人物

2013年4月 5日 (金)

川村画伯追悼

1月末に川村勇画伯が亡くなっていたことを、今朝の朝日新聞岩手版で知った。

「孤高の画家」を悼む

西和賀町出身の洋画家、川村勇さんが1月末に亡くなった。85歳だった。海外を旅し、精力的に制作に取り組む一方、いつも故郷に思いを寄せていた。画壇にくみせず、独学で自らの画風を追い続けた「孤高の画家」の死を、地元の人やファンは惜しんでいる。
(朝日新聞岩手版 2013年4月5日)

川村画伯の絵を初めて見たのはずいぶん昔だ。知人が川村画伯の絵を数枚預かっていて、それを見せてもらったのだった。見た途端に引き込まれた。インドを放浪していた頃に描いたもので、夕陽を浴びたようなオレンジの壁が圧倒的な量感で迫ってくる。何といってもそのオレンジの色彩が目に焼き付いてしまい離れなかった。

実はこの川村勇画伯は、私の父の小学校時代の友人である。ばったり画伯と顔を合わせて呑んだとき、父は画伯から、息子が大学に入ったら祝いに絵を描いてやると約束してもらった。大学に合格してしばらく経ってからその話を父親から聞かされた。じゃあ、そのうち画伯に会いに行ってみよう。そう思っているうちに数十年が過ぎてしまった。結局、私は一度もお会いすることなく、そしてまた絵を描いて頂くこともなく終わってしまった。けれども、それはそれでいい。

絵を描いてもらってももらわなくても、一度お会いしてみたかった。秋の夕陽の照り返しのようなオレンジの色彩が画面を埋め尽くすあの絵を描いた人と話がしてみたかった。イタリア、オーストリア、ポルトガル、そしてインド。あちこちを放浪しながら絵を描いてきた人が何を見てきたのか。それを聞いてみたかった。

川村画伯について「小学校のときから絵はうまかった」と私の父は語る。教師の癖をまねて教室を笑わせるような茶目っ気の多い子どもだったともいう。新聞の記事には「幼いころに両親と死に別れ、母親の実家に預けられて育った。絵に興味をもったのは小学生のころ。近所の人に自分の絵を褒められ、褒美にリンゴをもらったのがきっかけという」とある。

暖かいオレンジ色と群衆の姿。川村画伯の絵を特徴づける最大の魅力がそれだと思う。初めて見た数枚以外の実物を見たことがない。西和賀町には、川村画伯から寄贈を受けた「川村美術館」と「川村美術館デッサン館」がある。今度訪れてみようかと思っている。

川村美術館 」の紹介ページには画伯の絵が三枚載っている。左と真ん中の二枚は「回廊の中より」というタイトルの作品。右は「配給日」というタイトルの作品。いずれもインドの風景が題材になっているのだと思う。

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2010年3月30日 (火)

思い出すひとびと・その2

仙台のジャズ喫茶「カウント」のウェイターをしていた若者と友人になった話を前回書いた。「その1」でも触れたように、飲むとほとんど酒乱に近かったが、しらふの時のその友人はおとなしい男だった。

その男に教わったことはいくつもある。自分の現状を棚に上げて、何とか社会を変えたいと理想を語る私に、ある時その男が言ったことがある。「小林さん、そんなどこかの国で飢えて死んでいく人や世の中全体のことを何とかしようとするより、まず自分の周りにいる人間のために何かできることをしたほうがいいんじゃないですか」。

まったくその通りだった。若い頃には地に足のついた思考ではなく、一足飛びに理想の実現を求める性急さがよく見かけられるものだが、私もそうだった。自分の力やできることを考えもせず、頭の中だけで理想を追求しようとするようなところがいつもあった。高校を途中でドロップアウトしてさまざまな職を転々とした経験のあるその友人は、私より歳は下だったが、世の中というものをずっとよく知っていた。

「手の届く範囲の人間しか何とかできないんじゃないですか、実際。顔の見える範囲を越えると嘘っぽくなるでしょ」。これもその通りだと思った。理想を語ることは容易いし、格好がいい。しかし、実際にできることを地道にやるということは、容易くも格好良くもない「行動」の継続以外の何ものでもない。そういう現実的なことに何も考えが及ばない私であった。

間借りをしていた部屋に籠もりきりのようになってしまった私を心配して、ほとんど毎日のように顔を出してくれたのもその友人であった。今から思うと、いくら感謝しても感謝しきれない。ある意味で外の世界との唯一の接点であったと思うからだ。自分のことを心配してくれる誰かがいる。そう思うだけで、人は陥っている状況から抜け出すことができるようになるものだ。

元気なら、もう四十代の後半のはずだが、どこの空の下で暮らしているのだろうか。

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2010年3月25日 (木)

思い出すひとびと・その1

二十代の初め、仙台で学生生活を送っていたころ、仙台三越の近くにあるジャズ喫茶「カウント」によく通っていた。カウンターに七人、フロア席に十五、六人も座れば一杯になるこぢんまりとした店である。ドアを開けて短い通路に入った途端、アルテックA5のスピーカーから大音量で響く演奏には、慣れるまで驚かされた。それから通路の片側にぎっしりとつまったレコード棚にも。

昼十二時過ぎの開店から夜十一時の閉店まで居座ったこともあったが、おそらく「カウント」にあったレコードの十分の一も聴いていないかもしれない。リクエストは自由だったし、いろいろなプレイヤーの様々な演奏を聴かせてもらった。ただ、キース・ジャレットがあまり好きではなかったマスターは「ケルン・コンサート」だけはリクエストしてもアンコール部分の短い演奏しかかけてくれなかった。

この「カウント」のウェイターをやっていた年下の若者と友人になった。何をきっかけに友だちになったのか、もう忘れてしまった。お寿司屋さんの三男坊だったと思う。一度、その友人に連れて行ってもらいごちそうになったこともあった。

この友人には困った癖が一つあり、酔うと誰彼の見境なく喧嘩を吹っかけた。ほとんど酒乱に近かったと言ってもいい。この友人が暴れたために出入り禁止となった店は、数え切れないくらいあった。きっかけはささいなことである。カウンターで並んで飲んでいた隣の客とふたこと三言やりとりしていたかと思うと、「表に出ろ」という騒ぎにいつの間にかなってしまっている。一緒にいた友人たちはあっけに取られながら、その友人に代わって頭を下げて事を収めるのが常だった。私も何度かそういう目にあった。

しかし、しらふの時には人見知りで照れ屋のおとなしい男であった。どう見てもこの男が酔っぱらってトラになるとは想像がつかなかった。「カウント」のウェイターを辞めて別の仕事をしばらくしていたが、ふとあるとき仙台からいなくなった。役者になるんだ、と酔うとよく口にしていたが、本当に役者を目指して上京してしまった。

それから数十年、音信はない。私は仙台から岩手に戻ってしまったし、その友人の連絡先も何も分からずじまいのままだ。役者になったとも思われないが、もしかしたら舞台俳優とかになったのだろうか。

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2010年1月22日 (金)

叔父の思い出

母方の叔父は五十代で亡くなった。現在は秋田県の横手市になっているが、かつて平鹿郡と呼ばれたところに母の実家がある。叔父は四人きょうだいの中でたった一人の長男として家を継ぎ、羽後交通というバス会社で整備士をしていた。優しくて思慮深い叔父であった。

ガンで亡くなったのだが、入院する前まで母の実家の祖先についていろいろと調べていた。菅江真澄の日記で出羽方面を綴ったものを調べ、江戸時代に菅江真澄が当時の平鹿郡に来ていることなどを確認していた。以前にも書いたが、母の実家は元々はお寺の住職の奥さんを住まわせていた家である。したがって御先祖はお坊さんということになるのだが、叔父はその住職について調べていた。しかし、肝心のお寺の過去帳が残っておらず(たしか火災か何かで無くなったらしい)はっきりしたことが分からないと言っていた。秋田市の何とかいうお寺に行くと、その御先祖のことが載っている文書があるという話も聞いたことがあるのだが、そこまで調べないうちに病に倒れてしまった。

入院してからの叔父を訪ねるのはつらかった。横手市内の病院に、二度見舞いに行った。一度目は一人で。二度目は家内と私の父親を連れて。最初に訪れたときはそれほど悪いようには見えなかった。私の従弟がノートパソコンを病室の叔父に預けており、時間があるときに将棋をしたり文書を打ち込んでいたりしたようだった。疲れるのであまり長い時間文章を打ち込めないのだが、と叔父は微笑した。そのときすでに叔父が末期のガンであることは従弟から知らされていた。本人には知らせていないこと、最後まで知らせないつもりであることも聞いていた。だから極力病気のことには触れず、世間話のような雑談をして病院を去った。帰り際、叔父はベッドから少し身を起こして「また、そのうちに来ればいい」と笑顔を見せた。

二度目に家内と私の父親を連れて訪れたときは、容態が悪化してからだった。以前に見たときとは別人のように痩せてしまい、あきらかに具合が悪そうだった。話をするのもつらそうだったので、早々に引き上げることになった。別れ際の叔父の寂しそうな表情が今でも時々思い浮かぶことがある。おそらく叔父もこれが最後だと思っていたにちがいない。私ももう叔父に会えないだろうと覚悟していた。それから間もなくだった、叔父が亡くなったのは。

葬儀はあまり記憶がない。残暑の厳しい中での葬儀は叔父のときだったのか、それとも祖母の葬儀のときだったか。葬儀が終わった晩、身内だけが残ったときに叔父が綴った文章が部屋から出てきた。叔父は自分がガンであることに気付いていた。周囲の人間は気取られぬように注意を払っていたのだが、叔父は覚悟を決めていたことが知れた。叔父の文を私が代読したのだが、途中から涙があふれて読めなくなってしまった。残していかなければならない家族のこと、特に子どもたちのことやさまざまなことへの思いを目にすると読み上げるのがつらくなったのだった。

もう、あれから何十年経ったのだろう。『陸奥話記』の調べが一段落して形になったとき、先祖のことを調べていた叔父は最後まで調べきることができなくて心残りだったろうなということを思った。だんだん私も叔父が亡くなったときの年齢に近づいている。いずれ叔父の年齢を越えてしまうだろう。そう思うと不思議でしょうがない。

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2009年3月17日 (火)

福原さんのこと・その2

ある年の3月、大学が春休みに入りそろそろ帰省しなければと思っていたら、福原さんが「小林さん、出身は岩手でしたっけ?」「はい、北上です」「じゃあ、よかったら乗っていきませんか」「え?」実は福原さんは秋田の大曲に実家があり、お彼岸の墓参りに顔を出そうかと思っていて車で行く予定だったのだ。「ぜひ乗せて下さい」一も二もなく私は頼み込んだ。ちょうど飲み会が続いてアルバイト代も飲んでしまっていたため、どうやって帰ろうかと思案していたところだった。「東北自動車道の北上インターで107号線に降りるからそこまでだけど、いいですか?」そういう福原さんの申し出に大きく頷いて私は感謝した。

仙台を発つ当日、約束の場所で待っていると一台の白い高級車が停まった。クーペタイプだが国産車では当時一番高いクラスの車種だった。福原さんが笑顔で「荷物は?」と尋ねるので「これだけです」とバッグを一つ示すと「おや、ずいぶん身軽ですね」と可笑しそうに言った。荷物のバッグは後部座席に置かせてもらい、私は助手席に座った。車内に流れている音楽は意外なことにモダンジャズではなかった。「え、福原さんもフュージョンを聴くんですか?」「あ、車の時はね。とくに高速にのるときはフュージョンの方が運転してても合うから」

そんな雑談をしているうちにすぐ東北自動車道に入り、仙台の街を離れて北へ向かうことになった。車はゆったりしていて走りは静かであり、速度が出ていてもあまりそれを感じなかった。ところがどの辺りを走っているときだったろうか。赤いスポーツタイプの1台が追い越し車線を一気に抜いていった。福原さんの表情はまったく変わらなかったが、車が急に加速し始めたことに私は気づいた。ちらりと速度計を見るとすでに150キロを超えている。車が大きいのであまり速くは感じないが、どんどん加速されていくのが分かった。え、大丈夫だろうか。シートベルトはしていたが、何となく不安な気持ちが高まっていった。メーターは180キロである。うわあ、もう180キロだよ。福原さん何考えてんだ、一体。

先ほどの赤いスポーツカーが見えてきた。福原さんは追い越し車線に入るとその赤い車を抜き返して前に出た。こちらは冷や汗が出て心臓が口から飛び出しそうなくらいだった。しばらく走って速度を落とすと「私、赤い車を見るとどうしても抜きたくなるんですよ。さっきもね、小林さんを乗せているからどうしようかなと思ったんですけど、赤いのに抜かれたら我慢できなくて」「はあ」「あ、言うの忘れてましたけど、若い頃にA級ライセンスを取って鈴鹿のサーキットで走っていたこともあるんですよ」それを早く言ってほしかった。まったく人が悪い。しかしそういうペースで走ってきたので北上インターに着いたのはあっという間だった。料金所を出てすぐのところで私は降ろしてもらい、福原さんは「ご両親によろしく」と笑顔を残し107号線に降りていった。

そういう茶目っ気というか、いたずら好きなところを持ち合わせている人でもあった。「品のいい中年の紳士」という表現を何かの文章で目にすると真っ先に思い浮かべるのは福原さんのことだ。それから何年も経って久々に「カウント」を訪れ、マスターから「福原さんが亡くなったの知ってる?」と言われたときは驚いた。まだそんな歳ではなかったはずだが。どうしてまた亡くなってしまったんだろう。忽然といなくなってしまったという感じが強くて私にはまったく実感がなかった。未だに実感はない。

若い頃に出会った人というのは忘れがたい印象を残す。そしてなにがしかの影響も受ける。福原さんは、こんな大人になれたらいいなと思わせるような素敵な紳士だった。そういう大人がもしかしたら少なくなったのかもしれない。雲の上のスター選手やスター俳優ではなく、身近にいる素敵な大人。そういう大人が増えるといいなと思う。

早春の強い風が吹くこの時期になるといつも思い出さずにはいられない。ブログを書き始めたときにどうしても書き残しておきたいと思っていた人物の一人である。

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2009年3月16日 (月)

福原さんのこと・その1

毎年、この時期になると思い出す人がいる。仙台のジャズ喫茶「カウント」のオーナーだった福原さんのことだ。

仙台の「カウント」は一番町の三越近くの裏通りにあり、カウント・ベイシーにちなんで名前が付けられた店である。初めて行ったのは二十歳頃のことだったろうか。アルテックのA5という巨大なスピーカーから相当な音量でジャズが流れてくる。外からはほとんど分からないが、中に入るとズシンと腹に響くような低音がまず客を迎えてくれる。カウンターに6人くらい、ボックス席に15,6人も座ると一杯になるくらいの店内だが、通い慣れると居心地のよいところだった。

このジャズ喫茶「カウント」のオーナーだった福原さんとの出会いは、今思い出すと変なものだった。その日遅めの時間に行った私はカウンターの左端の席に座り、マスターにコーヒーを頼んだ。右端に座っていたのが福原さんだった。誰であるかまったく知らず普通のお客さんだと思った私は、マスターとのやりとりを聞くともなく聞いていた。どういうわけかNHK-FMで放送されていた「日曜喫茶室」の話題になり、福原さんが「扇ひろ子の『新宿ブルース』のEPをLPの回転数でかけるとおカマが歌っているように聞こえって知ってる?」とマスターに言う。アナログレコードをご存じない方には少し説明が必要かもしれないが、EPが1分に45回転、LPが33と3分の1回転である。LPの方が回転速度が遅いので女性の声でも音程がかなり低くなり、おカマが歌っているように聞こえるというわけである。たまたまその放送を聞いていた私は話に割り込んだ。「その放送聞きました。あれおかしかったですよね」「そうなんですよ。面白かったですね、あの放送」と福原さんは品のいい笑顔をこちらに向けて、話の中に入れて下さった。

その時はそれでおしまいだったのだが、後日常連客が「それはオーナーの福原さんだよ。ほらあそこにベイシーといっしょに写った写真があるだろ?」と教えてくれた。確かにカウンターの向こうの壁の左端に、ベイシーといっしょに笑顔の福原さんが写っている。そうかオーナーだったのか。知らなかった。次にお目にかかったときに知らずに失礼しましたと言うと、「いやいやここに来ているときは私もただの客の一人ですから」とニコニコされた。

それからはカウンター席で一緒になるとあいさつしたり、雑談の輪に加えてもらうようになりいろいろな話を聞かせてもらった。たとえばこんなふうだった。ダイナ・ワシントンのアルバムがかかっているときに「この曲ね、バック・ウォーター・ブルーズっていうんですよ。バック・ウォーターってなんだか分かりますか、小林さん?」と福原さんが尋ねる。二十歳そこそこの若造にもきちんと「さん」づけでしか呼びかけない方だった。バック・ウォーターが何なのか見当もつかなかった私が「分かりません」と答えると、「そうですか。もう少しスラングの表現にも慣れた方がいいですよ。南部の黒人スラングでは洪水のことなんですよ。河口から水が逆流してミシシッピ川が洪水になることからこんなふうに言うみたいですね」そうか洪水で何もかも失った「ブルーズ」なんだ。そんなふうにさりげなくいろいろなことを教えて頂いた。(その2に続く)

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2009年3月12日 (木)

師の教え・余談

先日、地域で行われている火防祭の祭礼に出た後、神社で直会(なおらい)の席が設けられいろいろな人と歓談した。

その席に中学時代の同級生が私も含めて四人おり、期せずしてミニミニ同級会となった。四人とも小・中を通じた同級生である。二クラスしかない小さな小・中学校だったこともあるのだが、お互い旧知の間柄だ。二人は神楽の関係者で囃子方をしており、毎年火防祭の神楽巡行に加わっている。一人は地区の祭典委員をしており去年も直会の席を共にした。

私は自治会長宛に来た招きに応じての出席。実はこの火防祭の祭典委員長をしている方が同じ自治会の方で、次の行政区長をお願いした方でもある。他の自治会の会長さんはだれも出席がなく、来賓席に座ったのは私と神社の氏子総代長の方のみ。ただ、氏子総代長も公民館の建て替えの時にお世話になった大工の棟梁さんなので、あまり堅苦しい席にもならず歓談できた。

さてミニミニ同級会のようになった四人の席でたまたま話が中学時代の英語の恩師、平沢先生(以前の記事「師の教え・その1」を参照下さい)のことになった。他の三人は平沢先生が亡くなったことを知らず、そのことを話すと一様に驚いたが同時にいろいろな思い出話となった。

「師の教え・その1」にも書いたビンタ事件のことはみなよく記憶していた。ただ神楽で太鼓を担当している同級生はクラス全員で職員室に謝りに行ったと自信を持って言い切っていたが、これは違うような気がする。当時の中学校の職員室は狭かったし、職員室前の廊下にしても半間ほどの幅だったから、四十数人の生徒が押し掛けたら身動きがとれない状態だったはずで、やはり代表者たちが職員室に謝りに行ったのだと思う。面白かったのは一様に「やさしい、いい先生だったよな」と思っていることで、厳しかったとかいやだったとかいう声はなかった。

へえ、そんなこともあったのかと思ったのは、祭典委員をしている同級生の話だった。彼はリンクしていただいている「ちびやまめさん」と同じ野球部で確か内野手だったと思うが(ちなみに「ちびやまめさん」はうちの中学でサウスポーのエースピッチャーでした)、平沢先生をすごいなあと思ったのは鉄棒の大車輪を見せてくれたときだという話を始めた。体育の小原先生の間違いじゃないのかと思って聞いていると、「体育の小原先生なら分かるけど、英語の平沢先生が鉄棒の大車輪をやって見せてくれたんだよ。あれにはびっくりしたしすごいなあと思ったもんだよ」という。これは私も初耳で、意外な一面があったのだと楽しかった。

逆に平沢先生が横浜で沖中士をしていたことがあると私が言うと、他の連中は「ほお」という顔をした。大車輪の話をした同級生は「いつそんな話をきいたのか」と聞くので「ほら冬場になると、なんだっけ、ほらあのストーブ」「石炭ストーブか?」「そうそう石炭ストーブの周りに集まって雑談してるときに平沢先生が混じって昔話をしてくれたことがあったんだよ」「ふーん、すぐ教員になったわけじゃないんだ」というやりとりになった。

そういう話をしながら、こうして亡くなった後も話題にのぼって懐かしく思ってもらえる先生はうらやましいなあとふと思った。以前の記事に「ちびやまめさん」が寄せてくれたコメントも平沢先生らしいエピソードなのであらためて引用したい。

>何でも気軽に頼める先生でした。
当時流行していたラジオ深夜放送オールナイトニッポンに投稿するために、声の録音(カセットテープ)をお願いしたことがありました。「先生、怒った感じで怒鳴りまくってもらいたいんだけど」平沢先生、すぐにやってくれましたっけ。でも、あの事件での怒りとは程遠いものでした。(笑)オールナイトニッポンでは不採用でしたが懐かしい思い出です。

煙草の話になり、先生がパイプをくわえている姿を思い出すよ、と一人が言う。そうそうと他の連中がうなずく。「あまり先生らしくなかったよな、そういえば」「そうだな、確かに」私もそう思う。当時ラジオから流れていたRCサクセションの「僕の好きな先生」という曲に出てくる教師のイメージが重なる。あの曲では美術の先生だったと思うが、「僕の好きな先生、僕の好きなおじさん」という一節が平沢先生にもあてはまる気がしてしょうがない。

今の学校にもああいう先生らしくない先生はいるんだろうか?

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2008年12月11日 (木)

師の教え・その3

大学時代、私は日本漢文を専門に勉強しようかと思っていました。

文学部に入ったときには江戸文学を専攻したかったのですが、その大学には江戸の専門家がいないということに入学後気付きました。まったくうかつな話です。ですが、今のようにネットで調べればどこの大学にどんな先生がいて何をやっているかすぐに分かる時代ではありませんでしたし、研究論文を載せた専門誌を調べてみるというような発想がそもそもできませんでした。大学に行けばどこでも勉強できるだろう、ぐらいの考えでした。

もちろん大学の先生たちは自分の専門以外の時代についても学生など足許にも及ばないほどの知識を持っているのですが、学問の世界というのは蛸壺のようなもので(あるいは井戸を掘るという喩えの方がふさわしいかもしれませんが)一つの分野を狭く深く究めていくものです。専門分野以外の指導は十分にできないよと言われてもやむを得ません。

さてどうしようかと思った私は近代文学にするかなと方向転換し、あわてて文学史の教科書に載っている明治の作家の代表作を読み始めたりしました。そんなとき受講していた漢文講読の担当だった先生が、「今年受講届けを出したみなさんの中で国文のひとはいますか?」と我々に尋ねました。専攻はまだ最終決定ではなかったものの国文にしていた私も近くにいた連中と一緒に何事だろうと手を挙げました。すると中国哲学を専門とするその先生はニヤリと山猫のような笑みを浮かべ、「そうですか。それはよかった。今年も国文の諸君には頑張ってもらおうかと考えていたので、これくらいの人数がいれば大丈夫です。」???何のことだろう。わけが分からずにいると、「私は国文の諸君をしごきますので覚悟しておいてください。詳しいことは追々話します。」とだけ話し、その日は授業に入りました。

その年の漢文講読の教材は「孟子」朱子集注(しっちゅう)というもので、朱子が注釈をつけた「孟子」でした。原本は江戸時代の版本でそのコピーが配布されました。ご覧になったことが無い方はイメージしにくいかもしれませんが、漢字だけが並んでいるテキストです。孟子の本文が大きめの文字で並び、その4分の1くらいの大きさの文字で二行に分割された朱子の注釈(割り注といいます)がそのところどころに入っています。「孟子」の本文は現代語訳がいくらでもありますので、解釈のネタ本には困りませんが、朱子の注釈はどこを探しても現代語訳など見つかりません。そこが先生のねらい目です。探しても現代語訳が見つからない朱子の注釈部分は学生が自分で解釈するしかないわけですから、漢文講読の目的である白文を読み込んでいくトレーニングが十分にできることになります。

まさにトレーニングでした。漢和辞典をひたすら引くことの繰り返しでした。それでも解釈できずお手上げ状態で講義を受けるときもありましたが、先生の解釈を聞くとなるほどと思ったものです。

その中でいくつか印象に残っている部分があります。一つは孟子が説く学問の意義についてです。「孟子は学問の意義を鏡の喩えを使ってこう述べています。人間の本性は鏡のように曇りのないものである。それがさまざまな理由で曇ってくる。だから学問をするのは鏡の曇りを取り除いて本来の姿を取り戻すためなのであると。」性善説を唱えた孟子らしい考え方ですが、なるほどと思ったものです。二つめは、「開国後の日本が西欧の近代哲学を吸収できたのは、江戸時代の儒学の伝統があったからです。現象学などで議論されているのと同じレベルの議論が江戸の儒学者の間でも交わされていたから、維新後新しい西欧の文物が入ってきたときもそれを消化することができたのです。」という指摘。先生は朱子学と陽明学の専門家で江戸の儒学にも詳しい方でしたから、この指摘は新鮮でした。

そして三つ目。なぜ先生が国文の学生に頑張ってもらいたいと思っていたのかという理由です。実は日本漢文の資料は未整理のまま全国の各地に眠っているものが多く、東北の中に限っても山形の酒田をはじめとして相当数あるのにだれも手をつけていない、と先生はある日の講義で話しました。国文の人たちは源氏物語や枕草子といった和文の研究に忙しく、日本漢文を専門としている人はごく一部でそれこそ数えるくらいしかいない。中国文学や中国哲学の人たちも本家の研究に時間を取られるので、日本漢文など見向きもしない。このままだと文字通り虫に喰われて朽ちていく資料が山のようにある。だから国文の諸君の中で我こそはと思う人がいたらこの道に進んでみないか。そのような内容の話でした。

私の頭の中に浮かんできたのは、どこかの書庫の片隅でほこりをかぶったまま紙魚に食い荒らされていく、山のように積み重ねられた和綴じの書籍の姿でした。若い頃というのは単純ですから、先生の話を聞いてその気になってしまった私は講義が終わると先生の教官室を訪ねました。先生は現状を詳しく話してくださり、こう締めくくりました。「この道に進めば少なくとも君は開拓者になれる。誰も手をつけたことがない宝の山が眠っている。だけど人生は短い。君が生涯掛けて研究しても多分ほんの一部しかできないかもしれない。それでもいいんだよ。君がつけた道を後から来た弟子や孫弟子が継いでいけば、その道は大きな道になる。」そう言って先生は、例の山猫のような笑みをニヤリと浮かべました。話が壮大すぎて私はぼんやりしてしまいました。

その後も折にふれて教官室によく遊びに行きました。文字通り「遊び」に行ってこちらのレベルが低い質問を先生に投げかけるだけでしたが、先生は嫌な顔もせずつき合ってくれました。教官室の机は大きな事務用デスクで、その上に回転式のスタンドがありそこに小さめのサイズの『諸橋大漢和辞典』が全巻納まっていました。

いろいろな事情があり私は大学を退学することになり、結局その道には進むことなく終わってしまいました。大学をやめる時、お世話になった先生にもあいさつに行きました。「そうか、それは残念だな。一つだけアドバイスしておこう。君がこれから何をしていくことになるのか分からないが、君はデスクワークには向かないかもしれない。体を動かしていく仕事を考える方がいいかもしれないな。」それまで雑談の中で先生に伝えていたさまざまな話から判断してそう言ってくださったのだと思いますが、今の自分の仕事を考えるとそのアドバイスに従っているような気もします。塾講師はデスクワークではありません。どちらかというと役者のようなパフォーマーだと思います。自分の体を動かし声を出して伝えたり説明したりしなければならないからです。

中学、高校時代の師は鬼籍に入られてしまいましたが、今回取り上げた大学時代の師とも言うべき吉田先生は元気で活躍しておられます。ネット時代になって便利になったものだと思うのはこういうときです。現在、東洋大学の文学部で教授をなさっています。吉田先生が書いたコラムもこちらで読めますので、興味のある方はどうぞ。

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2008年12月 8日 (月)

師の教え・その2

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

『一握の砂』冒頭を飾る石川啄木の歌としてあまりにも有名な歌です。この歌を目にすると、高校の時に門屋光昭先生から受けた現代国語の授業が今でも鮮やかに浮かんできます。

五・七・五・七・七の各句の間を少し開けて板書した先生は、「この啄木の歌の視線の絞り込みが分かりますか?」と我々に問いかけました。何のことかと思っていると、少し開いた各句の間に下向きの不等号を書き込み、「『東海の』から始まる冒頭は鳥の眼で見たような、鳥瞰の位置です。そこから『小島の』『磯の』『白砂に』とカメラが寄っていくようにズームアップしていくのが分かりますか。そこに泣きぬれている『われ』がいて『蟹』がいるわけです。つまり大空の高みから一気に作者の心まで急降下して、私たちは啄木の歌の世界へと引き込まれていくことになるのです。」と先生は説明されました。

ああ、そうなんだ、そういう構造をしているんだこの歌は。16歳だった私はわずか三十一音の短歌や和歌にそれまでほとんど興味を持ったことがありませんでしたが、この啄木の歌の講義を受けて目を開かれました。同じ門屋先生の授業で教わった若山牧水の歌も好きでした。

白鳥(しらとり)はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
幾山河(いくやまかは)こえさりゆかば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

これらの歌が詠まれた背景の説明を聞きながら、海と空のあわいを漂うように飛ぶ一羽の海鳥の姿を思い浮かべていました。牧水が交際していた女性と行った旅先で目にした情景が元になっており、白鳥(しらとり)は一羽で寂しくないのだろうか、自分たちのように愛し合う相手もおらずにという気持ちが込められているのです、と先生は解説されました。どちらかというと私は一羽で漂う「白鳥」や幾山河越えて旅をしても消えることのない「寂しさ」の方に関心があったのですが、なるほどと思いました。

先生は昨年亡くなられ、一周忌も過ぎました。先生が亡くなられたときに思ったことはこちらの記事に書きましたので繰り返しませんけれども、今思うと高校生の私が大学で文学の勉強をしてみようという気持ちを強く持つようになったのは門屋先生の影響が大きかったんだなと思います。中学の頃から文学への興味は強くありましたが高校時代に先生との出会いがなければ実際に文学部に進むことを考えなかったかもしれません。高校2年・3年と担任でしたし、ほぼ毎日先生の話に耳を傾けていたわけですから知らず知らず影響を受けていたのだと思います。

昨年葬儀に出席できなかった私は後日先生のご自宅を訪れて遺影の前に手を合わせました。その折、先生の奥さまから「これは門屋の最後の本になりますが」と一冊の新刊を頂きました。『啄木への目線 -鴎外・道造・修司・周平』(洋々社、2007年)と題された先生のその本を読むと、どれほど先生が啄木や寺山修司の歌が好きだったのか分かりました。自分が愛着をもつ歌人だっただけにあれだけ熱のこもった授業だったのだと合点もいきました。

私は愛着をもつものを通して何か生徒に伝えることができているんだろうか、ふとそんな気持ちになります。

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2008年12月 7日 (日)

師の教え・その1

人にものを教える仕事を始めて来年で四半世紀になります。

しかし、そういう私もその前は人から教えを受ける1人の生徒でした。数多くの先生に出会い、反面教師とするしかないような人もいましたが、多くは何かしら貴重な教えを残してくれた気がします。

その中で、どうしても知っていただきたい何人かの先生について書いてみたいと思います。

一人目は中学の英語の先生で、部活の剣道部の顧問でもあった平沢先生。平沢先生は当時お幾つだったんだろうかと今でもよく思います。もしかすると今の私より若かったのかもしれません。柴田錬三郎みたいに渋い雰囲気の先生でした。職員室に行くといつもパイプ煙草をプカプカしていて、たぶん銘柄は「桃山」だったと思います。クリーム色に金の縁取りが入った煙草の缶が先生の机の上にありました。

平沢先生は兵役に就いたこともあり、寒い冬の日、石炭ストーブを囲んでいる私たちの輪に入って徴兵検査の話をしてくれたりしました。終戦後、横浜で沖中士をしていたことがあるという話もそんなストーブ話のときに聞いたような気がします。沢内村出身だった先生は臨時採用の教員となり、そのまま教員を続けることになったと言っていました。

この平沢先生から教わったことは言葉によるものではありません。先生の取った行為が未だに忘れられない貴重な教えになっています。

それは中学2年の時のことでした。いつものように英語の時間となり、平沢先生が教室にやってきて授業が始まりました。同じ剣道部だったN君がふざけて友だちと騒いでうるさくしていました。平沢先生は最初何も言いませんでした。おそらく自分たちが気付くだろうと考えていたのだと思います。しかしN君もその周囲の連中も調子に乗ってさらに悪ふざけを続けていました。先生は静かに何度か注意したように思います。けれども騒ぎは止むことなく続いていました。黙って教壇からN君の席まで行くと、平沢先生は平手で思いっきりN君を打ちました。一瞬にして教室はシーンと静まり返りました。「教育委員会に訴え出てもいい。家に帰って親に言え。今日はもう授業はやめだ。お前たちが授業を受ける気がないんだから、やっても無駄だ。」そう言うと先生は職員室に引き上げてしまいました。悪ふざけしていたN君がシュンとなったのはもちろんですが、残された私たちはどうしようかと相談を始めました。班長たちに集まってもらいどうする?と言うと、「やっぱり謝りに行った方がいいよ。」ということになり、学級委員をしていた私と班長たちが職員室に謝りに行きました。

先生は私たちの話を黙って聞いていました。そして「本当に授業を受ける気があるのか?」と念を押しました。ハイと答えた私たちをじっと見て平沢先生はしばらく何も言いませんでした。だめか、と思ったとき「分かった。もう少ししたら教室に行くから、先に戻っていなさい。」という一言。教室で待っていると先生は普段通りに教壇に立ち、いつものように授業を始めました。だれもがその日の授業を真剣に聞いたのはもちろんのことです。

私たちがそのとき学んだのは、大人が本気で怒るというのはどういうことなのかということでした。今なら私も先生の気持ちはよく分かります。これから長い人生のあるお前たちが、そんなちゃらんぽらんな中途半端な気持ちでホントにいいのか、そんな気持ちだったのではないかと思います。ただ騒いでいたから腹が立ったということではないと思います。普段は洒脱なとでも言った方がいいくらいサバけた先生で、多少のことは大目に見てくれる先生でしたから本気で怒ったときは本当に怖かったですし、自分たちが悪かったんだとも思いました。

体罰を肯定するわけではありません。今なら本当に教育委員会に訴える親もいるかもしれません。ですが、当時私たちはだれ一人平沢先生のことを悪く思いませんでした。それは日ごろから私たちとよく話をしてくれて信頼関係があったからだと思います。信頼関係といえば、今となっては笑える話ですがこんなこともありました。

中学三年の時のことです。中総体も終わり三年生は初段の試験を受けることが最後の目標になっていました。今はどうか分かりませんが、そのころ剣道の初段の試験は木刀による型の試技と竹刀による試合からなっていました。大学で剣道を続けているOBに頼み木刀の型を教えてもらい、さあ来週は初段の試験だというとき、剣道部の部長だった私は平沢先生に「先生、来週初段の試験ですが…」と確認に行きました。すると先生は、しまったという顔をして「すまん。初段の試験の申込用紙を出し忘れた。本当に申し訳ない。」えっ?一瞬何のことか分かりませんでしたが、初段の試験が受けられないということがようやく理解できました。部活でみんなが集まったときにこの話をすると、「そりゃないよ、この何週間かは一体何だったんだよ。」と大ブーイングでした。しかし、不思議なことにだれも平沢先生を恨んだりはしませんでした。まあ、平沢先生のことだからしょうがないかという気分がみんなの中にありました。

たぶん私たちは皆、平沢先生のことが好きだったんだと思います。普段いい加減なように見えて、肝心なときに必要なことを生徒に媚びずに言ってくれる先生は平沢先生だけでした。大人の生き方を背中で教えられたように今でも思っています。

その後同窓会の時に、一度だけ平沢先生とお酒を飲む機会がありました。すっかり髪は白くなっていましたが、相変わらずの先生でした。残念なことに亡くなられたという訃報を耳にしました。もう一度お会いして、あの中学2年の英語の授業の出来事について聞いてみたかったのですが、叶わぬ夢となってしまいました。

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