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2016年7月

2016年7月26日 (火)

途上にて

ある年齢に達して、それなりに経験も積み、ものごとのおおよそは分かっているような顔で毎日を送る。長く生きてくると、自ら学ぼうとしなくても、おのずと身についてしまうことは多い。良きにつけ悪しきにつけではあるが。すると、もう学ぶことが無くなったように錯覚する。しかし、それはやはり錯覚以上のものではなく、いくつになろうが学ぶことは尽きない。

おそらく、学ぶことが何も無くなったなと思った時点で、人の成長は止まってしまうのだろう。ここが上がりだと思えば、もうそれ以上は苦労して何かを身につけようなどとしなくなる。人は易きに流れる。上がりだと思った地点から先は下り坂しかない。つまり、レベルがどんどん下がっていくだけだ。

幾つになろうが学ぶことは必要だ。もっとピアノが上手くなると思うからという理由でビッグバンドを解散し、ピアノの練習に専念することにした秋吉敏子は七十歳を越えていた。同じくジャズピアニストのハンク・ジョーンズは九十歳になっても毎日4時間以上の練習を欠かさなかったという。

七十になろうが九十になろうが、成長できると思えば学びはある。だから、学校に入っている生徒や学生だけが学ぶのではないということだ。幾つになって何をしていようと、学ぼうと思う気持ちがあれば、人は成長していける。何のために学ぶのか。テストのためだったり、資格のためだったり、具体的な短期的な目的を達成するために学ぶ人が大半であるのかもしれない。しかし、あらゆる学びの根底にあるのは、成長したいからという思いなのではないか。

今ある自分から、こうなりたい自分へと踏み出していく。少しでもそこに近づいているという実感が持てれば、成長しているのだと感じることができる。変わらないと思っていたものが、変えられるのだという感触は大事だ。いささか自己啓発もどきではあるが、学びの根底にある成長への志向は無視できない要素だ。

いつまで学び続けるのだろう、とふと思う時がある。けれども、これで終わりということがないのだから、自分が生を終えるまでということになるのだろう。変わろうとする意志を持ち続け、ただただ歩き続ける。まだその途上にある。

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2016年7月25日 (月)

7月22日の亀裂

先週の金曜日、ポケモンGOの日本版配信が始まった。その日の報道はポケモンGO一色と言ってもよいお祭り騒ぎだった。官房長官が定例会見で安全を呼びかけたということも報じられた。国民の生活に関係することだから、官房長官が記者会見でゲームの利用のしかたに注意を喚起しても不思議ではないかもしれない。

同じ日の沖縄県、高江のヘリパッド(米軍のヘリコプター発着場)建設予定地では、入り口に反対派の置いていた二台の車を、約500人の機動隊員が強制排除した。フリーランスのジャーナリストがその様子を詳細に伝えている(こちらこちら )。これを「暴力的」な排除と呼ばずして何と言うのだろう。

しかし、この沖縄の高江の強制排除の模様は、マスコミでは大きく取り上げられらなかった。ポケモンGOの日本版配信が、強制排除の日と重なったのは偶然かもしれない。あるいは意図的な誰かの演出だったのかもしれない。それは分からないことだから、あれこれ詮索しても始まらない。ただ、この22日の社会のあり方は、そこに大きな亀裂があることを私たちの目の前に示している。

スマホを使った位置ゲームに過ぎないじゃないかといえばそれまでだが、リアルな現実空間の中でゲームを展開していくことが面白いだろうということは理解できる。歩きスマホや不法侵入や危ない場所への立ち入りなど、懸念されていることがらもあるけれど、没入する人が増えてくるのも分からないわけではない。しかしそれでも、それは所詮「ゲーム」でしかない。

一方の沖縄の高江の出来事は、現実に人がこづかれたり蹴られたりして、「権力」の行使のされ方が目に見える形になったものだ。沖縄の人びとの意思より、米軍との関係を重視する(安全保障条約をもとにした対米従属がある以上、他の選択肢はないと思われているからだろうが)現政権の立っている所を明瞭に示したものである。

この同じ日の二つの出来事が、一方はお祭り騒ぎの浮かれ樣で報じられ、一方は片隅にちょっと触れられただけ。バランスが悪すぎる。ポケモンGOにハマっている人には、沖縄の高江のヘリパッド問題は見えないのだろうし、ハマっていない人でも、報じられなければ高江のことを知らないまま「ポケモンGOってゲームが流行ってるんだってねえ」ということで終わりだろう。

いっそのこと、沖縄の高江のヘリパッド建設予定地にレアなモンスターが出没するということにしたらどうだろう。不法侵入するゲーマーが後をたたず、連日強制的に排除されるというニュースが飛び交うようにでもなれば、少しは人びとの目が高江に向くかもしれない。

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2016年7月22日 (金)

忘れてしまってはいけないこと

東日本大震災からすでに五年以上経過した。福島第一原発の事故からも同じ年月が流れたということになる。もう今では、福島第一原発がどういう状態にあるのか誰も気にとめていないように見える。毎日汚染水が大量に太平洋に流れ込んでいるが、それが日常化してしまうと報じる価値がないと思われるからか、取り上げられることはごくまれだ。

原発震災が起きたとき、この社会が変わるかもしれないと淡い期待を抱いたのは、マスメディアや政府・東電の情報提示の仕方に疑問の声をあげる人が多かったからだ。私たちが信じこまされてきたことは、間違いだったのではないか。「安全神話」に疑問を持たず、事故が起きることはないだろうと根拠のない確信を持っていただけではないのか。つまり、見たいと思う像しか浮かべておらず、そうでない場合のことを考えたくなかっただけではないのかと自省する人が多かったということでもある。

だが、ものごとの新鮮さはすぐに褪せていく。慣れてしまうと刺激は刺激にならない。目に見えない放射能に恐怖しても、見えないのだから実感を伴わない。半減期が数十年にわたる核種があることを知識として知ってはいても、今もその辺にあるはずの放射性物質を恐れている人は、福島以外には少ないのではないか。

複数の原発が炉心溶融を起こし、汚染水が五年以上も海に垂れ流しになっているという、これまで世界のどこでも起きたことがなかった事故が継続している。「収束」したとか「アンダーコントロール」だとか、一体何を根拠に言っているのだろう。放射能に汚染された水が、毎日、五年以上も海に放出され続けている状態が「収束」した状態なのか。傷口から出血し続けていますが、生命に別条はないので大丈夫です、と言っているようなものではないか。傷口からの出血ならいずれ止まるかもしれないが、汚染水の放出がいつ止まるのかは分からない。

にもかかわらず、避難区域が解除され、人びとが戻されようとしている。年間20mSvまでは安全ですということにして。本当にそうなのだろうか。戻った人びとから健康被害が報告されても、「想定外でした」と片付けてしまうのだろうか。それとも健康被害などありませんよ、放射能とは無関係ですよと無視してしまうのだろうか。

原発事故後の影響がどのようなものか、参照点は先行する唯一の事例であるチェルノブイリしかない。事故の起き方は全く異なるが、放射能の影響が長い年月の間どのように現れたのか、参考にできるところは多いはずだ。『チェルノブイリ事故から25年:将来へ向けた安全性 2011年ウクライナ国家報告』 という報告書が、京大原子炉実験所の今中哲二氏監修の日本語訳で読める。

誰もが福島の原発事故のことを忘れてしまったような今、チェルノブイリの事故から四半世紀の歴史を振り返り、忘れてはいけないことがあるのだという思いを新たにしたい。

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2016年7月20日 (水)

夏が来たのか

今日は7月20日。高校野球の県大会が連日続いていて、昨日も延長戦まで応援して熱中症気味になったので休みますという高校生からの連絡があった。確かに、日なたに駐車すると車の中に熱気がこもるようになった。

それでも、まだ真夏日ではない。天気予報だと今日の最高気温は26度だという。風が抜けていくと爽やかな涼しさだ。7月の下旬って、こんなものだったか。いつもはもう少し暑かったような気もするが、単なる記憶違いか。

関東や西日本では、30度以上の真夏日だったり猛暑日だったりするところもあるとニュースで見ると、大変だろうなと思う。こういうときは北日本に住んでいてよかったと感じるが、冬になればそれが逆転するわけで、一年を通していいというところはなかなかないのかもしれない。

この間眺めていた旧満州の写真集に添えられていた文章に、満州は零下二十度とか三十度になるが雪はあまり降らず、大気中の水分が氷着して樹氷が美しかったとあった。また夏は夏で三十度から四十度ぐらいまで気温が上がるが、湿度が極度に低いので暑さはそれほど感じないという記述もあった。大陸特有の気候風土ということなのだろう。

それからすると湿度が高い日本は、気温がそれほど上がらなくても暑いと感じる。蒸し暑いからだ。乾いた大陸性の季候の土地に住む人からすれば、こういう湿気の多さは耐え難く感じるのかもしれないなと思ったりする。

いずれ本格的な暑さは、このあたりではまだまだ先の話だ。できれば、あまり暑くならないほうがありがたい。

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2016年7月19日 (火)

地に足のついた

小林薫が小さな一膳飯屋(というか食堂兼呑み屋)のオヤジを演ずる『深夜食堂』を観た。「ナポリタン」「とろろごはん」「カレーライス」という三話が連続したオムニバス形式だが、ゆるやかにつながっていく展開でおもしろかった。

深夜から早朝まであけるカウンターだけの古びた小さな店だが、しっかりと常連客がついている。そういえば、日経BPオンラインの柳瀬さんがTBSラジオの「文科系トークラジオ・ライフ」に出たとき、今またスナックが来てるんですよという話をしていた。和民やマクドナルドといった広告に支えられたビジネスが不振になる一方で、昔ながらのスナックが元気だと柳瀬さんは言っていたが、この『深夜食堂』を観ていてなんとなく納得した。

常連客はどこにでもいそうな人びとだ。サラリーマンやOLがいるかと思えば、ストリップ嬢やオカマのおじさん、地回りの与太者、旦那に急に死なれてしまったお妾さんなどなど。裏路地の小さな店ののれんをくぐれば、顔を合わせそうな連中ばかりだ。みんながそれぞれの生活を抱えている。そして、小林薫演じるオヤジの作る美味しいご飯を食べに、酒の肴を楽しみにこの店に集まってくる。

とりたててドラマチックな展開があるわけではない。一つひとつのエピソードは、その辺にいくらでもありそうな話だ。しかし、そのどこにでもありそうな小さな話を丁寧に作品化されると、この『深夜食堂』で出される一品料理みたいに、格別の味わいをもつものに仕上がる。こういう映画を観ると、ちゃんと生きなきゃなと思う。地に足のついた生活を送っていかないといけないよなとつくづく思う。ちゃんと真っ当に生きて、ふとすれ違った人びととつながりを持って、毎日ちゃんと食べていくことって、当たり前だけど一番大事なことなんだと思う。

この映画ではひと言も触れられていなかったが、オヤジの小林薫の顔には、左側を縦に切られた刃物傷があった。いろいろあったんだろうなと、この小さな店のオヤジの過去をあれこれと想像させる風貌になっていた。それから派出所のお巡りさんを演じていたオダギリジョーがよかった。この人はこういう演技もできるんだ、と感心してしまった。

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2016年7月15日 (金)

中休み

枕草子の心状語について、続きをまとめなければいけないのだが、否定的な心状を表す語が待ち受けているので気が重い。そこでズルズルと怠けている。教室のほうも期末試験が終わり夏期講習が始まるまでの中休みのような状態で、今ひとつ気力がわかない。

こういうときは、無理に力んでも大して成果はあがらないので、目先を変えて読書にいそしんでいる。年がら年中読書にいそしんでいるということは、一年を通して中休みの状態という笑えない状況にあるということだ。でもねぇ、ジタバタしても始まらないときは、本でも読むより仕方がないのですよ、実際。

ということで、目下読みかけているものは、『平妖伝』という中国の古典小説。ずいぶん昔に紹介したことがあるので、繰り返しは避けたいが、子どもの頃に暗記するくらい繰り返し読んだ『怪妖伝』の原典である。『怪妖伝』は、子ども向けに簡略にリライトされ、教育上よろしくない部分は大幅にカットされているけれど、原典の『平妖伝』は、R15にはなりそうなくらいの場面が目白押しだ。

ストーリーは単純といえば単純である。天界の秘術が下界に漏れ、それがもとで天下が乱れ、最後は妖術合戦になり、野望を抱いた側が敗れるというだけのある種勧善懲悪的な話である。しかし、中国の古典小説、たとえば『水滸伝』などにも見られるように、登場人物がやたらに多く、主たる筋とは別に各人物の脇筋の話が挿し込まれるので、脱線につぐ脱線で話はゆるゆるとしか進まない。四十回に分けれれた話は、続き物の講談のようなもので、「果たしていかなることになりますやら、次回をお楽しみに」という調子で先への期待を持たせる。そういう語りの上手さみたいなものが全編を通して感じられる。おそらく、この原典は講談のような語り物として始まったのではないかと記憶しているが、どうだったか。

数年前に佐藤春夫が訳した文庫版の『北宋三遂平妖伝』を読んだことがあったが、今回読んでいるものは中国古典大系版で別の人が訳した『平妖伝』である。スタイルとしては『水滸伝』式の、各段の冒頭に絶句かと思われる四行詩が置かれ、その章段の内容を簡略にまとめているというもの。四十回ある章段の四分の一を読んだばかりだから、佳境はまだまだこれからである。

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2016年7月13日 (水)

のど元すぎれば

参院選の結果が出てしまうと、とたんにマスコミの話題は都知事選へと移っている。マスコミは最新の話題と情報にはとびつくが、すでに大勢の決まってしまったものは新たな動きが出てこない限り取り上げない。

一方、研究者や学問の世界は、一定の時間が経過してカラカラに干からびてからでないと取り上げない。学問的な対象になるものは、事実関係が固定し評価を下せるようになったものだけだからだ。切れば血が出るような生々しいものは、その対象として不適切だとされる。

その中間を担う調査報道を主とするジャーナリストが、日本では少なすぎるのではないか。あるいは、存在していても仕事がしにくい、ということなのか。海外に目を向けると、アメリカでもどこでも、単独あるいは少人数で深いところまで取材している調査報道専門のジャーナリストが存在している。企業ジャーナリズムではなくフリーランスのジャーナリストがもっと評価されるような環境になれば別だろうが、日本ではなかなか難しいようだ。

そういった状況が何をもたらすかと言えば、大手マスコミによる「情報操作」である。おそらく大手マスコミには「情報操作」をしているという意識はないのかもしれない。しかし、常に新しい話題にとびつき、反響があればさらに煽り、どうでもいいような話題をことさら大きく取り上げることは、結果的により重大な問題から人びとの目をそらすことになる。意図的ではなくても、これを「情報操作」と呼ばず何と呼ぶのだろう。

参院選後の最重要事項は、現政権がいつ憲法改正に着手し、その改憲案がどのようなものになるかということであるはずだが、現時点の話題の中心は都知事選である。都知事選が関心事となるのは東京都民にとってであり、それ以外の道府県に住む人間には直接関わりがない。しかし、都知事選の結果はオリンピックに大きく影響する。それに連なる建設利権や広告利権、放送利権などを考えれば、政界、財界、マスコミ業界にとっては最も注目すべき話題である。

ということで都知事選が終わるまでは、しばらくの間それ一色になるのだろう。しかし、大手マスコミが取り上げないからといって問題がなくなってしまったわけではない。大手マスコミに取り上げられない問題にこそ、我々の暮らしに直結した重要なものがいくつもある。お祭り騒ぎに乗せられてしまわないように、のど元過ぎても熱さを忘れずにいたい。

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2016年7月12日 (火)

「無風選挙」と言うけれど

すでに結果が出てしまった後の選挙についてあれこれ言っても、「六日のあやめ、十日の菊」で詮ないことではある。議員は選挙に落ちれば「ただの人」だし、何を言っても愚痴かぼやきにしかならないだろう。しかし、今回の参院選の結果が出るまでの過程を振り返ることは、有権者である我々にとっても意味のないことではない。

大勢が決まってまもないころのある選挙報道で、ある解説者が「今回の参院選は、追い風となる争点がなく『無風選挙』だったと言えるのではないでしょうか」といった趣旨の発言をした。「無風選挙」?それはマスコミが取り上げなかったからではないか。政権与党は、改憲という選挙後の主要関心事にひとことも触れず、公約にも入れなかった。しかし、野党共闘が指摘していたように、選挙で必要な議席を獲得すれば、その後改憲に向けた作業が始まるのは明らかなことではなかったのか。民意は政権与党を支持している、というお決まりのフレーズを振りかざして。

政権与党が何を目指しているのか、参院選が始まる以前から問題点は数々指摘されていた。ただ、それをマスコミが大きく取り上げなかった。野党共闘が、改憲阻止・安保法制廃止を全面に選挙運動をくり広げても、それを争点と意識させる報道はなかった。政権与党が言うように経済と景気に人びとの目を向けさせておくことに、マスコミもひと役買っている。「無風選挙」は、意図的に「無風」にされたのではないか。マスコミが煽れば、逆に野党共闘に「追い風」が吹いたことだろう。

なぜ「追い風」ではなく「無風」か。それがマスコミの状勢判断ということだろう。選挙後に政権からにらまれないポジションを確保する。身も蓋もない話だが、今のマスコミに反骨や権力に拮抗する気概を求めるのは無理だろう。誰しもわが身がかわいい訳だから、保身に走る心理は分からなくもない。しかし、報道が権力に擦り寄ってどうするのだ。明治の昔から、御用記事を書く御用新聞は存在していたが、それは政府批判を果敢にくり広げる在野の新聞社が多かったからだ。

戦う気力のないマスコミが「無風選挙」でしたね、と総括をしても、あいさつに困る代物でしかない。

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2016年7月11日 (月)

投票率が低すぎる…

参院選は事前の予想のとおり、自民・公明におおさか維新などの改憲勢力を合わせると3分の2を越える結果となった。その事についての驚きはない。予想のとおりだったという感想しかないが、それにしても投票率が低すぎる。今朝の新聞では54%と出ていたが、要するに有権者の二人に一人は投票していないということだ。

憲法改正が安倍政権のねらいであるということが報じられても、関心を持たない人は持たないということの結果だろう。そして、投票率がこれだけ低いことをマスコミは大きく取り上げない。改憲勢力が参議院でも3分の2を越えたことしか大々的に報じられない。一人区で野党共闘が善戦したとはいえ、有権者の目を国政に向けて大きく動かすところまで至らなかった。結局、勝てば官軍式のなりゆきで、投票率が低かろうと何であろうと、この政権が続いていくという前提でしか報道がされていない。

これが日本の現状ですよ、と言われれば確かにそうなのだ。二人に一人しか投票に行かない。選挙の結果がどうであろうと自分の暮らしには関係がないと思っている。そして、自分に火の粉が振りかかるようになって初めて「こんな状態に誰がした」と騒ぎ出す。「こんな状態」になる前に、自分たちが選択しなければならなかったのだ。権利を放棄した以上、結果に不満を言ってもはじまらない。

投票率が低い国政選挙をみるたびに、これが日本の民度なのだとがっかりする。が、やむを得ない。お任せして文句だけ言うという一番ラクな位置にいたい人が多い、そういうことなのだろう。自分の問題として引き受けて考えたり、意見を交換したりするのが面倒だから、丸投げしてしまう。そんなにヒドイことにはならないだろうし、それよりも明日のおまんまのほうが大事だ。どうせ、誰がやっても大して変わりないんだし。

これまではそうだったかもしれない。しかし、今回の参院選は歴史的な転回点となるかもしれない。これまで70年以上まがりなりにも行なわれてきた立憲主義的、民主主義的社会が終わることになるきっかけの選挙だった。そのように後世の歴史家が評価するかもしれない。ちょうど、昭和六、七年が軍部を中心とした国家改造へと動き始めた画期だったように、ここから重苦しい時代に突入していくのではないか。

参院選の投票に行かなかった人は、そのことを心底後悔する日がまもなくやってくると思っていたほうがいい。

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2016年7月 9日 (土)

夢野久作について

夢野久作が亡くなったのは二・二六事件から間もない昭和十一年(1936)の三月のことであった。父親の杉山茂丸が前年の七月に亡くなったばかりであり、その一周忌もまだ済んでいなかった。

「九州日報」に勤めて家庭欄に童話を発表しはじめたのが大正十一年(1922)だから、わずか十四年ほどの執筆期間ということになる。その間に探偵小説も含め、数多くの小説を書いた。代表作はやはり『ドグラ・マグラ』とか『犬神博士』ということになるのだろうか。どちらの作品もまだ読んでいない。

以前の記事に書いたことがあるように、「近世快人伝」という玄洋社関連の人びとを取り上げた人物伝が無類におもしろい。父親の杉山茂丸は玄洋社と関わりが深く、その葬儀も玄洋社葬としてとり行われた。「父杉山茂丸を語る」という文章に詳しいが、玄洋社葬をするため九州に向かう東京駅の駅頭に見送りに来た頭山満が、見栄も何も構わずに涙をダクダクと流していたという姿が印象的だ。

この「近世快人伝」には頭山満、杉山茂丸、奈良原到という玄洋社関連の人びととは別に、篠崎仁三郎という博多魚市場の湊屋の大将が取り上げられている。以前に文春学藝ライブラリーで読んだときには走り読みだったので、もしかすると飛ばしていたかもしれないのだが、この篠崎仁三郎の人物伝が破天荒でおもしろい。

なんと言えばよいのか。教育上は決してよろしくないのだろうが、ちょうど落語に出てくる無茶苦茶なお兄ぃさんとでも言うか、ビートたけしみたいと言ったらいいか。とにかく呑む・打つ・買うの三拍子揃ったつわもので、肝のすわった陽気な魚市場の大親分といった貫禄の人だったらしい。小説よりもおもしろおかしくて、少し哀しい生涯である。

この人物伝を収めた『夢野久作全集 7』には、他にも長編童話の「白髪小僧」(これは童話と銘打たれているが大人のためのメルヘンであろう)や、昭和初期のエロ・グロ・ナンセンスの時代をほうふつとさせる「猟奇歌」という短歌群、能の魅力を分析した「能とは何か」などといった文章が収録されている。

「猟奇歌」の短歌群に目を通してみると、後の寺山修司の世界に通じるような妖しい光を放っている。猟奇的な題材の短歌だらけなのだが、三十一音に凝縮されていて余白が大きく、こちらの想像力を刺激して、そこに描かれていない広い情景へと誘われる。

長編童話の「白髪小僧」は、おそらく作品としては失敗した部類に入るのだろう。構成が入り組みすぎて、ストーリーの展開に読者がついていけない。そういうアラはあるのだが、これまた不思議な魅力を持つ作品だ。筒井康隆の小説にも通じるような、時間・空間・意識の自由な飛躍が描かれていて、子ども向けの童話としては確かに無理があるのかもしれない。が、しかし、夢の中の不可思議な時間の流れ方や空間の歪み方と同じような味わいを残す。後の『ドグラ・マグラ』の出現を予感させるような作品だと裏表紙に出ているが、確かにそうなのかもしれない。

いずれ『ドグラ・マグラ』や『犬神博士』を読んでみようかと思っているのだが、八十年以上も昔の人とは思われないくらい、現代に通じる新しさがある。

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2016年7月 7日 (木)

帰ってくるところ

朝のNHKドラマで、ヒロインが独立して出版社を起こそうと退職願を出す場面を観ていたら、思いがけないひと言が耳に残ってしまった。

勤めている小さな出版社の社長の、「失敗したら、またここに帰ってくればいい」というセリフである。このごろトンと聞いたことがないひと言であり、なんと温かい言葉であることかと思った。敗戦後の混乱期、世の中全体がその日その日を生きていくのに精一杯で、余裕なんてかけらもないように思われた時代でも、そのような寛容さがちゃんとあったのだ。

翻って、これが現代を舞台としたドラマだったらどうなるのだろう。「失敗しても、ここに帰ってくる場所はないよ」とでもなるのではないか。自己責任という言葉が有効であるのは、失敗してもまたやり直せる安全網が完備されている場合のみだと思うのだが、転落したらもうそれでお終い、次はないという社会では、失敗することが怖くて転げ落ちないように必死で今いるところにしがみつくしかない。自己責任という言葉は、本来社会が果たさなければならない安全網整備の責任から逃れるための言い訳にしか響かない。

「また帰ってくればいい」とは、なんとありがたい言葉だろう。こういう寛容さが、かつての社会には確かにあったのだと思う。社会にも個人にも、ちゃんと包摂性があった時代。それがどんどん失われ、気がつくと、はじかれてむき出しのまま世の中の荒波に投げ出された個人が、ぽつんぽつんと波間に見えかくれする。そうしていつの間に海の底へと沈んでしまっても、誰も関心を持たない。いつ自分もそうなるかもしれないと恐れを抱きながら日々を送っているだけだ。

かつてのような包摂性を備えた社会を再びつくるということは、おそらく難しいのだろう。けれども「一億総活躍社会」なんていううそ寒いかけ声ではなく、「またここに帰ってくればいい」と言えるような関係性を少しずつでも作っていくことのほうが大事なんじゃないだろうか。

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2016年7月 6日 (水)

参院選後に待ち受けているもの

参院選投票日まで一週間を切ってしまった。さまざまな予測で、どうやら自民・公明・おおさか維新を合わせると改憲勢力が3分の2を越えるのではないかという。

さて、実際にそうなったらどうなるのか。自民党は改憲を選挙の争点に挙げず、本来の意図を隠したまま参院選に臨んでいる。前回の衆院選のとき、ひとことも公約に掲げていなかったのに、安保法制や秘密保護法を選挙後の国会で通してしまったことを考えれば、何が起きるか見当がつく。

あちこちで指摘されているように、まず緊急事態条項を新しく付け加えるところから始めるのだろう。緊急事態条項とは何か。2012年の自民党改憲草案を見てみよう。こちらのサイトにまとめられた現行憲法との対照表がわかりやすいので、詳細はそちらを見ていただくとして、改憲草案の第九十八条・第九十九条が緊急事態に触れている。

(緊急事態の宣言)
第九十八条 内閣総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃、内乱等による社会秩序の混乱、地震等による大規模な自然災害その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発することができる。
2 緊急事態の宣言は、法律の定めるところにより、事前又は事後に国会の承認を得なければならない。
3 内閣総理大臣は、前項の場合において不承認の議決があったとき、国会が緊急事態の宣言を解除すべき旨を議決したとき、又は事態の推移により当該宣言を継続 する必要がないと認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、当該宣言を速やかに解除しなければならない。また、百日を超えて緊急事態の宣言 を継続しようとするときは、百日を超えるごとに、事前に国会の承認を得なければならない。
4 第二項及び前項後段の国会の承認については、第六十条第二項の規定を準用する。この場合において、同項中「三十日以内」とあるのは、「五日以内」と読み替えるものとする。

(緊急事態の宣言の効果)
第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたときは、法律の定めるところにより、内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支出その他の処分を行い、地方自治体の長に対して必要な指示をすることができる。
2 前項の政令の制定及び処分については、法律の定めるところにより、事後に国会の承認を得なければならない。
3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何人も、法律の定めるところにより、当該宣言に係る事態において国民の生命、身体及び財産を守るために行われる措置に関して発せられる国その他公の機関の指示に従わなければならない。この場合においても、第十四条、第十八条、第十九条、第二十一条その他の基本的人権に関する規定は、最大限に尊重されなければならない。
4 緊急事態の宣言が発せられた場合においては、法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間、衆議院は解散されないものとし、両議院の議員の任期及びその選挙期日の特例を設けることができる。

(自民党改憲草案 2012年版より)

この第九十九条の第1項が問題である。「内閣は法律と同一の効力を有する政令を制定することができる」って、どうみてもこれはナチスドイツの「全権委任法」ではないか。緊急事態を宣言してしまえば、政令一つで何でもできてしまう。国会の承認は「事後」である。

この緊急事態条項の新設を、臨時国会で年内にも議題に取り上げ、あっという間に国会発議という話に持っていくのではないか。初めての国民投票となった場合、果たしてその国民投票が民意を正しく反映するのかどうか。イギリスのEU離脱を巡る国民投票の様子を見ていると、うすら寒い気持ちになってくる。

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2016年7月 4日 (月)

言葉なんかおぼえるんじゃなかった

ずいぶん昔の記事(こちら) に引用したことがあるが、田村隆一の「帰途」という詩の始まりである。「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という嘆きは、一種の反語であり、「日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで/ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる/ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる」という部分こそ、この詩人の覚悟なのだろうなと思われる。

この「帰途」という詩の、あまりの格好良さにくらくらしてしまった人は結構いるのではないだろうか。およそ文学に興味を持ち、自分でも詩や小説を書いてみようかと思うくらいの人なら、田村隆一にしてはいくぶん感傷的な気味はあるものの、この詩に示された詩人の決然たる思いに共感せずにはいられないだろう。

しかし、その一方で「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という嘆きにも、ある共感を覚えるようになった。「日本語とほんのすこしの外国語をおぼえた」ために、知らなければそのほうがよかったかもしれない思いや感情に襲われることがある。文学は人間を幸福にはしない。坂口安吾が言っていたように「健康な人間には毒にしかならないもの」なのかもしれない。

思うに文学へと引き寄せられる人間は、どこか不幸なのだ。そして不健康なのだろう。幸福で健康な人間は、暗い海の底へ沈潜していくような文学などに興味を持たない。そのほうが確かに健全な生涯を送れそうな気はする。枕を高くして眠り、子や孫に恵まれて、心安らかに生涯を送る。日本昔話に出てくる、いいお爺さんとお婆さんみたいな生き方で、それも悪くないなと思う。けれども、そのように生きられないという自覚があるからこそ、文学などというやくざなしろものに引っかかってしまったのではないか。

ドン・デリーロというアメリカの小説家の長い小説を読んだとき、ああ、文学をやる人間はアメリカ人も日本人も関係なく、ろくでもないヤツだよなと納得してしまった。誰でもいい。ドストエフスキーでも村上春樹でも、セリーヌでもいい。はてしなく長い小説をどれか適当に選んで、最後まで読み通してみればよい。そこに描かれている世界が、いかに「ヤバイ」ことか。逆に言えば、「ヤバイ」なあと思わせるような部分を持たない長い小説など誰も興味を持たないだろう。人間という存在のあらゆる側面に光があてられ、私のなかにもあなたのなかにもある「ヤバイ」部分が明るみに出される。それゆえに、ある場合には目をそむけたくなり、ある場合には打ち震えるような深い感動を味わったりもする。

こういう「ヤバイ」ものがないと生きている実感が持てないよなあ、という人間が文学に興味を持つのだと思う。そして、それは万人向けの生き方ではないなとつくづく思う。

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2016年7月 3日 (日)

想像力の不足

日常の雑事に追われていると、そこから遠い政治の話や大局的な話はピンとこなくなる。憲法改正よりも明日のおまんまのほうが重大な問題だ。どの政党が政権を取ろうと、自分たち一般大衆には関係のない話で、それよりももらえる給料の額が上がるのか下がるのかのほうが大事だ。現実的にものを考えたら、そうなのかもしれない。

しかし、実際に憲法が変えられて、基本的人権も国民主権も平和主義もなしということになったらどうだろう。黙ってお上の言うことを聞いていればいいんだ、まちがってもお上に逆らおうなんて不埒なことを考えるんじゃない。そういう世の中になっても、まだ自分たちに関係ないと言い切れるのだろうか。

生活に追われて、その日その日を送るので手一杯だという人が、政治に関心を持てなくなるのは分からなくもない。けれども、生活に追われて大変だからこそ、暮らしに直結している政治へと目を向けることが必要なのだ。消費税の税率にしろ、高校や大学の学費にしろ、労働時間や賃金にしろ、日常のありとあらゆる事は法令により定まっているのであり、法令に基づいて制度が運用されている。その法令を定めているのが政治だ。

だから、政治は自分たちとは縁のない遠い世界の話なのではなく、毎日の暮らしのこまごましたことがら全てに関係のある話なのだ。この法律が成立したらどういうことになるのか、憲法がこのように変えられてしまったらどういう事態が起きるのか、ちょっとだけ想像力を働かせてみることが必要だ。

そうしないと、自分たちの好きなようにしたい人たちが、好き勝手にあれこれ決めてしまうことを止められなくなってしまう。私たち一人ひとりに与えられている「主権者」としての権利とは、そういう人びとに好き勝手にさせないための権利でもある。私たちの望んでいるものとは違うものを行おうとしている人びとに、きちんと「否」をつきつけなければならない。

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2016年7月 2日 (土)

「わびし」「わりなし」

新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用して、「心状語」についてまとめている第十回。前回取り上げた、あきらめの感情を表す「あぢきなし」よりさらに一段進んだ陰性の語が「わびし」である。それに関連して「わりなし」を取り上げる。

辞書の定義から見ていくと

「わびし」…心細く寂しい、つらい、苦しい、つまらない、貧しい、みすぼらしい、がっかりする、やるせない、やりきれない
「わりなし」…どうしようもない、道理に合わない、無理だ、感じるのが格別だ、すぐれている、やむをえない、仕方がない

となっているが、「わびし」も「わりなし」も事態を打開する可能性がない所までいったときの感情や状態を表す語のようだ。つまり、あきらめの極致と言えばよいか。違いは「わびし」がひたすらあきらめの感情に沈んでいくのに対し、「わりなし」は攻撃の方向へ行きそうな傾向を含んでいるというところのようだ。

「枕草子心状語要覧」の解説を確認してみよう。

「わびし」
事態が望ましからぬ方向に進んで、もはやそれを打開する可能性はない所にまで立ち至った時の、あきらめ切った消極的な感情。あきらめの感情を表わす語として「あぢきなし」があるが、「わびし」はそれよりも一段と閉鎖的で陰性の感情のようである。「あぢきなし」は、なお対象を評する語たり得る、という点で対象を視野に含んだ感情であるのに対して、「わびし」は、消極的に沈んでゆく心のあり方だけを見た言葉と思われる。動詞の「わぶ」も、手の打ちようのない落胆の現われた態度を指し、「住みわぶ」のように、「…わぶ」と接尾語風に使う時も、思い通りの行為がとれずに困惑し処置に窮することを表わす。こうした感情を対象の側に返して、対象を評するに使おうとすれば「わびしげなり」という派生語を使うしかないであろう。一一七段がそれであり、そこでは物質的に、審美的に、絶望的な低さを示す語としてそれが使われていて、「わびし」の絶望的消極性に対応する姿を見せている。

「わりなし」
事態を打開する道が鎖されている状態を表わす語。「わびし」が、打開の道がないと見てひたすら沈んでゆく心情を表わすのに対して、「わりなし」は、打開の道がないということを、そのまま述べる語である。いわば「わりなき」事態への心的反応が「わびし」、「わびしき」心に人を追いやる事態が「わりなし」である、と言っても、あながち図式的すぎるとも言えないであろう。もっとも、事態のあり方を言う語が、事態への心的反応を言う語の方向へ進むことは自然なことであって、「わりなし」も打開できぬ不快感を表わすためにしばしば用いられるようである。(中略)だがその場合も、「わびし」のように気分が沈んでゆくのではなく、打開の不可能を、不都合なこと、不合理なこと、とうけとめる気持を表わし、感情性を強めれば、むしろ「わびし」とは逆の、攻撃の方向へと行きそうな傾向を内含するもののように思われる。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

先にも触れたように、「わびし」は、もうどうしようもないよなあとあきらめきったときの「だめだあ」と沈んでいく絶望感を示し、一方の「わりなし」は、もうどうしようもない状態であるということを示している。「わびし」が消極的な感情を表すのに対し、「わりなし」は状態を表すということが違いとして押さえるべき点だろう。

次回以降はさらに「不快感」を表す語を取り上げることになる。どうも気が重くなるが、こういう心情はどの語で表すのだろう。「胸つぶる」あたりだろうか。それとも「すさまじ」とさめた言い方にすればいいのか。あるいは、これから取り上げる「むつかし」とかになるのか。いずれにしても「不快語」が続くと思うと、いささかゲンナリする。というわけで、少し間隔を置いてから始める予定。

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2016年7月 1日 (金)

「すさまじ」「あぢきなし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」を引用して、「心状語」についてまとめている第九回。今回は、前回取り上げた「かたはらいたし」の解説にも出てきた「すさまじ」と「あぢきなし」。

「かたはらいたし」は他人の行為をわが身に引きよせて、これはまずいと心を痛める「いたたまれない」心情を表す語であったが、それが、みっともないと離れて見れば「すさまじ」、どうしようもないと見てとれば「あぢきなし」だと出ていた。

まずは、いつものように辞書の定義から。

「すさまじ」…興ざめだ、おもしろくない、殺風景だ、気乗りがしない、進む気持や熱意が冷める感じだ、しらけた感じがする
「あぢきなし」…無益だ、不快だ、無意味だ、努力してもつまらない、どうしようもない、仕方がない、(どうしようもなくて)にがにがしい

「すさまじ」は、ひとごとのように醒めた目でみる感じがあり、これの対極が「くちをし」だろうと思われる。「くちをし」は、わがこととして残念がる熱い気持ちであり、しらけた感じの「すさまじ」に対置される。「あぢきなし」は思い通りに実現する期待が薄いときの、最初からあきらめてかかっている感情を表している。

「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう。

「すさまじ」
物事が期待どおりの姿をとらない時の不快感を表わす語。誰かのせいでとか、自分の力量の不足からとかの、不快の原因に目を向けるのでなく、事態そのものの受けとり方であるのを基本線とし、その点で「にくし」や「ねたし」と異なる。「にくし」はもちろん「ねたし」でさえ、不快な事態を自分に直接関わっているものとしてとらえるのだが、「すさまじ」は、対象への愛情や関心が弱くて、自分から離れたもの、自分と関わって来ないひとごととしてとらえた、さめた感情である。(中略)人間に「すさまじ」と言う時は、不快感を癒す処置が期待されるからか、その処置がとられずかえって不快が倍増する時に用いられる傾向があり、「にくし」に近い面をもつことになる。ただその場合でも、人間への攻撃に出る手前にとどまり、事態の受けとり方を表わす語、という基本線は保たれるようである。

「あぢきなし」
事態が思う通りの形で実現しない時の感情の一つ。それを思う方向へ改めることが出来ない、と見てとった時の感情であることが特徴なのだが、事態の打開への意志を強く働かせた末のことではない。その意味では消極性を基本性格とするもので、思い通りでない事態への不満はあっても、それはあきらめの方向を向き、攻撃性を持たない。その点「すさまじ」と似るけれども、「すさまじ」には不満、不快が癒されることへの期待があるようなのに対して、「あぢきなし」には、そうした期待も薄いようである。言わば、最初からあきらめてかかっている感情であろう。だから他者への評に使われる時も、何とかすればよいのに、といった他者への心理的働きかけは稀薄で、それだけ冷淡な心の動きに属するであろう。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

つまり、「すさまじ」も「あぢきなし」も、それぞれ「みっともない」とか「どうしようもない」という期待通りにならないときの不快感ではあるものの、その原因となった人や物事に対して攻撃的にならない感情だということになる。「すさまじ」であれば、しらっとしたさめた感じだし、「あぢきなし」であれば、しょうがないなあという感じで、どちらも対象に距離を置いている。

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