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2016年10月18日 (火)

もの思う秋・その5

なぜ勉強しなければならないのか。中学生にとって最も根源的な疑問だろうと思う。たとえばこれが高校生であれば、大学受験や就職試験やらの間近に差し迫る試験が、具体的な必要性を感じさせる。しかし、岩手県の、盛岡以外の地域の場合、高校受験の倍率は軒並み1.0倍を切っている。高校受験があるからという動機付けは、ほとんど意味をなさない。

ある意味でこれは幸いなことであるとも思う。なぜ学ぶのか、という根源的な問いに向き合う機会を持つことができるかもしれないからだ。高校受験のためという理由づけは、きわめて分かりやすい。分かりやすいだけに底が浅い。あまりいい例ではないかもしれないが、かつて覚醒剤撲滅キャンペーンのスローガンに「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」というものがあった。かなり強烈なひと言だと思ったので、いまだに忘れずにいる。このスローガンが世に広まると、「じゃあ、人間やめれば覚醒剤やってもいいってことか?」という軽い反発も起きた。これと同じで、「高校受験がなければ中学生は勉強しなくてもいいのか?」という話になってしまう。

高校受験は、あくまで勉強する理由の一つでしかない。つまり方便である。学ぶことの根源的な理由ではない。

では、勉強することの根源的な理由は何か。中学生の中には、勉強することが学校に入っている間のものだと思っている人がいるかもしれない。学校を出て社会に入ってしまえば、もう勉強なんかしなくていもいい。そう考えているかもしれない。しかし、社会人になってから全く勉強しなくてもいいということは、まれな場合に属するのではないか。教科書を暗記したりすることはなくても、必ずしも試験があるとは限らないにしても、社会人になってから全く勉強をせずに済ませることができるほど世の中お気楽にはできていない。

仕事上で必要な資格試験を受けなければならない機会もあるだろう。試験がなくても社内研修でさまざまな業務のマニュアルを理解し覚えなければならないことだってある。何より、文書化されていなくても現場で実地に体験的に仕事を学んで覚えていかなければ、社会人としては一人前に扱ってもらえない。

仕事ばかりではない、家庭に入っても、地域のコミュニティ活動の中でも、新しく学ぶことは多い。学校の教科書で扱っていた、答えの出る、分かりやすい問題ばかりならよいけれど、現実に直面する問題は簡単に答えが出ない、正解かどうかすら分からないものがある。

つまり、人は日々学んでいる存在なのだ。学ぶことを抜きにして生きることは考えられない。だから、なぜ学ばなければならないのかという問いに対する根源的な答えは、より良く生きるためだということになるのではないか。大学まで進んでもたかだか学校で学ぶ期間は十六年。平均寿命まで生きるとして、のこり七十年近くをどうやって生きていくのか。そちらのほうがより重要だろう。いわゆる「いい学校」に入ったり「いい仕事」に就いても、必ずしもそれが幸福をもたらすとは限らない。

幾つになっても新しいものごとを学ぶことは、ワクワクする経験である。それをワクワクする経験だと捉えないから、面倒だ、苦痛だと感じてしまう。確かに、学ぶこと勉強することは楽しいことばかりではない。勉強する意欲が萎えてしまうときもある。それでも、少しずつ自分が成長していることを感じると、それは喜びにつながる。変わらないと思っていた自分が、学ぶことによって変わることができるのだという実感は、他の何ものにも代えがたい充実感を味わわせてくれる。

日々学ぶ。これに尽きる。

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