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2019年4月10日 (水)

「平成の名人」は存在し得ない?・続き

スマホに時間を吸い取られる人が大多数を占め、スマホ画面を眺めていない人の方が少数派という時代になって久しい。こうなるとスマホ画面から視線を引っぱがし、「情報」を遮断することは、相当難しい。遮断したらどうなるのか。そこに生じる「余白」をどうしたらよいのか。大きなとまどいと不安が心を占めるに相違ない。「情報」が遮断されてしまうことは、もはや恐怖の最たるものになっているかのようだ。

だがそれは実体のないものに対する恐怖なのではないか。「情報」依存、「情報」中毒とでも呼ぶべき状態に入っているため、遮断されたときに耐えられないという感じが生まれるのではないか。

社会的動物である人間は、他者とつながりながらでないと存在していけない。それゆえに「情報」の共有を必要とする。孤立を恐れるのも同様だ。その一方で個としての存在は、周囲から遮断された時間の中で他と区別される個を形作る。「余白」が求められるゆえんである。

しかし、ここでちゃぶ台をひっくり返したくなるような考えが一方に生じる。他と区別される個、近代的自我と言い換えてもよいが、そのようなものは虚妄なのではないか。もともと集合的意識しか存在せず、自我はその偏差でしかないのではないか。自我が存在せず集合的意識だけだというと、まるで『エヴァンゲリオン』みたいだが、ひょっとすると個の存在など虚妄にすぎないのかもしれないと疑わしくなる。

近代以前の社会に生きていた人びとに個の意識があったのか。これは今ここで考えるべき論点ではないので別の機会に譲るとして、少なくとも近代以降の社会に生きる人間は、近代的自我の形成を前提として成長する。他と区別される個。あなたが他者ではなくあなた自身でしかないことの証。胡桃の殻のように、人は防壁を築いて他者と区別される自己を確立する。そのような人間存在のあり方を「孤塔の囚人(a prisoner in a solitary tower)」と表現したのは哲学者のバートランド・ラッセルだったか。

今その防壁が「情報」の洪水によって破られようとしている。もしかするとわれわれは近代的自我という虚妄から脱して、ネットワークの中に集合的意識を確立するという新しい局面に向き合いつつあるのかもしれない。私という存在は、ネットの海から生まれネットの海へと帰っていく。『攻殻機動隊』のモチーフの一つみたいな話だ。

それでも、『攻殻機動隊』の電脳化されたキャラクターである「少佐」こと草薙素子が時々つぶやく「あたしのゴーストがそうささやくのよ」というセリフは無視できない。「ゴースト」とは何か。自我ではないのか。ネットワークの中に融解してしまったかに見える「少佐」の存在が、集合的意識ではなく個を感じさせるのは、この「ゴースト」=自我があるからではないか。

「孤立する」を和英辞典で調べると"stand alone"、"be in isolation"という表現が出てくる。スタンド・アローンというネットワークから接続を断ったイメージが重なる。「情報」の洪水を遮断し、「余白」の時間を作る。その中にしか自我は形成されない。

落語の名人が現代に存在しない話から遠くまで来過ぎてしまった。すでに帰り途が分からない。道に迷ったままで話を終わりにしてもよいのだが、せっかく発端を思い出したのだから、一応それらしく話を終わらせたい。

平成の名人が存在し得ないのは、演者が「余白」を表現する感覚と技量を習得したとしても、その「余白」が観客に共有されなくなってしまったからだ。観客自身が「余白」の意味を理解しなければ、「余白」に依存する落語という話芸は存立の基盤を失ってしまう。名人を名人と認識できる場そのものが消失しているのだから、名人は存在し得ないのだ。

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