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2019年5月28日 (火)

江藤淳『完本 南洲残影』

幕末から維新の頃に関心がある人は、それぞれ興味を引かれる人物があるにちがいない。坂本龍馬だったり勝海舟だったり、高杉晋作とか土方歳三とかさまざまだと思うが、このところ、しきりと気になるのは西郷隆盛である。

去年の大河ドラマの主人公だったからというわけではない。維新の中心であった西郷隆盛が、大久保利通の明治政府に不服申立をするような形で西南戦争に倒れたことの意味は何だったのか。ついこの間、江藤淳の『完本 南洲残影』(文春学藝ライブラリー)を読んだときに、またそのことを考えた。

『南洲残影』は江藤淳の晩年に書かれた評論である。西南戦争での西郷の最後を「全的滅亡」へ向かう姿と江藤淳はとらえた。西郷の死は勇壮なものとしてではなく、勝海舟が作詞したと言われる「城山」という薩摩琵琶の曲調と同じように、哀切な響きを帯びたものとして示される。

そして西南戦争の激戦地、田原坂を訪れて戦役記念碑を読んだ後、記念碑から続く小径を行きかけて意外なものを目にする。「蓮田善明先生文学碑」と刻された小さな石板である。そこには蓮田の短歌が一首彫りつけられていた。

 ふるさとの 驛におりたち
 眺めたる   かの薄紅葉
 忘らえなくに

蓮田善明は「文藝文化」という文芸雑誌の編集名義人だった国文学者で、南方戦線で終戦を迎えたとき、連隊長の通敵行為をとがめて射殺し、自らもピストル自殺を遂げた。そして何より、学習院中等科の生徒だった三島由紀夫を見出し、「花ざかりの森」を「文藝文化」に連載させた人でもある。つまり三島由紀夫の文学的才能を最初に見つけた人物なのである。

江藤淳は、田原坂のある植木町が蓮田の故郷だとしても、なぜ歌碑が田原坂の古戦場に建ち、しかも蓮田の文学を何故「ふるさとの驛」の「かの薄紅葉」という歌で要約したのだろうと自問する。そして、西郷と蓮田と三島の三者をつなぐものに気付く。この三者それぞれの行動の根底にあるものは、みないくばくかは「ふるさとの驛」の、「かの薄紅葉」のためだったのではないか、と。

滅亡を知る者の調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。何故なら、そういう調べだけが、滅亡を知りつつ亡びて行く者たちの心を歌い得るからだ。
(江藤淳『完本 南洲残影』文春学藝ライブラリー p84)

西郷隆盛は滅びるために西南戦争を闘ったのではないか、としか思われないような戦を展開する。政府軍に対して勝とうという戦略を採らず、一番下手な策を取ったように見える。しかし、戊辰戦争の全体を指揮したのは西郷自身なのであり、西南戦争のときに西郷にしたがった者たちの中には、篠原国幹や桐野利秋もいた。装備も資金も格段に劣勢にあったとしても、歴戦の勇者たちが勝つことを考えて戦を進めていたら、違う展開になっていたのではないか。

では、西郷は何を問いかけたかったのか。大久保利通に向かって問いただしたいことは何だったのか。それは、維新で目指していた日本の姿についてだったのではないか。「道義」を忘れ、ただ欧米の文明だけを取り入れて近代国家を目指すのは、本当にそれで良いのか。それは国を滅ぼすものではないか。亡国の道をたどることになるのではないか。この異議申立が西南戦争という形を取らせた。

江藤淳はエピローグで次のように書いている。

陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でも、拝外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。
(同上 p206-207)

近代国家となることが帝国主義国家となることではないという選択肢が、あり得たかもしれない。西郷隆盛のことを考えると、そのことがいつのまにか浮かんでくる。

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