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2017年10月17日 (火)

それにつけても…・その3

話を価値の交換に戻す。等価であると見なされれば、本来交換は何を使ってもよかったはずだ。「抜け雀」のところで上げたように、娘を嫁に差し上げるから絵を譲ってくれとか、好きなだけお酒を召し上がって結構ですから絵は私に、ということもありうる。黄鶴楼で酒代に絵を描いていった仙人もいたではないか。けれども、最も普遍的に流通すると思われている価値がお金だから、あれこれ考えなくても済む分だけ簡便である。誰にとっても、分かりやすいという話だ。

だが、だからといって札束で横っ面をひっぱたくようにして交換を迫ることに対しては、嫌な気持ちになる。ひっぱたく方は別かもれないが、ひっぱたかれる方はそう感じる。それは何故か。等価交換だから問題ないじゃないか。問題はない。ないのだが、やはりある。

金払ったんだからいいだろというのは、やはり違うのではないか。たとえば、大道芸に対するお捻りや投げ銭のようなものを思い浮かべると、分かりやすいかもしれない。お捻りや投げ銭は、強要されて出すものではない。強面のお兄さんが強制的に巻き上げる場合もあるかもしれないが、それは例外的な話で、任意のものである。いいものを見せてもらったという謝意をお捻りや投げ銭として表すのだから、そこまでは感心しなかったという人は出さなくてもよいのだ。

つまり気持ちの代替物としてのお金だから、同じお金ではあるが付与されている意味が違う。お金に色がついているわけじゃない、いいお金も悪いお金もおんなじだ。そういう考えもある。気持ちがこもっていようといまいと、お金はお金でしかない。確かにそうかもしれない。だが、気持ちを表すものは、もともとは他のものでもよかったはずである。食事を出す、宿を提供する、洗い物を引き受ける。そういうことでも交換できたのだ。しかし、それではいつでもどこでも交換するというわけにはいかなくなる。だから簡便な方法としてお金がそれらを代替することになったのだ。

交換というやりとりに気持ちという要素が皆無であれば、金払ったんだからという考え方も分からなくはない。大量に生産された製品を買うときに、そこへ気持ちという要素は入りにくい。売る側が気持ちという物語を付加したり、買う側が自分の思いを付加するという場合はあるだろうが、消費物を買うときにその要素は限りなくゼロに近い。だから、スーパーのレジで合計金額を支払うときは、何も感じることなく言われたお金を払うのであり、それに対してレジ係の方でもマニュアル通りにお買い上げありがとうございますと返してくるのである。

マス化されるほど交換の場に気持ちは不要となってくる。これが一点ものに近くなってくると、にわかに気持ちの要素が前面に出てくる。肉筆のたった一枚しかない絵を売る側も、それを買う側も、本来的にはお捻りや投げ銭感覚でやりとりしていたのではないか。だから、絵の雀と鳥屋の鳥を同じ次元で扱う宿屋の主は笑われるのだ。

その一点ものの絵が、描いた当人も買い入れた当人もいなくなると、気持ちの要素は薄くなる。当事者がいないのだから当然とえいえば当然かもしれない。そうなると、その絵は描かれた当初の事情から切り離され、絵画市場で取引される「商品」という性質が強くなる。値上がりが見込まれれば投機の対象にもなる。

ここで逆転現象が起きるのではないか。その絵に内在する価値を認めるからお金で交換したいということから、お金で評価されないものは価値がないということへの逆転。その絵に価値があるのなら値がつくはずである。誰も買いたいと思わないようなものであれば、つまりお金を払ってもいいと思われるものでなければ、その絵には価値がない。理路としてはそうなのだろう。

だが、そう割り切ってしまっていいのだろうか。芸術作品の価値は、ある時代だけで確定されるものではない。伊藤若冲は自分の絵は数百年後になれば理解されると思っていたらしいが、その通りになっているではないか。同時代やそれに続く数世紀に評価されなくとも、はるか後世に「発見」されることだってある。

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