読書

2009年11月14日 (土)

吉野弘「冬の陽ざしの」

吉野弘さんの詩に「冬の陽ざしの」という題のものがある。

最初の連は冬の陽ざしがさす海の波打ち際で、瀬戸やガラスがしずかにもまれている様子が描かれる。水際のほっそり丸い青い石は実はガラスだったと次の連が続く。「洗われて高雅にやせたかけら」とそのガラスは表現される。そのかけらを見て

かけらにも
することがあったなんて。

と驚きをこめた発見が語られる。次の第四連では「とんがった  若い気鋭のかけらたち」が波にもまれる様子に、芸術を志す若者たちの姿をだぶらせる。そして

かけらでおしまいになれないなんて。
それでおやすみできないなんて。

と続く。この「かけらにも  することがあったなんて。」「かけらでおしまいになれないなんて。  それでおやすみできないなんて。」という二つの連を目にすると、夢や希望が砕かれてもそれでお終いになるのではないという暖かな励ましを感じる。

かけらになっても波に洗われたり、風に吹かれたりして磨かれることは続いていく。これで終わりということがないのだ。自分を磨くことには終わりがない、ということなのだろう。どんな状況にいても、どんな逆風の中にいてもそこでどのようにして自分を磨いてきたかでその次の状況は違ってくる。

最終連の穏やかなあたたかさがいつ読み返しても心に残る。

こわされても
こわされても そのたびに
かけらには
新しい未来がふりあてられ
おだやかな冬の陽ざしが また
こぼれ落ちてくるなんて。

(思潮社、現代詩文庫『吉野弘詩集』所載)

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2009年10月29日 (木)

読書週間に入ったのですか・その2

読みたい本をさがす手段は、いろいろあると思う。その一つがブックガイドや書評集だ。以前の記事でも、米原万里さんの書評集を紹介した。斎藤美奈子さんの書評も毎度お世話になっている。テーマがはっきりしていれば、それに沿ったブックガイドを読むのが読みたい本を見つける一番速い方法だろう。

最近読んだ中で、久々に背筋を伸ばさなければと思ったのが、岩崎稔・本橋哲也 編『21世紀を生き抜くためのブックガイド … 新自由主義とナショナリズムに抗して』(2009年、河出書房新社)という1冊。

「はじめに … この本の使い方について」という序文で両氏が述べている。

 本書とともにみなさんには、いったん一九九八年の時点に戻っていただきます。映画だったら巻き戻しをして、そこからこの十余年の間に何が起こり、何が問題となってきたのかを再検証する…そんなことのためのブックガイドがこれです。…(中略)…しかし、いまから振り返って気がつくのは、まるで崩れていくようなこうした過程であっても、手をこまねいて見ているだけではなかったということです。何が起こっているのか、どうあらねばならないのか、そのことの意味をちゃんと考えようとする社会科学的・人文学的な書籍、雑誌、映像などがそのつど生み出され、適切な分析と指針が模索されていました。そうした過程を、本書はきっちりと整理しています。つまり、私たちが生き抜くために何をどう読まなくてはならないのか、そのための有益な手がかりが、ここには詰まっています。

収録されているのは『週刊読書人』誌上で、1998年から2008年までの間に行われた「年末回顧」座談会である。編者である両氏にもう一名論客を呼び、三人でその年ごとの問題をえぐり出すという形式で議論が進められる。両氏が自ら言うように、ある意味「アナクロな」硬派のスタイルだと思う。

目次に並ぶ各年ごとのタイトルを一覧していくだけでも、この11年の間に日本の社会がいかに変容していったのかが見えてくる。2001年の「絶望の中でいかに希望を語るか」というタイトルは、9.11後の世界に生きなければならなくなったわれわれの姿を思い出させてくれる。2006年の「「ネオリベ」との対峙の中で」、2007年の「貧困、脱国民化、歴史への問い」というタイトルからは明確化していく貧困化の問題が浮き上がってくる。

こうした問題をどう考えていけばいいのか。正面からそれを取り上げた書籍が鼎談の中で一つ一つ取り上げられていく。ほとんど読んでいないものばかりだ。社会問題に深く切り込んだものや、その背後にある思想に踏み込んだ考察など「硬派」の本が多い。

ときどきこういう「硬派」の本を手にとって、自分がいまいる地点がどこなのか振り返ることは大事なことだと思う。社会から隔絶した個人というものはありえない。社会的な問題に関心があってもなくても、否応なくわれわれは社会の変化や変容に巻き込まれていく。つまり、社会的な問題に「無関係」であることは不可能なのだ。いつの間にそんなことになっていたのか、と驚いたときにはすでにものごとが進んでいて、既成事実化しているものが大手を振ってまかり通っていることだってある。

毎日の暮らしは社会の流れと直結している。その社会の流れを作ってきたものが何なのか、この十年余の日本の社会を動かしてきたものは何だったのか、いくつも注目すべき問題があるのだと目を開かせられた。

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2009年10月28日 (水)

読書週間に入ったのですか

読書週間がくると、ブログを書き始めた二年前を思い出す。もうじき丸二年ということになるが、記事数は少ない。始めてから一年半ほどの間、一ヶ月に数本しか記事を更新しなかった。

今年の3月中旬から毎日更新するようになり、この半年ちょっとの期間でそれまでの記事数の2倍以上を書いている。書き続けることは、思っていたより大変なことだと分かったが、同時にやろうと思えばできることなのだということも分かった。要するに、毎日書くと心に決めてしまうかどうかなのだろう。

さて、読書週間に入ったものの、相変わらず平行して読んでいるものが読み終わらず、何か読書メモ風に書くのもおこがましいのだが、いくつか挙げてみたい。

まず、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟 1」。光文社古典新訳文庫から出ている例の亀山郁夫新訳のものである。数年前に話題が盛り上がったと記憶している。ブームは一段落したと思うので、じっくり読もうと今年に入ってから読み始めた。「カラマーゾフ」は30年ぶりである。学生の頃、新潮文庫に入っていたドストエフスキーを全巻読んだ。たしか江川卓訳だったと思う。米川正夫訳がそれまでの定番ではなかったか。たぶん全集の翻訳者はそうだったはずだ。私は新潮文庫から入ったので、江川訳でドストエフスキーの世界になじんでいった。

「カラマーゾフの兄弟」の亀山氏による新訳が面白いらしいと巷で噂になっていたのは知っていた。しかし、ベストセラーやブームになっているものは、村上春樹は別として滅多に手を出さないことにしているので、ブームが過ぎるまで読んでみようという気にならなかった。こういうへそ曲がりなので、どの程度の出来なのだろうかと値踏みするようなつもりで読み始めた。

正直驚いた。学生の頃に読んだ「カラマーゾフ」とイメージが違う。しかし、より登場人物の輪郭がはっきりした。身近に感じられる。訳語の新しさもあるのだが、それだけではない。江川訳にあったロシア文学の重厚さの圧力があまり感じられないからだろうか。いい意味で「軽い」のだと思う。その分だけ、ぐいぐい引きずり込まれるような物語の迫力は薄れているような気もするが、まだ第1巻だからなのか。

学生の時に「カラマーゾフ」を読み終えたときは、大きな感慨があった。新潮文庫に入っているドストエフスキーの作品の最後を締めくくるものとして、読み終わるのが惜しいような、それでいて先を急ぎたくなるような相反する気持ちにせかされて、一気に読み通した記憶がある。そのときはドストエフスキーの到達点まで伴走したような感慨を味わった。アリョーシャことアレクセイ・カラマーゾフという青年を造形できたドストエフスキーは幸運だとも思った。

坂口安吾は太宰治の死にふれて、芥川や太宰は体が弱かったから最後まで持たなかったんだ、ドストエフスキーは最後の最後でアリョーシャという人物を生み出すことができたからようやく間に合ったという趣旨の文を書いている。魂の救済、安吾はそれを言いたかったんだろう、おそらく。

ただ、学生の時は一気に読んでしまったがゆえに見落としていたものがたくさんあったのだなと今回読み返して思い知らされた。フョードル・カラマーゾフという父親、長兄のドミートリー、次兄のイワンそれぞれの人物像が実に興味深い。いや主役級の人物だけではない、脇を固めている登場人物の造形もなんと興味深くなされていることか。

まだ、第1巻しか読み終えていないので、残りの巻を一つずつじっくりと読み味わってみたいと考えている。

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2009年8月25日 (火)

『坊っちゃん』を読み返す・その2

きのうに続き、『坊っちゃん』の読み返しの話。

さて、マドンナにポイントがあると書いたが、どういうことか。マドンナは昨日の記事でも触れたように、人々の会話の中に登場することは多いのに実際の描写は一箇所しかない。「ハイカラ頭」の「色の白い」美人であるということから洋装の女性だろうと思われる。

このマドンナという存在が象徴しているのは、漱石の目に映った当時の「日本」の姿なのではないか。終盤で日露戦争の祝勝会の場面があることから、明治38年ころに年代が設定されていると分かる。維新から四十年近く経っているわけだ。日本が急速に近代化を推し進め、日清・日露の戦争を通じて産業革命が進行していく時期である。人々の暮らしにも「近代化=洋風化」が定着していく。

坊っちゃんが新たに下宿することになった萩野家のおばあさんの話をまとめると、マドンナは「遠山の御嬢さん」で、うらなり君こと古賀さんの所へ嫁に行く約束ができていたらしい。それが古賀さんのお父さんが亡くなって急に暮らし向きが思わしくなくなり、お輿入れが延びている所へ、教頭が出てきてぜひお嫁にほしいということになったという。

近代洋風文化を受け入れ変わっていく「日本」。それがマドンナの姿に象徴的に表されているように思う。教頭の赤シャツは、あだ名のもとになった「赤シャツ」から分かるように洋服をいつも着ている。洋風に染まりきっている人物である。うらなり君を捨てて赤シャツになびいたマドンナは、江戸時代から続いていた日本の文化をすてて洋風に飛びついた日本の姿そのものだ。

坊っちゃんの義憤は、マドンナを嫁にしようと思っている一方で「小鈴(こすず)」という芸者ともつき合っている赤シャツのダブルスタンダードに向けられている。建前としては洋風文化、本音としては従来の日本文化。こういう使い分けがいかにも欺瞞に満ちたものに思えてならなかったのではないか。

マドンナや赤シャツに向けられた憤りとは逆に、坊っちゃんが恋しく思う下女の「清(きよ)」は没落した「士族」の出であるように設定されている。伊予での不愉快な思いがつのるたびに、坊っちゃんが恋しく思い出すのは、この清のことであり東京のことである。古き良き江戸の日本。坊っちゃんは年齢からして維新後の生まれで江戸時代は体験していないわけだが、「旗本」だった父親を持っていることから江戸の遺風の中に成長したと想定できる。

しかし、その清も坊っちゃんが東京に戻って迎え入れてから間もなく亡くなってしまう。つまり『坊っちゃん』という話は、清が亡くなってから坊っちゃんが回想しているという設定で書かれているのだ。せっかく東京へ帰ってきたのに、清が亡くなり、坊っちゃんには心安らぐ場が永遠に失われてしまう。古き良き日本の消滅していく姿が重なっているようだ。失われてしまったものは戻らない。漱石の『坊っちゃん』という小説はユーモア小説と思われていて、確かに明るい印象を受けるが、そこにはなかなか苦い漱石の現状認識が盛り込まれている。

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2009年8月24日 (月)

『坊っちゃん』を読み返す・その1

先日、息子の読書感想文を手伝うバカ親になってしまったという記事(こちら)を書いた。

息子の策略にまんまと乗ってしまった私が愚かだった。このままではくやしいので、『坊っちゃん』を読み返して気がついたことを記事にしようと思う。

坊っちゃんが校長や赤シャツ、野だいこに対して反発するのは、『坊っちゃん』の設定の必然性から来ているのではないか。息子には「坊っちゃんは本音と建て前を使いわける赤シャツや野だいこのような連中が嫌いなんだよ」と説明しておいたが、そう話しているうちにもしかして漱石の人物配置に関係があるのではないかと気がついた。

坊っちゃんは、話の始めの方で「旗本」の出で、清和源氏多田満仲の後裔であると告げている。維新で転変や没落を味わった「士族」しかも「旗本」の家柄なのである。

坊っちゃんの盟友とも言うべき数学教師の山嵐はどうか。会津出身であることが終盤で示される。会津藩といえば戊辰戦争で旧幕府側の中心である。維新後も新政府から派遣された県令の支配を受け、それに反抗して福島事件が起きたりした土地柄である。

では赤シャツに婚約者のマドンナを奪われてしまった英語教師のうらなり君はどうか。彼は地元松山の人である。伊予松山藩は親藩であり、長州征伐の際も先鋒となった藩であった。そのため維新を迎える幕末の鳥羽伏見の戦いでは「朝敵」とされてしまう。ところが松山藩は新政府軍に対し、武力による抵抗をすることなくおとなしく白旗をかかげる。

一方、校長の狸や教頭の赤シャツは出自こそ示されていないものの、旧制中学の管理職であることから明らかに新政府側の薩長土肥出身者であろうと推測される。

野だいこは東京出身で「江戸っ子」と自称しているが、坊っちゃんのような「旗本」「御家人」の出であるとは書かれていない。画学の教師である点から推測しても、どこかの藩の江戸留守居役クラスの家柄で、維新後も東京に住み続けた家庭の出身ではなかろうか。

だから、旧伊予松山藩の地でくり広げられるこの『坊っちゃん』という話には、旧幕府側だった人間と新政府側の人間との対立という、戊辰戦争の再現みたいな人物設定がなされているのだろうと思う。伊予松山の人であるうらなり君が無抵抗でおとなしいのも当然のことなのだ。

しかし、漱石が描きたかったのはそういった単純な対立の構図ばかりではなかっただろうと思う。

ポイントは、うらなり君の許を去って赤シャツになびいてしまったマドンナにあると思う。『坊っちゃん』の話を思い浮かべるときマドンナは必ず誰のイメージにも出てくる登場人物であろう。だが、小説の中でのマドンナは会話の中によく出てくるだけで、直接描写は一箇所しかない。

これは今回読み返して驚いたことの一つだった。遥か昔、NHKで『坊っちゃん』をドラマ化したとき、マドンナは頻繁に登場した。その時の印象が強かったためか、マドンナの登場場面が多いはずだと思い込んでいた。だが、実際は温泉に向かう汽車を坊っちゃんとうらなり君が駅で待っている場面に登場するだけだ。その場面でさえ「色の白い、ハイカラ頭の、脊(せい)の高い美人」「おれは美人の形容などができる男でないから何にもいえないがまったく美人に相違ない。何だか水晶の珠(たま)を香水で暖(あつ)ためて、掌(てのひら)へ握ってみたような心持ちがした」と描写されるだけで、実にそっけない。

しまった、またまた長くなりそうだ。今日はここまで。

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2009年8月 8日 (土)

あ、本田先生の本だ

親父ギャグそのままのタイトルをお許しいただきたい。ブログを通じておつき合いいただいている山口のみかみ塾-本田屋の本田先生が本を出された。『君の成績をぐんぐん伸ばす7つの心のつくり方』(本田篤嗣 著・総合法令出版)である。

こういう本を待っていた。大人に向けたさまざまな啓発書は山のようにある。しかし、中高生が読むことを前提に、「成績を伸ばす」ために必要な「心の持ち方」や「ものごとのとらえ方」にポイントを置いて書かれたものはほとんどないのではないだろうか。

この本田先生の本がすばらしいのは、単なる技術や表面的なノウハウを教えるのではなく、技術を使う前提となる「考え方」や「こころの持ち方」をどのようにして身につけていけばいいのかを具体的に教えてくれるところだ。

さまざまな啓発書に盛られている内容を、教室に来ている生徒に形を変えて伝えたいものだと思ったことがある。系統もなく断片的に、しかも散発的に話をしたりすることもあったが、なかなか子どもたちにうまく伝えることができなかった。この本はまさに欲しかった一冊である。ここのところ連日、暇さえあれば本田先生のこの本からそのまま抜き出してトークに使わせていただいている。保護者へ連絡する文章にも利用させていただいている。そのくらい、至るところに的確なアドバイスが多く載っている。

『7つの心』のうち、前半の4つは具体的な話で、中高生には分かりやすく実践しやすいスキルが紹介されている。しかし真骨頂は後半の3つだと私は思う。「言葉」「感謝」「信念」に支えられてこそスキルは生きるのであって、スキルだけ独立してあるのではない。いや最初はスキルだけから入ってもいいのかもしれない。スキルから入っても本田先生の説くところは「言葉」「感謝」「信念」というものへ結びついていくので、単なるテクニックだけを覚えるような薄っぺらなものにはならない。

さまざまな国際的意識調査の結果などを見て、日本の子どもたちの自己肯定感の低さが気になっていた。自分のあり方に誇りが持てない、自分が好きになれない、そんな子どもが増えているのは悲しむべきことである。この本を読んで自分のことを信じる気持ちを持つ生徒が一人でも多く増えてくれたらいいなと思う。

だれもがイチローのようになれるわけではない。それでもイチローが自分自身を信じて結果を出してきたように、自分自身を信じることはできるはずだ。私たちがともすれば教えることを忘れがちな「誇り」の大切さをこの本は教えてくれる。

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2009年7月28日 (火)

目に見えないもの

『奇跡のリンゴ』の木村秋則さんが新しい本を出した。『すべては宇宙の采配』という本だ。『奇跡のリンゴ』は石川拓治著、NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」制作班が作った本なので、著者は木村さんではない。今回は木村さんの著作である。

木村秋則さんのことを知ったのは、今出てきたNHKの「プロフェッショナル」という茂木健一郎氏が司会しているテレビ番組でだった。仕事から帰り晩ご飯を食べながら何げなく見ていた番組だった。歯の欠けたどこかのおじいさんが雑草の生い茂る山のようなところへ分け入っていく。何だろうなあ、ここは。ぼんやり見ていると、実はそこが木村さんのリンゴ畑であることが分かった。絶対に不可能と言われたリンゴの無農薬栽培を成功させた人だという。

おじいさんだと思っていたが、そうではなかった。苦労されたために老けて見えただけだった。無農薬でリンゴを栽培できるようになるまでの過程は、すさまじい。極貧の中でよくあきらめなかったものだと感嘆した。成功するまで9年もかかっている。

私の母親の実家は秋田でリンゴ農家だった。母親にリンゴの無農薬栽培のことを話すと「絶対に無理だ」と即座に言う。農薬を散布しなければ虫にやられてしまう。出荷できるようなまともなリンゴは作れるはずがないという話だった。『奇跡のリンゴ』を渡すと目を丸くして驚いていた。

『奇跡のリンゴ』を読んでいる人は周りに多く、その話題になったときに一様に「あそこまであきらめなかったのはすごい」と言う。何がそこまで無農薬栽培に向かわせたのか。読後ずっと気になり続けた点だった。9年と一口に言うけれども、リンゴ栽培による収入はゼロなのだ。なぜそこまでしてリンゴを無農薬で作ろうと思ったのか。

今回、木村さん自身が書いた『すべては宇宙の采配』を読んでなるほどと思った。数々の不思議な体験がそれ以前から木村さんにはあったのだ。タイトルで引いてしまう人が相当数いると思う。逆に、タイトルで手に取る人も相当数あるかもしれない。内容的にも、この手の話はどうも受け付けないという人と、なるほどそういうこともあるかもしれないという人に分かれるだろう。

しかし、茂木健一郎氏が寄せた序文の中で述べているように、この本に述べられていることは木村さんにとっての真実なのであろうと思う。この茂木氏の序文と、木村さん自身が書いた「まえがき」をしっかり読んでから本文に取りかかることをおすすめする。木村さん自身は神や仏やいかなる特定宗教も信じていない。どちらかといえば木村さん自身が「教組」であるのだが。

合理的思考をぎりぎりまで追究してなお不明なものがあるということ。植物が地下に伸ばす根が地上に出ている茎や幹や枝の二倍以上の長さに渡るということ。人間も、目に見える姿の二倍以上も目に見えない部分に支えられているのではないかと木村さんは言う。氷山の話を思い出す。氷山も目に見えている水面上の部分より何倍も大きな氷塊が海面下に隠れている。氷山の本体はどちらなのかと考えたとき、海面下の見えない部分を無視することはできない。人間も、そうなのかもしれない。

『奇跡のリンゴ』を読まれた方はもちろん、読んでいない方にも是非一読してみてはどうかと薦めたい。『星の王子さま』の「本当に大事なものは目には見えないんだよ」というセリフが沁みるように思い出される本である。

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2009年7月25日 (土)

花巻といえば

昨日の高校野球岩手県大会は、花巻東が盛岡一に2-1で逆転勝ちし甲子園への出場権を手にした。選抜の時と同じように、花巻東には旋風を巻き起こしてほしいと思う。

ところで岩手以外の人にとって「花巻」と聞くと何を思い浮かべるのだろう。

やはり宮沢賢治だろうか。それとも花巻温泉。地元に住んでいるとどちらも近すぎてうまく距離が取れない。大学生のころ、岩手の出身だと告げると「じゃあ宮沢賢治や石川啄木のことは詳しいよね?」と必ず訊ねられた。詳しいも何も、こちらはきちんと読んだことがなく、いつもしどろもどろになりながら言葉を濁していた。

全国には驚くほど熱心な宮沢賢治のファンがいることも、そのころ初めて知った。さすがにこれはマズイとあわてて文庫本の宮沢賢治童話集を買ってきて読み始めた。読み進めるうちに、ああ、これは知っている話だというものが多かった。小学校、中学校を通じて賢治の作品に接する機会が実は多くあったのだ。

それは国語の時間だけに限らず、たとえば中学の美術の先生は、賢治の童話を題材にわれわれに絵を描かせたりした。小学校の遠足で花巻へ行き、昔の小さな記念館で手帳の頁に鉛筆で書かれた「雨ニモマケズ」の直筆原稿を見学したりもした。現在は花巻郊外の胡四王山(こしおうざん)に立派な賢治記念館ができており、その直筆原稿もそちらに収められているはずだ。

賢治童話の中から一つ挙げなさいと言われたら、大概の人は「銀河鉄道の夜」と言うかもしれない。確かに「銀河鉄道の夜」の透明な悲しみのようなものは忘れがたい印象を残す。賢治=「銀河鉄道の夜」と誰もが反射的に連想しても不思議はない。しかし、私は一つだけと言われたら、ためらうことなく「グスコーブドリの伝記」にする。

二十歳になったばかりのころ、私は家庭教師のアルバイトで、ある小学生の姉弟を教えていた。大学の先輩から紹介され、週に二回ほど授業をした。といっても上のお姉ちゃんは小学5年生で弟は小学3年生だったから、教科を教えるのは半分くらいで後の半分は遊び相手のようなものだった。忙しく商売をしている家で、夕食後も両親は仕事場に行ってしまう。そうすると子どもたちだけになるので、その相手をしながら勉強も見てくれればいいという話だった。ガリガリ勉強させてくれということではなかったので、ノンビリと話を聞いたりゲームにつき合ったりしながら勉強もするという感じだった。

姉弟のうち弟の方は、週に何回か絵の教室にも通っていた。少し内気な子だった。それでもだんだん慣れてくると自分の描いた絵を何枚か見せてくれた。いい絵だった。五月の鯉のぼりを描いたものだが、鯉のぼりの大きな頭部や吹き流しが画面を埋め尽くすかのように前景に描かれ、その鯉のぼりの合間から家々の屋根がのぞいて見える。とても力強く、元気な絵だった。繊細な感じのする男の子だったのだが、その絵を見たら、ああこの子は大丈夫だなと妙な納得の仕方をした。

ある時、お姉ちゃんの授業が終わり弟の番になったとき、少し疲れているように見えた。絵だけでなくいくつか他の習い事もあるようで忙しかったのかもしれない。勉強の雰囲気ではないなと思った私は、たまたまカバンに入れていた宮沢賢治童話集の文庫本を取り出した。「今日はね、お話の時間にしよう」そう告げて、私は朗読し始めた。その時読んだのが一番好きな「グスコーブドリの伝記」だった。小学生向けにリライトしたものではなかったから少し難しいかもしれないと思ったが、構わずに読み聞かせた。話が進むにつれて、男の子がどんどん童話の世界に引き込まれて聞いているのが分かった。

グスコーブドリはイーハトーブのカルボナード火山を噴火させるために最後まで火山に踏みとどまる。そして自分の命と引き替えに噴火を成功させ冷害から人々を救う。そこには悲愴感も勇敢さもない。淡々とごくあたりまえのことのように踏みとどまることを決意するブドリがいる。究極の自己犠牲の姿かもしれないと私はぼんやり考えていた。読み終えると、男の子はほおと小さく息を吐いた。私は何も解説しなかった。感想も聞かなかった。それでも確実に何かが伝わったという感触が残った。

その後2年ほど経って、私の事情で家庭教師を後輩に代わってもらうことになった。最後の授業の日、お姉ちゃんはさばさばしたものだった。弟は3階にある自宅から下の駐車場まで降りてきて、自転車で帰る私を見送ってくれた。残念そうにいつまでも立ち尽くしていた。あれから一度も会ったことはないが、今でも鮮明に覚えている。

自分の為すべきことをせよ。「グスコーブドリの伝記」を読むといつもそんなふうに思う。自分に与えられている役割は何か。自分の為すべきことは何か。誰かにものを教えた最初の経験と切り離し難く結びついている童話であり、原点を見失いそうなときに思い出す作品でもある。

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2009年7月18日 (土)

平岡正明が亡くなったとは…

昨日の朝日新聞文化欄に四方田犬彦氏が平岡正明を追悼する文を載せていた。

え、平岡正明が亡くなったんだ。全く知らないでいた。まだ六十代だと思うが、亡くなったのか。

平岡正明といえば筒井康隆作品やジャズの評論もするし、『山口百恵は菩薩である』『大歌謡論』などの歌謡曲評論もあり、『志ん生的、文楽的』『大落語』など落語を縦横無尽に語り尽くした快著もある。守備範囲の広い評論家であったと思う。威勢のいい語り口は読んでいて小気味よかった。

特に晩年近くなって縦横無尽に語った落語評論は傑作である。このブログで「江戸的スローライフ」のシリーズを書き始めたとき念頭にあったのが、平岡正明の落語評論だった。もちろん平岡正明の評論に太刀打ちなど出来ないが、平岡的分析方法や着眼は魅力的で、何とか雰囲気だけでもかすめ取りたいと思った。論理的でない、きわめて主観的・情緒的な落語論であるが、それゆえに平岡正明という一人の評論家の存在の面白さがよく表れている。

『志ん生的、文楽的』『大落語』は一対をなす評論集なので、落語好きの方には両方とも読むことをおすすめする。この落語評論の中には平岡自身の生い立ちを振り返った部分も多く、自伝的落語論の趣がある。この二つに描かれた古き良き時代の東京、さらには本郷の薬局だった実家の一族を描きながら考察するくだりや、少年時代の記憶に残る風景の描写は読んでいるだけでじわじわしみこんでくる不思議な味わいがある。評論集としてこの二つはネガとポジみたいな関係であるし、別テイクのジャズ演奏のような趣もある。

思えば平岡正明の評論そのものがジャズ的であった。ジャズ、落語、評論。それぞれのジャンルを自在に飛び越え行き来し、自由な思考がちりばめられた評論だった。落語評論をもっと読みたいと思っていたのだが、もう永久に新しい評論が読めないと思うと残念だ。

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2009年7月11日 (土)

三遊亭圓朝『怪談 牡丹灯籠』

暑くなってくるとやはり、怪談話である。稲川淳二である。と、今ならいうところだろう。古典的な怪談といえば『四谷怪談』か『牡丹灯籠』がどなたも浮かんでくるだろう。

後者『牡丹灯籠』は明治落語中興の祖と言われる三遊亭圓朝が書いた噺で、二十一回にも及ぶ長編である。落語の高座にかけられるときは、「お露新三郎」や「お札はがし」など一部だけだ。だからついつい牡丹灯籠といえば、例のカランコロンという駒下駄の音とともに新三郎のもとへ訪ねてくるお露と女中の米の噺しか思い浮かばない。

ところが「お露新三郎」の話はほんの一部で、お露の父親飯島平左衛門と草履取りの孝助の奇縁に始まる別のストーリーが、新三郎の世話をしている伴蔵・おみね夫婦の話に複雑に絡んでいくさまは、まさに因果は巡るなんとやらという感じである。あれよあれよというストーリー展開で、展開が速い最近のジェットコースター・ドラマも顔負けのすごさだ。

ご都合主義的なストーリー展開だともいえるが、話としては何と言っても後半の方が面白い。前半の「お露新三郎」はおまけみたいなものである。後半の話は人間の愚かさやいやらしさがとことん描かれているので、かなりえぐい話になっている。前半の「お露新三郎」だけなら清涼剤のような(?)怪談話で終わるのだが、後半は結構ドロドロした人間関係が描き出され、欲に翻弄される人間の姿がこれでもかと描かれる。そういう意味では、いわゆる「牡丹灯籠」の話として知られている部分より、なお一層「恐い」と言えるかもしれない。

やはり、何といっても生きている人間が一番恐いということか。

付記:  宝島社から宝島MOOK「名作 落語CD BOOK其の壱」として出ている本には、五代目古今亭志ん生の演じる「お露新三郎」と「お札はがし」の二席が入ったCDとともに、三遊亭圓朝の原作が載っている。落語と原作の両方が楽しめてお得である。 

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2009年7月 8日 (水)

時事ネタも面白いのは、さすが

本好き人間にとって、一番の頼りになるのは的確な「眼」を持った書評家の存在だ。それぞれお気に入りの書評家をお持ちだと思うが、私が無条件に手を伸ばすのは米原万里さんと斎藤美奈子さんの書評だ。米原さんは惜しいことに亡くなられてしまったが。

それにしても二人とも女性書評家である。なぜ、女性書評家なのか。いや設問の立て方が悪かった。なぜこの二人なのか。たまたま二人とも女性書評家なので最初のような問いかけになってしまったが、別に女性だから読んでいるわけではない。その書評が的確で、本質的なものをこちらへ取り出して見せてくれる手際が小気味よいから読んでいるのだ。

で、斎藤美奈子姐さんである。ときどき朝日新聞の学芸欄で小説時評を載せているが、切れ味抜群の時評である。寝ぼけた目がいっぺんに覚める。外側に見える事象や表層の奇矯さに惑わされることなく、斎藤姐さんは的確にその奥にあるものを明るみに出す。優秀な外科医が患部をスパッと切り取る手際を見ているようだ。

この斎藤姐さんが、書評ではなく時事ネタを取り上げた時評がタイトルもずばり『たまには、時事ネタ』(中央公論社、2007年)である。「婦人公論」の連載コラム「女のニュース」をまとめたもので、略称は『たまじじ』なのだそうだ。なんだか猫のタマを呼んでいる爺さんみたいな略称だが、この時評集が面白い。

2001年5月から2006年12月分を加筆修正して収録した、と「あとがき」にある。21世紀の最初の10年のうち、半分ちょっとの期間に日本や世界で起きた出来事をその時々のマスコミ動向とともにズバリと評している。そうなんだよな、21世紀に生きているんだよな、我々は。9.11同時多発テロ。ブッシュ政権と小泉政権。外務省を巡る田中眞紀子、鈴木宗男問題。イラク戦争。安倍政権。アテネ五輪。JR列車脱線事故。テポドン発射。こうして項目だけ並べてみても、この期間に日本が大きな曲がり角を曲がってしまったんだなとぼんやり思う。

斎藤さんの時評は、ときに日和見的なマスコミの風潮を一刀両断し、自主規制したがる日本人の心性をみて、きっと戦争に至る過程の日本もこうだったんだろうと言う。自粛モードのときに火中の栗を拾う「非国民」の道を選ぶのは、想像以上に勇気がいる。そう述べて、勇気さえあればコラムは成立する、というわけでもないところが難しいのである、と時評の立っているポイントを冷静に振り返る。

この辺が斎藤姐さんの評論の頼りになるところである。決して一方に熱くなってしまわない。クールに全体を見通して、本質を突く。書評集ではなくてもすぐれた書き手の手になると面白い本になるという見本のような一冊だと思う。

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2009年6月22日 (月)

絵本のたのしみ

息子がまだ小さかった頃、佐野洋子さんの絵本を買ってきて読み聞かせていた。といっても、気まぐれな父親なので、数冊でやめてしまったのだが。

一番最初に読んだのは『おじさんのかさ』(銀河社)だったと思う。次が同じ銀河社の少し小ぶりな『おぼえていろよおおきな木』で、最後が『100万回生きたねこ』(講談社)だった。

息子は佐野さんの少し斜に構えたユーモアが大好きだった。ドライだけどちょっとしんみりするところも気に入っていたのだろう。私も佐野さんの絵本のそういうところが好きだった。ただ、『100万回生きたねこ』だけは最後の方になると、目頭が熱くなってしまい冷静に読み聞かせることが出来なかった。

他の二冊は今も息子の部屋にあるのだが、『100万回生きたねこ』だけ行方不明である。ときどき読みたくなるときがあるので、探しているのに出てこない。きっとどこかにしまい忘れているのだと思うのだが。

Amazon.comで佐野さんの絵本を確認していたら、後ろからのぞき込んでいた息子が「懐かしい!」と言っていたので、どうやら記憶には残っているらしい。果たしてどういう影響を与えているのか皆目分からないのであるが。

佐野さんの絵本とともにお気に入りだった絵本は、ロシア民話の『おだんごぱん』(福音館書店)である。おだんごぱんの冒険は何度読んでも面白かった。この絵本は従弟が小さいときにもプレゼントし、やはりお気に入りになった絵本だった。いつの時代にも子どもにストレートに届く絵本なのだろう。

絵本を読み聞かせることはなくなってしまったが、この数年で読んだ中で面白かったのは、いせひでこさんの『ルリユールおじさん』(理論社)だ。絵がとても素敵だし、話の内容もいい。何度も何度もときどき繰り返して読みたくなる。読むたびに何かほんわかしたあたたかい塊が胸のうちに生まれるのを感じる。子どもに読ませるより大人が読んだ方がいい絵本なのかもしれない。

大人こそ絵本を読むべきだと言ったのは、ノンフィクション作家の柳田邦男だが、たしかにそうかもしれない。すこし心や体が疲れたなと思うときには、絵本が思っている以上にしみこんでくる。そうそう、忘れるところだったがサン・テグジュペリの『星の王子さま』もはずせない。池澤夏樹の訳した版で読んでいるけれど、読むたびにいつも考え込んでしまうことが多い。だからくり返し読むことになるのだろけれど。

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2009年6月13日 (土)

日本的感性

太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。

三好達治の「雪」という詩である。この短い詩が喚起するイメージは奥深い。「太郎」「次郎」は言ってみれば匿名の誰であってもいい。名を持たぬこの国のどこにでもいる民衆の一人一人。いや、それぞれ固有の名はあるものの歴史に名を残さないという意味で「名を持たない」、そういう人々の一人一人だ。

その名もなき民草の住まう家の屋根に、雪がしんしんと降り積もる。雪がしんしんと降り積もる夜。「眠らせ」から夜の情景だろう。夜、窓を開けてしんしんと降り積もる雪をご覧になったことがあるだろうか。音もなく後から後から降りしきる雪。人々の寝静まった寂とした家々の屋根に包み込むように降り積もっていく。

降り積もる雪は、あらゆるものを覆い隠してしまう。昼日中の人々の欲深い視線やさまざまな感情の交錯や罪深さといった全てのものを雪は覆い尽くしてゆく。空から降ってくる雪を眺めながら、後から後から舞い降りてくる雪片の際限もないくり返しに茫然とした思いを抱いたことはないだろうか。いくつもいくつも数え切れない雪片が降りてくる様子は、時間が永遠のくり返しに入ってしまったのかと錯覚させる。それは心地よい眠りに誘い込むような無限のループである。

この雪は家を押しつぶしてしまう脅威としての雪ではない。全ての矛盾や醜さや、その他もろもろのものを包み込んでしまう慈愛に満ちた雪である。一方で、覆い隠された矛盾や醜さやその他もろもろはどうなってしまったんだ、欺瞞ではないのかという声もする。吉野弘の「雪の日に」の一節を思い出す。

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけなければならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。
                (吉野弘「雪の日に」 詩集『消息』所載)

三好達治の「雪」は対句の響きが心地よい。日本的あいまいさの心地よさもこの詩にはあるのかもしれない。

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2009年6月 6日 (土)

1984といえば…

村上春樹の5年ぶりの長編「1Q84」が売れ行き好調のようだ。私はまだ実物を手にしていない。広告で見る限りではジョージ・オーウェルの「1984年」が村上春樹の念頭にあるらしい。

このオーウェルの「1984年」は、印象深い小説である。現実の1984年は過去のものになってしまったが、小説が執筆された当時は近未来が舞台という設定だった。イギリスは全体主義国の一部になっていて、国民はみなテレスクリーンと呼ばれる双方向モニターに監視されている。モニターには「ビッグブラザー」と呼ばれる独裁者が現れ、絶えず国民にメッセージを投げかける。そのころの世界は三つの大国に分割され、その中のどこか二つの国が同盟したり離れたりを繰り返している。つい先日までの同盟国がある日を境に敵国となり、それ以降は以前同盟国であった事実が全ての文書から抹消される。新聞のバックナンバーを調べても改竄されてしまっている。

そのような監視社会、全体主義の社会で従順な市民を装いながら主人公は党の方針に疑問を持ち始める。主人公は同じ考えをもつ仲間を見つけ出していく。だが、政府の監視の目に捕捉され、主人公は逮捕されてしまう。逮捕された後に待っているのは、拷問だ。この拷問シーンは非常に印象的である。たとえば生爪をはがしたり眠らせないといった、何かの映画で見たことがあるような拷問ではない。肉体に痛みを与えるものではない。精神に与える恐怖感を利用した拷問で、これはきついだろうなと思った。具体的には書かないが、主人公はそれによって仲間を裏切って告発してしまう。

国家と個人、裏切りの問題、監視社会。さまざまなものがぎっしりと詰まっている小説だった。文庫本で読んで、その後どこかにしまってしまったのか「1984年」が見当たらない。「カタロニア賛歌」や「オーウェル評論集」の方はすぐ見つかるところにあった。「1984年」だけ出てこない。

現在イギリスの街角には通りを監視するカメラが至るところにあるという。これは犯罪防止用の監視カメラなのだそうだ。「1984年」の世界とは違って、自由な社会ではあるが監視カメラがいたるところに必要な世界になってしまったという皮肉。

街の中だけの話ではない。今や衛星からの画像を利用して、世界の至るところを上空から眺めることが可能になってしまった。googleの衛星画像を見るとピョンヤンの街の様子だって眺めることが出来る。これは非常に不思議な気分だ。street viewにしてもそうだ。どの街の通りであっても大きな都市の通りならパソコンで見られる時代になってしまった。さながら「ビッグブラザー」がそれぞれのPCの前に分散してしまったかのようである。

ネットワークの発達によって全体主義的なものが発生しにくいようにも思える現代に、村上春樹は「1Q84」で何を問い掛けようとするのだろう。早く読みたいような気もするが、その前にオーウェルの「1984年」を再読したい。

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2009年5月17日 (日)

二つの問い

久恒啓一氏の『図で考える人は仕事ができる』(日経ビジネス人文庫、2005年)に、興味深い一節があった。

 さて、就職試験で企業の側から聞かれることは二つしかないと思います。一つは「あなたは今まで何をやってきましたか」という問いであり、もう一つは「あなたは今から何をしたいのですか」という問いです。
 この二つの問いに対して明快に説明できなければ、職業や仕事を獲得することはできないでしょう。「今から一生懸命頑張ります」というだけの人は、企業は欲しくないのです。何かを成し遂げた人でなければ、次に何かを成し遂げられないだろうということがわかっているからです。
 就職に限らず、この問いは普遍的なものです。現役のビジネスパーソンにも同様な問いかけをしてみましょう。あなたは自信を持って答えられますか?

以上の部分である。筆者の久恒氏は、日本航空を経て県立宮城大学の事業構想学部教授になった方だという。現在は多摩大学教授をされているようだ。本のタイトル通り、図解しながら考えをまとめたり「図読」しながら書物を読んでいこうと提唱している。その中で自分のキャリアや人生も図で考えてみよう、と勧めている箇所に出てくる一節である。

この二つの問いは単純明快な問いであるがゆえに、深く考え込まないわけには行かない。明快に説明するには、よくよく自分のこれまでを振り返って考えてみる必要がある。自分は何を成し遂げてきたのだろう。そしてこれから何を成し遂げたいのだろう。

久恒氏は三つの面で考えることを示している。まず何を学んできたかという「学習歴」。どういう経験や体験を積んできたかという「経験歴」。仕事の中身、挑戦したプロジェクト、成果は何かという「仕事歴」。この三つは、今から何をしたいのかでも使える。

「人生の区切りや年齢のとらえ方には、考え方がいくつかありますので、そのなかから自分に合ったものを選びましょう。」という同じ章の別の部分も面白かった。

人生五十年時代の人生訓に惑わされて「もう三〇歳だ」「四〇歳になってしまった」と途端にがっくりきたり、悲観する人がいるがそうではないと久恒氏は言う。人生八十年時代には新しい区切り方と考え方でいいのではないか。そう述べて、いくつかの実例が挙げられている。

たとえば十五年刻みで、10~25歳・学習期、25~40歳・基盤構築期、40~55歳・充実期、55~70歳・飛躍期、70~85歳・貢献期という分け方。四〇歳というのは社会に出て仕事を覚え始めた二五歳から、まだ十五年しか経っていない。そう考えれば「もう四〇歳か」ではなく「まだ四〇歳だ」と見方が変わってくる。私など「充実期」だからウハウハである。なにがウハウハだか分からないが、四〇の坂を越えて後は下る一方ですなどと言うよりもはるかに元気が出る。ことば一つでずいぶん気持ちも変わるものだ。

問題を多面的に考えるように、と生徒にはことあるごとに言っている。自分自身も物事を多面的に見るように訓練する必要がありそうだ。

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2009年4月 9日 (木)

夢十夜

夏目漱石の「夢十夜」をお読みになったことがあるだろうか。

連作短編とでも言えばいいのだろうか。内容はさまざまであるが、タイトルにあるように第一夜から第十夜まで夢の中の情景のような短編がまとめられている。

漱石といえば明治の文豪であり、「坊っちゃん」や「吾輩は猫である」に始まり「こころ」や未完の「明暗」に至る小説の方が有名だと思う。しかし、この「夢十夜」には夢の世界の不条理感や不可思議な感触がそのまま小説に表現されたような奇妙な味わいがある。繊細さと詩のような凝縮された世界を持つ作品群である。

その中に怖さに目が覚める悪夢のような話もある。といってよくあるようなホラーストーリーではない。「第三夜」に描かれた話は、どんな怪談よりぞっとするものだと私には思われる。夢の中で「自分」は六歳になる子どもを背負っている。確かに自分の子であるのだが、いつの間にか眼が潰れて、青坊主になっている。背負われている子どもと「自分」とのやりとりが怖い。具体的にどう怖いのかうまく説明できないのだが、とにかく怖い。ぜひご一読をお薦めする。この第三夜の不気味さにまさる怪談を私は知らない。寝る前に読んだら本当にうなされそうな話だ。

「第一夜」は何かの寓意が込められているのだろうか。それとも夢をモチーフに短編化しただけなのだろうか。おとぎ話のような不思議な感触と美しさがある。「第六夜」の運慶の話は現代文の問題集などにも取り上げられているのを見たことがある。あまり違和感無く読める話かもしれない。もちろん夢の中の出来事が持つ妙な感触は失われてはいないのだが。

漱石が夢を題材としたこういう短編を残したというのが興味深い。夢の不条理感や不可思議感に何か惹かれるものがあったのかもしれない。

夢といえば先日の明け方、亡くなった友人の夢を見た。三年前の暮れに病気で亡くなった中学時代の同級生である。元気だった頃の姿だった。どこなのかよく分からない場所で立ち話をしている。友人はいつものように煙草をプカプカやりながら笑顔で何ごとか話していた。何を話していたのか思い出せない。夢を見ている間は亡くなったことを忘れていた。すっと目が覚め、ぼんやりした頭で「ああ亡くなったんだったなあ」と思い出した。

この友人の病が重くなって、ちびやまめさんたちと盛岡の病院に駆けつけたときの朝に見た夢も忘れられない。場所は友人の家の二階である。友人は書棚の前に立って話をしている。例によって何を話していたのか思い出せない。顔の表情も逆光になってよく分からない。その友人の背にした窓の外に飛行機が墜落してくるのが見える。ものすごい速さで友人の家の周りを旋回しながら墜落し、機体が地中にめり込んでいく。次の瞬間、家がぐらりと揺れて回転し始めた。ハッとして目が覚めた。病気で入院しているのは知っていた。友人の身に何かあったのかもしれないという気がしてならなかった。その日のうちに共通の友人から連絡があり病院に来てほしいという。その時は重篤な状態になったからというわけではなく友人の母親から会いに来てやってほしいという話があってのことだった。病床にあった友人が夢を見て、その夢の中で親しい友人たちが声を掛けても背を向けてしまうんだと言っていたのを聞いて母親が我々に連絡を寄こしたのだった。

先日見た夢の中の友人は、いつもと変わりがない姿に見えた。一体何を伝えたかったのだろう。

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2009年3月27日 (金)

怒りの話

先日書いた読書メモ・3月でも取り上げた五木寛之と玄侑宗久両氏の対話集「息の発見」(平凡社、2008年)にこんな部分があった。

玄侑 密教では、あくまでも内が正だと教えるわけですが、でも出すのはほんとうに邪気だという研究もあるんですよ。じつは「人間の息というのは恐いものだ」ということを調べているかたがいまして、液体空気というのがあるらしいんですけど…。
五木 液体空気?
玄侑 ええ。液体窒素ってありますね、沸点がマイナス一九〇度ぐらいの。あれと同じような低温実験用の寒剤なんですが、加圧と断熱膨張を繰り返すと、淡いブルーの液体になるらしいんです。その液体空気というものに、自分の呼気をとおすわけです。そうすると呼気の中の揮発分というか、固形分が、液体空気のなかに沈殿するわけです。
五木 息が液体のなかに沈殿する?
玄侑 ええ。それでものすごく怒っているときに吐く息の場合は、かならず栗色の沈殿物ができるんですって。一時間怒っていた人の息を吹きこんだものから採取した栗色の沈殿物は、アメリカのE・R・ゲイツ博士というかたの実験によると、その成分で、八十人も殺せるほどの猛毒だというんです(笑)。
五木 いや、その話はよく聞きます。水槽に怒った息を吹きこむと、金魚が三十秒で死んでしまうとか(笑)。怒るということは、それほど毒をふくんでいるんだと。その毒は当然、体内にも蓄積されるから、自分の怒りで自分の体を壊すことになる。だから、決して怒らないようにしようということになるのですが、なかなかね…。
玄侑 似たような話は、脳内で分泌される、ノル・アドレナリンについても聞きますよね。怒りによって生まれる活性酸素と合わさって、遺伝子の二重らせんが切れるとか。
五木 ああ。仏像にも、怒気をあらわにして、息を吹きかけている像がありますね。その息で、悪を退治するというのですが、たしかに、怒っている人の息と、なごんでいる人の息とでは、息の質がちがっているかもしれません。

怒りの毒素が液体空気に沈殿するとは面白い。怒りの言葉が飛び交う場というのが居心地悪いわけだ。毒をふくんだ息が充満しているのだから。

マイナス暗示という言葉を耳にすることがあるが、怒りの息に毒素が含まれているのであれば、否定的な言葉が発せられるときもなにか好ましくないものが吐き出されていると考えてもいいのかもしれない。その場の空気感が変わってしまうような、強いマイナス暗示をかける言葉を感情にまかせて使うことはできるだけ避けるに越したことはないようだ。

一つの言葉で人は元気になったり、落ち込んだりする。まさしく言葉は両刃の剣だという気がする。立川談志が「あのねぇ、喧嘩っていうのはねぇ、声の大きい方が勝つの」といみじくものたまわっていたが、怒気をふくんだ大声であればさぞや毒素も多かろうというもの。できるなら誰かを元気づけるような言葉を口にしていたいものだと思う。

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2009年3月20日 (金)

読書メモ・3月(2009)

先月に引き続き、受験指導と確定申告と自治会の年度末準備が重なった時期であまり読了できていない。読みかけのままにしているものが多い。その中でも読了できた本をいくつかを挙げてみよう。

1.「楊令伝 五 猩紅の章」,北方健三,集英社,2008年
2.「楊令伝 六 徂征の章」,北方健三,集英社,2008年
3.「息の発見」,五木寛之・玄侑宗久,平凡社,2008年
4.「フェルメール全点踏破の旅」,朽木ゆり子,集英社新書ヴィジュアル版,2006年

1・2とも北方健三の渾身の長編『水滸伝』の続編にあたる長編シリーズ。いやあ、たまりませんなあ。息もつかせぬ戦闘シーン。国とは何か。人の生き死にとは何か。さまざまな思いを読むたび新たにする。実は「六」を移動図書から借りて読み始めたら、冒頭の部分の「五」の続きにあたる部分の指している内容がどうも記憶になく、あわてて北上中央図書館から「五」も借りることになった。

ところが「五」を読み始めたら何のことはない以前に借りて読んでいた内容だった。せっかく借りてきたからというわけで「五」も再読したが、ところどころすっかり忘れてしまっているシーンがある。やはり借りてきてよかった。このシリーズ、すでに「七」「八」も出ているはずだからいずれ移動図書で予約図書の連絡が来ると思う。とにかく熱い思いを抱かせる長い物語を読みたい方にはおすすめ。

3の「息の発見」は五木寛之が平凡社から出している「発見」シリーズの最新刊で、対話者は禅僧で小説家の玄侑宗久。この二人が「息」をめぐって交わしている対話が面白い。テーマは息であるが、関連してさまざまな事象が語られる。「洋式・和式トイレの作法」「アメリカ人に、なぜ河童は見えないか」「肉食は睡眠時間を長くする」など対話の要所をまとめたタイトルだけ見ても興味深い。中で印象に残ったのが「人間の第一呼吸と末期の息は、吐く息か、吸う息か」という話である。五木寛之は赤ん坊は産道から息を吐いて出て、人の最期は息を吸い込みいのちを終えると考えている。一方、玄侑宗久はその逆で、赤ん坊は産道を通るときに息を吐ききっているので生まれ出てまず息を吸って産声をあげると語る。そして人間の最期の息は吸う方ではなく吐く方ではないかと医師の考えを引用する。個人的に呼吸法に興味があって読んでみたのだが、いろいろ収穫があった。

ちなみに五木寛之の対談集である平凡社の「発見」シリーズには、他に気功家の望月勇と対話した「気の発見」、カトリック司教森一弘との対談「神の発見」、そして宗教哲学者の鎌田東二との「霊の発見」があるようだ。スピリチュアルな話なので、好き嫌いの分かれるところだと思うが、興味のある方はどうぞ。

4は美しい本である。ふんだんに載せられた写真や図版だけでなく、紙質やレイアウト、数字のフォントの選択などどれも細かく神経が配られ、新書版にしてはぜいたくな一冊という感じがする。

ヨハネス・フェルメール。いつごろから興味を持つようになったんだっけ。ダリの画集で「テーブルとしても使えるデルフトのフェルメールの亡霊」という長いタイトルの作品を目にしたときが最初かもしれない。フェルメール自身の作品ではなくダリの絵で名前を知ったというのもなんだが、なかなか本人の作品を見る機会がなかった。一番最初に目にしたのは「真珠の耳飾りの少女」だと思う。ラピスラズリという宝石を使った天然ウルトラマリンの青で描かれたスカーフと軽くこちらを振り返って見る少女の目が印象的だ。もちろん画集で見たものだから本物の持つ質感はまた違うのだろう。それから「デルフト眺望」。この風景画も美しい。17世紀のオランダの風景が永遠に時を止めたかのようにキャンバスの上に切り取られている。どちらもオランダのハーグにあるマウリッツハイス美術館に所蔵されている。

この2作品も含めてフェルメールの全作品は三十数点しか確認されていない。ヨーロッパとアメリカの美術館に分散しているフェルメール作品をほぼ全点見て回るといううらやましいような企画の本である。フェルメール作品へのすぐれた入門書にもなっている一冊だと思う。

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2009年2月25日 (水)

読書メモ・2月(2009)

時間が無くて本を読みたいと渇望している状態の方が本は読めるのかもしれない。

冬休みが終わって少し時間ができると、かえって本を読む時間が少なくなってしまった。1月後半はほとんど読了しておらず、2月に入っても読みかけのままの本が多い。というわけでごくわずかしか読了したものはないが、以下の通り。

1 「文学増刊 圓朝の世界」岩波書店・2000年
2 「忠臣蔵」秋山駿・新潮社・2008年
3 「三国志(三)」吉川英治・講談社(吉川英治歴史時代文庫)・1989年
4 「日本人が知らない恐るべき真実」安部芳裕・晋遊舎・2008年

1の「圓朝の世界」は没後百年に当たる2000年に岩波書店から「文学増刊」として出されたもの。三遊亭圓朝は近代落語の祖と言われている。数多くの人情噺や怪談噺を残し、「文七元結」「牡丹灯籠」「真景累ヶ淵」「芝浜」「鰍沢」などなど現在でもその作品群は演じられている。その圓朝作品の中に「鹽原(しおばら)多助一代記」というものがあり、江戸時代に実在した商人の史実に取材したものがある。この作品の後編にあたる「鹽原多助後日譚」があらたに発見され、その全編を載せている。「芝浜」や「文七元結」の落語を聞いて圓朝の作品を読みたいと思っていたところだったので興味深く読んだ。現代の読者には教訓臭が強くて受けないだろうなとは思ったが、多助がさまざまな出来事に遭遇しながらあわてることなく処理していく手際にはいろいろ学ぶべき所も多い。

2は偶然、移動図書で目にして借りた一冊。秋山駿の名前は文芸評論家としてつとに耳にしていたが文芸誌で評論を読んだことがあるだけだった。たぶん一番新しい単行本なのだと思う。新潮社の「波」に一年ほど掲載された忠臣蔵を巡る考察を一冊にまとめたもので、元禄と平成の時代の類似性に触れながら、「忠臣蔵」という物語が創られていく過程を論じている。
掲載期間の制約からなのか考察は討ち入りまでの物語化に重点を置き、討ち入りそのものには触れない。が、江戸城松の廊下で浅野内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介(こうずけのすけ)に切りつけた刃傷事件を仕組んだのは五代将軍綱吉と御側用人柳澤吉保であるという考察は秀逸である。仕組んだ理由の一半は綱吉母桂昌院の従一位贈位に対する宮中への返礼であるとする。もう一半の理由は不人気な「生類憐れみの令」からいくらかでも世間の目をそらし、もっと劇的なドラマで世間の心を沸き立たせたいという意図からだろうと論を進める。江戸に赤穂浪士たちが集まることを黙認したのも柳澤吉保だとする。確かに大石内蔵助(くらのすけ)が江戸入りするとき要所にある関所や各藩は何をしていたのかと考えると、御側用人柳澤吉保が手配して江戸まで足留めされることなく入れるようにしていたのではないかという説には説得力がある。もう少しボリュームのある論考を読みたかった。忠臣蔵のテーマで同じ作者の本格的な論考が出ることを期待したい。それにしても忠臣蔵はなぜこうもおもしろいのだろう。

3は前回に続き、八巻ある文庫版の第三冊目。ついに呂布が曹操に斬られてしまった。この場面も忘れているなあ。呂布に就いた陳宮を助命したかった曹操だが、逆に陳宮は早く頸をはねろと催促する。劉備が徐州を追われ袁紹を頼り、関羽は曹操の許に一時預かりの客将となる。そういえばそのような場面があった。このあたりは覚えている。禰衡(ねいこう)という毒舌家のエピソードなどはまったく記憶がない。こういうちょっとしたエピソードも吉川英治はさりげなく入れて曹操の人物造型に深みを与えている。吉川三国志のおもしろさは傍流の話をきちんと配置しているところにあるのかもしれない。

4は著者がブログで公開していた内容を刊行したもの。ちなみにブログはこちら 「日本人が知らない恐るべき真実」。リンク集の2005年8月のところに最初の記事が載っている。急速に悪化している経済情勢の中で著者が紹介する「地域通貨」の発想は、雇用を創出し地域が再生する一つの方策となるかもしれない。日本はすでに財政破綻しているのではないかという現状分析から始まり、グローバリゼーションが破壊していくものを考察し、「お金」の本質が何であるのかを明らかにする。自分がいかに「お金」のことを知らなかったかよく分かった。と同時に深刻化する不況の風の中、どうやって新しい雇用を創出し地域の活力を再生させていくかということを思うとき、著者の提唱する「地域通貨」は現実味のある方策ではないかという気がする。しばらく「地域通貨」を巡る書籍をあさる日々が続きそうだ。特に『モモ』で知られるミヒャエル・エンデが注目していたシルビオ・ゲゼルという経済学者の理論と地域通貨の運用の実際に興味を引かれる。

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2009年1月16日 (金)

ことしは今日がブログの書き始めです

冬期講習が14日に上がり、中学校の新学期も始まりました。遅ればせながら本年もよろしくお願いいたします。

さて、ことしは正月の3日から仕事を始めております関係で、寝正月ともならず元日・2日の休みを利用して読書三昧となりました。読書メモを残しておこうと思いながら去年は実行せずに過ぎてしまいましたので、ことしは定期的に読了した本を記録していこうと思い、さっそく1月半ばまでの分を書きだしてみることにします。

1 「走ることについて語るときにぼくの語ること」村上春樹・文藝春秋・2007年
2 「読む人間 読書講義」大江健三郎・集英社・2007年
3 「姜尚中対談集 -それぞれの韓国そして朝鮮-」姜尚中・角川学芸出版・2007年
4 「スヌーピーの処世哲学」廣淵升彦・海竜社・2006年
5 「三国志(二)」吉川英治・講談社(吉川英治歴史時代文庫)・1989年

1は村上春樹がランナーとしての自分を振り返ることで小説家としての来し方を振り返ることにもなっている点がおもしろいエッセイでした。長年その小説を読んできた読者としてはランナーとしての村上春樹は知っていましたが、実際どのようにしてマラソンやトライアスロンに出る準備をしているのか分かりませんでしたし、なにより「風の歌を聴け」以来変わらない村上春樹の作家としてのスタンスも見えておもしろく読みました。
2の大江健三郎も自分が読んできた本を通じて、作家としての自分の今がどう形作られてきたかを語る興味深い本です。英詩やダンテの「神曲」を読んでみたくなりました。
3は対談集です。対談している人々の年齢も職業もまちまちでありながら、姜尚中が「在日」という存在として日本と半島との間でどういうところに立ってものを考えようとしているかがよく分かりました。
4はなかなか味わい深い本です。シュルツさんの「ピーナッツ」に登場するおなじみのチャーリー・ブラウンやルーシー、ライナスそしてスヌーピーたちの英語のセリフを紹介しながらそこに込められたシュルツさんの深い人間洞察がほのぼのとした調子で解説されております。
5の吉川三国志はこれで何度目でしょうか。3度目か4度目だと思いますが、何度読んでもついつい引き込まれてしまいます。それだけストーリーを忘れているということかもしれません(笑)。文庫で八冊ありますのでまだ序盤ですが、呂布と劉備の関わりがこんなにあったんだっけとすっかり忘れておりました。いずれ「三国志演義」や正史の「三国志」も手を出したいものだと思っております。

去年から読みかけの本もあわせてですが、期せずして村上春樹・大江健三郎・姜尚中の三者とも自己の立ち位置を確認するような本だったなと思います。年頭に読んだのも何かの縁でしょうから、私も自分の現在の立っているところを確認してみようと思います。

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2008年10月29日 (水)

もう読書週間?

ネタに詰まったときの奥の手、「積ん読」リストの秋期版です。興味のある方は春期版「今日は二番煎じです」もご覧ください。

そもそも春の読書リストのほとんどがまだ「積ん読」状態なのに、さらにまた「積ん読」本を増やすのはいかがなものか、と国会の首相答弁のような声が聞こえてきそうです。ま、ま、そう固いことはおっしゃらずに、まずは一席ごゆるりとお付き合い下さい。

春期版同様、「まだ読んでいない本のリストです。これから読んでみようかと思っている本ばかりですので、感想は書けません。本の表紙すら見ていません。タイトルだけで興味を引かれるものがありましたら、あなたもどうですか?」って、以前のブログからコピー&ペイストは楽だなあ。昔は「切り貼り」作業っていったら、本当にハサミで切ってノリで貼ってたんだけど。

 1 「息の発見」、五木寛之・玄侑宗久、平凡社
 2 「モーツァルト = 翼を得た時間」、磯山雅、講談社学術文庫
 3 「早わかり日本史」、河合敦
   「早わかり世界史」、宮崎正勝、ともに日本実業出版社
 4 「話し過ぎない技術」、芦屋広太、マイコミ新書
 5 「涙の数だけ大きくなれる!」、木下晴弘、フォレスト出版
 6 「遠藤周作 --- 挑発する作家」、柘植光彦編、至文堂
 7 「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」1・2・3、武田邦彦、洋泉社
 8 「怖い絵」、中野京子、朝日出版社
 9 「イラク崩壊」、吉岡一、合同出版
10 「中東激変」、脇祐三、日本経済新聞社
11 「奇跡のリンゴ」、石川拓治著・NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」制作班監修、幻冬社
12 「響きあう脳と身体」、甲野善紀・茂木健一郎、バジリコ

1は最近呼吸法にはまっておりますので、よっ待ってましたぁ、五木ひろしじゃなかった五木寛之、という感じです。2はなぜ選んだのか忘れてしまいました。が、モーツァルトの音楽は大好きです。3は歴史オタクとしてはちょっと素通りできないタイトルと、指導に使えるかもという不純な動機から。4はタイトルに惹かれました。毎度授業で無駄な説明ばかりしているので切実です、ハイ。5はなぜ入っているのか不明です。だいたい本のタイトルに!が入っている本は普段なら選ばないのですが、読書広告の文面に引っかかったのかもしれません。中身は分かりません。
6の遠藤周作はなつかしい限りです。中学時代から高校時代にかけての私の読書は、遠藤周作と筒井康隆の作品だけといっても過言ではありません。特に遠藤周作のカトリック作家としての作品群と「狐狸庵先生」シリーズの落差の大きさに驚かされたものです。歌手中島みゆきとディスクジョッキー中島みゆきの落差みたいな、と言っても分かんないよなぁ、今の中高生には。とにかく遠藤周作抜きには今の私はありません。
7は常々エコブームの胡散臭さが気になっていましたので、ちょっとのぞいてみたい本です。二酸化炭素は本当に増加しているのか疑問だと広瀬隆氏がある本で述べていたことも思い出します。8はタイトルのみで選びました。紹介記事もあったのですが忘れました。ちなみに「怖い絵 2」もあるそうです。「怖い絵」ってどんな絵だろうなぁ、想像するだけでああコワイ。
9・10はともにイスラム問題の専門家、小杉泰氏が紹介していた本ですので中身はまちがいないと思います。どちらもブッシュ後の中東を見るときに大いに参考になる本のようです。11は探しておりました。NHKの「プロフェッショナル」という番組でたまたま見て衝撃を受けた話です。リンゴの無農薬栽培は不可能と言われていたのを極貧状態まで追いつめられながら成功させたリンゴ農家のおじさんの話で、深く心動かされました。12は、その「プロフェッショナル」の司会でもおなじみの茂木健一郎氏が、古武術研究家の甲野善紀氏と「脳」と「身体」をめぐっていかなる対話をしているのか興味深いところです。

と、あいかわらず無茶苦茶でごった煮状態のリストですから私の備忘録にしかなりませんが、興味をひかれるものがありましたらどうぞご一読を。

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2008年8月15日 (金)

お盆休みの本棚から:筒井康隆『パプリカ』

お盆休みも今日まで。オリンピックも高校野球も家族は熱心に観ていますが、私は少々食傷気味で、他の人が熱狂しているときは別のことに目を向けるというあまのじゃく気質が顔を出しています。

昨日14日は、午後から夜までほとんど筒井康隆の『パプリカ』(中公文庫)を読むことに時間を費やしてしまいました。というか読み出したら止められなくなって一気に読んでしまった、というのが正直なところです。

アニメ化されDVDにもなっているようですからそちらをご覧になった方も多いかもしれません。文庫カバーの裏表紙面に載っている概要を引用すると

「精神医学研究所に勤める千葉敦子のもうひとつの顔は<夢探偵>パプリカ。患者の夢を共時体験し、その無意識へ感情移入することで治療をおこなうというものだ。巨漢の天才・時田浩作と共同で画期的サイコセラピー機器<DCミニ>を開発するが、ノーベル賞候補と目されたことで研究所内には深刻な確執が生じた。(中略)現実と夢が交錯する重層的空間を構築して、人間心理の深奥に迫る禁断の長編小説。」

となっております。「禁断の長編小説」は、ちと大げさな気もしますが、刊行されたのが1993年ですから15年も前の作品だったのですね。文庫が1997年初版で、たぶん文庫化されてすぐくらいに買ったのでしょうからもう11年前になるわけですが、全く読んでいなかったことにハタと気づきました。いや、一度読んでいながらすっかり内容を忘れたのか、どうもその辺は自信がありません。ともかくストーリーは初めて接するものという感じを受けました。

実は何を隠そう、三十数年来の筒井ファンであります。この数年は熱心に読んでいなかったものの刊行されている作品の大半は読んでおります。最近開設された「笑犬楼大通り 偽文士日碌」という公式ブログも欠かさず更新をチェックしております。したがって筒井康隆的世界の表も裏もメビウスの輪のように行き来できるほど、よく慣れ親しんでおります。この『パプリカ』もよく知っている筒井ワールドの要素にあふれています。

それにしても10年以上も「積ん読」状態だったとはもったいないことをしました。もっと早く読んでおくべきでした。読み終えてから筒井康隆の他の作品が急に読みたくなりました。夢と現実を行ったり来たりするという設定は、前にもあったなあ。あれはなんという作品だったっけ?「脱走と追跡の産婆」じゃなくて「脱走と追跡のサンバ」だったか。いやいや違う。「夢の木坂分岐点」とも違うなあ。夢の分析をしている精神分析医のところに女性患者の夢に出てきたライオンが現れるという話はどの短編でしたっけ?それから「DCミニ」というサイコセラピー機器が出てきてからの話は「だばだば杉」の話に似たような部分があったような気がするが。パプリカのキュートさは七瀬のキュートさとは少し違うけれど、どこかで出会ったことがあるような気がするしなあ…、と懐かしさで一杯です。

実験的ではあるのですが、実験性はあまり全面に出さず、一気に読ませてしまう面白さは筒井康隆ならではの世界です。比較的最近の『銀齢の果て』や少し前の『敵』で、老齢に達した境地を反映したのかと思わせて実はそれも筒井康隆の策略なのだろうと思ってしまうのは、筒井ファンの悪い癖ですが、いずれにしてもこの『パプリカ』でも仕掛けの多い、何度でも楽しめる世界が広がっています。

裁判員制度が始まると聞いて『12人の浮かれる男』を思い浮かべたアナタ、体調が思わしくないと『薬菜飯店』に行ってみたいなあと思うアナタ、もし私のように読んだつもりで『パプリカ』未読でしたら、今すぐ手に入れてお読み下さい。期待している以上の満足が得られること請け合います。

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2008年7月 4日 (金)

『日と月と刀』関連です

読了したばかりの丸山健二の『日と月と刀』について、前回の記事の中で、三浦雅士の評論『出生の秘密』の持つ文章のリズムや緊張感と似ている書きましたが、偶然にもその三浦雅士が丸山健二の『日と月と刀』について書評を載せていました。

「毎日jp」の「今週の本棚」という欄です。
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2008/06/20080629ddm015070002000c.html

内容について細部まで触れていますので、読む前に概要を知りたくないという方は、ぜひ読了後にお読みになってください。

三浦雅士が丸山健二の『日と月と刀』の書評を書いていたとは全く知りませんでしたから、偶然の一致に驚きました。三浦雅士というと「ユリイカ」や「現代思想」(ともに青土社)の編集長だった方ですが、気になる特集があるとときどき手にしていたなあ、と二十代のころが懐かしくなります。

『出生の秘密』(講談社)という三浦雅士の評論は、丸谷才一の小説を中心に近代日本文学の深い部分に切り込んでいくという仕事で、日本文学や日本の近代小説に興味をお持ちの方には一読をお薦めします。新しい視点を得られると思います。ただし少しボリュームがありますので、寝転がって読むと腕が痛くなると思います。正座する必要はありませんが、机の上などに置いてページを繰る方が安全でしょう。



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2008年7月 1日 (火)

丸山健二『日と月と刀』読了

4月30日投稿の「今日は二番煎じです」の記事
http://k-manabiya.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_ca29.html
で取り上げた、これから読んでみようと思う本の中で、やっと丸山健二の『日と月と刀』(文藝春秋)上・下を読み終わりました。

何年か前に『虹よ、冒涜の虹よ』を読んだときに腰をぬかしそうになるほど驚き、これは小説以外では表現し得ない世界だと思い知らされ、なぜこの作品がセンセーションを引き起こさなかったのか不思議でなりませんでした。

丸山健二は23歳で芥川賞を取り、これは綿矢りさが登場するまで芥川賞の最年少記録だったそうですが、以来「孤高の」という形容がこれほど似つかわしい人はいないくらい中央文壇と距離を置いて執筆し続けてきた作家です。

しかし私が最初に丸山健二を知ったのは、小説を通じてではなく、オフロード・バイクであちこち回った様子を写真とともに紹介した雑誌の紀行文でした。最初に読んだ単行本は妹が持っていた『私だけの安曇野』というエッセイ集で、その次も同じくエッセイ集の『イヌワシ讃歌』という文庫本。このエッセイ集は印象に残っています。丸山健二という人物の名前はこの『イヌワシ讃歌』によって、しっかり頭の中に刻み込まれたと言ってもいいくらい強い印象を残しました。イヌワシのような生き方、決して群れない生き方というのは、丸山健二自身の生き方でもあるのですが、私もその考え方に強く惹かれました。

ただ、小説はなかなか手にしないまま長い長い年月が過ぎ、ある時たまたま移動図書で目にした『虹よ、冒涜の虹よ』というタイトルと「丸山健二」という懐かしい名前に引き寄せられるように手を伸ばし、一読驚愕、唖然呆然、すごいすごすぎると衝撃を受けました。こんなとんでもない小説を書く作家が日本にもいたのか、というのが正直な感想です。そして、これは映像化不能だろうなあと思わずうれしくなってしまいました。安易に映像化され得ない、小説以外の形式では表現し得ない、そういう世界が展開されている小説でした。はっきり言ってこれは一つの事件であるのにも関わらず、なにゆえ世間ではこの作品が反響を巻き起こしていないのか、と思ったものです。まぎれもない傑作だと思います。

前置きが長くなりましたが、この『虹よ、冒涜の虹よ』の残像が強く脳裏に残り続けていたため、今回の『日と月と刀』の刊行を新聞で知ったときには、すぐに読まねばという意を強くし、やっと読了しました。

この作品も『虹よ、…』とは違った意味で小説の可能性を示し、小説でしか表現し得ない世界を描ききっている傑作だと思います。『日と月と刀』の方が映像化しようと思えばできないことはないかもしれませんが、絶対不可能なのがその文体の映像化です。最初は少し違和感を覚える文体でしたが、読み進めるにつれて、その必然性がひしひしと迫り、確かにこの文体以外の選択は有り得なかっただろうと納得させられます。そして推敲の跡すら感じさせぬ、丹念に彫琢された文章が文体と相まって作り出す独特のリズムは、読むに従って心地よさを増していきます。全く脈絡がないのですが、なぜか三浦雅士の『出生の秘密』(講談社・2005年)が持っていたリズムと似ているような感触を持ちました。三浦雅士が書いたのは評論なのですが、同じように推敲の跡を感じさせない丹念に磨かれた思考と言葉が醸し出すリズムは、停滞することもなく弛緩することもなく、心地よい緊張をはらんだまま最後まで維持されていきます。

両者に共通しているのは、時間をかけて丹念に仕上げられた作品であるという点です。刀剣の研ぎ師がゆっくりと、しかし小さな刃こぼれ一つ見逃さず時間をかけて刀を研ぎ上げるように、即席や付け焼き刃ややっつけ仕事では決して到達できない高みに上りつめています。どれくらいの時間がかけられたのか想像できませんが、少しずつ少しずつ慎重に書き進められ、丁寧に推敲され、さらに推敲され、研ぎに研いで磨きに磨かれて一点の曇りもない傑作として現前したような印象を持ちます。

物語の細部はこれから手にする方のために伏せておきますが、この『日と月と刀』を読んでいるときに、その文体から連想したのは古典の説話の数々です。丸山健二は相当数の古典を読み込んだのではないか、ということを思い浮かべました。それらを消化し血肉化し、さらに新しい小説世界を創造していくのに一体どれくらいの時間が費やされたのだろうかと想像すると、気が遠くなりそうです。しかもその作業が中央の文壇の流行りすたりと全く関係なく、こつこつと静謐の中で続けられたのだろうと思うと感慨深いものがあります。『イヌワシ讃歌』のころの丸山健二は、やはり変わらず健在なのだといううれしい確認でもあります。この人の衰えることのない創作への意欲が次にどんな世界を見せてくれるのか、それはこの上もなくスリリングな期待と言えるでしょう。

文学の衰退が叫ばれ、活字離れが何かにつけて大きく取り上げられますが、丸山健二の小説を読むと、小説の可能性もまだまだ捨てたものではない、どころか豊饒な世界が広がっていることが実感されるのではないかと思います。



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2008年6月20日 (金)

60回目の桜桃忌

大きな地震に驚きましたが、震度6強にもかかわらず当方も当教室も無事に過ごしております。今回の地震で亡くなられた方々にはご冥福をお祈りします。

余震もほぼ毎日続くと慣れてくるものです。非日常も日常化すると驚きがなくなってくるということなのでしょう。教室は古いビルの三階にありますので、震度2~3くらいの余震でも相当揺れます。ゆらーりと実にいやな感じの揺れ方です。この揺れ方だけは慣れません。まずは逃げ道確保とばかり、出口のドアを開けて様子を見るということを繰り返しています。

収束するまではまだ時間がかかると思いますし、これから雨が降るようになると土砂崩れや堰き止められた土砂ダムが決壊し一気に流れ下るような事態もあるかもしれません。危険区域に近い方は気を付けてお過ごしください。

さて、6月18日付の朝日新聞「天声人語」欄に、19日の桜桃忌も60回目となるという話題が載っていました。同コラムによると、来年は太宰治の生誕100年でもあり、ちょっとしたブームで読者は増え続け、人物論もにぎやかだという話です。

津軽を訪れて「斜陽館」に足を運んだこともありますが、私は熱烈な太宰治ファンというわけではありません。無頼派の作家たちに魅力を感じ、読みあさっていたのは20代の前半のころでした。石川淳から入り、坂口安吾へ進み、最後が太宰治でした。まだまだ無頼派の作家たちはいるのですが、私にとっての無頼派体験はこの三人の作家に尽きます。石川淳からはその和漢洋の文学に対する該博な知の姿勢を、坂口安吾からは至極まっとうな批評精神を学んだように思います。では太宰治からは?

おそらく太宰治から学んだのは人間の「弱さ」というものかもしれません。

一歳年上の従兄が文庫本の『人間失格』を読んでいました。この従兄はいわゆる「不良少年」で、大きなバイクを乗り回し、ケンカに明け暮れ、どこかすねたような生き方をしている人でした。「不良少年」になれなかった私は、この従兄に憧れのようなものを感じていました。

従兄がどんな思いから『人間失格』を読んでいたのか分かりません。ただ、虚勢を張っている従兄の奥に何か寂しさや悲しみのようなものを感じていたようにも思います。太宰文学の底流にある「弱さ」と同質のものかもしれません。

太宰は、まるで耳元で語りかけられているかのように感じる、読み手の内面に直に届く文体を持っている、とだれかが書いていました。確かにそうです。自分だけに向けて書かれた手紙を読んでいるような親密な感触、そういうものに包まれながら読み進むことの幸福を読者は味わえます。そしてくり返し表現される人間の「弱さ」というもの。その「弱さ」を太宰は否定しません。

三島由紀夫が太宰治を認めなかったという話は有名ですが、「強さ」を求めた三島にしてみれば「弱さ」を擁護する太宰は許し難かったのでしょう。しかし、いつの時代になっても太宰治の作品が読み継がれていることを考えると、単に「弱さ」を擁護しただけではないのかもしれません。「弱さ」を抱きしめながら、それを乗り越えるものを太宰自身が求めていたのだろうと思います。

若いころに読んだ方がいい小説というのは確かにあるような気がします。太宰治が悩み考え抜いたことは、若い人々に普遍的に通じるものがあると思います。そういう意味で、太宰治は永遠に青春の作家なのかもしれません。

ちなみに「不良少年」だった従兄は、今では子どもの教育のことが気になるどこにでもいる父親の一人になっています。「あの頃『人間失格』を読んでいたよね?」と聞いても、おそらく「覚えてねえなあ」と言われておしまいになりそうです。


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2008年5月 1日 (木)

偽書『東日流外三郡誌』

今日もお気楽に読書ノート代わりの記事です。

タイトルの『東日流外三郡誌』を見て、「つがるそとさんぐんし」とよめたアナタ、そうアナタです。もうとっくに偽書と相場が決まっているものを、何を今さらと思っていませんか。そうです、何を今さらなんですよ。

この「戦後最大の偽書事件」といわれる『東日流外三郡誌』真偽論争については、擁護派、偽書派双方の書籍・記事が数多く世に出され、結局は偽書だったということで落着しています。ですが、詳しい事件の経緯と、この偽書事件の中心にいた和田喜八郎という人はどういう人物だったのか気になっていました。

つい先日、斉藤光政氏による『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物往来社、2006年)を読んで納得し、なおかつ非常に面白い本でしたのでご紹介したいと思います。斉藤氏は現在東奥日報社編集委員で、この事件の発端から落着までの全てを報道してきた方です。偽書をめぐる騒動の当事者と言った方がよいでしょう。

斉藤氏はある民事訴訟の取材から偽書の存在を知り、そこから延々と続く不毛な偽書論争に巻き込まれて行くわけですが、その経緯を紹介しながら和田喜八郎という特異な人物の姿を浮き彫りにしていきます。古物と古文書を結びつけると商売になるという話は、はじめて知りました。この延長に偽書事件があり、単なる偽書騒ぎで済まなかったのは、この偽書を元に地元の行政組織やら神社の氏子総代会がだまされてお金を出しているという事情があったからです。よく詐欺事件として訴えられなかったなと思います。損害賠償を請求されても不思議ではなかったはずですが。

しかし、なぜ偽書が生まれたのかまとめた第十二章で、中央政権に征服された「まつろわぬ民」としての東北人の歴史的コンプレックスがこの事件の背景にあるという指摘にはドキリとしました。「この本(偽書のこと:小林注)によって東北の主体性を確立することができると感奮した人々があったとしても、彼らの錯誤を笑う気にはなれない。そうした東北人の心情をたくみに利用して、次から次に偽書を流布して人々を手玉にとった悪徳の行為を許すことはできないが、それに踊らされた善人たちについては、一片の同情を禁じ得ない」この民俗学者谷川健一氏の引用に的確に要約されていると思いますが、東北人として分かる心情のあり方です。

最後に引用された、偽書事件を追及し続けた元産能大学教授、安本美典氏の言葉も印象的です。「私たちは、ともすれば、優しい心をもつ。だれに対してでも、優しくありたいと願う。そして、ともすれば、常識性のなかで、ことを判断し、処理したいと願う。できれば、あらそわずに、事をおさめたいと願う。しかし、この優しい精神は危険である。常識性を、はじめから無視する人、あらそいを厭うよりもむしろ好きな人は、この優しさに乗じて、人心を支配する。優しさのゆえに、沈黙してはならない。独断と、歪曲と、ゆえなき批判攻撃とに、真実にいたる道をゆずってはならない」

地域おこしの一環に、さまざまな歴史的事柄が利用されることもあるかと思われますが、つくづく慎重に用心してかかることが必要なんだなと感じます。話題性のために十分に検討しないで飛びつくと、高い代償を払うことになるという教訓は心して聞くべきでしょう。


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2008年4月30日 (水)

今日は二番煎じです

だいぶ前に大験セミナーの金田先生が、自分を励ましてくれた本の一覧を載せていたのを拝見し、そうかこの手があったかと膝を打ちました。詳しくは金田先生のブログをご覧下さい。(金田先生、すみません。アイディアだけ利用させていただきました。)

http://daiken.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_2c19.html

ブログネタに詰まってきたので、さっそく真似てみようと今日は二番煎じです。が、私の場合はまだ読んでいない本のリストです。これから読んでみようかと思っている本ばかりですので、感想は書けません。本の表紙すら見ていません。タイトルだけで興味を引かれるものがありましたら、あなたもどうですか?

 1 「未来派左翼」上・下、アントニオ・ネグリ(ラフ・バルボラ・シェルジ編・廣瀬純 訳)、NHKブックス
 2 「ボスニア内戦 -グローバリゼーションとカオスの民族化-」、佐原徹哉、有志舎
 3 「物語編集力」、イシス編集学校 構成、ダイヤモンド社
 4 「おつまみ横丁」、編集工房桃庵、池田書店
 5 「江戸東京地名辞典 -芸能・落語篇-」、北村一男、講談社学術文庫
 6 「温泉主義」、横尾忠則、新潮社
 7 「友だち地獄」、土井隆義、ちくま新書
 8 「ルネサンスとは何であったのか」、塩野七生、新潮文庫
 9 「はたらきたい」、ほぼ日刊イトイ新聞編、東京糸井重里事務所
10 「本の本」、斎藤美奈子、筑摩書房
11 「日と月と刀」上・下、丸山健二、文芸春秋
12 「クマにあったらどうするか」、姉崎等、木楽社
13 「へちま亭のあきない」、島戸一臣、朝日クリエ
14 「感じない子ども、こころを扱えない大人」、袰岩奈々、集英社新書

1は入国許可がおりず(正確には来日直前にビザ申請を要求されて)来日できなかったイタリア人哲学者の著作に興味があったので。2はきちんと理解把握しないままきてしまった旧ユーゴスラビアの紛争を知ろうと思って。3はビジネス書でありながら面白そうな内容なので。4は単純に晩酌のおつまみを自分で作ってみようかなという安易な発想から。5はほとんど病気のような落語熱がらみです。
6はタイトルだけでも面白いのに、それを書いたのがあの(何が「あの」だか分かりませんが)横尾忠則氏ですので、読まないわけにはいきません。7は本業関連です。8は「ローマ人の物語」シリーズと北野武氏とのテレビ対談の印象があまりにも面白かったので、以来塩野さんの本は無条件に手に取ることにしています。9は内容紹介の記事を忘れてしまいましたので、紹介そのものが出来ません(笑)。ですが、友人に紹介されて見た糸井さんのサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」がまとめた本であれば面白いはずです。
10は辛口の文芸書評家、斎藤美奈子さんの書評集。これは読むしかないでしょう。11は丸山健二氏の新しい小説だろうと思います。丸山氏の「虹よ,冒涜の虹よ」上・下(新潮社)のすごさに腰を抜かしかけたことがありますので、ふたたび腰を抜かしたいという期待から。12はタイトルのみで選びました。13もタイトルに惹かれました。内容紹介の記事は例によって忘れました。たぶん内容も面白そうだったはず。14は本業関連です。

こうしてみるとあらためて、何の脈絡もない乱読と野次馬根性だなあとあきれてしまいますが、三つ子の魂なんとやらですぐに直るものでもありません。こうしてまた読みかけ、ないしは積ん読状態の本が増えるということになり、楽しい限りです。

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2008年4月17日 (木)

遅読は楽し

新聞に載っていた速読法の広告を眺めながら、確かに10分で1冊読めたら毎日7,8冊は読めるなあ、とたまっている読みかけの本の山を視線の隅にチラリと入れました。

以前にも書いたことですが、図書館から借り出した本や自分で買った本を平行して読んでいるので、いつも読みかけの本が数冊たまったままで、なかなか減りません。だから、速読法の広告を見かけると、つい目が引き付けられてしまいます。記憶違いでなければ、ロシア語通訳で翻訳家だった米原万里さんも、1日に7,8冊以上読むと書いていたような気がします。

自慢ではありませんが読むのは遅いです。まとまって読む時間もある程度取れるのに、驚くほど読む頁数が増えないのは、読みながらあちらこちらと寄り道してしまうからかもしれません。一気に読むのがもったいないので、チビチビなめるように読む本もあったりします。あれこれ連想したり考えながら立ち止まっていると、あっという間に時間は過ぎていきます。

どうも読むのが遅いのは、情報収集目的で読んでいないからじゃないかという気がしてきました。読むこと自体が目的というか、楽しみのための読書になっているので、あまり早く楽しみが終わってしまったのではつまらない。そういう気持ちが働いて読む速度にブレーキがかかっているのかもしれません。事務的に、という言い方はおかしいですが、読むことを楽しむためではなく中身の情報だけ取り出すために読むときは、こんな私でも割に速く読んでいます。

そういうわけで、速読しても楽しみが十分味わえるならいいのですが、どうもそうではないような気がして、速読法には興味があるものの手を出さずにいます。感情の速度と知覚や思考の速度は一致しないのではないかと思うのです。単なる個人的想像ですが。

中野翠さんの『よろしく青空』というコラム集から孫引きします。解剖学者の三木成夫さんによると、人間の体は内臓系と体壁系の二つにわかれ、内臓系は吸収と排泄をつかさどり、肝臓と腎臓がその柱で全体の代表は心臓、体壁系は感覚と運動をつかさどり、その代表は脳髄なのだそうです。そして、三木さんいわく、こころは内臓の動きにあって脳にはないとのこと(詳しくは三木成夫『胎児の世界』中公新書や後藤仁敏『唯臓論』風人社をごらんください)。

してみると漠然と感じていたことも、あながちまちがいではないかもしれません。理性と感情の不一致ってありませんか。頭では認めているんだけれど、どうも気持ちがすっきりとしないとか、理解できるけれど嫌だなあとか思うときがよくあります。そうか、内臓系と体壁系の受けとめ方の違いだったのか、と納得。

というわけで、楽しみのための読書は遅読にかぎると断言して今日もチビチビ頁をめくることになりそうです。『胎児の世界』と『唯臓論』も、探して読みかけの山の中に入れなければ。

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2008年4月14日 (月)

「今夜も落語で眠りたい」ってタイトルは上手いなあ

ブログを放置したまま三週間ほど過ぎてしまいました。昔なら、三七、二十一日の願掛けが満願になるくらいの日数です。もちろん願掛けをしていたわけではありません。年度の変わり目になると生活のリズムが急にゆっくりしたものになってしまうため、世の中は春の盛りへ向かうのに冬眠したくなってしまうという困った状態で数週間が過ぎてしまいました。ようやく再始動しようかとやる気が出てきましたので、またお付き合いの程よろしくお願いします。

中野翠さんが文春新書から『今夜も落語で眠りたい』という素敵な本を出しています。

落語にハマリ始めてしばらくたったころ、偶然目にして思わず手にとってしまった本です。この本の中で中野さんは、いつまで経っても自分がまるっきり通にもマニアにもならないところが自分でも驚きだと書いていますが、この部分に深く共感してしまいました。私自身落語が大好きですが、通でもマニアでもありません。聞いたことのない噺がまだまだ山のようにありますし、だれか一人の噺家の全てを網羅して聞いたわけでもありませんから、到底マニアとか落語通というレベルではありません。「落語好き」というのがせいぜいです。

中野さんに共感したのは、それだけではなく落語の世界の住人が好きだという点にもあります。

おなじみ長屋住まいの職人の熊さん、八っつぁん。熊五郎・八五郎という名がありながら、ほぼ熊さん、八っつぁんと呼ばれるレギュラーの脇役たち。長屋の大家さん。この大家さんも大概は世話焼きで面倒見がよいです。中には小言の多い大家さんがいたり、「大工調べ」の大家のように因業な大家もいたりするけれど、店子のことを大事にしています。それから商家の大旦那、若旦那、番頭。大旦那は品のいい人が多いですねえ。大事になことには金惜しみをしない大旦那の姿は、「文七元結」にでてくる鼈甲問屋の大旦那や「柳田格之進」の質両替商、萬屋源兵衛さんによく描かれています。「百年目」に出てくる旦那と大番頭の姿もいいです。

幇間(たいこもち)も重要なキャラクターです。「うなぎの幇間」や「つるつる」の一八、「富久」の久蔵。みんなヘラヘラしながらじんわりと悲哀も感じさせます。また鳶の頭や大工の棟梁は威勢がよくて気っ風のいい人物の代表ですし、与太郎は落語の世界に欠かせない愛すべきボケキャラの極致だと言えるでしょう。

そして落語に出てくる女性たちもチャーミングです。芸者や花魁(おいらん)はもちろんですが、長屋住まいのおかみさんたちが実にいいです。「厩火事」で焼き物や古物の好きな亭主を持つ髪結いのおかみさんが、自分のことを本当に大事に思っているか亭主のことを試してみたいと気をもむところなど実にかわいらしいです。「替り目」のおかみさんや「芝浜」のおかみさんになると「かかあ大明神」と噺の中でも呼ばれるように、つくづくおかみさんはエライと神々しく思うくらいです。

こういった落語の世界の住人は、ごくごく普通のありふれた人たちで、それぞれ欲深かったりずるかったり、つまりは私たちと同じような人々なわけです。そういう人々の馬鹿だなという噺を一緒に笑いながら聞いていると、肩の力が抜けて、そんなにねえ四角四面にものを考えなくてもいいんじゃないの、とどこからか聞こえてきそうな気分になります。肩こりをもみほぐすように、精神の凝りをすっきりほぐしてくれるのが落語のいいところではないでしょうか。

中野翠さんは、もう二十年以上も毎晩毎晩就眠儀式として落語を聴いているそうですが、落語は究極のリラクゼーションだと思います。落語に興味はあるのだけれど何から聞いたらいいかわからない方には、この中野さんの『今夜も落語で眠りたい』をお薦めします。落語の世界の魅力を伝えるとともに、良質な落語入門書にもなっていると思うからです。

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2008年2月25日 (月)

『打ちのめされるようなすごい本』に打ちのめされて

米原万里さんが亡くなってからもうじき二年になります。

ロシア語通訳で、エッセイスト、作家でもあった米原さんが週刊文春に載せた書評(2001年から亡くなる直前の2006年5月分まで)と、1995年から2005年までのその他の書評を集めた部分の二部からなる書評集が、この『打ちのめされるようなすごい本』です。

以前からさまざまなメディアで紹介されていて、噂だけは早くから知っていたのですが、なかなか手にする機会がありませんでした。たまたま、借りていた本を移動図書に返しに行ったとき、タイトルが目に飛び込んできました。

噂以上にすごい本です。なんといってもすごいのは、この書評集一冊で9.11以降の世界情勢がつかめてしまう点です。テロとの戦いを標榜するアメリカの欺瞞や、チェチェン紛争を抱えるロシアの問題など、漠然としか理解できていなかったことがよく分かるようになりました。それと同時に、どの本を読めばさらに詳しい理解に到達できるかが、米原さんの的確な選択眼により明らかになっていきます。

ガンを告知されてからの書評がまたすごいです。書評家らしく、ガン治療に関するありとあらゆる本を読み、その中で有用な本とそうでない本を一刀両断していくあたりは唖然としてしまいます。もし自分が同じ立場だったら、ここまで冷静に書けるだろうかと真剣に考えさせられました。

「日本はあくまでもアメリカの属領なのだから、属領の知恵「面従腹背」を貫くべしと思うのだが」とか「そもそもアメリカの属領にすぎない日本に外務省があるのは、あたかも独立国であるかのような錯覚を国民が抱き続けるためのアクセサリーのようなものだから、職員も仕事そのものに使命感ややりがいを見出しにくいこともあろう」などという表現には、脱帽です。よくぞ本質をズバッと書いて下さいました、と言いたくなります。

そして、さらにすごいと思ったのは<(9.11の直後)CNNが世界に配信した「事件の直後、歓声をあげるパレスチナ人」の映像が「ヨルダン川西岸」」の出来事として放送されたが、実は「東エルサレム」で撮影されたもの」だという「間違い」を著者はCNNに認めさせる。イスラエルの占領下にある「東エルサレムでは、同時『テロ』を支持するようなデモンストレーションは、たとえそれが自然発生的なものにせよ、すぐに弾圧される可能性が高」く、「『演出』や『やらせ』がやりやすい」とも指摘する。>という芝生瑞和氏の『「テロリスト」がアメリカを憎む理由』(毎日新聞社)について触れた書評です。

この「歓声をあげるパレスチナ人」については記憶があります。ニュース番組で報道され、そうなのかと変に思った後、偶然ロイターのサイトで、この映像が9.11のWTCテロに対する歓声ではなくまったく別の出来事についての歓声を意図的に流したものだという記事を見つけ、ああやはりそうなんだと納得したことがありました。ところが、翌日以降のニュース、新聞を見てもこのロイターの配信記事に相当する報道が全くなく、この件に関して触れたものを目にする機会が寡聞にしてありませんでした。米原さんが2001年11月の書評でこうして取り上げていたことを今回読んで知り、ちゃんと事実関係を追っていた人がいたんだとうれしくなりました。

一人一人の人間は葦のように頼りない存在ではありますが、その頼りない人間がどうやったら世界に立ち向かっていけるのか。その具体的な方法の一つが、米原さんのように万巻の書物の中から有用な書を読みまくることなのだ、と強く実感します。

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2008年2月18日 (月)

中上健次が健在なら…

中上健次が健在なら、今の日本の社会を見てなんと言うでしょうか。

旺盛な執筆活動の途上で、ぷっつりと糸を切られるように亡くなったので、いくつだったのだろうと思ったら46歳でした。もう自分が中上健次の年齢を越えていることに、軽い驚きを感じます。

主要著作のリストを眺めながら、読んだ作品を確認してみると、『岬』や『十八歳、海へ』などほとんどが短編集で、長編は初期の『枯木灘』と『鳳仙花』しか読んでいないことに気が付きました。

中上健次の作品は決して読みやすいものではありません。抵抗感が先にくるという人もいると思います。しかし圧倒的な「力」を、その文章と物語に感じます。口当たりのいい、無菌化された毒にも薬にもならないような、どうでもいい文章や物語と違い、地面をはいずり回るような土着的、古代的とも言える重厚な物語世界がそこには広がっています。フリージャズが持っているような、攻撃的で不協和音にあふれた世界と言えばいいでしょうか。いつまでも耳に残り続ける、ある種不快でありながら、その不快さが去りがたさをもたらす独特な魅力を中上作品は放っています。生理的に受け付けない、そういう感じを持つ人がでてくるゆえんです。

しかし、人間の魅力というものは、実はその人のその人たる部分を形作っているところにあるのではないかと思います。他の誰とも違う、その人にしかない「過剰さ」。これが人間の魅力なのではないか、と最近とみに思うようになりました。ある場合には、その過剰さはその人間の欠点と映るかもしれませんし、また別の場合にはその過剰さを本人が自己嫌悪しているかもしれません。ですが、平均値ではない、はみ出した部分にこそ面白いものが見つかります。そこまでやらなくてもいいのにと他人には思えるものが、本人には内的必然性があり、やむにやまれぬ表出であったりするからです。

そういう意味で、中上健次の作品は中上健次にしか作り出せなかった世界でしょうし、これからも後に続くような作家は現れないのではないかと思います。以前取り上げた坂口安吾が自分の作品にふれて、「私が書く小説は健康な人間には毒にしかならない。病んだ人間の催眠薬にはなるだろうけれど」という趣旨の文を書いていました。正確な引用ではありませんし、どの文章だったか思い出せないので、もしかすると違っているかもしれませんが、この表現は中上健次の小説にもあてはまるような気がします。小説を読み始めたばかりの人には決して薦められない作品群です。ですが、凡百の似たような小説に読み飽きて、刺激がほしい方にはたまらない世界だと思います。

なにかの対談で中上健次が「宇津保物語」の物語性をとりあげていたことを思い出し、数日前から「宇津保物語」を読み始めました。冒頭の「俊蔭」の巻をめくりながら、そういえば大学のころ国語講読でこの「俊蔭」の部分の影印本を読まされたなあ、ということも浮かんできました。「琴」をめぐる長編の物語は「源氏物語」以前の作り物語として有名ですが、「源氏物語」にも大きな影響を与えていると言われています。音楽を主題とした長編の物語。中上健次とは対極にあるような気がしていましたが、物語の持つ力という点では同じようなものがあるのかもしれません。

同じ頃に作家としてデビューした村上龍や、あの村上春樹でさえ(悪い意味で言っているのではありません)社会的発言をして現実社会にコミットしていこうという姿勢を示しているのを見るにつけても、中上健次が生きていたらなあ、と思うことしきりです。おそらく今の日本の社会に欠けているものについて深い洞察に満ちた発言が聞けただろう、と勝手に想像しています。 

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2008年2月14日 (木)

光と闇

吉野弘さんに「顔」という詩があります。

   樹木の根のように
   闇を抱く営みが人間にもある
   樹木の梢のように
   光を求める営みが人間にもある

   光と闇に養われる人間は、しかし
   光と闇を公平に愛する術を知らぬ
   崇高でも醜悪でもない僕らの顔は
   こうして出来たのだ

   樹木は裸。胴も腕もあらわだが
   顔はない。顔を持たない気安さで
   周囲や自分と和解するのか

   樹木の顔とおぼしいあたり
   青い冬空の
   冷たい休らぎが漂っているばかり

短い詩ですが、第一連と第二連を何かの折にふと思い出します。

光と闇は聖と俗、天上と地上などと他に言い換えができるのかもしれません。ことわっておきますが、私は特定の宗教や信仰は持っていません。現代の日本社会に生きている大多数の人がそうであるように、正月は神社に初詣に行き、お彼岸やお盆には墓参りに行きます。クリスマスが来ればツリーを飾り、ケーキを食べという汎宗教的環境と言いますか、八百万の神様状態の中で信仰心など毛ほども持たないバチあたりです。

ですが、特定の信仰は無くとも、人間の営みを越えた大きなものの存在は漠然と信じています。落語の世界で言えば「お天道様」というやつです。一人一人の人間は現実の中では、時に卑小であり、欲やら俗情やらに突き動かされて日々を送っていますが、それでも人間を越えた何者かへの畏敬の念を覚えるときがあります。

このところ、毎日のように三代目桂三木助さんの「芝浜」を聞きながら、風景描写の美しさとともに主人公の魚屋、勝五郎(と書くのだと思いますが)の姿に心動かされています。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、ざっとこんなお話です。

主人公の勝五郎は腕のいい魚屋ですが、酒好きで仕事を怠けがちの男。ある朝、おカミさんに「浜へ仕入に行っとくれよ」と送り出されますが、おカミさんが一刻まちがえて早く送り出したため、浜へ着いたものの魚問屋が一軒も来ていません。勝五郎はブツブツぼやきながら、浜辺で顔を洗い、日の出を仰ぎます。そこへ波間に漂う真田紐が目に入ります。その先には八十二両入りの財布。拾い上げた勝五郎はあわてて長屋へ帰り、これで当分遊んで暮らせると大喜び。昨夜の酒が残ってんだろと、ひとしきり飲んで眠ってしまいます。ところがおカミさんに起こされてみると「浜へ行っておくれよ」という科白。何を言ってやんでぇ、八十二両があんだろう、と食ってかかると「何を夢見てるんだよ、この人は。八十二両なんてお金なんかありゃしないじゃないか」と、財布を拾ったことが夢だと言われます。おカミさんに諭された勝五郎は、「おっかあ、分かった。おれぁ、酒やめるよ」と仕事に精を出すようになります。表通りに小さな店を開き、使用人もいる魚屋の主になった三年後の大晦日、おカミさんから浜で拾った八十二両の入った財布を前に、夢でなかったことを告げられます。三年もお前さんをだましていて悪かったと、おカミさんは謝り、お詫びの意味も込めて勝五郎に酒を勧めます。一旦は口元へ持っていきますが、「いや、よそう。また夢になるといけねえ」でサゲになります。

この噺はいろいろな落語家の方が高座にかけていらっしゃると思いますが、三代目桂三木助さんの「芝浜」は、風景画を見ているような美しい情景描写を味わうことができます。増上寺の鐘が浜辺に響き、いい鐘の音だなぁと聞きながら一刻早いじゃねえかと気付くわけですが、夜明け前の浜で顔を洗って見上げると、空の色が刻々と変わっていきます。一色でない空の色の描写に続き、陽が昇り、パンパンと柏手を打って「お天道様、また魚屋を始めますんで、どうぞよろしくおねげぇします」と勝五郎が頭を下げます。

呑んだくれで怠け者の勝五郎が、闇から光へ向かって歩き出す瞬間です。ところがその次の瞬間に財布を拾い、また元の怠け者に戻りかけります。ですが、結局はおカミさんに諭され、好きな酒もやめて仕事に励むようになります。この勝五郎の一種の回心は、夜明け前の浜の情景に暗示されているのだと思います。

弱さや不安や劣等感や、その他もろもろの負の感情を抱え込み、自分の中にある闇の深さにおののくゆえに光を求める。求めずにはいられないのが人間という存在なのかもしれません。「崇高でも醜悪でもない僕らの顔」は、そうしてできていくのでしょう。「光と闇を公平に愛する術を知らぬ」ゆえに、絶え間なく揺れ動く自分と向き合わざるを得ないのかもしれません。勝五郎が朝日に手を合わせて祈ったごとく、闇に呑み込まれてしまわないように、光のある方へ歩いていけるようにと祈らずにはいられません。

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2008年1月28日 (月)

坂口安吾の魅力

先日のブログに紹介した坂口安吾のことを書きたくなりました。

今、中高生の方で坂口安吾の名前を知っている方は、もしかすると限りなくゼロに近いのではないかと思います。日本文学に興味を持っている一部マニアックな方でないと、ご存じないかもしれません。

太宰治はどうでしょうか。こちらは知ってますか?『斜陽』や『人間失格』、『津軽』などをはじめ若い頃にだれしも一度は通過する作家と、かつては言われていました。読んだことがなくても名前を聞いたことはあるのでは。

その太宰治と同じ頃、戦後の文壇に登場した「無頼派」と呼ばれる一群の作家がいました。石川淳、織田作之助、伊藤整、高見順、田中英光、檀一雄に加えて坂口安吾がその代表です。文学史的には「新戯作派」と言った方がいいのでしょうが、通称とも言うべき「無頼派」で紹介します。

二十代の頃、私が深くはまっていたのは石川淳と坂口安吾と太宰治の三人でした。石川淳と太宰治については、機会があれば別の時に書きたいと思いますが、三人の中で一番影響を受けたのはもしかすると坂口安吾かもしれません。

坂口安吾は新潟の旧家に生まれた人です。代表作は評論の「堕落論」や「日本文化私観」と小説の「桜の森の満開の下」などです。個人的な見解ですが、安吾は評論の方が小説よりもすばらしいと思います。今の時代でもその明快な論議は一読の価値があります。初期の文学論の「かげろう談義」や前回紹介した「文学のふるさと」、宮本武蔵を取り上げて展開される「青春論」、太宰治の死の直後に書かれた「不良少年とキリスト」など、どれをとっても坂口安吾の魅力が十分に味わえます。

評論と書きましたが、安吾の書いたものは随筆と言った方がいいくらいノビノビとした議論です。八方破れのようでいて物事の核心をギュッとつかんだ文章は、天衣無縫な精神の自由さにあふれ、どこまでも青く広がる空を見上げているような開放感を与えてくれます。

安吾のふるさとである新潟にも行きました。ある会社のセールスマンをしていた頃です。出張でしたが、仕事はサボって安吾の文学碑がある寄居浜の西海岸公園を訪れました。11月ごろだったかと思います。天気がよく佐渡島が見えました。売店のおばちゃんが「あんた運がいいねえ。冬になると佐渡が見えるくらい晴れた日なんてめったにないよ。」と笑っていたのを思い出します。安吾には晴れた空しか似合わないな、と思いながら、安吾が帰省するたびに泳いだという寄居浜の海岸をぼうっと眺めていました。

小説では、何と言っても「桜の森の満開の下」につきます。安吾の小説は、評論や随筆の自由闊達さに較べると読み進めるのが苦しくなるような切なさを持っています。それは安吾が抱えていた孤独の深さからくるものかもしれません。安吾の孤独に触れることは同時に自分の抱える孤独に向き合うことでもあります。それゆえ評論や随筆のように気安く読めないような気がしたのかもしれません。しかし、この「桜の森の満開の下」は古典の説話の一つかと思わせるような美しさと恐ろしさが同居していて、珠玉の名作だと思います。たしか映画になり、山賊がさらってきた美女を岩下志麻さんが演じていたはずです。映画の方は見ていないので、これ以上は分かりませんが、小説は一読をおすすめします。評論や小説は「青空文庫」でも読めるようですから、以下のリンクからたどってみて下さい。

「青空文庫」作家作品別リスト 坂口安吾 http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1095.html

梶井基次郎の「桜の樹の下には」という短編とともに、桜の咲く頃になると読みたくなる作品でもあります。

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2008年1月20日 (日)

詩の季節

現代詩を読むのが好きです。

この頃はあまり読んでいません。それでも気になる詩人の詩や詩集が出ていると、目が行ってしまいます。

初めて現代詩に触れたのは、高校二年の頃です。学校の図書館にあった『詩の本』Ⅰ~Ⅲ(筑摩書房)で、監修は西脇順三郎氏と金子光晴氏のお二人です。今考えると何と豪華な顔ぶれでしょう。執筆陣もすごいです。現代詩の代表的詩人たちが書いた詩論が集められ、名前を見ていくだけでもため息が出ます。

しかし当時はその中のだれ一人として名前を知らず、ましてやその詩人たちの書いた詩など読んだこともありませんでした。ただ、幾つか気になる詩論があり、それを書いた詩人たちの詩集から読み始めたように思います。

一番最初に買った詩集は、思潮社の現代詩文庫に入っていた『那珂太郎詩集』です。那珂さんの詩を読んだときの衝撃はいまだに忘れません。言葉の意味が解体され、純粋な音に還元されていく詩は、強烈な印象を残しました。しかも、その音の重なり合い響き合うようすは喩えようもなく気持ちよく、言葉が生き物のように息づいていました。

予備校に通っていた浪人時代は、角川文庫版の『谷川俊太郎詩集』をくり返し読んでいました。第一詩集「二十億光年の孤独」に収められている「かなしみ」という詩は短いものですが、愛された小さな犬にという副題の付いた「ネロ」という詩とともに、何ものかが決定的に失われてしまったんだという喪失感を自分の中に引き起こしました。今思えば、それは漠然とした喪失感でしかなく、本当の喪失感とはどういうものなのかまだ知らない頃の話です。

大学に入ってからは、思潮社の現代詩文庫のお世話になりました。『吉野弘詩集』『黒田三郎詩集』『清岡卓行詩集』そして『田村隆一詩集』をよく読みました。中でも吉野弘さんと田村隆一さんの二人は、私にとってそれぞれ特別な意味を持つ詩人です。

吉野弘さんは山形県酒田市出身の詩人です。初めて読んだ吉野さんの詩は、先に挙げた『詩の本』に引用されていた「I was born」という詩です。この詩に描かれた父と息子の情景は、息子の問いとともに心に残っています。第一詩集「消息」の中の一編なのですが、この第一詩集の詩はどれも、美しい言葉の響きと問いかけに満ちています。大袈裟な言い方をすれば、私の中の倫理観を形作っている一部はまちがいなく吉野弘さんの詩編だと思います。吉野さんの詩は静かな詩ですが、「雪の日に」で描かれている雪のようにあとからあとから問いを投げかけてきます。「冬の海」という詩も、何かのときにふと浮かんでくる詩です。

一度だけ吉野弘さんを、お見かけしたことがあります。私の住む北上市には日本現代詩歌文学館があり、詩歌文学館賞を毎年発表しています。平成2年の第5回詩歌文学館賞で、詩の部門の受賞者が吉野弘さんでした。授賞式に吉野さんが来られることを耳にし、詩歌文学館の授賞会場へ足を運びました。賞を受け、壇上から下りた吉野さんはまっすぐ私の座っている席の2列前にきて座り、出版社の方かどなたかと談笑なさっていました。あなたの詩のファンです、と声を掛けたかったのですが結局できませんでした。

田村隆一さんの世界は、吉野さんの詩とはまったく違うものですが、その詩が喚起するイメージに強く引き付けられました。詩集「言葉のない世界」に収められている、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」で始まる「帰途」という詩に魅せられた方が田村隆一ファンには多いかと思います。私もその一人です。この詩に込められた詩人の覚悟の美しさは、今の時代に読んでもまったく古くさくありません。それどころか、田村隆一という詩人のダンディズム、詩におけるダンディズムに限定してもいいのですが、それを強く感じさせます。ストレートで飲むウィスキーのように、ひりひりと舌に焼けつくような言葉の連なりは、決して飲み込みやすいものではありません。が、ひとたびそれを味わってしまうと、水で薄めたような表現には手が伸びなくなります。

茨木のり子さんの詩も大好きです。最近になって茨木さんの詩集をいくつか読みましたが、しゃんと背筋の伸びたような詩が、とてもすがすがしく感じられました。

詩に出会うのは、やはり若い頃なのかもしれません。もちろん人生の浮き沈みを経験した大人になってからでもいいのでしょうが、不安と期待の入り交じった若い頃に読んだ詩は深く心に残るような気がします。詩の季節というものかもしれません。

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2008年1月 3日 (木)

北方水滸伝はいい!

北方謙三さんの『水滸伝』を読まれましたか?

全19巻・別巻1の長大な小説は、これから読んでみようかという方には敷居が高く感じられるかもしれません。しかし、断固としてしかし、第1巻を手にとってページを繰り始めたあなたはすぐに引き込まれてしまうはずです。そしてあっという間に19巻にたどり着き、なんだか最後の巻を読んでしまうのがもったいないような気持ちになると思います。

私が北方水滸伝を読み始めたのは単行本の刊行が始まってすぐの頃でした。北上市の移動図書にさっそく注文を出すと、黙っていても新刊が真っ先に回ってくる状態にいつの間にかなっていて、2005年の10月に第19巻が刊行されるまで五年ほどかけて読みました。月刊文芸誌に連載されていることは知っていましたが、そちらは読まず三ヶ月分が単行本化されるのを今か今かと待ちわびる時間のいかに長かったことか。

この北方水滸伝は、熱い思いを抱かずには読み通せない、北方謙三さん渾身の作品だと思います。かつて吉川英治氏の『宮本武蔵』や『太閤記』や『三国志』が、生きる指針を与えてくれる書物として読まれたように、この北方水滸伝も同じような読み継がれ方をしていくと思います。

人は何を守らねばならないか。それをこの小説は痛切に感じさせてくれます。

そしてまた、決まりきった日常に退屈している自分に強烈な喝を入れ、何かをしなければという気持ちにさせてくれる小説でもあります。かつて石川淳氏は「虚構について」という評論の中で、すぐれた芸術作品を次のように定義していました。曰く、「一般に、立派な芸術作品はかならず惰夫を起たしめる底の力をはらんでゐるものだ。もつとも、それでも起ちえないやうな人間のことを、惰夫といふのかも知れぬ。」

「惰夫を起たしめる」、まさにこの言葉にふさわしい作品だと思います。新年を迎え、今年こそは何かを始めようかという方にお勧めします。文庫化されて既に15巻出ているようですから、2008年の早い時期に文庫の方も19巻まで刊行されるでしょう。

『水滸伝』は、小説を読むことの面白さを余すところなく味わわせてくれます。数多く登場する梁山泊の豪傑たちの中には、きっとお気に入りの人物が何人か見つかることと思います。その魅力ある人物たちが織りなす群像劇のすばらしさも存分に味わっていただきたいと思います。おそらく映像化不可能だと思いますので(制作に必要な予算と時間が膨大すぎて)、小説でしか味わえない世界もあるのだと認識されることでしょう。

『水滸伝』全巻を読まれたら、次はその続編ともいうべき『楊令伝』もお読み下さい。こちらは現在第3巻まで刊行されております。おそらく今月中に第4巻が出るのではないかと思います。私も今、第3巻を読んでいる途中です。もうたまらなくいい場面の連続です。九紋龍史進が、自分の従者として選んだ班光という少年から尋ねられて答える場面の一部などはこんなふうです。

「きちんと生きるとは、どういうことでしょうか?」
「自分に、恥じないことだ。人を裏切らない。卑怯なことをしない。うまくおまえに説明できるほど、俺は多くの言葉を持っていないが」(『楊令伝』第3巻248頁)

北方版の『水滸伝』を読んでいらっしゃらない方には、何のこっちゃと思われるかもしれませんが、このような味わい深い科白が『楊令伝』でも随所に見つかります。

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2007年11月11日 (日)

子どものころにくり返し読んだ本

小学生のころくり返し読んだ本が二冊あります。

一冊は偕成社の少年少女世界の名作シリーズに入っていた羅漢中の『怪妖伝』(妖怪伝ではありませんのでおまちがえなく)という本です。子ども用にリライトされていたのは当然ですが、タイトルももともとは『平妖伝』というのだそうです(佐藤春夫訳で文庫本がちくま文庫から出ていたのですが絶版になっています)。

つい数年前に図書館から借り出して『平妖伝』の方は読んでみたのですが、いやはやとんでもない話じゃあないですか。なんでこれが「少年少女世界の名作」の一冊に入っていたのか理解に苦しむところがあります。あるいはリライトしてでもこの面白さを子どもたちに伝えたいという担当者の情熱からだったのでしょうか。

ともかく水滸伝と同じようなピカレスクロマン(悪漢小説)で、妖術使いたちが時の王朝をひっくり返そうとする奇想天外な内容です。子ども向けの『怪妖伝』は、さすがに教育上よろしくない場面はすべてカットされています。それでも蛋子(タンズ)和尚が白雲洞という山中の洞窟に忍び込んで、壁面に彫られた天人の仙術書の一部を写し取り、命からがら里に下りてくる場面から、三匹の狐の親子が老婆(聖姑姑・ションクークー)と美しい娘と足の不自由な兄に化け、反乱の同志を集め仙術修行をするくだりや、朝廷軍との合戦に至るまで一気に読ませる面白さがありました。

ちなみに蛋子和尚は『平妖伝』では「たまご和尚」、聖姑姑は「せいここ」となっているようですが、子どものころに慣れ親しんだ読みのまま載せました。

もう一冊は『西遊記』です。これも最初に読んだのは石森延男さんがリライトした子ども向けの版で出版社は憶えていません。白いつるつるしたカバーの中央に紺色を中心とした色使いの油彩画(のように思うのですが)が配置された本で、そのデザインと手触りも好きでした。三蔵法師と孫悟空、沙悟浄、猪八戒の一行が天竺目指して旅をしていくロードムービーみたいな物語ですね。みなさんご存じのお話です。

この本もくり返し読みましたが、もの足りなくて小学校の図書室にあった二段組で倍くらいの厚さの『西遊記』を借り出し、たっぷりその世界に浸った記憶があります。

三つ子の魂なんとかと言いますが、この二冊の影響か高校の古典の時間は漢文が大好きでした。いまだに古文よりも漢文の方が好きです。

ところで西遊記の孫悟空といえば誰を思い浮かべますか?最近の若い方なら香取慎吾さんでしょう。で、ある年齢以上の方になると堺正章さんだと思いますが、あなたはどちらですか。

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2007年11月 7日 (水)

まだ読書週間中ですよね?

本を読むことは小学生の頃から好きでした。今も、ほぼ毎日何らかの本を読んでいます。しかも並行して読み進めているので、常時2,3冊が読みかけ状態です。読みかけのまま数カ月あるいは数年ほったらかしのものまで含めると、とんでもない数になりそうであまり考えないことにしています。というよりも、読みかけであることを忘れていることの方が多いかもしれません。

基本的には場所によって読む本を変えています。家の中でも居間で読む本とトイレで読む本とは違いますし、仕事場である教室で読む本も別です。さらに図書館から借りてきて読んでいる本は返却期限がありますから、時間的制約があるものと無いものの区別もあります。楽しみ・娯楽として読むものと調べものとして読むものも、おのずと違います。

図書館の貸し出し券は二つ持っています。一つは住まいがある北上市の中央図書館。もう一つは仕事場のある奥州市の水沢図書館の券です。この他に北上市立図書館の移動図書からほぼ毎月借り出しているので、読みかけ状態はどんどんふくらんでいくことになります。『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』なんていう椎名誠さんの本の題を見たりすると、うれしくなって思わずニヤリとしてしまいます。

むかしからこういう本の読み方だったので、今さら変えられるかと開き直っていますが、乱読の傾向はいっこうに改まりません。基本的に面白ければ読むし、つまらなければ放り出して読まないといういい加減な読み方です。

最近の中学生は本を読まなくなったという声を耳にすることがあります。確かにそうかもしれませんが、一方で本好きな子がいるのもまた事実です。本をよく読む生徒と読まない生徒の比率を調べてみたら、案外むかしと変わらないのかもしれません。

ときどき中学生の保護者の方から、本を読むように言ってもなかなか本人が読まなくて、という相談があります。これだけ本以外の楽しみが多い時代になると、そうだろうなあとうなずいてしまい、あまりいいアドバイスはできないのですが、こう奨めることにしています。まずは興味がある分野の本を手当たり次第読んでみて、その中で気に入った本に出会うことがいいのではないでしょうか。どこに面白みを見つけるかとか、楽しさを感じるかということは人さまざまなので、「本と出会う」ということが大切なのではないかと思います。

では、具体的にはどうするの?これは私自身実践していることではないので、うまくいくかどうか分かりませんが、興味がある分野の本の内容を紹介している文をまず読ませることから始めてはどうでしょうか。小学生なら読み聞かせがいいのではないかと思いますが、中学生くらいになると自分で面白そうだなと思わない限り手を出さないでしょう。ポイントは本人の興味のある分野の本を探すということです。お父さんお母さんが面白いと思ってもお子さんは食いついてこないかもしれません。図書館の新刊紹介や新聞の書評記事、ネット上でも各書店のホームページやアマゾン・コムのようなオンライン書店で分野別の検索ができますし内容紹介も読めますから、そういったものを入り口にして食いついてきそうな本を見つけてはどうでしょう。魚釣りのエサじゃないですけど、よくできた本の紹介記事は、場合によっては本そのもの以上にワクワクさせてくれたり興味をかき立ててくれるものです。

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