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2016年11月

2016年11月30日 (水)

久方ぶりの近代史ネタ

七月下旬から新しい学びに手を出し、近代史の学び直しは中断したままになっている。ときどき思い出したように、以前手に取った松本健一や橋川文三の本をパラパラとめくってみたりするほかは、中公文庫の『日本の歴史』を日課のように数ページ読んでいるだけだ。それでも関心のあることがらというのは妙なもので、忘れてしまっているわけではない。折に触れて一気に核心に迫るような興味を呼び起こすことがある。

『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』を読んでいる時もそうだった。かつて存在した、日本の企業の家族主義の淵源が明治末期にあるということを知って仰天してしまった。大雑把な話になるが、日清・日露の戦争を経て日本は資本主義を確立していく。その過程で商品経済の浸透とともに農村共同体が動揺し始める。石川啄木が書いた「時代閉塞の現状」にも、日露戦争後の帝国主義化していく日本の社会に対する個人の不安が反映されていた。それまでの共同体から切り離された個人が、何を拠り所にすればよいのか分からない状態で放り出されている。そういう意識が社会の各層に蔓延していたと思われる。

そこにあるものは『日本の歴史22』によれば、「「臥薪嘗胆」のキャッチフレーズも「富国強兵」のスローガンも雲散霧消し、国民生活を支える国家主義的な価値の秩序が崩壊したとき、日本国民は全体として虚脱状態に陥った。」という、一種のアノミーなのであろう。明治維新の大目標であった「富国強兵」が日露戦争後に達成されてしまうと、もはや何を目指してよいのか明確な目標が無くなってしまった。そうした政治・社会の危機的状況を詔勅の煥発によって乗り切ろうしたのが「戊申詔書」だったが、上下一致や勤倹の教訓だけでは崩れ去ろうとするビジョンを支え切ることはできなかった。

こうして共同体から切り離された個人がぶつかったものが、一つは軍隊であり、もう一つは工場であった。

軍隊では不満や反抗が増大し、集団で脱営するという出来事が頻発する。また、除隊後の兵士が郷里に戻り「兵隊帰り」と呼ばれる粗野な存在として嫌われ者になるなどして、徴兵忌避の一因ともなっていた。

こういった状況を変えるため、田中義一は軍隊の在り方について新しい設計をした。『日本の歴史22』には以下のように述べられている。

軍隊の在り方について新しい設計をしたのは、日露戦争中、参謀として児玉総参謀長を助け、その将来を注目されていた田中義一である。かれは戦後第一師団に配属されると、そこで「良兵即良民」をモットーとし、軍隊教育の改善に着手した。かれの改革は「兵営生活の家庭化」と呼ばれ、「中隊長は厳父であり、中隊下士は慈母である。而して内務班に於ける上等兵は兄であるというように、中隊内の雰囲気を家庭的温情味のあるようにしなければ、真の軍の軍規は涵養できない」という基本方針の上にたっていた。
(『日本の歴史22 大日本帝国の試煉』中公文庫 347頁)

つまり下士の横暴に対する軍隊内の不満を解決し、同時に上官としての威厳を保たせ命令に服従させるための方策として、「親の恩情にこたえて子供が誠心誠意に仕える温情的家族主義」を軍隊に導入したというのである。

その結果はどうだったのか。同じ『日本の歴史22』を引用すると

こうして家族主義は、個人の自覚の目覚めにつれて動揺し、崩壊しようとするとき、愛情を軸として一転回することによって、個人の目覚めを家族共同体のなかに吸収し、家族主義を再編成することに成功したのである。  (同上 348頁)

同様の家族主義は雇用の場へも浸透してくのだが、長くなったので次回に。

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2016年11月16日 (水)

叔父の葬儀が続く

13日の日曜日に盛岡で叔父の葬儀があり出席してきた。父親の兄弟で一番末の叔父で、まだ八十前だった。今年は6月に父のすぐ下の弟にあたる叔父の葬儀があったばかりなので、葬儀が続いているという感じがする。

父親は男四人女二人の兄弟姉妹で、長男は二十年近く前に亡くなり、次女もだいぶ前になくなっている。今年叔父たちが亡くなったので、元気なのはうちの父親と大阪の叔母だけとなってしまった。

盛岡の叔父は、若い頃から豪放磊落な人で、細かいことにはこだわらない人だった。車と釣りが好きだった。私が中学生のころ、叔父がスポーツタイプのクーペに乗って遊びに来たことがあった。花巻の本屋さんまで乗せてもらい本を買いに行ったことがあったのだが、助手席のドアロックに不具合があり、ロックすると解除にならない状態だった。修理していないまま、叔父も私にそれを伝えるのを忘れていて、降りるときにうっかり助手席をロックしてしまった。叔父はあわてて「しまった!」という顔になったが、「まあ、そういうことだから、運転席側から降りてくれ」と運転席側のドアを開けた。それから知り合いの修理工場にすぐ車を持って行った記憶がある。

叔父のこういう大雑把なところが、私には救いだった。叔父といると気詰まりな感じがなく、なんだか妙に楽に呼吸ができるような気がしたものだった。

遺影の叔父は少し若いころの姿だった。叔父がいなくなってしまった実感はいっこうに湧いてこない。「よお、元気でやってるか」という大きな声が聞こえてきそうな気さえする。

葬儀の途中から雨となり、親族がまた一人いなくなるのだなというしみじみとした思いにとらわれた。その一方で、従弟妹たちの息子たちが元気に動き回っていて、こうして世代が変わっていくわけだと妙に納得してしまった日でもあった。

ちなみに葬儀と法要が行なわれたのは、天昌寺というお寺だった。かつて安倍氏の厨川柵があったと考えられている場所である。訪れるのは初めてだったが、こういう形で来ることになるとは思ってもみなかった。

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2016年11月 9日 (水)

風の電話

午後11時に帰宅し、遅い夕食を食べた後、ごろりと横になったらそのまま眠ってしまった。今年は早めにこたつを出しているので、ついつい気持よく眠ってしまう。午前2時をだいぶ過ぎたころ、つけっぱなしのテレビから誰かの話し声が聞こえてきて目が覚めた。ぼんやりした頭で画面に目を向けると、電話ボックスで誰かが話をしている。何の番組だろう。電話ボックスを出た男性の話が続く。静かなナレーションがそれに続く。

震災で家族を亡くした人がその電話ボックスから電話をかけているのだと、だんだん分かってきた。公園のようにも見える敷地の中に、緑色の屋根がついた白い電話ボックスがあり、そこに黒電話が置かれている。画面には別の人がボックスに入った様子が映し出されている。年配の女性だ。震災で無くなった夫に向けて受話器を取るのだが、ひと言も話すことなく受話器を置いた。

電話ボックスがあるのは、岩手県大槌町。東日本大震災で甚大な津波被害を受けた町だ。電話ボックスは私設で、おそらくボックスがあるところも私有地なのだろう。後から後から人びとがこの電話ボックスを訪れる。どこにも繋がっていない黒電話に向かって、人びとは抑えてきた思いを吐き出していく。

NHKスペシャルの再放送なのだと理解したころには、すっかり目が覚めた。あれからもう五年以上になる。けれども、身近な誰かを失った人びとにとっては、「まだ五年」でしかないのだということが沁みてきた。哀しみは時が解決するという。それは違うのではないか。いくら時が経っても哀しみが消えてしまうことはない。大事な誰かを失った人にとって、時間はそこで止まってしまうのだ。十年経とうが二十年過ぎようが、「思い」はいつもそこに戻る。決して癒されなどしない。ちょっとしたことで薄皮のようなカサブタがはがれ、耐えられない痛みがやってくる。

誰かに向かってその「思い」を吐き出せば、少しずつ生々しい痛みは薄れていく。消えてしまうことはないけれど、漂白された白骨のように、あるいは風雨にさらされた枯れ木のように、哀しみの核だけが結晶のように残っていく。けれども、外に向かって吐き出されることのなかった思いは、生々しい哀しみを内側に溜め込んだままとどまり続ける。

なぜ他の誰かではなくて自分がこのような目に合わなければならないのか。人が生きていくことは、理不尽な災害や災難に見舞われることと隣り合わせだ。なぜ自分なのかということに折りあいをつけていくことは、なかなか大変なことだ。合理的な説明などつけようがないのだから、どこかで断念するか飛躍するしかない。その断念や飛躍は、「思い」が外に吐き出された後にしか訪れないのではないか。

うまくまとめることができないが、そんなことを考えてしまう番組だった。

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