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2016年11月 9日 (水)

風の電話

午後11時に帰宅し、遅い夕食を食べた後、ごろりと横になったらそのまま眠ってしまった。今年は早めにこたつを出しているので、ついつい気持よく眠ってしまう。午前2時をだいぶ過ぎたころ、つけっぱなしのテレビから誰かの話し声が聞こえてきて目が覚めた。ぼんやりした頭で画面に目を向けると、電話ボックスで誰かが話をしている。何の番組だろう。電話ボックスを出た男性の話が続く。静かなナレーションがそれに続く。

震災で家族を亡くした人がその電話ボックスから電話をかけているのだと、だんだん分かってきた。公園のようにも見える敷地の中に、緑色の屋根がついた白い電話ボックスがあり、そこに黒電話が置かれている。画面には別の人がボックスに入った様子が映し出されている。年配の女性だ。震災で無くなった夫に向けて受話器を取るのだが、ひと言も話すことなく受話器を置いた。

電話ボックスがあるのは、岩手県大槌町。東日本大震災で甚大な津波被害を受けた町だ。電話ボックスは私設で、おそらくボックスがあるところも私有地なのだろう。後から後から人びとがこの電話ボックスを訪れる。どこにも繋がっていない黒電話に向かって、人びとは抑えてきた思いを吐き出していく。

NHKスペシャルの再放送なのだと理解したころには、すっかり目が覚めた。あれからもう五年以上になる。けれども、身近な誰かを失った人びとにとっては、「まだ五年」でしかないのだということが沁みてきた。哀しみは時が解決するという。それは違うのではないか。いくら時が経っても哀しみが消えてしまうことはない。大事な誰かを失った人にとって、時間はそこで止まってしまうのだ。十年経とうが二十年過ぎようが、「思い」はいつもそこに戻る。決して癒されなどしない。ちょっとしたことで薄皮のようなカサブタがはがれ、耐えられない痛みがやってくる。

誰かに向かってその「思い」を吐き出せば、少しずつ生々しい痛みは薄れていく。消えてしまうことはないけれど、漂白された白骨のように、あるいは風雨にさらされた枯れ木のように、哀しみの核だけが結晶のように残っていく。けれども、外に向かって吐き出されることのなかった思いは、生々しい哀しみを内側に溜め込んだままとどまり続ける。

なぜ他の誰かではなくて自分がこのような目に合わなければならないのか。人が生きていくことは、理不尽な災害や災難に見舞われることと隣り合わせだ。なぜ自分なのかということに折りあいをつけていくことは、なかなか大変なことだ。合理的な説明などつけようがないのだから、どこかで断念するか飛躍するしかない。その断念や飛躍は、「思い」が外に吐き出された後にしか訪れないのではないか。

うまくまとめることができないが、そんなことを考えてしまう番組だった。

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