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2020年5月 6日 (水)

コロナ禍の中で・その1

すっかり変わってしまった世界の中で日々を送っていると、かつて当たり前のように存在していた日常が、本当にあったことなのかあやしくなってくる。

突然、私たちはなじみ深い日常から切り離されて非日常の中に身を置いていることに気付かされる。これは九年前の東日本大震災のときもそうだった。断ち切られた日常はあまりにももろく、非日常の中に投げ込まれていることの実感だけが時間とともに強くなっていった。

けれども、その非日常感も長くは続かなかった。私たちは非日常の中にあっても、日常を、恒常的なものの存続を望んだ。非日常の現実も、日を追うに従って新しい「日常」へと変容していった。ひと月、三ヶ月、半年と過ぎるにつれて、震災当初の衝撃も動揺も薄れていった。それは震災を契機に社会が変わるかもしれないという淡い期待がしぼんでいく過程でもあった。相も変わらぬ、おなじみの光景が続いていくことのやりきれなさが心の中に広がった。

だが、震災にはまだ先の見える部分が多かった。壊滅的な被害を受けた沿岸部の、言葉を失わせるような光景は、半年が過ぎてもあまり大きく変わることはなかったが、それでも瓦礫が片付けられ、低い土地のかさ上げがなされ、少しずつ、しかし確実に復興の進む実感はあった。元に戻ることはないのかもしれないが、それでもこの先、どれくらいの時間が経てば、どうなるのかという見通しはいくらかでもつけられるようになっていった。

それにくらべて、今私たちが置かれている現実は先が見えない。緊急事態宣言は五月末まで延長された。しかし、果たしてその時点でコロナウイルスの感染が終息しているのか。とてもそうは思えない。ワクチンの開発には18ヶ月かかるという話も耳にしたように思うが、WHOがパンデミック宣言した3月から18ヶ月と考えても、来年の9月ころにならなければ使えないということではないか。

コロナウイルス自体がえたいのしれないものであることへの恐れもさることながら、このウイルスのために、世界中の人々の日々の営みが回復不能なまでに損なわれていることを思わずにいられない。

人の移動も、接触も、まるでディストピアを描いた近未来小説さながらに、極度の制限を受けている。日本はあくまでも要請でしかないが、海外では拘束されたり罰金が課されるという所もある。人や物の動きが止まるということは、お金の動きが止まるということでもある。今回のコロナウイルス感染の拡大によって世界規模で経済が大きく損なわれている。

先日、国会で一人あたり10万円の支給が決まったが、ほかの国々でも外出制限と同時に補償給付が行われている。少し前までは、思考実験の材料だったユニバーサル・インカムが、このような形で実現するとは思ってもみなかった。既にそのよしあしを議論する段階を越えていて、急いで支給しなければ生活が破綻するところまで来ている場合も相当数にのぼるのではないかと思われる。

一方、さまざまな業種の中小企業、自営業、フリーランスはこの後どうなっていくのだろう。国による各種救済策は整備されてきているようだが、手続きの面も含めて、必要としている所に十分手が差し伸べられているのだろうか。

終息を迎えても、いったいどれくらいの事業者が生き残れるのだろう。コロナウイルスによる個人の死も恐ろしいが、このコロナ禍による各種事業の「死」も同様に恐るべきものではないか。スクラップ・アンド・ビルドで、今回の事態がさまざまな事業の再編につながり、かえってよしとすべきだという見方もあるだろうが、果たしてそうなのか。

感染症への対策を機とした事業の再編は、結局、体力のある大きな企業の独占や寡占へと進むだけなのではないか。つまりは社会的格差の拡大へとつながるような変化をもたらすだけなのではないか。

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