、と言われる中で、唯一の例外とされるもの。用法が複雑で整理しにくく、その意味では中古の難語の一つ。だがこれは、「さること」「さるものにて」などの言い方と共に解明されるべきものであろう。すなわち「さる」は、当然・勿論の意を有し、「さるはAなり」という風に用いて「もちろんAだ」といった、全面的な肯定を表わすのに用いられる。だが全面的な肯定を表わす語は、「もちろんAだが、Bだ」のように、矛盾する二つの事態の同時併存を表わすのに容易に用いられるもので、「さるは」も、「さるはAなれど、Bなり」のように使われる。そこから更に「Bだ。もちろんAでもある」と言うのと全く同様に、「Bなり。さるはAなり」と、一つの事態に矛盾するような他の事態を、但し書き風に述べる時に使われるようになる。これが接続詞と呼ばれる段階のもので、枕草子の場合は、(中略)ほぼこの接続詞風但し書きに用いられたもの、と見てよいであろう。

「さすがに」
一つの事態Aが成り立っているのに、それとは方向を逆にする事態Bが成り立っている時、BをAに矛盾する事態として述べる気持を表わす。現代語では「そうは言うものの」が、ほぼこれに相当するであろう。「さすがにさうざうしくこそあれ」などは、清少納言を無視する態度をとった(A)のに、清少納言と話す機会のない淋しさを感ずる(B)ことを言ったもので、典型的な用法と言うことが出来よう。ただし、Aの成立にさからうような形でBが実現することを認めることは、もともとBが実現して当然であったのだ、という容認を伴うもので、本来実現すべきものの実現、もともとそうあってよいことの具体化、という評価をBに対して、下すことになりがちである。(中略)現代語の「さすがに」は、この、本来的なものをいまの具体に即して再認識する、という性格を、そのままうけついだものである。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は「しかるべき」という一定水準に達したものを含意する「ものの…」という表現と「さるべき」を取り上げる予定だが、どうやらあと数回で、全部紹介できそうなところまでたどり着いた感じがする。

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2019年5月 1日 (水)

「さること」「さるものにて」

新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用して「心状語」を紹介する第十九回。今回は「当然」を表す「さること」「さるものにて」。

辞書の定義を見てみると

「さること」…そういうこと、もっともなこと、いうまでもないこと、もちろんのこと、しかるべきこと、相応なこと
「さるものにて」…いうまでもなく、もちろんのこと、一応もっともだが一方また、それはともかくとして

どちらの語も最初の「さ」は指示語で「そう」の意味であり、「さる」は「さある」が縮約されたものとされ、これだけでも「しかるべき、相応な、かなりな」という意味を持つ。それで「当然」という意味合いが出てくるのだろう。

「枕草子心状語要覧」の解説では

「さること」
指示詞の「さ」は、先行文脈にあるものを指す、いわゆる文脈指示詞の一つだが、必ずしも先行文脈上に存在しないものを指すこともある。その場合に話者の頭の中にあるものは、一般常識とでも言うべきもので、「さることなり」は、現代でも「そうしたものだ」と言う時の気持に近く、無理もない、当然だ、という意味を表わすことになる。(後略)

「さるものにて」
(前略)そのような用法が最も固定的となったのが「さるものにて」という言い方で、(中略)「Aをばさるものにて」という型で使われ、Aはもちろん、Aは言うに及ばず、の意を表わす。それが時に、Aはともかくとして、とAを棚上げにする態度を表わすように理解されることがあるのも、Aが問題となるのは当然と承知していることを、「さるものにて」が表わせばこそであろう。中古の難語の一つである「さるは」は、この「さるものにて」という言い方の延長線上に、生まれて来るもののように思われる。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は、「さるものにて」の解説の最後にも出ているが、「当然」という語義から出発して、接続詞的な使われ方をするようになった「さるは」と、「矛盾」を表す「さすがに」を取り上げる予定。

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2019年4月30日 (火)

「はづかし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用して「心状語」をまとめる第十八回。前回「をかし」を取り上げたときに、「をかし」は優越者の心であるという点に触れた。「をかし」が優越感から発するものとすれば、今回取り上げる「はづかし」は、その反対の劣等感を表す語である。

まずは辞書の定義を見てみると

「はづかし」…きまりが悪い、恥ずかしい、面目ない、気がひける、気が置かれる、気詰まりである、自分より上だ、(こちらが恥ずかしくなるくらい)優れている

小西甚一さんが大学受験生向けに旺文社から『古文の読解』という参考書を出していた。現在も旺文社から出されているのかどうか不明だが、他の参考書と違い、昔の人びとの暮らしやものの感じ方を一つ一つ丁寧に説明してくれる細やかさがあった。自分の受験の時には利用しなかったが、その後高校生に古文を教えるようになってから購入し、大いに目を開かれた一冊である。

この小西さんの『古文の読解』で、「はづかし」は feel embarrassed が基本意味で、他はそこからの派生であると解説していた。つまり、基本の意味は「きまりが悪い」であり、そこから場合によって「気がひける」とか「気詰まり」とか、そのように感じさせる相手を「自分より上だ」とか「優れている」という意味まで広がっていくのだという。

「枕草子心状語要覧」の解説を確認してみよう。

「はづかし」
自分が何らかの劣性をもつ、と意識した時の、その劣等感。自分に劣性を意識させる契機となった対象、すなわち優性を見せつけるような対象から、逃げ出したくなる気持を表わすのが原義で、要するに動詞「はづ」の形容詞なのだが、自分の感じる劣等感を、そう感じさせた対象の性質のせいと見なし、自分を恥じさせた対象の優性を指すのに用いられるようになる。つまり賞め言葉の仲間入りをするわけだが、そうなっても原義はもちろん生きて働き、こちらに劣等感を抱かせるようなすばらしさ、を意味することになる。一一九段は「はづかしきもの」の段だが、女のおしゃべりを聞く「夜居の僧」と「男の心」の二項目だけについて、その「はづかし」い理由が述べられていて、気が許せない、という感じが「はづかし」の中心にあることを示している。現代語の「気が張る」は、この感情に近いであろう。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は「当然」を表す「さること」「さるものにて」の予定。

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