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2017年9月20日 (水)

落第生漱石

この間、偶然に漱石の「満韓ところどころ」という紀行文を読む機会があった。ちょうど近現代史の学び直しをしている途中でもあるので、漱石も満洲や韓国へ足を運んだのかと興味を覚えて読み進めた。明治四十二年、1909年に「朝日新聞」に連載されたものだから、日露戦争が終結してからまだ四年しか経っていないころのことだ。

冒頭に第二代満鉄総裁だった中村是公の名前が出てくる。後藤新平が自分の後がまとして据えた人物だが、この人が実は漱石の友人であった。

この満鉄総裁の中村是公は漱石と予備門(のちの第一高等学校、さらに東大教養学部の前身)時代に、神田猿楽町の下宿で一緒だった。予科の三年のころには、家から学資をもらわなくてすむように、二人で江東義塾という私塾の教師をしながら予科に通っていたという仲である。このあたりの事情は、同じ明治四十二年の「私の経過した学生時代」などに詳しい。

「満韓ところどころ」にも予科時代の話がでてくる。「猿楽町の末富屋」という下宿に大勢陣取っていたとあるから、中村是公と一緒だった神田猿楽町の下宿というのは、この「末富屋」のことだろう。この下宿に陣取った連中がことごとく勉強をしない。試験が終わると机なぞは庭に積み上げてしまい、広くなった部屋のなかで腕相撲をするやらなにやら、いつの時代も元気の余っている学生のすることは似たような馬鹿騒ぎだ。

この下宿の連中が連れ立って明治二十年ころ、徒歩で江ノ島まで遠足に行った。これも「満韓ところどころ」に出てくる。金はなくとも暇だけはふんだんにある学生たちが、ぶらぶらと歩いて江ノ島に着いたのは夜の十時ころ。そのまま砂浜で毛布にくるまって、砂だらけとなって朝を迎える。馬鹿である。こんな無茶苦茶なことができるのも学生時代くらいのものだ。

こういう次第であるから、当然のごとく、みな落第坊主になる。漱石も落第する。「落第」という随筆があるくらいだ。あの漱石が落第坊主だったのか、と意外だったが、この落第をきっかけに少し勉強してみるかと考え直し真面目に取り組み始める。実は、漱石の予科時代の下宿仲間は中村是公をはじめ、農学博士の橋本左五郎など、後にそれぞれの分野で活躍する人物ばかりだ。そのほとんどが予科時代には落第坊主というのが面白い。

まるで放し飼いの地鶏のようなものだ。ブロイラーのように鶏舎に閉じ込められて同じ飼料を与えられるのではない。地鶏は地面をほじくり返してミミズをつついたり、自分で好きなように歩きまわって餌をとっている。どう考えても地鶏のほうがうまいはずだ。それと同じように、ありあまるエネルギーが勉強に向くまでは、大馬鹿者であり、勉強し始めるとすべてをそこに集中するという明治時代の学生の姿は魅力的だ。人間の幅というのは、善悪賢愚美醜さまざまな経験を経て生まれてくるものなのではないかと考えさせられる。

随筆「落第」で初めて知ったのだが、漱石は建築科に進むつもりでいたのだという。自分は変人であるが、その変人でも自分から頭を下げなくても向こうから頭を下げて頼みに来る仕事を選べば、飯の種に困ることはなかろうという考えからであった。なるほどとは思うが、建築家漱石というイメージはピンとこない。

それがなぜ英文科へと変わったのか。漱石が落第して同じ級になった中に、米山保三郎という学生がいた。この米山が漱石にこう忠告する。

君は建築をやると云うが、今の日本の有様では君の思って居る様な美術的の建築をして後代に遺す(のこす)などと云うことは迚も(とても)不可能な話だ、それよりも文学をやれ、文学ならば勉強次第で幾百年幾千年の後に伝える可き(べき)大作も出来るじゃないか。
(夏目漱石「落第」より)

 それを聞いて文学をやることに決めたのだという。ちなみに米山保三郎は若くして亡くなるが、哲学科の秀才だったらしい。漱石の友人である正岡子規が、哲学科に進むのをあきらめたのは、米山が哲学科にいるのではとうてい叶っこないと思ったからだそうだ。

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