歴史

2016年11月30日 (水)

久方ぶりの近代史ネタ

七月下旬から新しい学びに手を出し、近代史の学び直しは中断したままになっている。ときどき思い出したように、以前手に取った松本健一や橋川文三の本をパラパラとめくってみたりするほかは、中公文庫の『日本の歴史』を日課のように数ページ読んでいるだけだ。それでも関心のあることがらというのは妙なもので、忘れてしまっているわけではない。折に触れて一気に核心に迫るような興味を呼び起こすことがある。

『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』を読んでいる時もそうだった。かつて存在した、日本の企業の家族主義の淵源が明治末期にあるということを知って仰天してしまった。大雑把な話になるが、日清・日露の戦争を経て日本は資本主義を確立していく。その過程で商品経済の浸透とともに農村共同体が動揺し始める。石川啄木が書いた「時代閉塞の現状」にも、日露戦争後の帝国主義化していく日本の社会に対する個人の不安が反映されていた。それまでの共同体から切り離された個人が、何を拠り所にすればよいのか分からない状態で放り出されている。そういう意識が社会の各層に蔓延していたと思われる。

そこにあるものは『日本の歴史22』によれば、「「臥薪嘗胆」のキャッチフレーズも「富国強兵」のスローガンも雲散霧消し、国民生活を支える国家主義的な価値の秩序が崩壊したとき、日本国民は全体として虚脱状態に陥った。」という、一種のアノミーなのであろう。明治維新の大目標であった「富国強兵」が日露戦争後に達成されてしまうと、もはや何を目指してよいのか明確な目標が無くなってしまった。そうした政治・社会の危機的状況を詔勅の煥発によって乗り切ろうしたのが「戊申詔書」だったが、上下一致や勤倹の教訓だけでは崩れ去ろうとするビジョンを支え切ることはできなかった。

こうして共同体から切り離された個人がぶつかったものが、一つは軍隊であり、もう一つは工場であった。

軍隊では不満や反抗が増大し、集団で脱営するという出来事が頻発する。また、除隊後の兵士が郷里に戻り「兵隊帰り」と呼ばれる粗野な存在として嫌われ者になるなどして、徴兵忌避の一因ともなっていた。

こういった状況を変えるため、田中義一は軍隊の在り方について新しい設計をした。『日本の歴史22』には以下のように述べられている。

軍隊の在り方について新しい設計をしたのは、日露戦争中、参謀として児玉総参謀長を助け、その将来を注目されていた田中義一である。かれは戦後第一師団に配属されると、そこで「良兵即良民」をモットーとし、軍隊教育の改善に着手した。かれの改革は「兵営生活の家庭化」と呼ばれ、「中隊長は厳父であり、中隊下士は慈母である。而して内務班に於ける上等兵は兄であるというように、中隊内の雰囲気を家庭的温情味のあるようにしなければ、真の軍の軍規は涵養できない」という基本方針の上にたっていた。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』中公文庫 347頁)

つまり下士の横暴に対する軍隊内の不満を解決し、同時に上官としての威厳を保たせ命令に服従させるための方策として、「親の恩情にこたえて子供が誠心誠意に仕える温情的家族主義」を軍隊に導入したというのである。

その結果はどうだったのか。同じ『日本の歴史22』を引用すると

こうして家族主義は、個人の自覚の目覚めにつれて動揺し、崩壊しようとするとき、愛情を軸として一転回することによって、個人の目覚めを家族共同体のなかに吸収し、家族主義を再編成することに成功したのである。  (同上 348頁)

同様の家族主義は雇用の場へも浸透してくのだが、長くなったので次回に。

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2016年6月12日 (日)

時代が違っていたら

生まれる時代を人は選ぶことができない。否応なしに生まれ落ちた時代の風に吹かれ、人は時代の空気を吸い込む。時代が違っていたら、たぶん私も同じように感じ、同じような道を選んだかもしれない。昭和維新期の青年たちの心情や行動を記述した文章を読み続けていると、それほど遠いところに立っている人たちではないという気がしてくる。

例えば、五・一五事件を引き起こした海軍青年将校や二・二六事件の陸軍青年将校たち。あの時代に生まれて、海軍兵学校や陸軍士官学校に入り下級将校となったら、おそらく私も同じように決起したのではないか、と思ってしまう。

五・一五事件は「話せば分かる」と言った犬養毅首相を「問答無用」と射殺した事件である。犬飼首相を暗殺しても社会そのものの変革に直結するわけではない。にもかかわらず彼らは、国家改造のためにはそれが必要なのだと確信して事件を引き起こしている。無抵抗の老人を若い軍人たちが集団で襲撃した。客観的に見ればそういう事件であり、その点で卑怯といえば卑怯な振る舞いである。大隈重信に爆裂弾を投げつけて暗殺を確信し、その直後自ら命を絶った玄洋社の来島恒喜のような暗殺者の倫理みたいなものを感じさせない事件でもある。

しかし、彼らの目に映っていたのは、選挙で票を買収することが当たり前の腐敗した政党政治と金権により政治に影響力を行使する財閥、それと対照的に昭和恐慌に苦しむ大衆の姿である。犬養毅首相自身の姿ではなく、腐敗した政党政治の姿をその上に重ねて見ていたということになるのだろう。だからといって暗殺が正当化されるわけではないが。

ただ、あの時代に生を受けていたら、同じように行動したのではないか。どうしてもそういう感じがぬぐえない。戦後の民主化された世の中しか知らず、戦前の軍人というと狂信的なファシストか軍国主義者しかいないように思ってしまうが、二・二六事件の陸軍青年将校の一人である村中孝次にしても、その青年将校に影響を与えた西田税にしても文人的素養にあふれた人間である。戦後に生まれていたら、おそらく芸術か学問の分野をめざしたのではないかと思われる人びとだ。決して軍国主義の生んだ怪物というわけではない。

だから、彼らが現代に現代的な姿で生きていても不思議ではないように、われわれがあの時代に生まれれば、あの時代の青年の姿で生きていた可能性だってあるのだ。戦前の軍国主義的なものを全て封印し、「墨塗り」をして、無かったことにしてしまったのが占領下の戦後社会である。戦前的なものを自分たちとは無関係なものとして切り離してしまったわけだが、無関係だとした時点で道を間違えたのではないか。それよりも戦前的なものに徹底して向き合うべきだったのではないか、その中から残すべきものと捨てるべきものを見きわめて戦後の社会を再構築すべきだったのではないか。

戦前の社会は一部の軍人と国家主義の右翼勢力が破滅へと導いたのであり、自分達はその犠牲者だ。ということにするのが一番楽である。悪いのは彼らであり、われわれはだまされていた。本当は誰も戦争など望んでいなかった。そのように言うことは簡単である。しかし、満州事変が起きると満州は日本の生命線だと肯定し、アメリカと開戦するといよいよ欧米の勢力から亜細亜を解放する戦いが始まったのだと喜んだのは、同じ当人たちなのではないか。竹内好は十二月八日の日米開戦の報に接したとき、これで亜細亜解放の戦いが始まるのだと、日中戦争に対して持っていた後ろめたさのようなものが払拭されるのを感じた。同じように感じた人も多くいたはずなのだ。しかし、戦後になってもその事実からしっかりと目をそらすことなく向き合った人が少なかったということなのだろう。

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2016年5月18日 (水)

時代の替わり目

昭和初期の歴史を学び直していると、どこで世の中の空気が変わってしまったのだろうと考えさせられる。この間記事にしたように、大正末から昭和六年の満州事変前までは軍部に対する風当たりが強く、軍人が肩身の狭い思いをした時期だった。それが、満州事変の勃発から変化していく。

満州事変後の大きな替わり目は、天皇機関説排撃事件とその中で出された国体明徴声明だろう。「統治権は国家にあり、天皇はその最高機関として統治する」という美濃部達吉の天皇機関説は、国家公認の憲法学説であり昭和天皇も機関説でなんら問題ないとしていたものだ。この機関説を軍部・右翼が排撃する中で、政友会も加わり国体明徴運動が政治利用されていく。機関説排撃は在郷軍人会を中心に全国展開され、岡田内閣は昭和十年に二度に渡って「国体明徴声明」を出す。

第一次の声明では、「機関説が国体の本義に反するもの」という文言にとどまっていた。それが、第二次の声明になると、「機関説は取り除かれるべきものである」として、帝国憲法のもとにおける立憲主義の統治理念が公然と否定されることになった。「合法無血のクーデター」とも言われるゆえんである。

「国体」という言葉は現代ではわかりにくい。おそらく「国民体育大会」の略語としての「国体」しか思い浮かべないだろう。wikipediaに載る定義では「天皇を中心とした秩序(政体)」とあるが、本来は「国がら」とか「国のあり方」くらいの意味しか持たなかったものが、「天皇を中心とした秩序(政体)」という意味に固定化していったのだろう。だから、「国体の本義に反する」というのは「天皇を中心とした秩序(政体)の本義に反する」ということになる。

この天皇機関説排撃事件と国体明徴声明のあった昭和十年が、時代の大きな替わり目なのではないかと思う。翌昭和十一年に二・二六事件、昭和十二年に日中戦争勃発。そして昭和十六年に太平洋戦争開始。機関説を巡る国体明徴運動を通じて軍部が政治の主導権を握り、戦時体制へと国内を引きずっていくことになった。

しかし、その当時の社会に生きていた人々は、それほど重大なことだとは受け止めていなかったのではないか。国体明徴声明が持つ政治的な意味など、一般大衆には無縁の話であり、それよりも景気が悪かったり暮らしが大変だという日々の問題のほうがはるかに大事だったろう。

時代をある方向に引きずっていきたい人々にとって、この一般大衆の政治的無関心は最大の味方となる。とんでもないことになると誰も思わなければ、それに抵抗しようとする勢力も生まれないし、密かに進めていることに関心が向けられることもない。もう引き返せないところまで連れてこられてしまったと気づいても、どうしようもない。

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2016年5月12日 (木)

近現代史の学び直し・その後

去年のいまごろから延々、というかだらだらと近現代史の学び直しを続けている。そもそも何がきっかけで始めたのか、よく覚えていないのだが一年前の「近現代史の学び直し」という記事を読み返すと、亜細亜主義者の幾人かに興味をもったことからのようだ。

まだまだ学び直しの途上で、学び直しというより新しく学ぶことや認識することのほうが多い。その中で、いかに大雑把な印象しか持っていなかったか思い知らさせることがしばしばだ。そうだったのかと特に意外に思ったのが、大正末から昭和初期の社会の風潮である。昭和初期といえば、満州事変や五・一五事件あるいは二・二六事件に代表される軍部の台頭というイメージしかなかった。軍国主義・全体主義一色のきわめて不自由な空気感の中で人々が日常を送っていたのだろうな、ぐらいの感触である。

ところが実際は違っていたようだ。特に第一次大戦後の大正末から満州事変の起きる昭和六年ころまでの十年は、外交では幣原喜重郎の国際協調外交、国内的には第二次護憲運動に代表される大正デモクラシーの流れの中にあり、社会の風潮は軍国主義や全体主義的なものではなかった。軍人に対する風当たりも強く、軍服を着た軍人が電車の中で乗客からあれこれ文句を言われて肩身の狭い思いをすることもあったという記述を読んだりすると、「えっ、そうだったの?」と驚いてしまう。国粋主義的な政党が選挙で候補者を立てても当選する方が稀であったようで、一般大衆はそういう勢力を支持していたわけではなかったのだとわかる。

その社会の空気感が変わるのが1931年(昭和6年)に起きた満州事変である。「満蒙問題」とか「満州問題」と呼ばれていた問題を解決するため、国外では満州事変、国内では国家改造を同時に進める。これが軍部とそれに結びついた国家主義者たちの意図していたことであった。

「満蒙問題」とは、日露戦争後獲得した満州・内蒙古をめぐる日本の利権ないしは勢力圏に関する問題である。1920年代の後半から、それまで列強諸国にあたえていた諸権益を回収する国権回復運動が中国でおこった。日本がロシアから引き継いだ満蒙での権益も、ロシアと清国との間で決められていた25年という期限が迫っており、二十一ヶ条の要求で99年までの延長を押しつけていたものの、国際的な正当性は認められなかった。この中国側の権益回収の中には、南満州鉄道の買い戻しも含まれる。元々のロシアとの条約に「売り戻し」の条項があり、おそらくロシアは25年の条約期限後に満州鉄道を高く売るつもりでいたのだろう。この条項を逆手に取り、アメリカからの借款で南満州鉄道を買い取るという考えが中国政府にあったようだ。

これを一気に解決する策として満州の領有という案が陸軍の中に生まれる。明治以来の陸軍の大陸進出志向からすれば、ごく自然な発想だろう。と同時に、第一次大戦後に強く意識され始めた総力戦体制を確立するため、国家改造が必要だともされた。現行の内閣を倒し軍部首脳を首班とする国家改造内閣を成立させ、そのもとで総力戦にむけた総動員体制を作ること。それが急務だと軍部に強く認識される。こうした動きに民間の国家主義者たちが結びついて、三月事件、十月事件、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件が起こされていく。

「満州事変」「満州国成立」「国際連盟脱退」という流れの中、民衆の意識は軍部支持へと振れていく。この意識の底に何があるのか。現代のわれわれには実感できないのだが、日露戦争で日本の兵士が9万人弱戦没しているということが大きかったようだ。満州の地は、日本人兵士の血によって獲得されたものだという意識。これが当時の民衆の意識の根底に共通項として横たわっている。それゆえ「侵略」という意識より、当然の「権利」だという意識のほうが強かったのだろう。日露戦争から二十年ほどしか経っていない時代なのだ。戦死した家族や親戚が身近にいて、従軍した人々も存命だったはずだ。こうした人々の意識が国家主義的な流れに束ねられていくのは、そう無理な話ではなかったのかもしれない。

こうして見ていくと、国際協調ではなく対立と、権益の保護(今なら国益の擁護とでも言うのだろうか)が対外侵略の正当化に利用されているのがわかる。国際協調みたいな手間のかかるぬるいやり方より、敵と味方をはっきりさせて対立を煽り、実力行使で手早く解決したほうがすっきりする、と考える人が多くなると、今の時代でも同じような流れは生まれてくるのではないか。手間のかかるぬるいやり方にこそ、力による衝突を避ける歴史の智慧が含まれていると思うのだが。

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2015年5月13日 (水)

近現代史の学び直し

歴史の授業で一番おろそかになっているのは、たぶん近現代史なのだろう。日本史でも世界史でも時代順に授業が進んできて近現代史以降になると、消化する時間が足りなくなり、駆け足で一気に授業を終わらせてしまう。その結果、歴史的な理解を欠き、今の日本の社会がなぜこのような形になっているのか分からないという状態に陥る。

幕末から維新期にかけての開国期、急速な近代化を遂げる中で何が実現され何が実現されなかったのか。なぜ、帝国主義へと向かい、アジアの諸地域に植民地を獲得しさらに膨張していこうとしていたのか。なぜ、第二次大戦で敗戦国になりながら、その後の社会の在り方がドイツと日本では、これほど異なるのか。そもそも日本は本当に近代的な市民社会が成立しているのか。

こういう疑問は、近現代史を学ばなければ、うまく解消されない。特にアジアとの関係を学び直すことは重要なのではないか。ヘイトスピーチに見られるような極端な民族差別的思考は、歴史をきちんと学んでいないことから来ているように思う。

また、一国の首相が、改憲構想を巡る発言の中で「立憲主義」を理解していないことを露呈したり、逆に改憲そのものが絶対にしてはならないことのように思い込んだりしている人がいるのも、近現代史を含めた歴史的なものへの認識が不十分だからなのではないか。憲法改正が、改悪か、一字一句も変更を許さない護憲かという選択肢しかないのは実はおかしい。よく改める、という立場があるはずなのに、それを政策上のポイントにしている政党が現れない。

そもそも憲法は国民が制定会議を自分達で開き、出来上がった憲法によって権力を縛っていくものだ。それが「立憲主義」の本義であるはずなのだが、そしてまたその本義からすれば、憲法は絶対的なものではなく修正可能なものであり、修正を入れることによって国民がより権力に対して縛りをかけていくということができるものであるはずだ。

といったような近代的な市民の常識に相当するものが、全く常識になっていない。それも近現代史を学ぶ時間が薄くなっているからではないだろうか。

だからどうこうしろ、という話ではなく、明治維新から第二次大戦敗戦くらいまでの近現代史を見なおしてみるのは面白そうだ、と思っているという個人的な話だ。特に亜細亜主義を掲げていた人々の著作に目を通してみると、興味深い内容が多い。亜細亜主義者というと、日本の軍国主義化と侵略戦争への理論的支柱となった極右の人々というイメージしかなかった。それゆえ、最初から、読んでみようという気持ちにすらならなかったのだが、実は極右というステレオタイプで片付けてしまえるほど単純な人々ばかりではないようだ。

たとえば、東京裁判で民間人として唯一A級戦犯として起訴された大川周明の著作を読んでみると、「狂信的」な国家主義者のイメージと少し違う側面が見られる。大川周明が書いた『頭山満と近代日本』という一文など興味深い。玄洋社という福岡の国粋主義者の団体を実質的に主宰した頭山満の評伝とでもいうべき文章なのだが、主義の中身は置くとして、明治の青年の波乱万丈の一代記でなかなか面白い。特に自由民権運動との関わりなど興味深い話題もあった。たとえば、板垣退助らの自由民権運動が民撰議院論(国会開設を求める)と征韓論の立場であり、大隈重信らが民撰議院論は取るが非征韓論の立場であり、政府は民撰議院論にも征韓論にも反対する立場だったという指摘など、教えられるところが多かった。これまで板垣の自由党と大隈の立憲改進党の違いについて、フランス流の急進主義とイギリス流の穏健主義の違い程度の認識しかしていなかった。征韓論についての立場を入れてみると、国威宣揚のために征韓すべきという自由党と内政を充実させて国権を拡張しようという改進党の立場は、確かに相容れない。そういえば、板垣退助は西郷隆盛らとともに征韓論に敗れて政府を去ったのだったなあと改めて思い出した。

こうした例ばかりではないが、あれこれ読み込みたい話題が多いのは確かだ。なんとなく右傾化しているように感じる現在だからこそ、戦前の右翼本流の亜細亜主義者を読んでみることには意味があるのではないか。つまり、亜細亜主義者の主張してきた所を批判的に捉え直してみない限り、それを乗り越えることはできないのではないか。戦後の民主化教育の中で、こうした戦前の亜細亜主義者の主張は危険な国家主義、国粋主義につながるものとしてタブー視されてきた。だから、読まずに「危険物」「取扱注意」のレッテルを貼ってお終いにしてきたのだと思う。しかし、こういう思想的背景があり、こういう精神的支柱があって具体的な個々の事件や出来事があったのだと把握することこそ、歴史から学ぶことの意味なのではないだろうか。

今の時代に大川周明や北一輝や石原莞爾(興味深いことにこの三者とも熱心な法華経信者だ)を読んでいるなどというと、危険な国家主義の極右だと思われかねないが、戦前の国家主義や国粋主義を危険だと思うからこそ、その中身を理解しておく必要があると思う。

というわけで、だらだらと長くなってしまったが、要は亜細亜主義者を通して日本の近現代史を学び直してみようかと思っているというだけの話である。

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2013年4月15日 (月)

磐座めぐり

今日は午前から大験セミナーの金田先生 に、衣川から束稲(たばしね)方面の磐座(いわくら)をじっくりと案内していただいた。その中には安倍氏の館にすぐ近い月山神社や、日本刀の原形となった舞草刀(もくさとう)の発祥地に建つ舞草神社も含まれており、以前から訪れてみたいと思っていた場所にやっとたどり着くことができた。

詳しい紹介は金田先生のブログに載るはずなので、写真も含めてそちらを参照していただければと思う。とにかく不思議なエネルギーを注入されたような磐座めぐりだった。いずれも堆積岩とは思われない重厚な質量をもつ巨石である。おそらく火成岩であろうと思うのだが、岩石の種類まではわからない。しかし、そのどれもが畑や林の中に突如として異物が現れたような、圧倒的存在感をもって視界に入ってくる。

圧巻だったのは、烏兎ヶ森(うどがもり)の「岩倉神社」の磐座である。「岩倉神社」という標識があり、注連縄も一応あるのだが、神社の建物があるわけではない。急勾配の斜面に苔むした石段があり、その先に巨大な岩石がのしかかるようにせり出している。これが御神体なのであろう。昼過ぎの陽射しが石段の上を照らし、巨大な岩石は逆光で暗いのだが圧倒されるような存在感があった。今日回った中で一番印象深い磐座である。

最後に訪れた舞草神社の磐座はなぜか既視感があった。北上市の国見山で見たような光景が広がり、その磐座は国見山に隣り合う男山の頂上付近にある岩場を連想させた。高いところが苦手であるはずなのに、何かなつかしいものを感じてついついその磐座の上まで登ってしまった。

古代から続いてきた巨石信仰の跡に立ってみると、そこに堆積した時間の長さがしのばれて呆然とせずにはいられなかった。

金田先生、今日は一日ありがとうございました。今度はぜひ北上の国見山一帯をめぐってみましょう。

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2011年6月26日 (日)

平泉が世界遺産に

平泉の世界遺産への登録が正式に決まったという。今後景観の維持とか観光客の増大への対応など課題も多くなるだろうと思うけれど、平泉を開いた初代藤原清衡の「中尊寺供養願文」に書かれた恒久平和を願う思いが世界へ通じたようで素直にうれしい。

ちびやまめさんのブログ「釣れづれ物語」 でも平泉の話題を取り上げていたが(こちら) 、経堂に納められていた中尊寺経(紺紙金銀字交書一切経)の行方をはっきりさせて、里帰りを実現してほしいと書いていた。

同じ記事の中で、豊臣秀吉の命で高野山に移動させられたという説があると述べているように、たしか秀次に命じて高野山の金剛峰寺に持ち出され、中尊寺には15巻しか残ってないと聞いたことがある。

一切経というのは大蔵経と言われる仏教全書で、5300巻あるのだそうだが、このうち高野山へ持ち出されたのは4300巻。残りも時代ととに個人所蔵家や古書店に散逸し、中尊寺には15巻しか残らないのだという。

清衡以前にわが国で初めて紺紙金字一切経を完成させたのは白河法皇で、その荘厳さは当時の人びとを驚嘆させるものだったようだ。清衡は、この一切経を一行置きに金字と銀字で写経していくという工夫を見せ、独創的な一切経を完成させた。

三代秀衡の時代に紺紙金字一切経と紺紙金字法華経が作られ、先の清衡の紺紙金銀字交書一切経と合わせて中尊寺経と呼ばれているらしいことも、今回初めて知った。

ちびやまめさんも言うように、歴史的な問題や国宝扱いのお経である点などさまざまな問題はあるのだろうが、この平泉の世界遺産登録を期に本来あるべき中尊寺に返還されないものかと私も希望する。

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2011年6月17日 (金)

必敗の歴史・その3

平泉が世界文化遺産に登録されそうな見通しになってきたが、恒久的な平和を求める初代藤原清衡の願いに焦点が合ってきたようで、喜ばしい限りだ。前回の登録申請のときは、浄土思想に基づく歴史的景観を中心としていたようだが、今ひとつ分かりにくかった。

平泉を開いた初代清衡は奥州藤原氏四代の中で、最も波瀾万丈の劇的な生涯を送った人物だ。源義経との関連や塗り物にも名前が残っていることから、三代目の秀衡の方が知名度は高いのかもしれない。しかし、奥州藤原氏の進むべき道を拓き、北の地に無視できない一大勢力を築きあげた初代清衡の存在はとてつもなく大きい。

藤原清衡については以前、樋口知志氏の論文「藤原清衡論」を引用しながらまとめたことがあったが(こちら) 、七歳の時に厨川柵が陥落し、藤原経清の妻であった母親とともに清原武貞のもとに引き取られた。血のつながりのない真衡という兄、異父弟の家衡、そして自分は厨川柵で源頼義に斬首された経清の息子であり安倍氏の血を伝える者である。複雑な環境の少年時代であったろうと察せられる。

この兄の真衡が清原氏の当主となり督宗専制体制とでも呼ぶべき権力集中を始めると、一族の中で反発が生まれてくる。吉彦秀武(きみこのひでたけ)という前九年合戦時代の功労者がまず反旗を翻し、清衡・家衡兄弟も呼応する。そこに陸奥守となって赴任してきた源義家が介入し、後三年合戦が始まる。

この後三年合戦の前半、清衡・家衡が国守の源義家に対し弓を引くことをためらったとき、清衡の親族で藤原重光という人物が、「一天の君といえども恐るるに足らず、いわんや一国の刺使をや」という強硬論を押し通す。一天の君だといっても恐れることはない、まして相手の義家はたかが一国の国司ではありませんか。おどろくほど大胆な言葉だが、これが中央に対し弓を引いてきたこの陸奥国の人びとの真情だったのだと思う。

重光は戦死し、清衡・家衡らが降伏した後は国守義家へ弓を引いた罪をこの戦死した重光が一身に負うことになる。その後二人の兄真衡が病死し、源義家の裁定により奥六郡と呼ばれた現在の岩手県央部の北半を家衡、南半を清衡が分有することになる。しかし、義家の意図的な清衡びいきにより、家衡の清衡に対する憎悪が積もり重なり、ついには清衡の妻子の殺害という事態に至る。

ここから始まる義家・清衡と家衡・武衡との戦闘が後三年合戦の後半部となる。金沢柵を包囲した最終局面は悲惨である。前九年合戦の厨川柵陥落にも重なるような惨劇が繰り広げられる。合戦は終結したものの朝廷はこれを「私戦」とみなし、源義家に対する恩賞はなかった。父親の源頼義の前九年合戦は太政官符が発せられ正式な征討戦とみなされたが、「私戦」では何も得るところがない。

義家にしてみれば遺恨の残る戦であったと思われる。それが子孫の源頼朝をして、「私の宿意」を晴らすために奥州合戦を起こさせる要因となる。頼義といい義家といい、前九年・後三年の合戦を通じて勝利したとはいうものの、いいところなしで陸奥国を去らねばならなかったことがよほど口惜しかったということなのだろう。

一方の藤原清衡は、すべてを失って茫然自失の状態だったのではないかと思わる。妻子も殺され、弟の家衡を始め多くの一族の者を後三年合戦を通じて失ってしまった。前九年合戦で滅んだ安倍氏の一族も含めて、なんと多くの命が失われたことか。ここに清衡が仏道へと目を向ける契機があったのだろう。

平泉に中尊寺を建立するときの供養願文の中で清衡は、二階建ての鐘楼を造り、巨大な鐘を据える目的を次のように述べる。「一音響いて至るところの艱難(かんなん)を消し、平等に喜びを授ける。かつての戦乱(前九年合戦、後三年合戦)における死者は官軍・夷狄を問わず、鳥獣魚介の域を越えて精魂皆去り、塵になり果てている。鐘音と共にすべての恨みを消し去り、浄土に皆の霊を導かんと願う。」

もう争いごとや戦はたくさんだ。亡くなってしまえば官軍の兵士も陸奥や出羽の兵士も、みな等しい一塊の塵に過ぎぬ。恩讐を越えて浄土へ往生してほしい。この清衡の恒久平和への願いこそ、普遍的な意味を持つものだと思う。

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2011年6月16日 (木)

必敗の歴史・その2

伊勢物語の「東下り」が典型なのだろうか。罪を犯したため京にいられなくなった貴人が、異郷を目指す「貴種流離譚」は、源氏物語の「須磨」の巻に描かれた光源氏の姿にも重なる。東国やさらに北の陸奥国を目指すとなれば思い浮かぶのは源義経だろう。

彼らに共通するのは、身分の高い貴人であるという点。異郷で貴人として厚く遇されるという点。若くして陸奥守兼鎮守府将軍となった北畠顕家にも、どこか「貴種流離譚」の趣が感じられる。もちろん顕家は「逃れの地」として北を目指したのではなく、建武政権の統治者として臨んだのであるが、貴人として厚く遇され陸奥国の多くの武士から信望を得たというところなど、何か「貴種流離譚」に連なるものがある。

北畠顕家は陸奥守に任じたとき16歳だったと言われる。石津の戦いで高師直の軍勢に敗れ戦死したとき、まだ21歳という若さでしかなかった。若き公家の君達(きんだち)でありながら荒々しい陸奥国の武士を束ね、その強力な戦力で足利尊氏を最も苦しめた武将でもあった。未読だが、北方謙三氏の『破軍の星』に描きだされた北畠顕家像が秀逸だという。北方氏の創作による部分も多いようだが、若き貴公子顕家の魅力が十分に描かれているようだ。

「貴種流離譚」とは別に、北畠顕家のように陸奥国の荒々しい武人たちから敬意を払われたと思われる人物に、坂上田村麻呂という将軍がいる。坂上田村麻呂は、阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)という蝦夷の指導的人物の投降を受け、彼らを京へ連れていく。そして「夷を以て夷を制すべき」だとして助命を提言する。

このエピソードを考えるとき、いつも浮かんでくるのは、田村麻呂と阿弖流為らとの交流についてである。残されている史書のどこにも記述はないけれども、阿弖流為らが降伏を決意したのは坂上田村麻呂という一個の武人の人となりを信じたからではないかと思えてならない。同じように田村麻呂の中にも蝦夷である阿弖流為や母礼に対し敬意にも似た気持ちがあったのではないか。「夷を以て夷を制すべき」という考えには、田村麻呂の現実主義者の側面もうかがえるが、単に統治効率のみを考えたのではないように思う。阿弖流為や母礼らに対するある種の信頼感がなければ成り立たないことだと思うからだ。

田村麻呂の薨伝を読んでも、阿弖流為や母礼を河内の国で処刑させることになった後の田村麻呂の心境に触れたものはないのだが、結果的に阿弖流為たちの信頼を裏切るような形になったことへの後悔はいくぶんかあったのではないかと察する。

坂上田村麻呂は毘沙門天の化身だという見方があったようだ。『陸奥話記』という前九年合戦を描いた戦記にも「北天の化現」と書かれている。田村麻呂を毘沙門天と重ねる記述は早い時期から見られるようだ。朝廷側からすれば北方を守護するまさに毘沙門天の如き存在だったということは理解できるが、この田村麻呂に対して残るこの地域の伝承には征服者に対する憎しみのようなものは感じられない。「田村語り」として伝えられた口承芸能の中の田村麻呂の姿は英雄のそれである。結局、征服者の教化策が功を奏したということにでもなるのだろうか。それとも征服者に対する畏怖が畏敬へと転換されていったのか。やはり、坂上田村麻呂という一個の武人の存在感を抜きにしては成り立たない側面があったのかもしれない。

さて、毘沙門天像はたいがい神将像で武将風の姿をしており、足下に邪鬼を踏みつけている。北上市の立花毘沙門堂にある毘沙門天像もそうだ。同所にある増長天像・持国天像と伝えられる像も毘沙門天像と同様に邪鬼を踏みつけた姿だ。花巻市東和町にある成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)像は、地天女の両手に支えられて立ち、邪鬼ではなく尼藍婆、毘藍婆(にらんば、びらんば)と呼ばれる二鬼を従えている。毘沙門天に踏みつけられている邪鬼の姿を目にすると、坂上田村麻呂に征討された蝦夷の姿が重なって見える。もちろん、征服者から守護者へという受け止め方の転換はあったのだと思うし、邪鬼の姿も征服された蝦夷を表すのではなく邪悪なるもの一般の表象へと変わっていったのだとは思うが。

特に成島毘沙門堂の兜跋毘沙門天像は4メートル以上もあり、一木造りでは日本最大の像である。作られた時期が10~11世紀とされ、おそらく安倍氏の庇護のもと制作されたのだろうと思われる。征夷事業が終わり相当時間が経ってからということを考えると、古い時代に制作された像を新たに作り直したのかもしれない。写真等で見る限り、脇に従える尼藍婆、毘藍婆の二鬼は毘沙門天像より古い時代の作であるように感じられる。邪鬼ではなく、地天女の両手の上に立つ兜跋毘沙門天は平安京の鞍馬寺や大宰府の観世音寺のように、王城鎮護の神として崇められた像だという説がある。

邪鬼から地天女へという変化の中に、支配体制の中に組み込まれていった陸奥国の移り変わりが見えるのではないだろうか。

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2011年6月15日 (水)

必敗の歴史

陸奥国に住む人びとは律令国家から「蝦夷(えみし)」と呼ばれてきた。東夷西戎南蛮北狄という中華思想が輸入され、周縁部に住む未開な生活を送る連中は皇民化し教化しなければならないという視点から「夷」と見なされた。

何度も征夷軍が編成され、特に「三十八年戦争」と呼ばれた宝亀五年(774年)から弘仁二年(811年)までの期間が蝦夷征討戦の激しかった時期だった。その中で阿弖流為(アテルイ)や母礼(モレ)ら蝦夷の指導的人物が坂上田村麻呂に降伏し、京へ連れて行かれる。田村麻呂は「夷を以て夷を制すべし」と助命を提言するが、「捕らえた虎を野に放つようなもの」と朝廷は受け入れず、結局阿弖流為と母礼は河内国で処刑される。

以来千年以上も東北は敗れ続けてきた。前九年合戦では安倍氏が厨川柵に滅び、後三年合戦では清原氏が金沢柵に滅んだ。その安倍氏と清原氏の政治権力を引き継いだ奥州藤原氏も、その後四代目泰衡の代になると奥州合戦で源頼朝に敗れて滅ぶ。

頼朝自身の意識からすれば、父祖頼義・義家の代に陸奥国に源氏の棟梁権をうち立てることができなかった遺恨を晴らすのが主目的であり、「私の宿意」から発したことだと自ら認めているようだ。つまり義経をかくまったからというのは表向きの理由で、義経がいようがいまいが自分の代に父祖の果たせなかった「宿意」を成就させねばならないという強い意志が根底にある。

だからわざわざ進軍を遅らせ、前九年合戦で安倍氏が滅んだ旧暦九月十七日に厨川で泰衡の首を磔にするのだが、その際も安倍貞任を磔にしたときの子孫を捜し出し、当時を再現するかのように磔を執り行う。いかに頼朝が執念を燃やしていたかがわかるエピソードだ。

南北朝の時代になると、陸奥守兼鎮守府将軍(のちに鎮守府大将軍)の北畠顕家が、建武政権に反旗を翻した足利尊氏を京より駆逐するため上京する。その後も陸奥に戻り、足利方に与していた鎌倉を攻略し、再び西上を開始する。しかし、兵力の減少や疲弊のため和泉国堺浦石津に追いつめられ、味方の援軍を待ちながら結局高師直の軍勢に敗れて北畠顕家は戦死する。

戦国時代には伊達政宗が現れるが、秀吉の全国統一の過程で小田原攻めの際、恭順の意を示す。こうして秀吉は奥州仕置きを進め全国統一を果たす。その後天正十九年(1591年)、南部家の当主を巡る争いから九戸政実の乱が起きる。もともと南部家の精鋭であった九戸勢に勝てないと考えた南部信直は秀吉に九戸討伐を要請する。これに対し、秀吉は秀次を総大将に蒲生氏郷、浅野長政、石田三成らを中心とする総勢六万をこえる軍勢を送り込む。わずか五千の軍勢ながら、九戸政実は九戸城に籠城し徹底抗戦の構えであったが多勢に無勢、ついに討伐軍に降伏し政実は斬首。一族もことごとく斬殺され九戸氏は滅ぶ。

そして戊辰戦争。松平容保の会津藩や庄内藩は朝敵とされ、その会津・庄内両藩の赦免嘆願から奥羽越列藩同盟が作られ新政府軍との戦闘に入る。しかし三春藩の降伏、二本松城の陥落を皮切りに主だった藩が次々と降伏し、奥羽越列藩同盟は崩壊する。その結果、東北地方は薩摩長州の新政府から「白河以北一山百文」(福島県白河市の白河関から北は、一山百文の価値しかないという意味)と蔑まれた。

おわかりであろうか。「蝦夷(えみし)」の昔から奥羽越列藩同盟に至るまで、東北の歴史は中央に弓を引いて敗れてきた歴史の連続である。何度も「朝敵」の汚名を着せられた歴史でもある。唯一、南北朝の北畠顕家のみ南朝としての正統性を持ち得ているが、それ以外は反中央の叛逆者という扱いである。

特に戊辰戦争後の「白河以北一山百文」という東北の扱いは、屈辱感とともに反骨の土壌となる。仙台の「河北新報」も、原敬の「一山」(あるいは「逸山」とも)という号もこの侮蔑的な扱いに対する反発から出ている。NHKの大河ドラマ「翔ぶが如く」で福島県出身の西田敏行さんが薩摩の西郷隆盛を演じることに対し、地元ではいろいろな意見があったと聞く。自由民権運動を弾圧する福島事件の時に福島県令だった三島通庸も薩摩出身であり、明治新政府から目の敵にされたという思いが古老の間には生きていたのだろう。

こうした東北人の心底に潜むルサンチマンは、なかなか他地方の方には分かりにくいものかもしれない。中央からの力に膝を屈しなければならなかった歴史の上に「現在」がある。戊辰戦争の激戦地であった福島が、今また原発事故の放射能汚染に最も強く曝されねばならないということに複雑な思いを抱く。

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