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2017年6月10日 (土)

二極化…か・続き

社会格差のどこが悪いのだ。努力した人間が正当な報酬を得て、努力しなかった人間がそれなりの収入しか得られないのは当然ではないか。という新自由主義的見解は一見もっともらしい。

しかし、競争の前提に大きな不均衡が生じている状態では、その主張は正当性を持たない。生まれてくる環境を人は選べない。経済力のある親のもとに生まれた人間と、困窮した家庭に生まれた人間では、スタートラインの時点ですでに大きな隔たりがある。もちろん、格差があっても努力によってそれを克服し、社会的な階層を上昇していくということはあるだろう。だが、周回遅れでスタートするような大きな社会格差であるとすれば、どこまでいっても追いつかないと、もはやレースをあきらめるしかなくなる。

前半の「努力した人間が正当な報酬を得る」のはそれでよいのだが、後半の「努力しなかった人間が…」との中間に当たる部分が抜けていることに問題がある。「努力した人間」が「正当な報酬を得る」とは限らないという現実があるのに、それを捨象してしまう言い方ではないか。つまり、「努力した」と言うけれど「努力」が足りなかったのじゃないか、という言い方は、「努力しても」必ずしも「正当な報酬を得る」とは限らないという現実があることを、意図的にか無意識にか分からないが見ないことにしている、ということだ。

社会格差はなくならないだろうし、逆に社会格差の存在が社会に活力を与える側面もあるだろう。しかし、社会格差が拡大するばかりで、しかも社会格差が固定化してしまうような社会は衰弱していくだけだろう。この先に「希望」が見えると思われないような社会に対し、誰が意欲を持って踏み出そうとするだろうか。

「衣食足りて礼節を知る」という語句は「管子」が典拠らしい。「衣食足りて」という前提条件がなければ「礼節を知る」状態は至らない。これと同じように競争の前提が著しく不均衡でなく、社会格差が固定的でないという前提条件のもとでしか、「努力した人間が…」の主張は成立たない。「衣食足りて」いない人間には、まず前提条件の充足こそが必要なのだ。

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