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2017年9月15日 (金)

現実感のなさ

北朝鮮から「また」ミサイルが発射された。朝からテレビはこの話題で持ちきりである。先月と同じように北海道の東沖、太平洋上に着弾したらしい。

アメリカと北朝鮮のチキンレースで、交渉カードの切り札とするためミサイル発射が繰り返されるのは「先代」のころから何も変わっていない。本気で挑発するのなら、あるいは本当にアメリカと事を構え得る気なら、とっくの昔にグアム周辺に打ち込んでいるはずだが、それは一度も実行に移されない。こうなると、ヤルヤル詐欺みたいなもので、結局口先だけではないのかと疑ってしまう。

確かにミサイル発射の回数は多くなり、間隔も短くなった。が、実質的な被害が出ていないという状況は以前と変わらない。こうなると私のような一般人は、「ああ、またか」「また、公海か経済水域の端っこでしょ」「こんどは何?ICBMじゃないの?」くらいの反応になってくる。つまり、そのくらい実感がない。現実にミサイルが着弾するかもしれないという可能性の低い事態については、これまでもなかったんだから今度もないでしょう、で済ませてしまう。

オオカミ少年状態である。今朝のNHKの放送のなかで、北海道だったかの人の感想として「いい加減、うんざりしています」というものがあった。この感触は最大公約数的なものではないだろうか。ミサイル発射、被害なし、北朝鮮の挑発行動への非難、もっと制裁を厳しくしろ、圧力をかけろ。こういう一連の流れで「終了!」となるのが、毎回だ。

神山健治監督の『東のエデン』というアニメを思い出す。細かい説明は省略するが、ミサイルが着弾しても人的被害の発生しなかった「迂闊な月曜日」と呼ばれる事件が起きる。緊張感なく日々が過ぎていくなかで、その次のミサイルが発射され犠牲者が出るという設定だった。今年に入ってからミサイル発射の報道が多くなると、このアニメのエピソードが浮かんでくる。

ミサイルが国内に着弾して甚大な被害が発生する恐怖は、頭の隅に居座っている。しかし、恐怖と緊張感は「日常化」するにつれて薄らいでしまう。例の「非日常も日常化する」という、あれである。こうなると、われわれ日本人は、伝統的に「思考停止」モードに移行する。まあ、前回も領海や領土には着弾しなかったんだから、今度もないでしょう。たぶん、大丈夫ですよ。という程度のやりとりで済ませて、あとは考えない。この心的反応形式は、昨日今日にできたものではないので、いかんともしがたい。

七十年前の戦争だってそうだし、東日本大震災と同時に発生した福島の原発事故にしてもそうだし、大惨事が現実化するまでは、われわれは「ほとんど何も考えない」。そして大惨事に直面したときには「腰を抜かす」。虚脱状態となる。そうしてしばらく呆然として、ふと我に返ると、またいつものように日常生活に戻り、何事もなかったかのように日々を送る。だから、東日本大震災のときに、「日本人は大災害に直面しても冷静さを失わない」と賞賛されたが、あれは冷静だったのではなく、腰を抜かしていただけなのではないか。

現実にミサイルが着弾し、本当に腰を抜かすことにならないことを願っている。

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