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2017年10月16日 (月)

それにつけても…・その2

話を元に戻せば、すべての価値をお金という価値に一元化するという拝金主義に違和感を覚えるのは、金銭化できないものだってあるのではないかとどこかで感じるからなのだが、たとえば同じ落語の「井戸の茶碗」という噺などが浮かんでくる。

「井戸の茶碗」では、易で暮らしを立てている長屋住まいの浪人が、くず屋に先祖伝来の小さな仏像を売り払い、中から五十両の金がでてきて騒動になる。仏像を購入して五十両を見つけた細川藩士は、おれは仏像を買ったのであって五十両を買ったのではないからこの金は元の持ち主に返してこいと、くず屋に命じる。浪人は浪人で、手放した以上仏像から何が出てこようと自分には関わりがないと、これまた取り付くしまもない。その後、あれこれと展開はあるが、最後は浪人が自分の娘をその細川藩士の嫁に出すということで落着する。

この噺は徹底的に金銭的な価値で測れないものがあるのだというテーマを反復する。

浪人も、細川藩士も、意地になって金を受け取らない。こまったくず屋が浪人の住む長屋の大家に相談し、仲裁に入ってもらう。くず屋に十両、残りを二十両ずつ折半ということで落ち着く。落ち着きはするのだが、浪人はそれでは相済まぬと言う。では何か気持ちを差し上げてはとくず屋に勧められ、これはワシがふだん使っておる茶碗だがこれしか差し上げるものがないと、浪人が頼む。これが実は「井戸の茶碗」という天下の名器。細川の殿様が三百両で買い上げ、今度は百五十両ずつ折半することになる。百五十両を届けたくず屋に浪人が、その細川藩士は妻帯しているかと尋ねる。独り者だと判ると、では娘を嫁に、という展開だ。

出だしが五十両受け取りの拒否である。浪人も細川藩士も筋の通らぬ金は受け取れないと、頑なに拒む。次が、五十両折半後の、それではワシの気が済まぬという浪人の茶碗進上だ。お金の謝礼にお金では気持ちが表せない。だから、なにかモノを差し上げたい。そういうことだろう。さらに三百両折半の後は、自分の娘を嫁に出すという最上級の謝意である。

金銭のカウンターとして提出されるものが、茶碗であったり娘であったり、いずれも金銭的価値に換算されないものばかりだ。茶碗は細川の殿様が三百両で買い上げたし、娘だって吉原に連れていけば五十両にはなるじゃないか。確かにそうである。が、それは相手が拝金主義者の場合ならそう受け止めるだろうという話だ。それを金銭に換算できない気持ちとして受けてくれるであろうと思ったから浪人はくず屋に託したのであり、細川藩士もまたそのように受け止めたのである。

この噺がうまくできているのは、金銭の折半に対する謝意を何で表すかという構成になっているからだ。交換するものとして金銭が出てこられない場面で、何を提出するか。そこに焦点が当たっている。「お金では買えないものがある、ってえのは貧乏人のやせ我慢だ」と喝破したのは談志だったか。やせ我慢にはやせ我慢の美学がある。武士は食わねど高楊枝。この噺が、浪人者と細川藩士というお侍さん同士でなければならない所以でもある。

拝金主義への違和感は、金でしか交換できないという思想に対して生じるのではないか。人の気持ちだって金で買える。まあ、そうかもしれない。だが、いくら金を積まれてもいやなものはいやだ、そう断る人間だっている。いまどきそんな人間はいないって?それほど世の中捨てたものではない。絶滅危惧種のような存在かもしれないが、金がすべてとは限らないと考えている人間はいるはずだ。落語がいまだに滅びることなく受容されていることが、その何よりの証だ。

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