« 2019年6月 | トップページ

2020年5月

2020年5月26日 (火)

老い

人は老いていく。若い頃にはなんでもなかったことが、思うようにできなくなる。目が見えなくなったり耳が聞こえなくなったり、動作も遅くなり、自分の力だけでは歩くのもままならなくなったりする。記憶力も衰えてくる。新しいことがらはなかなか覚えられなくなる。

老いとともに一つまた一つと失われ、損なわれていくものが増えていく。もう取り戻せない時間も増えていく。失われてしまったもの、損なわれてしまったもの、もう取り戻せなくなってしまったものばかりに目がいくと深い悲哀の中に閉じ込められてしまいそうになる。

その悲哀は、無数の可能性の中から一つを選び、あり得たかもしれない残りを捨ててきたことへの悔いから生まれる。あの時あのようにしていたら、という思い。しかし、そのような仮定法は悔いと悲哀を深めるだけで、何ももたらさない。

年老いて、失われたものや損なわれたものや取り戻せないものが増えてくるのは自然なことなのであり、誰もが避けられないことがらだ。だからそれを嘆いてもしょうがない。振り向いて来し方を思い返してばかりでは前に進めない。

学び続けることの意味はそこにあるのではないか。七十代や九十代になっても、もっと上手く弾けるようになるかもしれないからと日々の練習を欠かさなかったジャズピアニスト達。六十代の半ばを過ぎてから新しい外国語を身につけようと学び始めた詩人。もっとささやかな日々のちょっとしたことでも、何かを新たに始めようと思い立ち、実際に始めてみた高齢者はどこにでもいるような気がする。

残り時間が少なく、忘れてしまうことの方が多いのに、なぜ新たなものを学ぼうとするのか。それは、失われていくもの、損なわれていくもの、取り戻せないものばかりが増えていく中で、ほんのひと握りでも自分の手の中に残る何かであるからだ。いずれ風に吹かれてどこかへ消え失せてしまうものだとしても、今この瞬間に握りしめている感触は錯覚ではない。

いくらかでも前へと歩を進めているという感触。後ろ向きに立ち止まっていた時間から抜け出し、また時計の針を進めているという感触。今の自分より少しでもましな自分になろうとする意志がある限り、ひとは老いを嘆くばかりではない生き方ができるのではないかと思う。

このところ、『国際市場で会いましょう』『怪しい彼女』『ウンギョ・青い蜜』という韓国映画を立て続けに観て、老いるということについて考えさせられてしまった。

| | コメント (0)

2020年5月 9日 (土)

コロナ禍の中で・その3

ロックダウン(lockdown)の訳語は何だろうと辞書を引いてみると「(米)囚人の独房への拘禁、厳しい監視」とあって、現在世間で流通している使われ方とズレがあるように感じる。こういうときは英英辞典に当たるべきだ。「オクスフォード現代英英辞典(OALD)」で引いてみると、次のように出ている。

"an official order to control the movement of people or vehicles because of a dangerous situation"

直訳すれば「危険な状況により、人びとや車両の移動を規制する公的な命令」とでもなるだろうか。これならしっくりくる。

羊のように(あるいは去勢された豚のように、と言うべきか)おとなしい日本人は「ロックダウン」が長引いても暴動など起こさない。アメリカのいくつかの州で、ロックダウンの解除を求める「暴動」が起きていることとは対照的だ。良くも悪くも日本の社会では和を乱さないこと、悪目立ちをしないこと、大勢に異を唱えないことが美徳とされるので、激しい自己主張の表現である抗議など考えられないということなのだろう。60年代の終わり頃に新宿騒乱があったり、安田講堂事件があったことなど、今となっては信じられないような平穏ぶりである。

コロナウイルスの感染拡大による変化の中でひときわ象徴的だと思うのは、人と人との物理的距離を取ることが、公共の場において標準的なあり方になったことだ。スーパーのレジでも床に標示があって間隔をとるように求められる。何も標示がなくても、列を作らざるをえない所では、誰言うともなく「社会的距離」を取るようになった。

これではデモや集会などありえない。もっともアメリカで行われているように、車に乗ったまま集団でデモ行進をしようと思えばできないこともないが、そこまでしてデモをする日本人はいないだろう。

こんなふうに人と人の距離が遠くなり、連帯や団結ではなく、分断と孤立が進むようになると、そうでなくともひどかった「見たいものしか見ない」という風潮が一層広まるのだろうなと思ってしまう。他者に対する想像力を欠いても、それがあまり問題とはならない社会ということなのだが。

| | コメント (0)

2020年5月 7日 (木)

コロナ禍の中で・その2

全国に緊急事態宣言が拡大された時、ふと「並行世界(パラレルワールド)」という言葉が浮かんできた。きっと、コロナウイルスの感染が起きる前の世界がそのままどこかで続いていて、そちらの世界では、これまでと同じようにお気楽にあちらこちらへでかけたり、三々五々人びとが集まったり、映画館やサッカースタジアムが満員になったりしているのではないか。

私たちの世界は、どこかでポイントが切り替わったのだと思えてならない。ある時点でパチンとスイッチが入り、あるいは切れて、ウイルスの世界的流行という悪夢のような現実の中に投げ込まれている。

これは不条理なことである。しかし、もともと世界は不条理なものだったのではないかとも思う。不条理なものを不条理なまま受け入れて生き延びるより手だてがないのではないか。

不条理ということで思い浮かべるのはアルベール・カミュである。今回のコロナ禍の中、カミュの『ペスト』が読まれているということを耳にして、私も読み返してみた。以前読んだのは四十年ほど前の二十代のころだ。

冒頭に出てくる、階段のネズミの死骸という場面は印象強く残っていたが、その他の場面はほとんど覚えていなかった。それでも、二十代のころに激しく心揺さぶられた箇所は、変わりなく心に迫ってきた。長い引用となるが、新潮文庫の宮崎嶺雄訳で引いてみる。P155-156の一節である。

(前略)しかし、筆者はむしろ、美しい行為に過大の重要さを認めることは、結局、間接の力強い賛辞を悪にささげることになると、信じたいのである。なぜなら、そうなると、美しい行為がそれほどの価値をもつのは、それがまれであり、そして悪意と冷淡こそ人間の行為においてはるかに頻繁な原動力であるためにほかならぬと推定することも許される。かかることは、筆者の与しえない思想である。世間に存在する悪は、ほとんどつねに無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。人間は邪悪であるよりもむしろ善良であり、そして真実のところ、そのことは問題ではない。しかし、彼らは多少とも無知であり、そしてそれがすなわち美徳あるいは悪徳と呼ばれるところのものなのであって、最も救いのない悪徳とは、みずからすべてを知っていると信じ、そこでみずから人を殺す権利を認めるような無知の、悪徳にほかならぬのである。殺人者の魂は盲目なのであり、ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。
(新潮文庫、アルベール・カミュ『ペスト』、宮崎嶺雄訳)

いったい二十代の私は、何故それほど激しく心揺さぶられたのか。今となっては思い出すすべもない。ただ激しく心を動かされたという感触だけが残っている。「ありうるかぎりの明識なくしては、真の善良さも美しい愛も存在しない。」この力強い認識に、心臓をわしづかみにされてしまったのかもしれない。

| | コメント (0)

2020年5月 6日 (水)

コロナ禍の中で・その1

すっかり変わってしまった世界の中で日々を送っていると、かつて当たり前のように存在していた日常が、本当にあったことなのかあやしくなってくる。

突然、私たちはなじみ深い日常から切り離されて非日常の中に身を置いていることに気付かされる。これは九年前の東日本大震災のときもそうだった。断ち切られた日常はあまりにももろく、非日常の中に投げ込まれていることの実感だけが時間とともに強くなっていった。

けれども、その非日常感も長くは続かなかった。私たちは非日常の中にあっても、日常を、恒常的なものの存続を望んだ。非日常の現実も、日を追うに従って新しい「日常」へと変容していった。ひと月、三ヶ月、半年と過ぎるにつれて、震災当初の衝撃も動揺も薄れていった。それは震災を契機に社会が変わるかもしれないという淡い期待がしぼんでいく過程でもあった。相も変わらぬ、おなじみの光景が続いていくことのやりきれなさが心の中に広がった。

だが、震災にはまだ先の見える部分が多かった。壊滅的な被害を受けた沿岸部の、言葉を失わせるような光景は、半年が過ぎてもあまり大きく変わることはなかったが、それでも瓦礫が片付けられ、低い土地のかさ上げがなされ、少しずつ、しかし確実に復興の進む実感はあった。元に戻ることはないのかもしれないが、それでもこの先、どれくらいの時間が経てば、どうなるのかという見通しはいくらかでもつけられるようになっていった。

それにくらべて、今私たちが置かれている現実は先が見えない。緊急事態宣言は五月末まで延長された。しかし、果たしてその時点でコロナウイルスの感染が終息しているのか。とてもそうは思えない。ワクチンの開発には18ヶ月かかるという話も耳にしたように思うが、WHOがパンデミック宣言した3月から18ヶ月と考えても、来年の9月ころにならなければ使えないということではないか。

コロナウイルス自体がえたいのしれないものであることへの恐れもさることながら、このウイルスのために、世界中の人々の日々の営みが回復不能なまでに損なわれていることを思わずにいられない。

人の移動も、接触も、まるでディストピアを描いた近未来小説さながらに、極度の制限を受けている。日本はあくまでも要請でしかないが、海外では拘束されたり罰金が課されるという所もある。人や物の動きが止まるということは、お金の動きが止まるということでもある。今回のコロナウイルス感染の拡大によって世界規模で経済が大きく損なわれている。

先日、国会で一人あたり10万円の支給が決まったが、ほかの国々でも外出制限と同時に補償給付が行われている。少し前までは、思考実験の材料だったユニバーサル・インカムが、このような形で実現するとは思ってもみなかった。既にそのよしあしを議論する段階を越えていて、急いで支給しなければ生活が破綻するところまで来ている場合も相当数にのぼるのではないかと思われる。

一方、さまざまな業種の中小企業、自営業、フリーランスはこの後どうなっていくのだろう。国による各種救済策は整備されてきているようだが、手続きの面も含めて、必要としている所に十分手が差し伸べられているのだろうか。

終息を迎えても、いったいどれくらいの事業者が生き残れるのだろう。コロナウイルスによる個人の死も恐ろしいが、このコロナ禍による各種事業の「死」も同様に恐るべきものではないか。スクラップ・アンド・ビルドで、今回の事態がさまざまな事業の再編につながり、かえってよしとすべきだという見方もあるだろうが、果たしてそうなのか。

感染症への対策を機とした事業の再編は、結局、体力のある大きな企業の独占や寡占へと進むだけなのではないか。つまりは社会的格差の拡大へとつながるような変化をもたらすだけなのではないか。

| | コメント (0)

« 2019年6月 | トップページ