読書

2019年5月28日 (火)

江藤淳『完本 南洲残影』

幕末から維新の頃に関心がある人は、それぞれ興味を引かれる人物があるにちがいない。坂本龍馬だったり勝海舟だったり、高杉晋作とか土方歳三とかさまざまだと思うが、このところ、しきりと気になるのは西郷隆盛である。

去年の大河ドラマの主人公だったからというわけではない。維新の中心であった西郷隆盛が、大久保利通の明治政府に不服申立をするような形で西南戦争に倒れたことの意味は何だったのか。ついこの間、江藤淳の『完本 南洲残影』(文春学藝ライブラリー)を読んだときに、またそのことを考えた。

『南洲残影』は江藤淳の晩年に書かれた評論である。西南戦争での西郷の最後を「全的滅亡」へ向かう姿と江藤淳はとらえた。西郷の死は勇壮なものとしてではなく、勝海舟が作詞したと言われる「城山」という薩摩琵琶の曲調と同じように、哀切な響きを帯びたものとして示される。

そして西南戦争の激戦地、田原坂を訪れて戦役記念碑を読んだ後、記念碑から続く小径を行きかけて意外なものを目にする。「蓮田善明先生文学碑」と刻された小さな石板である。そこには蓮田の短歌が一首彫りつけられていた。

 ふるさとの 驛におりたち
 眺めたる   かの薄紅葉
 忘らえなくに

蓮田善明は「文藝文化」という文芸雑誌の編集名義人だった国文学者で、南方戦線で終戦を迎えたとき、連隊長の通敵行為をとがめて射殺し、自らもピストル自殺を遂げた。そして何より、学習院中等科の生徒だった三島由紀夫を見出し、「花ざかりの森」を「文藝文化」に連載させた人でもある。つまり三島由紀夫の文学的才能を最初に見つけた人物なのである。

江藤淳は、田原坂のある植木町が蓮田の故郷だとしても、なぜ歌碑が田原坂の古戦場に建ち、しかも蓮田の文学を何故「ふるさとの驛」の「かの薄紅葉」という歌で要約したのだろうと自問する。そして、西郷と蓮田と三島の三者をつなぐものに気付く。この三者それぞれの行動の根底にあるものは、みないくばくかは「ふるさとの驛」の、「かの薄紅葉」のためだったのではないか、と。

滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが、滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ。
(江藤淳『完本 南洲残影』文春学藝ライブラリー p84)

西郷隆盛は滅びるために西南戦争を闘ったのではないか、としか思われないような戦を展開する。政府軍に対して勝とうという戦略を採らず、一番下手な策を取ったように見える。しかし、戊辰戦争の全体を指揮したのは西郷自身なのであり、西南戦争のときに西郷にしたがった者たちの中には、篠原国幹や桐野利秋もいた。装備も資金も格段に劣勢にあったとしても、歴戦の勇者たちが勝つことを考えて戦を進めていたら、違う展開になっていたのではないか。

では、西郷は何を問いかけたかったのか。大久保利通に向かって問いただしたいことは何だったのか。それは、維新で目指していた日本の姿についてだったのではないか。「道義」を忘れ、ただ欧米の文明だけを取り入れて近代国家を目指すのは、本当にそれで良いのか。それは国を滅ぼすものではないか。亡国の道をたどることになるのではないか。この異議申立が西南戦争という形を取らせた。

江藤淳はエピローグで次のように書いている。

陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、拝外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。
(同上 p206-207)

近代国家となることが帝国主義国家となることではないという選択肢が、あり得たかもしれない。西郷隆盛のことを考えると、そのことがいつのまにか浮かんでくる。

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2019年4月 6日 (土)

長い物語を

桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』を再読してみた。最初に読んだのは息子が十八の時だから、もう五年も経っている。筋はだいたい覚えていたし、最初に読んだときに受けた印象と大きく異なるところもなく、十分に物語の展開を楽しむことができた。

文庫版あとがきで桜庭一樹が、ある一族の長大な物語を書きたいと思ったのは、長編を依頼してきた編修者と話をしているときにガルシア・マルケスの『百年の孤独』とイザベル・アジェンデの『精霊たちの家』、そしてヴァージニア・ウルフの『オーランドー』が頭に浮かんできたからだと書いていた。ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』は以前に図書館から借りて読んだことがある。かなり面白かった。残りの二冊は二つとも持っているのだが、長らく「積ん読」されたまま頁を開いたことがなかった。

さっそく『百年の孤独』を引っ張り出して読み始めてみた。いつ購入したか忘れてしまったが、「積ん読」期間のうちにすっかり紙の色が古びて、古書を読んでいるような気分になる。物語は中南米のマコンドという村が舞台で、この村を切り拓いた男の時代から始まって、子の時代、孫の時代まで読み進んでやっと全体の半分くらいである。時代はゆっくりと流れ移るのだが、一族をめぐる出来事は破天荒なものの連続で、マコンドも次第に発展し始め、大きく姿を変えようとしている。これから後の半分はどう展開していくのだろう。大いに楽しみである。

先日の『大菩薩峠』も長い物語だが、長い物語ばかり平行して読んでいるような気がする。イザベル・アジェンデの『精霊たちの家』は『百年の孤独』が終わってからにしようと思っているけれど、もう一つ読み始めているのがトマス・ピンチョンの『重力の虹』。これも長い。まだ冒頭部分だが、舞台となっているロンドンが、第二次大戦中という設定のはずなのに、なぜかジョージ・オーウェルの『1984』に描かれたロンドンをずうっと陽気にしたような不思議な街として描かれている。この冒頭部分だけでも、わくわくするような展開を期待させる。『重力の虹』も入手したのは相当以前だ。紙質がいいのか『百年の孤独』みたいに頁が変色してはいない。つい昨日買ってきた本のような雰囲気だ。さすがに『大菩薩峠』『百年の孤独』と平行して読み進める時間が取れないので、『大菩薩峠』が終わるまで一時中断している。中断してはいるけれども先が読みたくてしかたない。

長い物語を読みたいという欲求はどこからくるものなのだろう。それは小学校の図書室にあった分厚い『西遊記』を毎日少しずつ読んでいた頃から少しも変わらない。読み終えてしまうのが惜しくて、わざと少しずつしか読まなかった。三つ子の魂…と言うけれど、基本的な好みは変わらないということか。

長い物語と言えば、忘れていたがまだ読みかけのものがあった。『旧約聖書』である。聖書を物語扱いすると信心深い方からバチあたりな奴だと叱られそうだが、信仰心を持たない者からすると、『旧約聖書』などは『千夜一夜物語』みたいな長い長い物語にしか見えない。「出エジプト記」のあたりまでしか読んでいないので、まだまだ入口の付近をうろうろしているようなものだ。読みたいものだらけで当分店ざらしのままだと思うが、これも少しずつ続きを読んでいきたいと思っている。

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2019年4月 5日 (金)

中里介山『大菩薩峠』

中里介山の『大菩薩峠』を読んでいる。かなり長い話の、まだ4分の1を少し越えたあたりまでしか読み進んでいない。

音無の構え、机竜之介。この名前だけはずいぶん昔にどこかで耳にしていた。虚無的な盲目の剣士で、理由もなくただ人を斬りたいだけの男を主人公とした悪漢小説(ピカレスクロマン)というとらえ方で済ませていたのだが、実際に読んでみると少し違う印象を持つ。

まず、この小説は群像劇なのではないかということ。確かに机竜之介という主人公がいて、一方に竜之介を兄の仇として追う宇津木兵馬という青年剣士がいて、この二人の話が本筋である。ところが脇筋がやたらに多く、竜之介も兵馬もどこかへ行ってしまいしばらく姿を見せない章段が続いたりする。しかもこの脇筋が無類に面白い。脇筋の人物に焦点が合っている時は、こちらの方が本筋なのではないかと思うほど活き活きした描写が続く。人物もどんどん増えてくる。まだまだ先が長いので、これからどういう展開になっていくのか楽しみである。

物語の展開とは別に、『大菩薩峠』を読み進めるうちに、この語り口はどこかでなじんだことがあるような気がしてきた。一体何だったろうかと考えてみて気がついたが、三遊亭円朝の人情噺だ。

落語の明治中興の祖と言われる初代三遊亭円朝は、数多くの人情噺や怪談噺を生み出した。「怪談牡丹灯籠」「文七元結」「名人長二」「業平文治」「塩原多助一代記」などなど、落語の古典として語り継がれることになる名作揃いだ。五代目古今亭志ん生が、人情噺は笑わせるところは少ないけれども、これができなければ一人前の落語家と言われなかったという趣旨の話をマクラでしていたことがあった。志ん生自身も円朝全集を繰り返し読んでいたようだ。

円朝の人情噺は落語としては長い咄が多い。「牡丹灯籠」や「塩原多助」は一部しか聞いたことがないが、全編聞いた「名人長二」は、二時間くらいだ。「牡丹灯籠」や「塩原多助」を全編聞くとなると、おそらくその二倍か三倍くらいの時間が必要なのではないか。

もっともこれらの長い人情噺は全編通しで語ることは滅多になく、連夜の続き物として語られ、寄席に客を引きつけたものだと思われる。この人情噺や講談にも通じる語りの伝統、つまり「さて、いかなることになりますやら」と後に期待を持たせる引っぱり方が『大菩薩峠』にも共通して感じられる。

物語を「語り」として耳にすることがなくなってしまった現代のわれわれでも、連綿として続く「語り」の伝統と無縁になってしまったわけではないのだなとつくづく思わされる。文字を読めない人がほとんどいなくなってしまった識字率の高い社会で暮らしていると、物語は「目で追うもの」であり「耳で聞くもの」ではなくなってしまった。しかし琵琶法師が語った『平家物語』にしろ、江戸時代の人形浄瑠璃にしろ、語られる物語に耳を傾けるという享受のしかたの方が、文字を黙読していくより一般的であったのだ。それも相当長い期間に渡って。

もう一つ『大菩薩峠』を読んでいて感じたことがある。これも現代ではその感覚が希薄になってしまったように思うのだが、第二次大戦前までは、江戸と地続きの意識が濃厚にあったのではないか。少なくとも明治、大正(あるいは昭和初期でさえ)の頃には江戸時代生まれの人が実際に生きていたのだから、維新後いかに欧化が進もうと市井の人びとの日常には江戸時代の名残がなにかと多かったと思われる。

とすれば、三遊亭円朝の人情噺にしても、中里介山の『大菩薩峠』にしても、あるいは『忠臣蔵』であっても、そこに描かれている世界に対しては違和感より親和感の方が強かったのではないか。ある確実な手ざわりや肌ざわりとともに受け入れられていたように思われてならない。

時代劇ですら基本的に現代人の感覚と意識で人物造形がなされている今とくらべて、明らかに異なる感覚と意識がそこにはある。おそらくそれは時間の流れ方、空間のとらえ方の決定的な違いによるものなのだろう。つまり、今よりもっと時間の流れ方がゆるやかで、遠く離れた異郷まで行くことが大変な困難を伴うものだった時代の感覚と意識ということになるのだが。

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2018年3月28日 (水)

さて、ここまで何を読んできただろう

もうじき新年度が始まる。年が明けてから四分の一が過ぎるということになる。すっかり暖かくなり、桜の花も今年は早く咲くだろう。

ところで、今年はここまで何を読んできたのだろう。あれこれ読んだような気もするが、はて何を読んだのかとんと思い出せない。

近現代史の学び直しの途中だから、その関連で読んだものが多いはずなのだが、さて何だったか。特に韓国併合後の朝鮮半島に興味を持ち、朝鮮史関連が増えたような気がする。

『朝鮮史』梶村秀樹、講談社現代新書
『白凡逸志』金九著、梶村秀樹訳、平凡社東洋文庫
『日韓併合小史』山辺健太郎、岩波新書 青版
『パンソリ』申在孝、平凡社東洋文庫
『朝鮮王朝の滅亡』金重明、岩波新書

ああ、そうだ。これに関連して中上健次の評論集を読んだのだった。『中上健次エッセイ撰集 青春・ボーダー編』恒文社。中上健次が朝鮮半島に興味を持っていたことを知らなかったし、パンソリに関心を寄せていたことも初めて知った。

一番近い外国である韓国・朝鮮のことをほとんど何も知らずにこれまで過ごしてきたのだな、と改めて思う。1910年から1945年の植民地時代のことも、それ以前の朝鮮社会のことも、何も学ぶことなく来てしまった。日本史に関連の深い、百済からの渡来人、李氏朝鮮、文禄・慶長の役、朝鮮通信使、江華島事件、甲午農民戦争、韓国併合といった用語は思い浮かぶものの、それだけだ。用語が抱え持っている膨大な細部にまったく思いが至らなかった。

上海に成立した大韓民国臨時政府の主席、金九の自伝『白凡逸志』などを読むと、日帝時代の朝鮮の人びとが支配者である日本人にどのような思いを抱いていたのかよく分かる。もちろん、金九は右派の急進派だから、一方の極端であろうとは思う。日帝時代に親日派と言われた半島の人びともいたのであり、日本に対する思いが一様でなかったろうとも思う。しかし、激烈な反日感情を抱かせるような、植民地支配の実際がそこには存在した。

何かにつけて日韓関係はギクシャクしがちだし、北朝鮮とはまともな対話すらできない。元をたどれば、三十六年間の植民地支配の「感情的精算」ができていないからなのだろう。踏んづけた方は忘れても、踏まれた方は痛みを覚えている。併合という植民地支配がどのようなものだったか、踏んづけた側の子孫は、その歴史の実際に目を向ける必要がある。

これは「自虐史観」とは無関係だ。そもそも植民地支配の実態を教えられることすらないのだから、まずは歴史を知ることそのものから始めなければならない。評価はその後にくる問題だ。歴史的背景を知った上で、嫌韓になるのはそれぞれの自由だが、無知に由来する嫌韓あるいは嫌中は単なる排外主義でしかない。ナショナリストを気取るなら、朝鮮のナショナリストだった金九の「愛国心」に共鳴するのが筋だろう。

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2017年9月20日 (水)

落第生漱石

この間、偶然に漱石の「満韓ところどころ」という紀行文を読む機会があった。ちょうど近現代史の学び直しをしている途中でもあるので、漱石も満洲や韓国へ足を運んだのかと興味を覚えて読み進めた。明治四十二年、1909年に「朝日新聞」に連載されたものだから、日露戦争が終結してからまだ四年しか経っていないころのことだ。

冒頭に第二代満鉄総裁だった中村是公の名前が出てくる。後藤新平が自分の後がまとして据えた人物だが、この人が実は漱石の友人であった。

この満鉄総裁の中村是公は漱石と予備門(のちの第一高等学校、さらに東大教養学部の前身)時代に、神田猿楽町の下宿で一緒だった。予科の三年のころには、家から学資をもらわなくてすむように、二人で江東義塾という私塾の教師をしながら予科に通っていたという仲である。このあたりの事情は、同じ明治四十二年の「私の経過した学生時代」などに詳しい。

「満韓ところどころ」にも予科時代の話がでてくる。「猿楽町の末富屋」という下宿に大勢陣取っていたとあるから、中村是公と一緒だった神田猿楽町の下宿というのは、この「末富屋」のことだろう。この下宿に陣取った連中がことごとく勉強をしない。試験が終わると机なぞは庭に積み上げてしまい、広くなった部屋のなかで腕相撲をするやらなにやら、いつの時代も元気の余っている学生のすることは似たような馬鹿騒ぎだ。

この下宿の連中が連れ立って明治二十年ころ、徒歩で江ノ島まで遠足に行った。これも「満韓ところどころ」に出てくる。金はなくとも暇だけはふんだんにある学生たちが、ぶらぶらと歩いて江ノ島に着いたのは夜の十時ころ。そのまま砂浜で毛布にくるまって、砂だらけとなって朝を迎える。馬鹿である。こんな無茶苦茶なことができるのも学生時代くらいのものだ。

こういう次第であるから、当然のごとく、みな落第坊主になる。漱石も落第する。「落第」という随筆があるくらいだ。あの漱石が落第坊主だったのか、と意外だったが、この落第をきっかけに少し勉強してみるかと考え直し真面目に取り組み始める。実は、漱石の予科時代の下宿仲間は中村是公をはじめ、農学博士の橋本左五郎など、後にそれぞれの分野で活躍する人物ばかりだ。そのほとんどが予科時代には落第坊主というのが面白い。

まるで放し飼いの地鶏のようなものだ。ブロイラーのように鶏舎に閉じ込められて同じ飼料を与えられるのではない。地鶏は地面をほじくり返してミミズをつついたり、自分で好きなように歩きまわって餌をとっている。どう考えても地鶏のほうがうまいはずだ。それと同じように、ありあまるエネルギーが勉強に向くまでは、大馬鹿者であり、勉強し始めるとすべてをそこに集中するという明治時代の学生の姿は魅力的だ。人間の幅というのは、善悪賢愚美醜さまざまな経験を経て生まれてくるものなのではないかと考えさせられる。

随筆「落第」で初めて知ったのだが、漱石は建築科に進むつもりでいたのだという。自分は変人であるが、その変人でも自分から頭を下げなくても向こうから頭を下げて頼みに来る仕事を選べば、飯の種に困ることはなかろうという考えからであった。なるほどとは思うが、建築家漱石というイメージはピンとこない。

それがなぜ英文科へと変わったのか。漱石が落第して同じ級になった中に、米山保三郎という学生がいた。この米山が漱石にこう忠告する。

君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺す(のこす)などと云うことは迚も(とても)不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き(べき)大作も出来るじゃないか。
(夏目漱石「落第」より)

 それを聞いて文学をやることに決めたのだという。ちなみに米山保三郎は若くして亡くなるが、哲学科の秀才だったらしい。漱石の友人である正岡子規が、哲学科に進むのをあきらめたのは、米山が哲学科にいるのではとうてい叶っこないと思ったからだそうだ。

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2017年6月20日 (火)

伝記を読む

『現代日本思想大系』(筑摩書房)の第4巻「ナショナリズム」を図書館から借りて読んでいる。吉本隆明がこの巻の編者で、少し長めの冒頭解説も吉本自身が書いている。

さまざまな著者の文章が収められれていて興味深いのだが、山路愛山や徳富蘇峰、あるいは陸羯南といった人びとの文章はさすがに現代では読みにくい。明治人の著作は擬古文ではないが、江戸時代の候文と地続きで、引用部分や手紙部分など近世古文書かと見まごうばかりだ。漢詩文の引用も当たりまえのように白文でなされている。

この巻に石光真清の自伝から二つの文章が抜粋されている。特に『誰のために』から引用された部分に引き込まれた。あまりにも興味深かったので、『現代日本思想大系』のほうは中断し、『誰のために』を借りだして一気に読んだ。ロシア革命からシベリア出兵の時期に、陸軍嘱託となりロシアで諜報活動に従事した人物の濃密に凝縮された時間が行間から溢れ出てくるような感じだった。

自伝は、息子の石光真人が編纂し、『城下の人』『曠野の花』『望郷の歌』『誰のために』という四部作として刊行されたものの一つである。この石光真人という名前にどこかでお目にかかったことがあると思ったら、中公新書『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』の編著者であった。こちらも名著である。未読の方は、ぜひ御一読を。

石光真清は、陸軍幼年学校から陸軍士官学校へ進み、日清戦争後、対露戦への憂慮から私費でシベリアに渡航し、アムール州のブラゴベシチェンスクで語学研修を名目に諜報活動に従事した。いわゆる「軍事探偵」と言われた人物である。『誰のために』は、五十代に達した石光がロシア革命さなかのシベリア、ブラゴベシチェンスクへ再び戻り、激動に翻弄された日々の記録である。

革命指導者、反革命勢力のコザック兵、市民自警団これに日本人義勇軍(石光らの募兵に応じたブラゴベシチェンスク滞留日本人)がそれぞれの思わくを抱え、入り交じっていく。石光は革命指導者のムーヒンとも何度か直接会い、互いにその人物を認め合い、最後の別れ際にはムーヒンから記念にステッキを贈られる。敵対者である人物に丸腰で面会を求め、肚を割って交渉する。このあたりの呼吸は、さすがに明治元年に生まれ、子どもの頃に熊本神風連の乱や西南戦争を目の当たりしてきた人だと感じる。「小人物」ばかりとなってしまった現代には、このような肝のすわった対応は無理だ。

革命勢力、反革命勢力が一触即発で対峙する緊張が続く中、石光は日本陸軍の支援を要請し続ける。しかし、シベリア出兵が決まるまで本腰を入れて介入する気がない軍部は、基本方針通り継続せよとしか返答しない。日本人会の中には石光への不満や不信が一方にうずまき、協力と理解が期待できなくなっていく。そしてついに武力衝突が起きる。革命勢力が市を征圧し、反革命勢力と日本人は着のみ着のままで氷結したアムール川を中国領へと歩いて逃げる。その後、各国のシベリア出兵に伴いブラゴベシチェンスクの市政も一時反革命勢力が取り戻すのだが、財政危機を乗り越える方策がなく、かつて歓呼とともに市長に返り咲いた人物も市民から見放され亡命する。出兵した日本軍に市政を支援する意思がなく、そもそもシベリア出兵に確固とした方針がなかったことが導いた結果であった。失意の石光は日本に戻ることを決意する。

ロシア革命からシベリア出兵時期のシベリア、アムール州で自らが激動の渦中で一つの極となりながら革命の進展を目撃してきた人物の貴重な記録である。以前、ウィリアム・シャイラーの『ベルリン日記』を読んだ時にも感じたことだったが、歴史的な事件の渦中にいる当人たちにとっては、それが歴史的な事件であると意識されないのだろうなと思った。目の前にある瞬間瞬間に対応しているときに、それが歴史のひとこまであると俯瞰することは難しいのだろう。それは我々にしても同じだ。東日本大震災が起き、福島の原発事故が起き、共謀罪が成立した日本に我々は暮らしている。何十年か、何百年か後にどのような歴史として記述されることか。

悠久な時の流れと流星のような人の生の短さに、呆然とし、たじろいでしまう。

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2016年7月15日 (金)

中休み

枕草子の心状語について、続きをまとめなければいけないのだが、否定的な心状を表す語が待ち受けているので気が重い。そこでズルズルと怠けている。教室のほうも期末試験が終わり夏期講習が始まるまでの中休みのような状態で、今ひとつ気力がわかない。

こういうときは、無理に力んでも大して成果はあがらないので、目先を変えて読書にいそしんでいる。年がら年中読書にいそしんでいるということは、一年を通して中休みの状態という笑えない状況にあるということだ。でもねぇ、ジタバタしても始まらないときは、本でも読むより仕方がないのですよ、実際。

ということで、目下読みかけているものは、『平妖伝』という中国の古典小説。ずいぶん昔に紹介したことがあるので、繰り返しは避けたいが、子どもの頃に暗記するくらい繰り返し読んだ『怪妖伝』の原典である。『怪妖伝』は、子ども向けに簡略にリライトされ、教育上よろしくない部分は大幅にカットされているけれど、原典の『平妖伝』は、R15にはなりそうなくらいの場面が目白押しだ。

ストーリーは単純といえば単純である。天界の秘術が下界に漏れ、それがもとで天下が乱れ、最後は妖術合戦になり、野望を抱いた側が敗れるというだけのある種勧善懲悪的な話である。しかし、中国の古典小説、たとえば『水滸伝』などにも見られるように、登場人物がやたらに多く、主たる筋とは別に各人物の脇筋の話が挿し込まれるので、脱線につぐ脱線で話はゆるゆるとしか進まない。四十回に分けれれた話は、続き物の講談のようなもので、「果たしていかなることになりますやら、次回をお楽しみに」という調子で先への期待を持たせる。そういう語りの上手さみたいなものが全編を通して感じられる。おそらく、この原典は講談のような語り物として始まったのではないかと記憶しているが、どうだったか。

数年前に佐藤春夫が訳した文庫版の『北宋三遂平妖伝』を読んだことがあったが、今回読んでいるものは中国古典大系版で別の人が訳した『平妖伝』である。スタイルとしては『水滸伝』式の、各段の冒頭に絶句かと思われる四行詩が置かれ、その章段の内容を簡略にまとめているというもの。四十回ある章段の四分の一を読んだばかりだから、佳境はまだまだこれからである。

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2016年7月 9日 (土)

夢野久作について

夢野久作が亡くなったのは二・二六事件から間もない昭和十一年(1936)の三月のことであった。父親の杉山茂丸が前年の七月に亡くなったばかりであり、その一周忌もまだ済んでいなかった。

「九州日報」に勤めて家庭欄に童話を発表しはじめたのが大正十一年(1922)だから、わずか十四年ほどの執筆期間ということになる。その間に探偵小説も含め、数多くの小説を書いた。代表作はやはり『ドグラ・マグラ』とか『犬神博士』ということになるのだろうか。どちらの作品もまだ読んでいない。

以前の記事に書いたことがあるように、「近世快人伝」という玄洋社関連の人びとを取り上げた人物伝が無類におもしろい。父親の杉山茂丸は玄洋社と関わりが深く、その葬儀も玄洋社葬としてとり行われた。「父杉山茂丸を語る」という文章に詳しいが、玄洋社葬をするため九州に向かう東京駅の駅頭に見送りに来た頭山満が、見栄も何も構わずに涙をダクダクと流していたという姿が印象的だ。

この「近世快人伝」には頭山満、杉山茂丸、奈良原到という玄洋社関連の人びととは別に、篠崎仁三郎という博多魚市場の湊屋の大将が取り上げられている。以前に文春学藝ライブラリーで読んだときには走り読みだったので、もしかすると飛ばしていたかもしれないのだが、この篠崎仁三郎の人物伝が破天荒でおもしろい。

なんと言えばよいのか。教育上は決してよろしくないのだろうが、ちょうど落語に出てくる無茶苦茶なお兄ぃさんとでも言うか、ビートたけしみたいと言ったらいいか。とにかく呑む・打つ・買うの三拍子揃ったつわもので、肝のすわった陽気な魚市場の大親分といった貫禄の人だったらしい。小説よりもおもしろおかしくて、少し哀しい生涯である。

この人物伝を収めた『夢野久作全集 7』には、他にも長編童話の「白髪小僧」(これは童話と銘打たれているが大人のためのメルヘンであろう)や、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの時代をほうふつとさせる「猟奇歌」という短歌群、能の魅力を分析した「能とは何か」などといった文章が収録されている。

「猟奇歌」の短歌群に目を通してみると、後の寺山修司の世界に通じるような妖しい光を放っている。猟奇的な題材の短歌だらけなのだが、三十一音に凝縮されていて余白が大きく、こちらの想像力を刺激して、そこに描かれていない広い情景へと誘われる。

長編童話の「白髪小僧」は、おそらく作品としては失敗した部類に入るのだろう。構成が入り組みすぎて、ストーリーの展開に読者がついていけない。そういうアラはあるのだが、これまた不思議な魅力を持つ作品だ。筒井康隆の小説にも通じるような、時間・空間・意識の自由な飛躍が描かれていて、子ども向けの童話としては確かに無理があるのかもしれない。が、しかし、夢の中の不可思議な時間の流れ方や空間の歪み方と同じような味わいを残す。後の『ドグラ・マグラ』の出現を予感させるような作品だと裏表紙に出ているが、確かにそうなのかもしれない。

いずれ『ドグラ・マグラ』や『犬神博士』を読んでみようかと思っているのだが、八十年以上も昔の人とは思われないくらい、現代に通じる新しさがある。

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2016年6月10日 (金)

橋川文三について

近代史の学び直しを続けている中で、このところすっかりはまってしまったのが、橋川文三の文章である。松本健一のような息せき切った性急さみたいなものがほとんどなく、丸山真男みたいにすき間なく堅牢に構築された論理でかためられているわけでもなく、どちらかといえばウェットな感触を持っている。『昭和維新試論』の「序にかえて」で橋川は、次のように述べる。

「いわゆる維新者たちの人間性に多く共通してみられるものが一種の不幸な悲哀感であるということになる。朝日平吾がそうした例の一人であることはたしかであろう。いかにも感傷的な不幸者の印象をただよわせている。しかし、それはまた当時、右翼へ、左翼へ、もしくはアナーキズムへ奔った青年たちの多くに共通する要素でもあった。」

この評言は、そのまま橋川文三自身にもあてはまるのではないか。「感傷的な不幸者」という言い方は秀逸だ。バッサリと切り捨てることなく、論理性のみに走るわけではない橋川の文章が持つ魅力もまさにそれではないか。「一種の不幸な悲哀感」をもつ維新者たちへの共感めいた感情の揺れが橋川の文章にはあふれている。

学者の文体ではなく、小説家の文体というか文学者の文体なのだと思う。太宰治の文体が耳元で囁きかけられるような錯覚を呼び起こすように、橋川文三の文体も読む者を魅了してやまない息づかいを持っている。ある意味でこの文体の魅力は危険である。この人の言うことならどこまでもついていこう。そういう気持ちにさせるような不思議な感触を持っている。

この人の書く文章には、どこか寂しい風が吹いている。夕暮れ時に、帰り道を忘れてしまった子どもの孤独感と当惑感みたいな、切なくなる寂しい風だ。それゆえにいっそう心ひかれてしまう。こういう文章を書く学者がかつていたということに、これまでまったく気づかずに来てしまった。

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2016年5月28日 (土)

やれやれ

『ノルウェイの森』が出版された1987年、私は結婚してニ年目だった。まだ三十歳には少しだけ間があり、それから先にどういうことが待ち受けているのかなど毛程も気にしていなかった。つまり、その先にのびていく時間の長さは何となく分かっていたものの、それをあれこれと深く考えてみることなどなかったという気がする。

それは今から考えれば幸福な時間だったと言える。今が不幸だというわけではない。けれども、どう考えてもこれから先の手持ち時間は、あの頃の半分くらいのものだろう。いろいろな物事がまだ新鮮で、手垢にまみれていなくて、心を重くするようなものは、自分の内側にも外側にも少なかった。

村上春樹の小説を読むとどうしてもこういう気分になる。自分の中の失われてしまったものや損なわれてしまったものに否応なく向き合うことになるからだろうか。失われていないもの、損なわれてはいないものもあるのだが、喪失したものへ目がいきがちになる。年齢を重ねることというのは、何かが失われていくことの言い換えでしかないのかと思ったりする。それを嘆いているのではない。あきらめとも異なる。やむを得ないことなのだと受け入れるしかないことがらなのかもしれない。

きちんとねじを巻く必要があったときにねじを巻かないで過ごしてしまった。その時間をさかのぼって取り戻すことは不可能だ。後悔していないわけではないが、後悔しても始まらない。だから、「われ事において後悔せずなのだ」と言ったのは坂口安吾だったか。

こんなふうに村上春樹の小説を読むと、どこかで何かのスイッチがパチンと入ったように、普段考えることもなかったようなことが自然と浮かんでくる。そういうものを喚起する力が強いのだろう。村上春樹の作品にひきつけられる人が多いのは、おそらく、触媒のように作用してある種の感情を喚起するこの力によるのではないか。

『ノルウェイの森』の再読は、あと少しで終了となる。中盤から後半のエピソードの数々は細部をほとんど記憶に留めていない。それゆえ、新鮮な気持ちで読み返している。たぶん二十代の終わりに読んだときには気にもとめなかったであろう描写の数々がとても印象深く感じる。

年齢を重ねてから再読するというのは、こういう新たな発見や興趣につながるのだなとしみじみ思う。細部の考察については、いずれ後日じっくりやってみるつもりでいる。

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