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2019年5月21日 (火)

「私」をつくるもの

先日、このブログに書きためていた「古典の底力」を抜き出して小冊子にまとめてみた。『伊勢物語』をとりあげた「その1」が「です・ます」調で書かれていたので、それ以降の分も敬体にそろえ目次もつけた。全部で二十七回。「その1」は2008/1/25の日付で、「その27」は2013/9/25となっている。

その後六年近く「古典の底力」の新しい記事を書いていない。ほぼネタ切れというのが真相で、何か材料になるものがたまってこないと更新できそうにない。

目次だけ載せてみると次のようになる

その1・伊勢物語① その2・伊勢物語② その3・源氏物語 その4・徒然草① その5・百人一首 その6・藤井貞和『古典の読み方』・今様 その7・堤中納言物語 その8・平家物語 その9・今昔物語集① その10・竹取物語 その11・更級日記 その12・七夕(枕草子・伊勢物語3) その13・大鏡① その14・大鏡② その15・大鏡③ その16・老子① その17・万葉集(山上憶良・大伴家持) その18・世間胸算用 その19・徒然草② その20・今昔物語集② その21・与謝蕪村 その22・徒然草③ その23・古今和歌集①(旋頭歌) その24・古今和歌集②(旋頭歌) その25・徒然草④ その26・老子② その27・新古今和歌集(三夕の歌)

目次だけ眺めてみたら、思っていたより偏りがないので、意外な感じがした。それでも、その中身は私が好きなものしか取り上げていないので、やはり相当に偏っている。たとえば、『万葉集』で山上憶良と大伴家持しか触れず、柿本人麻呂をまったく取り上げないのは、ディズニーランドに行って、ミッキーマウスに会わないようなもので間の抜けた話だが、 ピンとこないものはしょうがない。

結局、「私」という人間が出来上がる過程で触れてきたものや、アンテナに引っかかったものしか残らなかったということなのだろう。そうしてみると、これは古典に限った話ではなく、他のあらゆるものにも当てはまることなのだろうと思われてくる。映画にしても音楽にしても、好きなものは好きだし嫌いなものは嫌いだ。そうやってえり好みしながら生きてきた結果が今現在の「私」なのだ。つまり、他の人と異なる「私」というのは、私が選択してきたものの総体に支えられていて、それこそが他と交換のできない唯一性を担保しているのだ。

あなたの代わりはいくらでもいる、という入れ替え可能性に日々さらされると、つい自分が何の価値もない存在のように感じることがある。けれども、他と交換できない唯一性を自分が抱え持っていることに気づけば、少しはその感じも和らぐのではないか。自分の好きなものや気になるものをときどき見直してみるのは、精神衛生上悪くないことだと思う。

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