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2018年3月

2018年3月31日 (土)

節目

年度末である。季節感もなく年がら年中同じような毎日を送っていると、また似たような一日が始まるのだなあ、くらいの気持ちにしかならないが、それでも年度が変わるとそれで一区切りがついたような気もするのだから妙なものだ。

大晦日から元日へと年が変わっていくことにさして大きな変化があるわけではないのだが、それでも新年ということになればやはり何か気持ちが改まる、と吉田兼好は『徒然草』で言っていたような気がするが、それに似ている。

のんべんだらりと金太郎飴みたいな日々であっても、どこかで区切りをつけて仕切直ししないとやりきれない。だから、年末年始や年度が変わるというのは、思っているよりもいい効果を与えているのかもしれない。

つまり、変化ということだ。テレビの番組が変わる。クラス替えが行なわれる。担当者が変わる。部署が移動する。何でもいいのである。目先が変わったくらいで中身が変わるわけではなくても、人は外側にだまされる。それで気分が新たになれば、結構なことではないか。

もっとも、忘れないというしつこさや、いつまでも同じことを続けているという愚直さも一方では必要である。ただ、長い時間変わらずに続くと、たいがいの人は飽きる。飽きると繰り返しにうんざりする。ますますうんざりする。この悪循環を切り抜ける手だては、変化することしかないのだろう。

目先を変えることで、気分を変えることで、それまで続けてきたことも新しい意味や感触をもって見えてくるようになる。それでいいのではないか。十年一日、毎度毎度バカバカしい一席をと続けていくために、節目という隠し味は必要なのだと思う。

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2018年3月28日 (水)

さて、ここまで何を読んできただろう

もうじき新年度が始まる。年が明けてから四分の一が過ぎるということになる。すっかり暖かくなり、桜の花も今年は早く咲くだろう。

ところで、今年はここまで何を読んできたのだろう。あれこれ読んだような気もするが、はて何を読んだのかとんと思い出せない。

近現代史の学び直しの途中だから、その関連で読んだものが多いはずなのだが、さて何だったか。特に韓国併合後の朝鮮半島に興味を持ち、朝鮮史関連が増えたような気がする。

『朝鮮史』梶村秀樹、講談社現代新書
『白凡逸志』金九著、梶村秀樹訳、平凡社東洋文庫
『日韓併合小史』山辺健太郎、岩波新書 青版
『パンソリ』申在孝、平凡社東洋文庫
『朝鮮王朝の滅亡』金重明、岩波新書

ああ、そうだ。これに関連して中上健次の評論集を読んだのだった。『中上健次エッセイ撰集 青春・ボーダー編』恒文社。中上健次が朝鮮半島に興味を持っていたことを知らなかったし、パンソリに関心を寄せていたことも初めて知った。

一番近い外国である韓国・朝鮮のことをほとんど何も知らずにこれまで過ごしてきたのだな、と改めて思う。1910年から1945年の植民地時代のことも、それ以前の朝鮮社会のことも、何も学ぶことなく来てしまった。日本史に関連の深い、百済からの渡来人、李氏朝鮮、文禄・慶長の役、朝鮮通信使、江華島事件、甲午農民戦争、韓国併合といった用語は思い浮かぶものの、それだけだ。用語が抱え持っている膨大な細部にまったく思いが至らなかった。

上海に成立した大韓民国臨時政府の主席、金九の自伝『白凡逸志』などを読むと、日帝時代の朝鮮の人びとが支配者である日本人にどのような思いを抱いていたのかよく分かる。もちろん、金九は右派の急進派だから、一方の極端であろうとは思う。日帝時代に親日派と言われた半島の人びともいたのであり、日本に対する思いが一様でなかったろうとも思う。しかし、激烈な反日感情を抱かせるような、植民地支配の実際がそこには存在した。

何かにつけて日韓関係はギクシャクしがちだし、北朝鮮とはまともな対話すらできない。元をたどれば、三十六年間の植民地支配の「感情的精算」ができていないからなのだろう。踏んづけた方は忘れても、踏まれた方は痛みを覚えている。併合という植民地支配がどのようなものだったか、踏んづけた側の子孫は、その歴史の実際に目を向ける必要がある。

これは「自虐史観」とは無関係だ。そもそも植民地支配の実態を教えられることすらないのだから、まずは歴史を知ることそのものから始めなければならない。評価はその後にくる問題だ。歴史的背景を知った上で、嫌韓になるのはそれぞれの自由だが、無知に由来する嫌韓あるいは嫌中は単なる排外主義でしかない。ナショナリストを気取るなら、朝鮮のナショナリストだった金九の「愛国心」に共鳴するのが筋だろう。

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2018年3月15日 (木)

一つずつ

朝、着替えをしながら思う。ものごとは一つずつしか片付かないな。シャツのボタンを止めながら、靴下を履こうと思っても同時にはできない。まず、一つを終わらせてから次に進むしかない。

大概のものごとは、そういうものなのではないか。大震災からまる七年経って、復興が遅々として進んでいないように感じる。しかし、これとて一つずつしか解決していかないのだろう。同時に進めていけることがらにはおのずから限度がある。まずは一つを終わらせる。歯がゆく思っても、そこからしか次のものごとに取り掛かる手だてがない。

あれもこれもと多くを望む。それが人の常かもしれない。あれもやって、これもやってと気持ちばかりが空回りするときもある。けれども、焦ってみてもその時に実際に片付けることができるのは一つなのだ。マルチタスクで処理するコンピュータみたいなわけにはいかない。

地に足をつけるというのは、そういうことだと思う。まだ実現されていない願望の姿を語ることもときには必要だろうが、遠い先ばかりを眺めていても足元がおぼつかなくなるばかりだ。今できること、今続けなければならないこと、今片付けてしまわなければならないこと。それに集中することが遠回りのようで近道になる。

一気に大逆転、みたいな話は気をつけたほうがいい。短期間で成績が確実に上がりますということをうたい文句にしている塾もあるが、宣伝のためのキャッチコピーだと見たほうががっかりせずにすむ。入塾を検討して訪れる保護者には、いつも「成績が上がるのには時間がかかります」と告げている。最低でも三カ月。一カ月目で少し前より分かるようになったかもしれないと感じ、三カ月経過するあたりからはっきり以前より力がついたと実感する。学習に関して言えば、これがまともなところだろう。もちろん個人差はある。もっと短い期間で力がつく場合もある。それは、単に教える技術とか教材とかだけの問題ではない。それまでの本人の蓄積、学習習慣、学習への意欲などなどさまざまな要素がからんでくる。

しかし、三ヶ月間まともな努力を継続すれば、着実に力はつく。成績になって現われるためには、試験の時の解答作成技術も関係してくるから、その部分が弱いと「成績が向上した」という結果にたどりつかない。力はついているのに、表現できないという状態だ。

今年高校受験をした数学が苦手な生徒には、目標点は75点でよいと告げた。他の教科が十分取れているので、一番苦手な数学で八割や九割を目指さなくてもいい。75点満点だと思って、できるだけ確実に得点できる問題に集中するよう指示した。

苦手な教科は、そうやってまず現実的な目標点を達成することが大事ではないか。つまり、「一つずつ」ということである。一つ片づいたらその先に進む。この繰り返しで漸進するのが、誰にでもできる成績向上法だと思う。あるところで一気に理解が進み、飛躍的に分かるということもあるだろう。それとて一つずつ積み重ねていく継続の先にしか見えてこない風景だ。

今日は、午後から公立高校の合格発表。数学が苦手な生徒は、その数学で七割弱を得点していた。まずは想定していた通りの点数だ。いい結果につながるだろうと思っている。

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2018年3月 1日 (木)

雪かき・続き

そういえば思い出した。チンパンジーと人間の脳の働きで決定的に異なるのは、目の前にないものやことがらを思い浮かべることができるかどうかなのだそうだ。

チンパンジーの脳は人間の脳より小さいらしい。その分だけ脳の働きは限定される。森の中で暮らすチンパンジーは、目の前に現れたものが敵なのかどうか瞬時に判断しなければならない。だから、瞬間的に現われる数字を追いかけるゲームをすると、子どものチンパンジーにすら人間はかなわないのだそうだ。

しかし、そのチンパンジーには、目の前にない将来の時間を考えることができない。ある動物園のチンパンジーは半身不随となっても、まったく将来を悲観しないのだという。食事の時間となり、飼育係の人が餌を持ってくると、いつものようにうれしそうに飼育係の方へ近付こうとする。うまく体が動かせないということが分かっても、そのことで落ち込むようなことはないのだそうだ。瞬間的なことがらの把握に脳の機能を割り振っているため、将来の時間を想定することができない。それが人間との大きな違いであるらしい。

シジフォスも瞬間的なことがらしか考えなければ、底なしの徒労感に襲われることはないだろう。けれども、永劫に続く時間の長さに思いが至るから徒労感にとらわれずにはいられない。人間を人間たらしめている脳の機能が、一面では人間に不幸であるという感情をもたらす。将来の時間のことを考えなければ、人は不安になったり悲観したりすることはないのだ。

とすると、幸福に生きるためには瞬間に重点を置き、先のことをあれこれ考えないほうがいいのか。余計なことを考えるヒマがあったら体を動かして働け。そういうことなのだろう。確かに、古代ギリシア人が哲学者でありえたのは、奴隷制に支えられていたからだ。自ら体を動かして働く必要がなく時間が有り余っていれば、余計なことを考える。

考えることは必要なのだが、それによって不安になったり悲観したりするのでは不幸になるだけだ。幸福でいるためには適当な所で思考を停止し、今という瞬間を楽しむことが必要なのかもしれない。つまり、できるだけ動物に近い感覚で、体を動かし、外からの刺激に反応するほうが幸せなのかもしれない。

要はバランスの問題なのだろう。人間は目の前にない時間やものごとを考えずにはいられない。そのような働きをする脳をもちあわせた存在だ。しかし、その働きが強すぎると不安や悲観を生み出す。そこから今という目の前の瞬間に視線を移動させれば、その働きをいくらかでも抑えることができる。一方、本能的な、あるいは動物的な感覚ばかりではそこから何かを創り出していくことはできない。目の前にないものをあれこれと思考する力がそういう場面で求められる。

そのようなことを、ああでもないこうでもないと考えながら雪かきしているといつの間にか作業は終わっている。

さて、雪かきのコツは何だろう。個人的に思い浮かぶものはいくつかある。その1、スノースコップで押す雪の量を欲張らない。欲張っても重くなるだけ。その2、一気呵成に短時間で終わらせようとしない。だらだらと雪かきしたほうが疲れない。その3、完璧を目指さない。いずれまた雪は降り積もる。こんなところだろうか。

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