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2019年4月

2019年4月30日 (火)

「はづかし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用して「心状語」をまとめる第十八回。前回「をかし」を取り上げたときに、「をかし」は優越者の心であるという点に触れた。「をかし」が優越感から発するものとすれば、今回取り上げる「はづかし」は、その反対の劣等感を表す語である。

まずは辞書の定義を見てみると

「はづかし」…きまりが悪い、恥ずかしい、面目ない、気がひける、気が置かれる、気詰まりである、自分より上だ、(こちらが恥ずかしくなるくらい)優れている

小西甚一さんが大学受験生向けに旺文社から『古文の読解』という参考書を出していた。現在も旺文社から出されているのかどうか不明だが、他の参考書と違い、昔の人びとの暮らしやものの感じ方を一つ一つ丁寧に説明してくれる細やかさがあった。自分の受験の時には利用しなかったが、その後高校生に古文を教えるようになってから購入し、大いに目を開かれた一冊である。

この小西さんの『古文の読解』で、「はづかし」は feel embarrassed が基本意味で、他はそこからの派生であると解説していた。つまり、基本の意味は「きまりが悪い」であり、そこから場合によって「気がひける」とか「気詰まり」とか、そのように感じさせる相手を「自分より上だ」とか「優れている」という意味まで広がっていくのだという。

「枕草子心状語要覧」の解説を確認してみよう。

「はづかし」
自分が何らかの劣性をもつ、と意識した時の、その劣等感。自分に劣性を意識させる契機となった対象、すなわち優性を見せつけるような対象から、逃げ出したくなる気持を表わすのが原義で、要するに動詞「はづ」の形容詞なのだが、自分の感じる劣等感を、そう感じさせた対象の性質のせいと見なし、自分を恥じさせた対象の優性を指すのに用いられるようになる。つまり賞め言葉の仲間入りをするわけだが、そうなっても原義はもちろん生きて働き、こちらに劣等感を抱かせるようなすばらしさ、を意味することになる。一一九段は「はづかしきもの」の段だが、女のおしゃべりを聞く「夜居の僧」と「男の心」の二項目だけについて、その「はづかし」い理由が述べられていて、気が許せない、という感じが「はづかし」の中心にあることを示している。現代語の「気が張る」は、この感情に近いであろう。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は「当然」を表す「さること」「さるものにて」の予定。

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2019年4月29日 (月)

「をかし」「あはれ」「おもしろし」

新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用紹介する第十七回。今回はいよいよ「興趣」を表す「をかし」「あはれ」そして「おもしろし」を関連で取り上げよう。

「をかし」と「あはれ」といえば、平安時代を代表する『枕草子』と『源氏物語』をそれぞれ一語で表すような基本語である。「をかし」が後の「おかしい」につながるような乾いた理知的な趣を言うのに対し、「あはれ」は湿りを帯びたしみじみとした情感をもつ趣に使われる。古文の授業で教わるのは大体そのような所だろう。基本的にはその通りなのだが、もう少し踏み込んだ差異を見ていきたいと思う。

まずは辞書の定義から。

「をかし」…すばらしい、風情がある、美しい、かわいらしい、おもしろい、おかしい、りっぱだ、招き寄せたい、喜んで迎え入れたい
「あはれ」…かわいい、ふびんだ、感心だ、情趣がある、物悲しい、感にたえない、りっぱな、悲しい、寂しい

「をかし」は確かに陽性の感情なのだが、「あはれ」との大きな違いは、まず持続的な感情ではなく目下の事態に集中し、好意をもって受けとる時に用いるという点。二つ目が、「笑ふ」を伴うことが多いことからわかるように優性にある者の心を表すという点のようだ。

これに比べて「あはれ」は、発散せず長く漂う持続的な感情を表し、思いが他のことなどに拡がって一段深く感じる時に用いられるようだ。『枕草子』で用例が少ないのは、興味や関心の持ち方が『源氏物語』とは全く異なる方向を向いているからなのだろう。

では「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう。

「をかし」
「あはれ」のような持続的な感情ではなく、思いがそこから他へ拡がるような重層構造を持たない。後に滑稽を意味する方向へ偏ってゆく、その片鱗は、すでに平安時代に萌しているけれども、なお「面白おかしい」の意は薄く、好意をもって物事をとらえる感情として広く用いられ、「あはれにをかし」のように「あはれ」と共に使われることもしばしばあった。ただし「をかし」はあくまで目下の事態に集中した心のはたらきに用いる語で、次々と思いが拡がることはない。したがって心のはたらきとしては構造が単純で、そういう意味で陽性感情に属する。そう感ずることで自分が劣位にまわるような感情でなく、むしろ優性にある者の心であるとも言えることは、「をかし」に伴うのが「泣く」でなくて「笑ふ」であることにも現れている。好意をもって受けとる感情の「をかし」が、下賤や醜悪への評としても使われるのは、それが優越者の心だからであろう。枕草子はこの「をかし」を頻用することが知られているが、その都度都度にこめられた作者の心は一様でなく、(後略)

「あはれ」
何かに触れて深く感じるだけでなく、そこから思いが他のことや、一般的なものに拡がって、一段深く感じる時に、それを「あはれ」と言う。例えば人の死に接して深い悲しみを抱くだけでなく、そこから思いが人の命というものに拡がり、人の命ははかないものだなあ、といった感慨まで深まる時、「あはれ」を感じているのである。したがって「あはれ」の感情は持続的であり、すぐには発散しないで長く漂う特色がある。「をかし」と比べて陰性の感情だと言われるのはそのためであろう。また「あはれ」の感情に伴うのが「笑ふ」でなくて「泣く」であるのも同じところに起因する。枕草子で「あはれ」が「をかし」と比較にならぬほど使用例が少いのは、人間や社会への興味の持ち方において、源氏物語とはまったく異なる方向を向いていることの象徴であろう。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

「興趣」ということで言えば「おもしろし」という語もあり、「枕草子心状語要覧」には載っていないのだが、「をかし」との関連で確認しておこう。

「おもしろし」…心が晴れ晴れするようだ、快く楽しい、心ひかれるさまだ、感興がわく

「をかし」と似ているようにも思えるが、「をかし」が人事に対して用いられ、主観的、抽象的な興趣をいうのに比べて、「おもしろし」は自然を対象とし、客観的、具体的な興趣を表すという違いがあるようだ。

たとえば、今目にしている具体的な月の様子がすばらしいなあ、というのであれば「おもしろし」だろうし、月というものは満月で雲などかかっていない時がすばらしいのだ、と抽象的に言うのであれば「をかし」ということになるのではないか。

次回は「劣等感」を表す「はづかし」を取り上げる。

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2019年4月28日 (日)

「あさまし」「あやし」「くすし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用紹介する第十六回。前回は「意外」の「あへなし」を取り上げたが、同じように「意外」の「あさまし」、その「あさまし」との関連で「あやし」。さらに「くすし」を合わせて取り上げたい。

まずは辞書の定義から。

「あさまし」…驚嘆するばかりだ、もってのほかだ、(あきれて)情けない、みすぼらしい、意外だ、びっくりするほどだ、あきれて応対ができない、見苦しくいやだ、嘆かわしい
「あやし」…霊妙だ、神秘的だ、珍しい、不思議だ、けしからぬ、身分が低い、そまつだ、疑わしい、いぶかしい
「くすし」…神秘的である、不思議である、奇特である、神妙である、人間離れしている

前回の「あへなし」が虚脱や緊張の弛緩からくる「意外」さだったのに対し、「あさまし」は思いがけずあっけにとられるという「意外」さを表し、善悪どちらへも分化するが、悪いことにあきれる場合の方に多く使われるようだ。

そして、この予期せぬ事態にでくわして「あさまし」と思ったことが、どうしても納得できず不審が残るときに「あやし」になるのだという。つまり「あやし」は十分に理解できない、容認できないという気持ちを表す語であるようだ。

「くすし」は、不思議に思うことを畏敬する気持ちを表す語で、畏敬の念から想像できるように神仏が対象であることが多いようだ。

では、「枕草子心状語要覧」の定義を見てみよう。

「あさまし」
思いもかけない事態に遭遇した時の、あっけにとられた気持を表わす。その事態のもつ意味さえ十分にのみ込めていない、とっさの気持を表わし得るが、実際の用法としては、その事態を、思いもかけない事態として受けとっている、という心状を表わす場合が多い。ただその場合も、その事態に対する対応の仕方までは、まだ方向づけられていない状態と見るべきであろう。(中略)その事態に対して腹を立てるか、あるいは自分には真似は出来ないと感心するかは、次の段階の心の動き方によってきまるのであって、「あさまし」はただ呆れたままでいる段階、そこから様々な感情が分化する、その起点の感情だと言ってよい。だから善悪どちらにも分化し得るわけだが、悪いことに呆れる場合の方により多く使われるようで、後世には専ら悪い評語になってしまった。

「あやし」
十分に理解し、更には容認することが出来ない、という気持を表わす語。事態にうまく対応できない、という点では「あさまし」に通ずるけれども、「あさまし」が予期せぬ出来事に遭遇した時の、とっさの呆れた思いであるのに対して、「あやし」は十分な観察、吟味の末の思いであり得る。「あさまし」と思った後で、感情は更に分化して行くが、どう見ても諒解できず納得し難い、という不審が残りつづける時、それを「あやし」と言う、と言ってもよい。十分に時間をかけても、なお釈然としない心が残るわけだから、それは少くとも不審という不調和感の方向を辿り、強烈さを加えるにつれて不快から拒絶の感覚にまで発展する。現代では、「怪しい人影」のような警戒感にとどまるが、古代では下賤・下品の意の蔑視(拒絶の一種である)に用いられることが稀でない。(中略)現代ではこういう意味は「いやしい」によって表わされている。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

「枕草子心状語要覧」には「くすし」は載っていないので、冒頭で解説した内容を参照してもらえれば幸いである。

次回は『枕草子』を一語でまとめるときに使われる「をかし」と『源氏物語』を特徴づける「あはれ」、これらに加えて「おもしろし」。いずれも「興趣」を表す語を取り上げる。

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2019年4月27日 (土)

「あへなし」「…ものは」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用しながら「心状語」についてまとめる第十五回。「心状語」という語はなじみの薄い語であろうかと思われるが、形容詞を中心に動詞も含めて、感情表現に使われる語全般を指すものととらえてよいのではないか。今回は、その中で「意外」を表す「あへなし」。これに加えて『枕草子』で使われている「…ものは」という表現について。

いつものように辞書の定義から。

「あへなし」…はりあいがない、あっけない、(主に死に関して)もろくはかない、(今となっては)どうしようもない
「…ものは」…(…ものだから)とたんに、…拍子に、なんと…するものだから

まず「あへなし」だが、出家・失踪・焼失など、もはやとりかえしのつかない結果に対して虚脱したり、緊張が弛緩したりして気勢がそがれる状態を表すようだ。そこから、あっけないといった方向に意味が広がっていくのだという。予期していたのとは違った事態に直面して「ええっ、そんなあ…」とがっくりくる感じだろうか。

一方の「…ものは」という表現は、普通、下を「けり」で結び「AせしものはBしけり」のような形で不測の事態などが生じた事を示すもののようだ。『枕草子』では、意図したことが意外な方向に展開したことを言うのに用いられ、意図はAの実現にあったのにBの実現となってしまったというように、実はAこそが目的だったと印象づける言い方になっている。

「枕草子心状語要覧」で詳しい解説を見てみよう。

「あへなし」
こちらの元気や気合いがそがれた時の気持を表わす語。こちらの思う線に事態が乗らないのだから、不快感の一種ではあるが、ある事態に遭遇することで、こちらの気勢がそがれる、ということを意味するだけで、その事態そのものに向けられた感情でない所に特徴がある。Aの事態に対して、人が積極的な心構えを抱いている所へ、Bの事態が出現して、その心構えが崩れてしまう、その脱緊張感なのである。「にくし」「すさまじ」「あぢきなし」など、様々ある不快感情語彙との違いは、そこに求められよう。この、強い場合は虚脱、弱い場合でも緊張の弛緩、という特性が、十分な対応、抵抗を伴わずに成り立ってしまう事態への、「あっけない」といった意味へと発展し、中世を中心に、人が命を落とすことに用いられ、「あへない最期」などの言い方を生み出した。

「…ものは」
「みそかに御前の高欄に置かせしものは」「端のかたなりし畳をさし出でしものは」の、二か所に用いられた表現で、他作品にあまり多くない言い廻しだが、枕草子では、意図したことが意外な方向に展開したことを言うのに用いられるようである。「AせしものはBしけり」という型で使われ、こちらの意図はAを実現させることにあったのに、事態はBの実現となってしまった、という状況を述べるに当って、実はAこそが目的であったのだ、と印象づけようとする言い方のように見える。そしてこの二例とも、どうやら枕草子という作品の成立や流布に関わる発言を、作者たる清少納言が自ら語る部分だと判断され、清少納言にとっては言いわけ、不本意な事態が実現したことへの、自己弁護の効果を持たせたものかと推定される。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は「意外」の「あさまし」と「不思議」の「あやし」、それに関連して「くすし」の予定。

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2019年4月26日 (金)

「こころゆく」「むねあく」「こころをやる」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用して「心状語」を紹介する第十四回。今回は「快」「満足」を示す「こころゆく」「むねあく」「こころをやる」の三語である。

まずは辞書の定義を見てみよう。

「こころゆく」…満足する、気がすむ、快い、気持ちが晴ればれとする、気に入る
「むねあく」…心が晴れる、気分がよくなる
「こころをやる」…いい気持ちになる、得意になる、気を晴らす、思う存分にする、まわりに何が起こっても平気で気にしない

久々の「快」を表す語である。ここまで不快語続きで少し気が滅入りそうになったが、まずは一息といったところ。

さて、今回の「快」「満足」を表す語についてだが、「こころゆく」が物事がすらすら進んで胸がすっとするということを表すのに対し、「むねあく」は心をふさいでいた「いぶせき」思い(怨み、憎しみなど)が解消されて胸がすっとするという違いがあるようだ。別の言い方をすると、心の鬱屈を前提としないのが「こころゆく」で、鬱屈した思いを前提とするのが「むねあく」なのだそうだ。

たとえば高速道路に乗り入れたら、渋滞もなくスイスイと流れていて気持ちがよい、というのが「こころゆく」で、反対に大渋滞に巻き込まれてイライラと待たされ、やっと流れるようになって「むねあく」という感じだろうか。

「こころをやる」はこの二語と少し異なり、ひとりよがりの気ままな満足を表すようで、自分の思いを外に吐き出してさっぱりするという感触があるようだ。

「枕草子心状語要覧」で詳しい解説を見てみよう。

「こころゆく」
物事が渋滞せず、すらすらと進んで行く快感を表わす語。快感を表わす語は、不快感情を表わす語ほどではないにしても、快感の分化に応じていろいろとあり得るが、とどこおらないことによる、胸がすっとする、といった非渋滞の快感を基本線とする所に特色がある。二八段は全段「心ゆくもの」の列挙だが、そこに挙げられているものは、すべて淀みなく事が進行する有様を見ることが出来る。その淀みの無さに加えて、量的な豊富さが備わると、非渋滞の快感は完璧に近くなる道理であって、二八段も、量の多さは、「こころゆく」の必要条件ではない。(後略)

「むねあく」
(前略)なお、胸がすっとする、心が晴れ晴れとする、という快感を表わすのに、「胸あく」という言い方があるが、これは主として怨みや憎しみ、少なくとも「いぶせき」思いが心にたまっていて、それが解消して行く時に使われるものであり、「こころゆく」はそうした心の鬱屈を前提としない点で全く異なる感情である。

「こころをやる」
満足することを言う語。満足にもいろいろの満足の仕方があり、「こころゆく」「胸あく」もその同類に数えることが出来るが、「こころをやる」は、自分の思いを、心の内にとどめておかずに、他へはき出してさっぱりする、という形での満足感である。したがって周囲への気配り、遠慮などを伴わない、という意味で、ひとりよがりの所があり、そのような気ままなひとり勝手の満足、に使われる傾向がある。自分なりの慰め、を表わすのに用いられるのは、ひとり勝手という批判が弱い場合と考えてよいであろう。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は「意外」を表す「あへなし」「…ものは」を取り上げる。

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2019年4月25日 (木)

「むつかし」「うるさし」「いぶせし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用して紹介する第十三回。以前にも何度か書いたのだが、できれば図書館などで新日本古典大系25の『枕草子』を手に取り、「枕草子心状語要覧」の全文を読んでいただきたい。

さて今回も「不快語」で、「むつかし」「うるさし」「いぶせし」を取り上げる。いつものように、まずは辞書の定義から。

「むつかし」…不快である、わずらわしい、気味が悪い、重苦しい、うっとうしい、めんどうだ、うるさい、迷惑だ、やっかいだ、むさ苦しい、不機嫌である
「うるさし」…(わずらわしくて)不愉快だ、めんどうだ、わずらわしい
      (相手が)よく気が廻るので気が許せない、りっぱだ
「いぶせし」…気がふさぐ、不快だ、気が晴れない、うっとうしい、いとわしい、得体が知れず気味が悪い

この辞書的定義だけでは、今一つ使い方の違いが分からない。まず「むつかし」と「うるさし」が、何に焦点をあてた不快さかといえば、「むつかし」は事態の「複雑さ」に対して、「うるさし」は事態の「大仰さ」に対しての不快さであるようだ。そのため「むつかし」が人間を対象とすると、取り扱いが面倒だ、心配りを複雑にしなければならないといった嫌悪感となるのに対し、「うるさし」は、大仰だと感じるところにポイントがあるので、もともとはそれを必ずしも不快と感じなくても用いられていたようだ。

これに対して「いぶせし」は、心が晴ればれとしない、事態が気持ちよく進行せずとどこおることへの不快さを表すようだ。前の二語と異なり、対象のどういう性質が不快なのかについてまで思いが及んでいないのが特色。複雑さに対して「むつかし」、大仰さに対して「うるさし」があるので、見た目に爽快でない不潔、醜悪に使われることが多いという。この「いぶせし」の対極にくる心状語が「心ゆく」で、こちらについては次回に取り上げる。

では「枕草子心状語要覧」で詳しい解説を見てみよう。

「むつかし」
心が爽やかでないこと、つまり不機嫌なことを表すほか、事態の構造が複雑で、爽やかな印象を持てないことを表わす。不快語彙の一つだが、単純明快でない対象への評語として用いられる時は、不快感はそれほどおもてだたず、せいぜい「不気味だ」という程度の不調和感にとどまる。一四八段の「むつかしげ」は、刺繍の裏に対して使われていて、感情性の最も稀薄な用法である。ただし、人間を対象として使われると、取り扱いが面倒だ、心配りを複雑にしなければならなぬ、といった対人感情に偏り、嫌悪の感情が強くなる。(中略)現代でも「気むずかしい人」など言うのは、扱い難さをその人の気質と見て言う言い方である。また現代では、困難、の意味に使うことが最も多いが、それも事態が複雑すぎて、解決するのに面倒な手続きや努力を必要とすることから、派生して来た意味にほかならない。平安時代では困難の意味に使われることはあまりない。

「うるさし」
事態を大仰だと受けとる気持を表わす。もともとはそれを必ずしも不快と感じなくても「うるさし」であったはずで、(中略)が、やはり不快の方向へ向かうのは当然で、「あまりうるさくもあれば」は、人々のあまりの口さがなさに対応しきれぬ不快感を表わす段階のものであろう。ただし通常のもの以上の工夫や努力を払う必要がある大仰さを、対象の要求する性質と把握して、それを「うるさし」と言うこともある。(中略)桜の造花に払われたであろう労力に関して「うるさし」と言うのは、その段階に近く、もう少しで専ら対象のもつ性質を表わすようになる、直前の用法と見ることが出来る。現在最もよく使われる音響の大きさについて言う用法も古くからあり(後略)

「いぶせし」
気になることがたまり、正体を理解したり行き詰まりを打開したり出来ず、心がはればれとしない感情。事が気持よく進行せずとどこおる一方である時の思いを基本とする点から言えば「心ゆく」の正反対。そこから発展して、見た目に爽快でない印象を与える対象への批評の語としても用いられる。(中略)そうした対象への悪い批評に用いられる時も、対象のどういう性質が不快なのか、についてまで思いの及んでいないのが特色で、事態の複雑さに不快の焦点を置く「むつかし」や、事態の大仰さに不快の焦点を置く「うるさし」とは、一線を画して用いられる。ただし、複雑さや大仰さへの不快は「むつかし」「うるさし」によって表わされるわけだから、「いぶせし」は、不潔や醜悪に使われることが多い、といった程度の偏りはあろう。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回は、「いぶせし」の対極にあたる心状語の「心ゆく」と「胸あく」「心をやる」といった「快」「満足」を表す語を取り上げる予定。

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2019年4月24日 (水)

「ねたし」「にくし」「くちをし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を感情ごとにまとめて引用紹介する第十二回。今回は「ねたし」「にくし」「くちをし」を取り上げる。

まず辞書の定義は

「ねたし」…腹立たしい、しまったと思う、くやしい、いまいましい、にくらしい、しゃくだ
「にくし」…にくらしい、しゃくにさわる、みにくい、奇妙だ、あっぱれだ、気に入らない、いやだ、無愛想だ
「くちをし」…残念である、がっかりだ、感心できない、いやだ、不本意だ、物足りない、無念だ、情けない

「くちをし」が「ねたし」「にくし」とは少し違う感情なのだろうということは分かるが、「ねたし」と「にくし」はどちらも、にくらしい、しゃくだという意味があったりして区別がよく分からない。しかし、この「ねたし」と「にくし」は視線の向きが逆のようで、簡単に言えば「ねたし」は自分の不足するところに原因を認める不快感であり、一方の「にくし」は物事が思い通りに進まない時に「責任者を出せ!」と攻撃的になる不快感であるようだ。

これらと比べると、「くちをし」は不充足感を表すが、不満のはけ口を他に向けたり、自分の力不足に向けたりしない語のようである。期待どおりに物事が運ばない不快感ということでは「すさまじ」もあるが、「すさまじ」はどこか醒めてしらっとした感じであるのに対し、「くちをし」はわがこととして残念がる熱さがあるようだ。

「枕草子心状語要覧」の解説はそれぞれ次の通りである。

「ねたし」
「にくし」が、責任は一切相手にある、という攻撃的な不愉快感であるのに対して、これは、自分の備わりの不足に原因があると認める不快感。すなわち自分の能力や、注意力などが、もう少し立派であったならば防げたかもしれないのに、それが十分でなかったために、不快な事態の生起を許してしまった、といった思いを表わす。つまり相手への攻撃によって不快感から解放されようというのでなく、自分の内を省みつつ攻撃に出ない所に基本線があるような感情と言えよう。もとより、相手の方が自分より上だと認めることから来る不快感は、決して弱いものではないけれども、それでも自分もあのようでありたいという羨望の要素、または何らかの角度からの弱者の劣性の自覚、といったものが尾を引くようである。同根の動詞「ねたむ」が「にくむ」に対して持っているような特徴が、「ねたし」にもあると考えられる。(中略)礼儀をわきまえぬ下賤の者への気持に使うのは、教養人ゆえに無教養人の水準に下がってそれと争うことの出来ないじれったさを、行動力の無さと自覚した用法である。

「にくし」
不快感を表わす語の中で、最も攻撃的な感情の語。もともとは、「立ちはなれにくし」などの複合語に残っているように、物事の進展が阻まれることを言う語だが、自分の思う通りに進まぬことへの気持に用法が傾いて、不快語に仲間入りした。そして、不快と感じられる事態の中に、こちらを不快にさせた責任者と見なし得るものを見た時の感情となり、ひたすらその責任者の非を突くべく投げかけるような語気を持つのが特徴。二五段「にくきもの」に挙げられているのがほとんど人間であるのはそのためであり、例外と見えるものも、責任者扱いされていると解すべきであろう。(中略)この感情は不快に感ずる自分の方には、一切目を向けない一方的なもので、その点「ねたし」とは大いに異なり、不快の責任者までつかむほどに不快の実質がはっきりしている点で、実質をはっきりつかまない「ものし」と異なる。ただし、不快な感情を、不快感をおこさせた責任者たる対象の側に転嫁して、対象の属性を「にくし」と言うこともある。「にくげ」「にくさげ」と「げ」を添えれば、対象の属性専用となる。

「くちをし」
他に対して期待する所、あるいはみずからたのむ所、いずれにしてもそれが大きいのを第一の条件とし、にもかかわらず、その期待や自負を満足させる方向に事態が展開しないことを第二の条件とする、不快感覚語。そんな時の激しい不充足感を表わす期待通りに運ばぬ不快感は、「すさまじ」でも表わされ得るけれども、「すさまじ」が出来事から少し身をひいて、ひとごとのように醒めた目をはたらかせる所から出る感情であるのに対して、「くちをし」は出来事の中に身を置いて、わがこととして残念がる熱い感情である。その点では「にくし」と同じ程度にはげしいが、「にくし」が不快の原因を他者の責任に求めて、それに攻撃的な目を向けようとするのに対して、「くちをし」は不満のはけ口を他のどこへも向けず、もちろん「ねたし」のように自分自身の力不足を含意することもなく、無念の思いに直面するだけである点を特色とする。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

次回も「不快語」が続く。「むつかし」「うるさし」「いぶせし」の三語で、どれも「不快である」という意味があるが、その違いを見ていきたい。

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2019年4月23日 (火)

「あいなし」「こころづきなし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用して、感情の微妙な違いを表す「心状語」についてまとめていたのは三年ほど前のことだ。「不快語」の冒頭まで引用紹介したものの、何となく気が乗らなくなり、結局第十回で中断したままになっていた。(詳しくは「枕草子心状語」のカテゴリをご覧ください)

この「枕草子心状語要覧」は、他に類を見ない詳細な解説だと思う。感情の動きを示す「心状語」は形容詞がほとんどを占めるが、辞書の現代語訳だけ見ると、似たような意味で書かれていて区別がつかなかったり、どのような状況に適した語なのか分かりにくかったりする。ところが「枕草子心状語要覧」には、言ってみれば、類語辞典に匹敵するような内容の濃さがあり、明確な用法の差異が懇切丁寧に説明されている。

ただ残念なことに、類語辞典ではないため、たとえば「不安」「疑問」を表す語で「こころもとなし」と「おぼつかなし」あるいは「いぶかし」が、ひと組にまとまった形では述べられていない。どれかの語から関連する語を芋づる式に調べていけばよいのだが、そのためには全項目に目を通し、ある程度、語と語の相関関係をつかんでおく必要がある。

高校生の古文学習の際にも、かなり有益な知識が得られるとは思うのだが、新日本古典文学大系25の『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」まで調べてみようという高校生はなかなかいないだろう。このままではとてももったいないという気がしてしょうがないので、余計なお世話だが、共通した感情ごとに、似通った「心状語」をまとめ、引用文を紹介しようと考えたのだった。

再開するにあたっての前置きが長くなったが、これが第十一回である。

今回は「違和感」「不調和感」を表す「あいなし」と「こころづきなし」である。

まずは辞書の定義から

「あいなし」…理屈に合わない、そぐわない、つまらない、あじきない、気にくわない、何の関係もない、本意でない、ばつが悪い、筋ちがいである
「こころづきなし」…気にくわない、共感できない

さて「枕草子心状語要覧」ではどのように解説しているだろうか。

「あいなし」
本来は、AがBに対して無関係である、という認定を表わす語であった。(中略)だがAを無関係と断ずる時の基準となるBに、話者が抱く期待、平素からの判断、などが用いられるようになって、話手にとって違和感がある、こちらの価値の置き方になじまない、という、やや感情的な表現に用いられる。(中略)そうした違和感は、直ちに不快感という、より感情的な意味に移行する。話手は、自分の期待、価値の置き方こそ最高のもの、と考えがちだからである。ただし、いくら感情性を深めても、不快なAに対置されるBが心の中に位置を占めているのが特色のようである。みっともない、ばつが悪い、など、現代語への置き換えは、文脈によって様々可能であろうが、対置されるBとの不調和という基本線を外れず、「にくし」のような不快感のむき出しにはならない。

「こころづきなし」
こうあってほしいというこちらの望みに、ぴったり合わないものへの拒否感を表わす語。語源的に「心・付く」の否定であろう。その点からも不調和の感覚を表わすのが基本なわけだが、「はしたなし」が不調和の基準を、その場の雰囲気といった外的なものにとったのとは異なり、専ら自分の価値観のようなものを基準とするだけに、主観的な性格が濃厚である。ただしその主観性は激しい感情への道を辿ることなく、不調和による拒否感覚を示すに留まるようであって、拒否されるべき対象への攻撃にまでは及ばない。(中略)数多い不快感覚語彙の中で、攻撃に転じるまでの激しさはないものの、拒否によってはねつける厳しさは失いはしない、といった位置にあるものと思われる。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

どちらも簡単に言えば、気にくわないという違和感を表す語のようだが、「あいなし」は不快なものに対置されるものごとが心の中にあって、その基準との対比で不調和だということになる。が、「筋ちがいである」といった訳語からも分かる通り、あまり強い不快感ではないようだ。

一方の「こころづきなし」は、自分の中にある価値観の基準に合わないものに対する拒否感を表すようで、「あいなし」より不快感は強いと言えるようだ。

次回は、「ねたし」「にくし」「くちをし」という不快語の区別を見ていきたい。

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2019年4月10日 (水)

「平成の名人」は存在し得ない?・続き

スマホに時間を吸い取られる人が大多数を占め、スマホ画面を眺めていない人の方が少数派という時代になって久しい。こうなるとスマホ画面から視線を引っぱがし、「情報」を遮断することは、相当難しい。遮断したらどうなるのか。そこに生じる「余白」をどうしたらよいのか。大きなとまどいと不安が心を占めるに相違ない。「情報」が遮断されてしまうことは、もはや恐怖の最たるものになっているかのようだ。

だがそれは実体のないものに対する恐怖なのではないか。「情報」依存、「情報」中毒とでも呼ぶべき状態に入っているため、遮断されたときに耐えられないという感じが生まれるのではないか。

社会的動物である人間は、他者とつながりながらでないと存在していけない。それゆえに「情報」の共有を必要とする。孤立を恐れるのも同様だ。その一方で個としての存在は、周囲から遮断された時間の中で他と区別される個を形作る。「余白」が求められるゆえんである。

しかし、ここでちゃぶ台をひっくり返したくなるような考えが一方に生じる。他と区別される個、近代的自我と言い換えてもよいが、そのようなものは虚妄なのではないか。もともと集合的意識しか存在せず、自我はその偏差でしかないのではないか。自我が存在せず集合的意識だけだというと、まるで『エヴァンゲリオン』みたいだが、ひょっとすると個の存在など虚妄にすぎないのかもしれないと疑わしくなる。

近代以前の社会に生きていた人びとに個の意識があったのか。これは今ここで考えるべき論点ではないので別の機会に譲るとして、少なくとも近代以降の社会に生きる人間は、近代的自我の形成を前提として成長する。他と区別される個。あなたが他者ではなくあなた自身でしかないことの証。胡桃の殻のように、人は防壁を築いて他者と区別される自己を確立する。そのような人間存在のあり方を「孤塔の囚人(a prisoner in a solitary tower)」と表現したのは哲学者のバートランド・ラッセルだったか。

今その防壁が「情報」の洪水によって破られようとしている。もしかするとわれわれは近代的自我という虚妄から脱して、ネットワークの中に集合的意識を確立するという新しい局面に向き合いつつあるのかもしれない。私という存在は、ネットの海から生まれネットの海へと帰っていく。『攻殻機動隊』のモチーフの一つみたいな話だ。

それでも、『攻殻機動隊』の電脳化されたキャラクターである「少佐」こと草薙素子が時々つぶやく「あたしのゴーストがそうささやくのよ」というセリフは無視できない。「ゴースト」とは何か。自我ではないのか。ネットワークの中に融解してしまったかに見える「少佐」の存在が、集合的意識ではなく個を感じさせるのは、この「ゴースト」=自我があるからではないか。

「孤立する」を和英辞典で調べると"stand alone"、"be in isolation"という表現が出てくる。スタンド・アローンというネットワークから接続を断ったイメージが重なる。「情報」の洪水を遮断し、「余白」の時間を作る。その中にしか自我は形成されない。

落語の名人が現代に存在しない話から遠くまで来過ぎてしまった。すでに帰り途が分からない。道に迷ったままで話を終わりにしてもよいのだが、せっかく発端を思い出したのだから、一応それらしく話を終わらせたい。

平成の名人が存在し得ないのは、演者が「余白」を表現する感覚と技量を習得したとしても、その「余白」が観客に共有されなくなってしまったからだ。観客自身が「余白」の意味を理解しなければ、「余白」に依存する落語という話芸は存立の基盤を失ってしまう。名人を名人と認識できる場そのものが消失しているのだから、名人は存在し得ないのだ。

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2019年4月 9日 (火)

「平成の名人」は存在し得ない?

今の落語家にも上手な人はたくさんいるのだろうが、「名人」と呼ばれるほどの人がいると耳にしたことがない。

立川志の輔にしろ柳家喬太郎にしろ、上手な噺家だとは思う。しかし「名人」かと問われれば、答えをためらってしまう。これが六代目三遊亭圓生や八代目桂文楽、あるいは五代目古今亭志ん生なら、即座に「昭和の名人」だと答える。古今亭志ん朝や立川談志であったとしても、やはり「名人」として名前を挙げることに問題はない。

では、今現在の噺家に「名人」が存在し得ないのはなぜか。「し得ない」と言ったのは個々の落語家の資質や技量の問題ではなく、それらを超えた時代環境から来る時間感覚、空間感覚の違いが、どうにも乗り越えられない壁として存在しているのではないかと思うからだ。

中里介山の『大菩薩峠』を読みながら、明治の三遊亭圓朝の人情噺を思い浮かべたという話をこの間書いたが、その時に古今亭志ん生の噺はなぜ「心地良い」のかという問いが同時に浮かんできた。志ん生だけでなく、文楽でも圓生でも、昭和の名人たちの話芸はなぜあれ程魅力的なのか。

立川談志が、この昭和の名人たちのことを回想して独演会で話していたことがあった。確か若い頃の「ひとり会」の高座だったような気がする。五代目古今亭志ん生の噺を高座の脇だか裏手だかで横になって聞いていると、気持ちよくなって眠ってしまうことがあったと談志は言った。それは志ん生の噺がつまらなかったからではなく、あまりにも心地良かったからだ。

話芸の究極はそれだろうと思う。聞いている客があまりの心地良さについうとうとしてしまうような語り。大げさでも奇矯でもない、空気のような流れる水のような自然な語り。すっとその世界の中にくるまれてしまい、その中で呼吸をしているような気持ちの良さが名人たちの語りには感じられたのだろう。

それは噺家個人の資質によるものではなく、時代環境によって形作られた時間感覚・空間感覚に支えられた語り、間の取り方によるところが大きいのではないか。細かい論考をすっとばして極端な形で言ってしまえば、志ん生や文楽や圓生が今現在の落語家として高座に上がっていたとしても、決して「名人」と呼ばれる存在にはならなかっただろうということだ。「昭和の名人」は存在しても「平成の名人」は存在しない。

ではどのように時間感覚、空間感覚が異なるのか。江戸花火と現代の花火の違いみたいなものと考えたらよいのではないか。現代の打上花火は色彩も多く、形もさまざまなものがある。それにくらべると江戸花火は色数が少なく、形も現代ほど多様化していない。現代のわれわれから見れば、地味な花火という感じが強い。しかし、風情という点で言えば断然、江戸花火に軍配が上がる。地味で簡素な花火であるがゆえに、見る人がそれぞれの思いを重ねる「余白」が残っている。現代の花火は目と耳を楽しませるための情報が詰め込まれた見世物であり、色彩や形状や発する音響の多様さを楽しむものとなっている。

「昭和の名人」は、明治生まれであり、談志や志ん朝にしても昭和初期の生まれだ。江戸時代と地続きな感覚がまだそこかしこに残っていた時代である。落語の舞台となる江戸の町の空気と違和感なくなじむことができる感覚が、演者にも観客にも共有されていた。

平成の時代となってから何が決定的に変わってしまったのかと言えば、「余白」がなくなったということだ。かつては存在していた「余白」が、「情報」によって埋めつくされて消滅してしまった。「余白」が存在することを恐れるかのようにさえ感じられる洪水のような「情報」。たとえばテレビの「テロップ」と呼ばれる字幕の垂れ流し。聴覚障害者に対する配慮というより、「情報」の重ね塗りとしか思えないような「テロップ」の洪水。見る者に考える隙を与えないための工夫なのではないかと疑いたくなるほどだ。

大量の情報に瞬時にアクセスでき、即座に他者と情報を共有できる環境があたり前のものになると、「余白」が「情報」で埋めつくされて消滅してしまうことも不思議ではないなと思ってしまう。しかし、「余白」のない時間の流れに人間は耐えられるのか。

落語の「抜け雀」に出てくる老絵師のセリフではないが、「そのうち落ちて死ぬぞ」という気がしてならない。自分の息子が描いた、絵から抜け出ると評判の雀を見て、老絵師は「この絵には止まり木が描いていない。絵から抜け出るくらいの力を持った雀だから、いずれ力尽きて落ちてしまう」と指摘する。

止まり木がなければそのうち雀は疲れて死んでしまう。「余白」がなければ人も疲れて死んでしまうのではないか。肉体的にではなく、精神的に。止まり木はどこにあるのか。それは「情報」を遮断した時間の中にしかない。

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2019年4月 6日 (土)

長い物語を

桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』を再読してみた。最初に読んだのは息子が十八の時だから、もう五年も経っている。筋はだいたい覚えていたし、最初に読んだときに受けた印象と大きく異なるところもなく、十分に物語の展開を楽しむことができた。

文庫版あとがきで桜庭一樹が、ある一族の長大な物語を書きたいと思ったのは、長編を依頼してきた編修者と話をしているときにガルシア・マルケスの『百年の孤独』とイザベル・アジェンデの『精霊たちの家』、そしてヴァージニア・ウルフの『オーランドー』が頭に浮かんできたからだと書いていた。ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』は以前に図書館から借りて読んだことがある。かなり面白かった。残りの二冊は二つとも持っているのだが、長らく「積ん読」されたまま頁を開いたことがなかった。

さっそく『百年の孤独』を引っ張り出して読み始めてみた。いつ購入したか忘れてしまったが、「積ん読」期間のうちにすっかり紙の色が古びて、古書を読んでいるような気分になる。物語は中南米のマコンドという村が舞台で、この村を切り拓いた男の時代から始まって、子の時代、孫の時代まで読み進んでやっと全体の半分くらいである。時代はゆっくりと流れ移るのだが、一族をめぐる出来事は破天荒なものの連続で、マコンドも次第に発展し始め、大きく姿を変えようとしている。これから後の半分はどう展開していくのだろう。大いに楽しみである。

先日の『大菩薩峠』も長い物語だが、長い物語ばかり平行して読んでいるような気がする。イザベル・アジェンデの『精霊たちの家』は『百年の孤独』が終わってからにしようと思っているけれど、もう一つ読み始めているのがトマス・ピンチョンの『重力の虹』。これも長い。まだ冒頭部分だが、舞台となっているロンドンが、第二次大戦中という設定のはずなのに、なぜかジョージ・オーウェルの『1984』に描かれたロンドンをずうっと陽気にしたような不思議な街として描かれている。この冒頭部分だけでも、わくわくするような展開を期待させる。『重力の虹』も入手したのは相当以前だ。紙質がいいのか『百年の孤独』みたいに頁が変色してはいない。つい昨日買ってきた本のような雰囲気だ。さすがに『大菩薩峠』『百年の孤独』と平行して読み進める時間が取れないので、『大菩薩峠』が終わるまで一時中断している。中断してはいるけれども先が読みたくてしかたない。

長い物語を読みたいという欲求はどこからくるものなのだろう。それは小学校の図書室にあった分厚い『西遊記』を毎日少しずつ読んでいた頃から少しも変わらない。読み終えてしまうのが惜しくて、わざと少しずつしか読まなかった。三つ子の魂…と言うけれど、基本的な好みは変わらないということか。

長い物語と言えば、忘れていたがまだ読みかけのものがあった。『旧約聖書』である。聖書を物語扱いすると信心深い方からバチあたりな奴だと叱られそうだが、信仰心を持たない者からすると、『旧約聖書』などは『千夜一夜物語』みたいな長い長い物語にしか見えない。「出エジプト記」のあたりまでしか読んでいないので、まだまだ入口の付近をうろうろしているようなものだ。読みたいものだらけで当分店ざらしのままだと思うが、これも少しずつ続きを読んでいきたいと思っている。

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2019年4月 5日 (金)

中里介山『大菩薩峠』

中里介山の『大菩薩峠』を読んでいる。かなり長い話の、まだ4分の1を少し越えたあたりまでしか読み進んでいない。

音無の構え、机竜之介。この名前だけはずいぶん昔にどこかで耳にしていた。虚無的な盲目の剣士で、理由もなくただ人を斬りたいだけの男を主人公とした悪漢小説(ピカレスクロマン)というとらえ方で済ませていたのだが、実際に読んでみると少し違う印象を持つ。

まず、この小説は群像劇なのではないかということ。確かに机竜之介という主人公がいて、一方に竜之介を兄の仇として追う宇津木兵馬という青年剣士がいて、この二人の話が本筋である。ところが脇筋がやたらに多く、竜之介も兵馬もどこかへ行ってしまいしばらく姿を見せない章段が続いたりする。しかもこの脇筋が無類に面白い。脇筋の人物に焦点が合っている時は、こちらの方が本筋なのではないかと思うほど活き活きした描写が続く。人物もどんどん増えてくる。まだまだ先が長いので、これからどういう展開になっていくのか楽しみである。

物語の展開とは別に、『大菩薩峠』を読み進めるうちに、この語り口はどこかでなじんだことがあるような気がしてきた。一体何だったろうかと考えてみて気がついたが、三遊亭円朝の人情噺だ。

落語の明治中興の祖と言われる初代三遊亭円朝は、数多くの人情噺や怪談噺を生み出した。「怪談牡丹灯籠」「文七元結」「名人長二」「業平文治」「塩原多助一代記」などなど、落語の古典として語り継がれることになる名作揃いだ。五代目古今亭志ん生が、人情噺は笑わせるところは少ないけれども、これができなければ一人前の落語家と言われなかったという趣旨の話をマクラでしていたことがあった。志ん生自身も円朝全集を繰り返し読んでいたようだ。

円朝の人情噺は落語としては長い咄が多い。「牡丹灯籠」や「塩原多助」は一部しか聞いたことがないが、全編聞いた「名人長二」は、二時間くらいだ。「牡丹灯籠」や「塩原多助」を全編聞くとなると、おそらくその二倍か三倍くらいの時間が必要なのではないか。

もっともこれらの長い人情噺は全編通しで語ることは滅多になく、連夜の続き物として語られ、寄席に客を引きつけたものだと思われる。この人情噺や講談にも通じる語りの伝統、つまり「さて、いかなることになりますやら」と後に期待を持たせる引っぱり方が『大菩薩峠』にも共通して感じられる。

物語を「語り」として耳にすることがなくなってしまった現代のわれわれでも、連綿として続く「語り」の伝統と無縁になってしまったわけではないのだなとつくづく思わされる。文字を読めない人がほとんどいなくなってしまった識字率の高い社会で暮らしていると、物語は「目で追うもの」であり「耳で聞くもの」ではなくなってしまった。しかし琵琶法師が語った『平家物語』にしろ、江戸時代の人形浄瑠璃にしろ、語られる物語に耳を傾けるという享受のしかたの方が、文字を黙読していくより一般的であったのだ。それも相当長い期間に渡って。

もう一つ『大菩薩峠』を読んでいて感じたことがある。これも現代ではその感覚が希薄になってしまったように思うのだが、第二次大戦前までは、江戸と地続きの意識が濃厚にあったのではないか。少なくとも明治、大正(あるいは昭和初期でさえ)の頃には江戸時代生まれの人が実際に生きていたのだから、維新後いかに欧化が進もうと市井の人びとの日常には江戸時代の名残がなにかと多かったと思われる。

とすれば、三遊亭円朝の人情噺にしても、中里介山の『大菩薩峠』にしても、あるいは『忠臣蔵』であっても、そこに描かれている世界に対しては違和感より親和感の方が強かったのではないか。ある確実な手ざわりや肌ざわりとともに受け入れられていたように思われてならない。

時代劇ですら基本的に現代人の感覚と意識で人物造形がなされている今とくらべて、明らかに異なる感覚と意識がそこにはある。おそらくそれは時間の流れ方、空間のとらえ方の決定的な違いによるものなのだろう。つまり、今よりもっと時間の流れ方がゆるやかで、遠く離れた異郷まで行くことが大変な困難を伴うものだった時代の感覚と意識ということになるのだが。

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