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2020年5月26日 (火)

老い

人は老いていく。若い頃にはなんでもなかったことが、思うようにできなくなる。目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったり、動作も遅くなり、自分の力だけでは歩くのもままならなくなったりする。記憶力も衰えてくる。新しいことがらはなかなか覚えられなくなる。

老いとともに一つまた一つと失われ、損なわれていくものが増えていく。もう取り戻せない時間も増えていく。失われてしまったもの、損なわれてしまったもの、もう取り戻せなくなってしまったものばかりに目がいくと深い悲哀の中に閉じ込められてしまいそうになる。

その悲哀は、無数の可能性の中から一つを選び、あり得たかもしれない残りを捨ててきたことへの悔いから生まれる。あの時あのようにしていたら、という思い。しかし、そのような仮定法は悔いと悲哀を深めるだけで、何ももたらさない。

年老いて、失われたものや損なわれたものや取り戻せないものが増えてくるのは自然なことなのであり、誰もが避けられないことがらだ。だからそれを嘆いてもしょうがない。振り向いて来し方を思い返してばかりでは前に進めない。

学び続けることの意味はそこにあるのではないか。七十代や九十代になっても、もっと上手く弾けるようになるかもしれないからと日々の練習を欠かさなかったジャズピアニスト達。六十代の半ばを過ぎてから新しい外国語を身につけようと学び始めた詩人。もっとささやかな日々のちょっとしたことでも、何かを新たに始めようと思い立ち、実際に始めてみた高齢者はどこにでもいるような気がする。

残り時間が少なく、忘れてしまうことの方が多いのに、なぜ新たなものを学ぼうとするのか。それは、失われていくもの、損なわれていくもの、取り戻せないものばかりが増えていく中で、ほんのひと握りでも自分の手の中に残る何かであるからだ。いずれ風に吹かれてどこかへ消え失せてしまうものだとしても、今この瞬間に握りしめている感触は錯覚ではない。

いくらかでも前へと歩を進めているという感触。後ろ向きに立ち止まっていた時間から抜け出し、また時計の針を進めているという感触。今の自分より少しでもましな自分になろうとする意志がある限り、ひとは老いを嘆くばかりではない生き方ができるのではないかと思う。

このところ、『国際市場で会いましょう』『怪しい彼女』『ウンギョ・青い蜜』という韓国映画を立て続けに観て、老いるということについて考えさせられてしまった。

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