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2019年6月

2019年6月30日 (日)

蟷螂の斧・その2

理科の音の実験に、簡易真空装置を使ったものがある。目覚まし時計を中で鳴らし、徐々に空気を抜いていくと音の聞こえ方がどうなるかという、おなじみの実験だ。

簡易真空装置で徐々に空気を抜いてゆくと、次第に音は小さくなり聞こえなくなる。目覚まし時計は鳴っているはずなのに何故聞こえないのか。振動を伝える空気がないから、というのがたぶん記述問題の場合の模範的な解答例になるだろう。

固体、液体、気体に関わらず振動を伝えるものがあれば音は伝わる。逆に、伝えるものがなければ何も聞こえない。このことがとても比喩的なことに思えてならない。

私たちの置かれている状況も似たようなものではないのだろうか。テレビをつけてみるとバラエティ番組かグルメ番組かテレビショッピングばかりで、報道系は少ない。硬派のドキュメンタリ番組となると更に少ない。たぶん視聴率が取れないからだろう。

参院選間近だが、各政党の選挙公約を比較解説したりする番組がほとんどないのも同じ理由からか。スポンサーの意向もあるのかもしれない。よらしむべし知らしむべからずが望ましく、寝た子を起こすような番組は百害あって一利なしということなのだろう。

こうして何が争点なのか印象が薄いまま投票日を迎える。天気が悪かったり、逆に行楽日和だったりすると、「ま、投票に行かなくてもいいか」ということになる。「おれ一人投票してもしなくても大勢に変わりはないだろうし。」こうして投票率は低調となる。いっそのこと投票率が50%を切ったら選挙やり直しとかに法律を変えてみたらいいのにと思ってしまう。

結局、選挙権があることのありがたみを切実に感じられないということなのだろう。選挙権を持っていることがあたり前で、それを奪われたり与えられていなかったりという経験がないから、さほど大事なことにも思われない。もしかすると、選挙権などない方が毎回投票に行かなくて済むからラクチンでいいと考える人さえいるのかもしれない。

毎日同じように続いていく平凡な日常は、自分一人が投票しようがしまいが変わらない。選挙結果はいつも予想された通りで面白みがない。それより明日の仕事や遊びのほうが重要だ。おそらく、そう思う人が一定数以上いるのだろう。それもまたやむを得ない。

だが、簡易真空装置の中に空気が戻り、急にけたたましい目覚まし時計の音が聞こえてきたとき、それでも聞こえないふりを続けてゆくのだろうか。あるいは見たくないもの、聞きたくないものは、目や耳に入っても、見えず聞こえないものとされてしまうのだろうか。

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2019年6月26日 (水)

蟷螂の斧・その1

教室の南側の壁に少し色のあせた地図が貼ってある。七年前に出た七訂版の放射能汚染地図だ。群馬大の早川教授が作成したものを友人が入手し、十数部わけてもらったうちの一枚である。

七訂版の作成は2012年8月8日の日付になっているから、東日本大震災に続く福島第一原発の事故から一年半近く経つころのことになる。少し色褪せてはきたが、授業しているときにいつも目に入る。特に福島第一原発から飯舘村へと北西方向に濃い色の帯が伸びているのを見ると、まるでナイフでえぐられた傷口から血を流しているように見え、そのたびに複雑な気持ちになる。

この地図の下には「強い余震が来たら一番近い席の人はドアを開けてください」という手書きの紙が貼ってある。これは八年前のものだ。3.11の後、教室を再開して間もない頃に貼ったはずだ。

この手書きの紙の上に地図を重ねて貼るとき、たぶんこの先何年も貼ったままにしておくだろうと思った。東日本大震災があったことも福島第一の原発事故があったことも忘れてしまいたくなかった。他の人びとの記憶から薄れても、いつまでも覚えていようと思った。

去るもの日々にうとし。確かにその通りだ。もう誰も東日本大震災のことを日常の話題にはしない。津波被害の大きかった沿岸部と違い、ほとんど被害らしい被害のなかった内陸部は、忘れるのも早かった。福島で起きた原発事故に至っては、もはや本当にあったことなのか疑わしくなるほど話題にのぼらない。

あの頃降下したセシウム137はどうなっているのだろう。半減期三十年だから、2041年になってようやく半分の線量だ。もっとも表土は風雨にさらされて削られてゆくので、実質的には十七年くらいで半減するだろうということも、あの頃なにかの記事で読んだ。そうだとしてもまだ半分ほどの年数しか経過していない。目に見えるわけではないし、何か具体的な影響が出ているようにも思われないので、降下したセシウム137が今どうなっているのか、誰も切実に心配しない。今度の参院選でも争点にすらならないだろう。

そうやって忘れていくうちに、私たちは正当に持つべき怒りも忘れ、穏やかに虚勢されてゆく。社会の大勢に、あるいは体制に従順であることがよしとされ、疑問を持つこと、異を唱えることは身を滅ぼすだけであると周囲から諭される。いや、諭される程度ならまだいい方だろう。おそらく異分子、あるいは危険人物と見なされて、その存在を無視されてしまうのがオチではないか。

大勢に、あるいは体制に逆らうとどうなるのか。いくつか具体的な見せしめを大々的に示せば、それだけで効果は十分だろう。社会的な抹殺へと追い込むスキャンダルがあれば容易だし、無ければ無いで執拗な人格攻撃を続けて評判を下げてやればよい。

そういう見せしめを目にすれば畏縮する。どこからも圧力をかけられていなくても、自主規制をする。本当に思っていることを言わなくなる。少しずつ酸素濃度が下がっていくような息苦しさにもそのうち慣れて違和感を覚えることもなくなる。支配されているという実感など毛ほども持つことはない。

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