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2017年7月30日 (日)

興味の対象

このところ、伝記やそれに準ずる記録などを面白く感じて読んでいる。もちろん小説には小説でしか表し得ない虚構の面白さがあるのだが、事実の積み重ね(それが主観的なものであるとしても)により浮き出てくる、現実に生きた人間の姿は、小説とは別の感慨を呼び起こす。

「ありうる姿」としての人間ではなく、「そのようであった姿」を味わうと言えばいいのか。どうも書画骨董を愛でる老人になってしまったような気分だが、おそらくこれは自分の手持ちの時間が残り少なくなってきていることを頭のどこかで分かっているということなのだろう。二十年くらいで人の生涯を区切ってみると、平均寿命まで生きるとして少なくとも八十年が四つに区分される。陸上競技のトラックで言えば、第一コーナーから第四コーナーということになるか。どう考えても、もうじき第三コーナーの区間が終わって第四コーナーへかかろうかというあたりをフラフラとしている。

現実的な話として、ここから「ありうる姿」を新たに求めて自分を変えていくのは、シンドイ。若い頃のように、これから先の時間がふんだんにあり、贅沢にそれを消費していくことができる時期であれば前しか見ずに進むこともできる。だが、長い坂道を下るように残り時間が刻一刻と少なくなっていく年代になると、否応なしに「来し方」に思いを馳せ、「そのようであった姿」を振り返ることが増えてくる。それとともに、伝記や記録に定着された、ある時代の一人の人間がどのようにして生きたかという姿に興味を覚えるようになった。

ある一人の人間が生きていく上で、大きく影響するものは何があるのだろう。まず生まれ育った時代。周囲の人間との出会い。そして偶然という要素。特に最後の偶然という要素の占めている割合が意外に大きいことに呆然としてしまう。若いころにチャプリンの自伝を読んで一番印象に残ったのもそのことだった。喜劇王と言われたチャプリンでさえ、映画に出ることになったのは「偶然」からだった。巡り合わせが違っていれば、『モダンタイムズ』も『ライムライト』も存在しなかったわけだ。その「偶然」をどのように捉えるかで、運命論者にも宗教家にもなりうるだろう。逆に、「偶然」が大きく作用するならジタバタしても始まらないじゃないかと開き直ることもできそうだ。

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