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2017年4月

2017年4月27日 (木)

花の盛りを遠く眺めて

桜の花が満開を過ぎて散り始めようとしている。北国のここでは、いつもゴールデンウィークの直前に花の盛りが過ぎてしまう。ずっと昔、私が小学校に上がるくらいのころは「天皇誕生日」今の「昭和の日」あたりが見ごろだったと記憶しているが、この数十年でそれが繰り上がってしまったようだ。

花が散り始めようかという時期なのに、相変わらずヒマである。ヒマにまかせてぼんやりと何事か考えるのも変わりがない。例によって結論があるわけでもなく、無駄といえば無駄な行為である。しかし、生きるということは、必ずしも合目的なものばかりで成り立っているわけではない。何のためにこんなことを考えたりするのか分からないけれども、考えること自体が生きていることの同義語なのではないか。

といった前置きはさておき、何を取り上げようとするのか。過渡期にある世界の話。いったいこれから世界はどうなっていくのか。

アメリカの大統領にトランプが就任して以来、アメリカの政策はよく分からなくなってきた。特に主席戦略担当のスティーブ・バノンが、どうやらホワイトハウスの中で影響力を行使できなくなってきたらしいと伝えられるようになって、一層混沌としてきた。

スティーブ・バノンはアイルランド系カトリックの労働者階級の家庭に育ち、ゴールドマンサックスに短い期間勤め、その後映像作家としてドキュメンタリーを何本か作り(「右のマイケル・ムーア」と呼ばれているようだ)、「Breitbart.com」という右翼のたまり場のようなサイトを引き継いで主宰していた。「極右」「ファシスト」「レイシスト」「白人至上主義者」「性差別主義者」などなど、さまざまなレッテルが貼られている。

しかし、バノン自身の発言、たとえばバチカンで開かれた小会議にスカイプを通じてゲスト参加したときの発言や「Breitbart.com」の署名記事(共同記事も含めて)を読んでみると、レッテルに貼られているような過激なことを主張しているようには見えない。ただ、「Breitbart.com」のラジオ番組の中では過激な発言をしていたようでもあるし、彼が制作した「Generation Zero」というドキュメンタリー映画を見ると、確信犯的な強い思い込みがあるようだなあと感じる。ちなみに「Generaiton Zero」は大仰な雰囲気が全編に充満していて、最後まで見続けるのはなかなか骨が折れる。かなり偏った考えを持っているのだということはひしひしと伝わってくる。だが、それを先にあげたようなレッテルでまとめられるかというと、それは違うのではないか。

バノンに対する「極右」「ファシスト」「レイシスト」といったレッテル貼りは、彼が主宰していた「Breitbart.com」がalt-right(実態はかなり異なるのだが、アメリカ版「ネトウヨ」と乱暴に説明しておく)のたまり場となっており、過激な記事や発言が集積していることが原因となっているのだろう。

では、バノン自身の思想はどこにあるのか。ひと言で言えば、反エスタブリッシュメント。民主党・共和党の既成政党のどちらであるかに関係なく、ワシントンの支配層(ウォールストリートと結びつき、主流マスメディアを広報機関にしている)を攻撃し、「忘れられた人びと(白人の中産階級、労働者階級)」を主役にしようという考えだ。バノンは、エスタブリッシュメント側の資本主義を「crony capitalism」(「仲間内資本主義」とでも訳すのか)と呼ぶ。「state-controlled capitalism」(政府に管理された資本主義)と言い換えたりもする。端的な例として、2008年のリーマンショックのときに金融機関を公的資金(つまりは税金)で救済したことをバノンは挙げる。

ここから草の根運動の「ティーパーティー運動」への支持が出てくるのだろう。バチカンの小会議での発言中にも「a global tea party movement」という語句で、ヨーロッパのUKIP(イギリス独立党)やNational Front(フランスの国民戦線)その他の「中道右派」への共感が示されている。バノン自身が述べる「a global tea party movement」の簡潔な定義は、次のようなものである。

… a center-right populist movement of really the middle class, the working men and women in the world who are just tired of being dictated to by what we call the party of Davos.

まさしく大衆主義への共感ということなのだが、バノンが自身も含めてこのような勢力を「中道右派」と捉えているのは興味深い。バノンに対するのと同様、主流メディアではUKIPもNational Frontも「極右」というレッテルが貼られている。

バチカンの小会議でのバノンの発言と質議の全文は(こちら :英文)

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2017年4月 6日 (木)

春眠ぼけの頭でぼんやりと

新年度が始まっているが、ヒマである。昨日あたりから気温も急に上がり、うららかな春日という感じの一日だ。あまりにヒマなので、余計なことをぼんやりと考える。ぼんやりとだから結論も何もない。浮かんでは消える泡のようなものだ。

まずは2020年の大学入試改革から。センター試験が廃止され、代わりに実施される大学入学希望者学力評価テスト(いわゆる学力評価テスト)について、文科省の有識者会議の最終報告が出てから一年ほどになる。旺文社の教育情報センター(こちら)に紹介されている内容にざっと目を通すと、「知識・技能」だけでなく「思考力・表現力」を問う形の試験になるという。「記述式」も導入されるとある。

先日DMで送られてきたある塾情報誌の座談会でも、この大学入試改革に合わせて中学入試・高校入試が質的に変化していくということが話題として取り上げられていた。その座談会の中で、ある発言者が「こうした改革は、学力上位層の引き出しを考えているのではないか。」と見解を述べ、別の発言者が「下の学力層の生徒は、思考力・表現力と言われてもそれに対応できるような力が身についていないわけで、そのレベルには知識・技能の習得で手一杯の現状がある。」ということを補足していた。

つまり、二極分化しつつあるのではないかという現状がいっそう進行するだろうということだ。高校入試の開示請求の結果などを見ても思うのだが、学力検査で350点以上取る生徒と200点以下の生徒のどちらかしか来ておらず、かつてボリュームゾーンだった中間層がいなくなってしまった。「思考力・表現力」を伸ばすことを目標に置く生徒がいる一方で、それに取り組む前にまずは「知識・技能」をなんとかしなければならない生徒がもう一方にいる。

文科省が「地域貢献型」「特定分野の教育研究型」「世界水準の教育研究型」の三類型に国立大学を分けて運営費交付金を配分するとしたことが以前話題になったが、これも同じような流れの上にある話かと思ってしまう。

学力差があるのは現実だし、それをないものとするのは欺瞞だと思うが、制度設計からこぼれてしまう学力下位層の生徒に対してはどう手当していくのか。世界水準で海外の大学と対抗できる研究成果をあげられるような大学を日本にも作る。それはそれで結構なことだ。そのための選抜基準や要求される学生像のハードルが上がるのは、ある意味当然のことだろう。しかし、その対極にいる生徒にどのような力をつけさせるのか。下位層の生徒にも「思考力・表現力」や「主体的に協働して学ぶ力」を要求するのか。

「知識・技能」の習得の時点で問題を抱えている生徒をどうするのか。現状のように学年が上がるにつれてこぼれ落ちる人数が増えるようなシステムをどう変えていくのだろう。アクティブラーニングや情報端末の活用で、基本的な「知識・技能」の習得が大幅に改善されると見込んでいるのだろうか。学校の現場で実際に生徒に向き合っている先生方のさまざまな教育実践の蓄積はどうなっているのだ。まさか、それがアクティブラーニングと情報端末の活用ですということでもあるまい。多様な指導法の可能性があるはずで、アクティブラーニングや情報端末の活用もその可能性の一つでしかないと思うのだが、そういう考え方はもう時代遅れなのか。

 

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