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2016年6月11日 (土)

叔父の葬儀

父親のすぐ下の弟にあたる叔父が亡くなり、今日はその火葬と通夜だった。火葬で骨上げに立ち会うといつも思うことだが、人は死ねば灰になるのだなと実感する。つい先日まで息をして、心臓が規則正しく鼓動を繰り返していたその人の肉体が失われてしまえば、白い骨と灰になってしまうのだ。灰になってしまった故人を目の当たりにすると、肉体を持っていたころの姿と結び付けられず、何か茫漠たる思いにとらわれる。

病気でやせ衰え、小さく縮んでしまった叔父の顔を最後に目にしたときに、ああ、また一人自分と血のつながりのある人がいなくなるのだ思った。歳を取り、寿命となれば順にこの世に別れを告げるのは、避けられないことだ。それは分かっていることではあるのだが、そのようにして後ろへ後ろへとバトンが渡されていく時の流れとは一体何なのだろうと思ってしまう。居なくなってしまう人がいる一方で、新しく現れてきた生命もある。従弟の孫が、火葬を待つ間の控え室で元気な泣き声をあげていた。こうして、ひとの世の歴史は綴られて来たのだろうし、これからも続いていくのだろう。

いずれ自分たちもいなくなる。それでも世界は回り続けているだろう。誰かが悲しんでくれるかもしれないが、それも一時のこと。自分たちを覚えている人たちもまた、いつかいなくなる。直接会ったことも話したこともない子孫たちが、もしかしたら話題にしてくれるかもしれないが、それだってほんのわずかな間だけのことだ。だから虚しいとか、無常だとか言いたいのではない。好むと好まざるとに関わらず、そのように世界は回っていくということなのだ。

何のために、と問うことは虚しい。答えの得られる問いではなく、問い続けることにしか意義のない問いだからだ。死によって生は完結する。それまでは絶えず問い続けるしかない。

葬儀に出ると、あれこれと考えてしまうことが多い。普段あまり思わないようなことが次から次へと浮かんでくる。

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