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2016年6月10日 (金)

橋川文三について

近代史の学び直しを続けている中で、このところすっかりはまってしまったのが、橋川文三の文章である。松本健一のような息せき切った性急さみたいなものがほとんどなく、丸山真男みたいにすき間なく堅牢に構築された論理でかためられているわけでもなく、どちらかといえばウェットな感触を持っている。『昭和維新試論』の「序にかえて」で橋川は、次のように述べる。

「いわゆる維新者たちの人間性に多く共通してみられるものが一種の不幸な悲哀感であるということになる。朝日平吾がそうした例の一人であることはたしかであろう。いかにも感傷的な不幸者の印象をただよわせている。しかし、それはまた当時、右翼へ、左翼へ、もしくはアナーキズムへ奔った青年たちの多くに共通する要素でもあった。」

この評言は、そのまま橋川文三自身にもあてはまるのではないか。「感傷的な不幸者」という言い方は秀逸だ。バッサリと切り捨てることなく、論理性のみに走るわけではない橋川の文章が持つ魅力もまさにそれではないか。「一種の不幸な悲哀感」をもつ維新者たちへの共感めいた感情の揺れが橋川の文章にはあふれている。

学者の文体ではなく、小説家の文体というか文学者の文体なのだと思う。太宰治の文体が耳元で囁きかけられるような錯覚を呼び起こすように、橋川文三の文体も読む者を魅了してやまない息づかいを持っている。ある意味でこの文体の魅力は危険である。この人の言うことならどこまでもついていこう。そういう気持ちにさせるような不思議な感触を持っている。

この人の書く文章には、どこか寂しい風が吹いている。夕暮れ時に、帰り道を忘れてしまった子どもの孤独感と当惑感みたいな、切なくなる寂しい風だ。それゆえにいっそう心ひかれてしまう。こういう文章を書く学者がかつていたということに、これまでまったく気づかずに来てしまった。

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