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2019年4月 9日 (火)

「平成の名人」は存在し得ない?

今の落語家にも上手な人はたくさんいるのだろうが、「名人」と呼ばれるほどの人がいると耳にしたことがない。

立川志の輔にしろ柳家喬太郎にしろ、上手な噺家だとは思う。しかし「名人」かと問われれば、答えをためらってしまう。これが六代目三遊亭圓生や八代目桂文楽、あるいは五代目古今亭志ん生なら、即座に「昭和の名人」だと答える。古今亭志ん朝や立川談志であったとしても、やはり「名人」として名前を挙げることに問題はない。

では、今現在の噺家に「名人」が存在し得ないのはなぜか。「し得ない」と言ったのは個々の落語家の資質や技量の問題ではなく、それらを超えた時代環境から来る時間感覚、空間感覚の違いが、どうにも乗り越えられない壁として存在しているのではないかと思うからだ。

中里介山の『大菩薩峠』を読みながら、明治の三遊亭圓朝の人情噺を思い浮かべたという話をこの間書いたが、その時に古今亭志ん生の噺はなぜ「心地良い」のかという問いが同時に浮かんできた。志ん生だけでなく、文楽でも圓生でも、昭和の名人たちの話芸はなぜあれ程魅力的なのか。

立川談志が、この昭和の名人たちのことを回想して独演会で話していたことがあった。確か若い頃の「ひとり会」の高座だったような気がする。五代目古今亭志ん生の噺を高座の脇だか裏手だかで横になって聞いていると、気持ちよくなって眠ってしまうことがあったと談志は言った。それは志ん生の噺がつまらなかったからではなく、あまりにも心地良かったからだ。

話芸の究極はそれだろうと思う。聞いている客があまりの心地良さについうとうとしてしまうような語り。大げさでも奇矯でもない、空気のような流れる水のような自然な語り。すっとその世界の中にくるまれてしまい、その中で呼吸をしているような気持ちの良さが名人たちの語りには感じられたのだろう。

それは噺家個人の資質によるものではなく、時代環境によって形作られた時間感覚・空間感覚に支えられた語り、間の取り方によるところが大きいのではないか。細かい論考をすっとばして極端な形で言ってしまえば、志ん生や文楽や圓生が今現在の落語家として高座に上がっていたとしても、決して「名人」と呼ばれる存在にはならなかっただろうということだ。「昭和の名人」は存在しても「平成の名人」は存在しない。

ではどのように時間感覚、空間感覚が異なるのか。江戸花火と現代の花火の違いみたいなものと考えたらよいのではないか。現代の打上花火は色彩も多く、形もさまざまなものがある。それにくらべると江戸花火は色数が少なく、形も現代ほど多様化していない。現代のわれわれから見れば、地味な花火という感じが強い。しかし、風情という点で言えば断然、江戸花火に軍配が上がる。地味で簡素な花火であるがゆえに、見る人がそれぞれの思いを重ねる「余白」が残っている。現代の花火は目と耳を楽しませるための情報が詰め込まれた見世物であり、色彩や形状や発する音響の多様さを楽しむものとなっている。

「昭和の名人」は、明治生まれであり、談志や志ん朝にしても昭和初期の生まれだ。江戸時代と地続きな感覚がまだそこかしこに残っていた時代である。落語の舞台となる江戸の町の空気と違和感なくなじむことができる感覚が、演者にも観客にも共有されていた。

平成の時代となってから何が決定的に変わってしまったのかと言えば、「余白」がなくなったということだ。かつては存在していた「余白」が、「情報」によって埋めつくされて消滅してしまった。「余白」が存在することを恐れるかのようにさえ感じられる洪水のような「情報」。たとえばテレビの「テロップ」と呼ばれる字幕の垂れ流し。聴覚障害者に対する配慮というより、「情報」の重ね塗りとしか思えないような「テロップ」の洪水。見る者に考える隙を与えないための工夫なのではないかと疑いたくなるほどだ。

大量の情報に瞬時にアクセスでき、即座に他者と情報を共有できる環境があたり前のものになると、「余白」が「情報」で埋めつくされて消滅してしまうことも不思議ではないなと思ってしまう。しかし、「余白」のない時間の流れに人間は耐えられるのか。

落語の「抜け雀」に出てくる老絵師のセリフではないが、「そのうち落ちて死ぬぞ」という気がしてならない。自分の息子が描いた、絵から抜け出ると評判の雀を見て、老絵師は「この絵には止まり木が描いていない。絵から抜け出るくらいの力を持った雀だから、いずれ力尽きて落ちてしまう」と指摘する。

止まり木がなければそのうち雀は疲れて死んでしまう。「余白」がなければ人も疲れて死んでしまうのではないか。肉体的にではなく、精神的に。止まり木はどこにあるのか。それは「情報」を遮断した時間の中にしかない。

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