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2018年7月 7日 (土)

あれから二十年以上経つのか

テレビをつけたら、オウム真理教の死刑囚7名の死刑が執行されたというニュースが流れていた。教組もその中に含まれている。

地下鉄サリン事件が起きたのは1995年。もう二十年以上も前の話だ。その後どれくらいの期間オウム真理教についての報道が続いたか、今となっては記憶の片隅にも残っていない。それでも逃亡していた指名手配中の元信者が逮捕されたニュースが出たりすると、遠い忘却の彼方からぬっと異様なものが顔を見せたかのように、何かしら心をざわつかせるものがあった。

オウム真理教の事件は、よく分からない部分が残っているように思われる事件だ。しかし、教組や幹部が逮捕され裁判が長期に渡るにつれ、世の多くの人びとは事件そのものへの関心を失い、とっくに終わってしまった解決済みの事件という分類に収めてしまったのではないか。だから、もしかすると今回の報道に接して「えっ、オウム真理教の死刑囚ってまだ死刑になっていなかったの?」と思った人もいるかもしれない。

事件そのものは社会の中で風化してしまっても、今回のように目の前に異様なものが不意打ちに現れると、ざわざわしてしまうのは何故なのだろう。舗装された地面を一枚ひんめくるとむき出しの黒い土が顔をあらわすように、何事もないかのごとく見える現代日本の社会も一皮むいてみれば、異様なものがそのまがまがしさのままに顔を見せるということか。

異様なものは、しかし、我々の隣人なのであり、異質な存在に見えても実は我々とそれほど大きな違いがあるわけではない。異質なもの、我々とは異なるものとして排除することは容易だ。むしろ多くの人びとは、そうしたものを排除することによって自分が存立している地点を守ろうとする。少なくとも私たちはあの人たちみたいな大それた事件は引き起こさない。そのように思い、彼らを切り離していく。

けれども、どれだけの違いがあるのか。オウム事件の死刑囚の多くは私と同年代だ。文系、理系といった違いはあっても、同じような時代に大学に進み、何かのきっかけでオウム真理教という集団に吸い寄せられ、その中に居場所を見出し、自分の役割だと信じ込んだことに忠実に従った結果犯罪者となってしまった。途中までの経路に大差はないのだが、ある地点から大きく分かれて、一方は死刑囚、一方は平凡な小市民となっただけのことではないか。

彼らの犯罪を擁護しようというではない。許容しようというのでもない。彼らは法を犯したのであり、それに応じた裁きを受け、罰を負うべきだと思う。しかし、彼らは我々とまったく異質な存在なのかと言えば、そうではないだろうと思うだけだ。今でも同じような道筋をたどる人びとが一定数いるだろうということだ。

つまり、オウム事件を引き起こすことになった日本の社会の在り方は、この二十数年を経てもあまり変わっていないのではないか。むしろ状況が見えにくくなっている現在のほうが、ずっとタチが悪いのではないかということだ。現在は過去と地続きだし、現在は未来へとつながっている。無数の可能性の束から選択が繰り返され歴史的事実と呼ばれるものが積み重なっていく。過去に存在したものが目の前から見えなくなっても、消えて無くなってしまうわけではない。だから、蓋をしたと思っていたものがぬっと顔をあらわすと、その地続きの歴史の異様さにクラクラとめまいを感じるのかもしれない。

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