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2016年6月

2016年6月30日 (木)

「はしたなし」「かたはらいたし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』に載っている「枕草子心状語要覧」を引用しながら、「心状語」についてまとめる第八回。繰り返しとなるが、できれば図書館などで原本に載っている「枕草子心状語要覧」をご覧になっていただきたい。これほど古典の理解に役立つ記述は、そうそうあるものではない。当ブログ記事は、この「要覧」を引用しながらまとめているだけなので、ぜひ「枕草子心状語要覧」の全文に目を通されることを願っている。

さて、今回は「困惑」「きまりが悪い」という感じを表す「はしたなし」と「かたはらいたし」。例によって辞書の定義の確認から。

「はしたなし」…(主として自分の行為に対して)体裁が悪い、不釣り合いだ、無愛想だ、情が欠けている、激しい、中途半端だ、どっちつかずで落ち着かない、きまりが悪い、無作法だ、ぶしつけだ
「かたはらいたし」…(他人の行為に関して、はたで見ていて)きまりが悪い、気の毒だ、見聞きしていられない、みっともない
(自分の行為に対し)気が引ける、気はずかしい

心的状況としてはどちらもよく似た状態であるが、「自分の行為に関して」が「はしたなし」で、「他人の行為に関して」が「かたはらいたし」というのが、基本的な違いのようだ。つまり、「はしたなし」は自分の行為に関し、外にある基準を元に不調和があり、その不調和をすぐに解消できないときの「身の置きどころがない」困惑を表す。一方の「かたはらいたし」は他人の行為に関し、自分に引き寄せてこれはまずいと心を痛めるときの「いたたまれない」困惑を表すというわけだ。

「かたはらいたし」に関連して「すさまじ」「あぢきなし」という語が出てくるが、これらは次回に取り上げることにして、「枕草子心状語要覧」の解説を見てみると、

「はしたなし」
人間の取る行動が、その場の状況や雰囲気に調和せず、それを直ちに解消することが出来ない時の、困惑の気持を表わす。主として自分のとった行動に用いて、身の処置に窮する心境を、稀に他人のとった行動に用いて、感情の処置に窮する心境を表わす。心的状況としては「かたはらいたし」と酷似するが、「かたはらいたし」が主として他人の行為に関して言うのに対して、「はしたなし」は逆に、主として自分の行為に関して言うものである点に違いがある、と考えてよさそうである。(後略)

「かたはらいたし」
まずいことを誰かがしていて、それを制することが出来ない時、当人がまずいことをしていると気付きそうにない時、などに心を痛める困窮の気持を表わす語。こういう場合に、みっともないと離れて見ていれば「すさまじ」だし、どうしようもないと見てとれば「あぢきなし」だろうが、もっとわが身に引きよせて、これはまずい、と心を痛めるのが基本線のようである。(中略)面と向かって賞賛される時の気持に使っているのは、気まずさに照れそうになる思いを言ったものである。ただし、そうした気まずさが、気まずさを感じさせるような態度をとった相手に対する、批判的な意味となるのは自然な意味の動きである。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

「かたはらいたし」の最後の解説部分は、自分の行為に対して、面と向かって賞賛されたりして「気がひける」「気はずかしい」という意味になる場合を言っているのだろう。

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2016年6月29日 (水)

いのちをつないでいくということ

家族のあり方が多様化していると聞く。夫婦と子どもからなる核家族化が言われたのは、もうだいぶ昔の話になってしまった。現代では、単身世帯が多くなり、この先、生涯結婚しないで過ごす人の割合も多くなるし、母子あるいは父子の家庭も増えるだろうと言われている。

人それぞれ、さまざまな事情を抱えているのだから、結婚せず単身で生涯を終えることに決めた人がいたり、母親だけあるいは父親だけの家庭があっても何ら不思議ではない。かつてのような夫婦と子どもがいるという世帯が、もう何年もしないうちに、家庭の一般的な形ではなくなるということだ。

その一方で、自分と血のつながりのある子孫がいなくなることに、なんとなく寂しさを感じはしないだろうか。自分のところまで延々とつながってきた血縁というものが、もし自分の代で絶えてしまうとしたら、何かしら考えてしまうものがある。生き物としての自分が、生き物として果たすべき役割は何か。そう考えたときに、次の代のいのちを残すことがそれではないかと思い浮かぶ。

結節点としての自分。そういうことを考える。自分の先祖のそのまた先祖へと遡ると、膨大な数の人間が逆三角形状に存在し、自分の子孫のそのまた子孫へと下っていくと、今度は三角形状の樹形図が延々と広がっていくさまが描かれる。自分の前にも後にも延々と広がる血縁の樹形図。過去と未来の結節点としての自分。ここから先の分岐がなくなるのだとしたら、やはり何となく寂しい気持ちになる。

大きないのちの流れの中にいる自分。そう思うと、いのちの不思議さと存在の奇跡的なあり方に呆然としてしまう。必然でもあり、偶然でもある存在。名前も顔も知らない無数の祖先と、これまた名前も顔も知らない無数の子孫がはるかな時を隔てて存在するということ。そのようなことを思った先祖はいなかったのだろうか。そのようなことを思う子孫はこの先出てこないのだろうか。どうも、はるか以前にも同じようなことを思った人がいて、これから遠い将来にも同じことを思う誰かが現れそうな気がする。

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2016年6月28日 (火)

「この道を。力強く、前へ。」行くと、どこへ行くのですか?

参院選の自民党ポスターをあちこちで見かける。「この道を。力強く、前へ。」と大きく書かれたスローガンを目にすると、「…行くと、どこへ行くのですか」ですか?と反射的にツッコミを入れたくなる。「美しい(戦前の)日本」ですか?社会保障を切捨てて大企業優遇の社会ですか?社会保障費を削って防衛予算の増額ですか?憲法を改正して、国民の基本的人権を制限するのですか?

などなど、さまざまな疑問が浮かんでくる。同じように疑問を持っている人はたくさんいるようで、このところツイッターで話題になっているハッシュタグがあるそうだ。「#自民党に質問」というのがそれで、NAVERまとめもできている。ツイッターでタイムラインを眺めていると後から後からツイートが続き、一つひとつのツイートがおもしろい。

この「#自民党に質問」のハッシュタグがついたツイートを見ていくと、自民党が衆院選のときの公約をどれだけ破っているのかとか、年金原資が株式につっこまれて数兆円がすでに失われていることとか、甘利さんの件はどうなったのか、東京五輪招致の買収疑惑はどうなっているのかとか、現政権の何が問題なのか誰でもよくわかる。日本会議周辺の話も出てくる。

日頃、テレビや新聞しか見ない方に、特に目を通してほしいような問題点がどっさり挙げられている。一度ごらんになってはいかがだろう。

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2016年6月27日 (月)

「こころときめきす」と「胸つぶる」

前回までと異なり、今回は動詞。これまでと同じように新日本古典文学大系25『枕草子』に載る「枕草子心状語要覧」を引用する第七回。

今回取り上げる動詞は、「期待」「予感」を表す動詞で「こころときめきす」と「胸つぶる」。まず辞書的な定義では

「こころときめきす」…胸をおどらせる、胸をわくわくさせる
「胸つぶる」…胸がどきどきする、ひどく心配する

定義からも察せられるように、「こころときめきす」はどちらかというと良いことへの期待に、「胸つぶる」は悪いことの予感に用いるようで、善悪の双方向を分かち合っている感じだ。

「枕草子心状語要覧」の解説では

「こころときめきす」
次に起るであろうことへの不安や期待のために、胸がどきどきすること。悪いことが起るのではないかという不安、良いことが起りそうな期待、その両方に使われるが、どちらかというと良いことへの期待に使うことが多い。悪いことへの予感には「胸つぶる」を用いる方がぴったりする(中略)。「心ときめきす」の方には、一つの面白い用法があるのが注意される。それは、現在の出来事が、現実からかけ離れた好ましい様相を示した、と感じた時の心的反応で、二六段に幾つかその例を見ることが出来る。特に曇った唐鏡に自分の顔を映した時、というのは好例で、自分がひどく美しい女のように映り、ひょっとしたらこれが本当かしらと思ったり、これは何かの間違いではと思ったり、期待と不安が交錯する思いなのだと思われる。こういう交錯した思いを「胸つぶる」が表わすことは、無いのではあるまいか。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

この後半の例は面白い。「曇った唐鏡」というのがポイントなんだろうな。最近はデジカメやスマホのカメラがオートフォーカスで、めったなことではピンぼけにならないと思う。かつてのフィルムカメラでも、オートフォーカスのお手軽なカメラはあったが、ピントが甘くなって全体にソフトなベールをかけたような結果となることがあった。こういうときの写真はアラを隠すので、「もしかして、俺って結構イケメン?」とか「私って案外イケてるかも」と思うことが可能だったが、こういうときに「こころときめきす」とでも言えばよかったのだろうなあ。

さて、次からは本格的に否定的な感情を表す語となるが、これがやたらと多い。七回から八回分に分けないといけないではないかと思う。一度中断して、あらためて掲載する予定。それにしても『枕草子』で清少納言はいろいろなものに毒づいていたということなのか。これだけ否定的な語が多いと、うーむ、マツコか有吉か、と言いたくなるくらいだ。

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2016年6月26日 (日)

「こころにくし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」を引いて「心状語」をまとめる第六回。

それにしても、この「枕草子心状語要覧」はよく出来ている。今の時代、「中古」と呼ばれる平安時代の文学をやってみようという国文科の学生がどのくらいいるのか「おぼつかなし」だが、もし「中古」を専攻しようと思うのであれば、この「枕草子心状語要覧」を舐めるように味わい尽くしたほうがいいと思う。これだけ徹底して語感やニュアンスの違いを解説してくれるものは、なかなか他に見当たらないのではないか。こんな便利なものが四十年近く前にあったらなあ、とかつての国文科生はうらやましく思う。

さて、今回は「疑問」から「期待」へという感情で「こころにくし」。それに関連して「けはひ」も取り上げる。

まず、いつものように辞書の定義から

「こころにくし」…よく見えない、はっきりしない、(様子がはっきりしないので)気にかかる、どこか気持ちの通じないところがある、奥ゆかしい、すぐれている、上品だ

後半のほうの意味は、あからさまでないものをよしとする美意識からきている意味なんだろうなと思う。露骨なものでないから、奥ゆかしくて、すぐれていて、上品に感じる。こういう品のよさみたいなものは、現代では絶滅危惧種かもしれないが。

「枕草子心状語要覧」の解説を引いてみると

「こころにくし」
「にくし」の原義であった阻害感が、実体がよくわからないで疑問や関心が残りつづけることに用いられるようになり、そこから生まれた語。善悪に関係なく、実体がうまくつかめない、という意味にも用い得るし、後にはよからぬものへの予感にも使われるに至るが、枕草子では、専ら対象によいものを期待する感情として用いられる。つまり視覚や聴覚にとらえられる外面を手がかりにして、その奥にすばらしい実体があることを思い描く、という心のはたらきを表わす。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

この、奥にあるすばらしい実体から外側ににじみでてきたもの、つまり手がかりとなる外面が、「けはひ」である。そこで辞書では

「けはひ」…そぶり、感じ、雰囲気、あたりの様子、人品、ものごし、匂い、声、音、気温

といったような定義となる。「枕草子心状語要覧」でも次のように解説している。

「けはひ」
内面の備わりが外面ににじみ出す所をとらえる語が「けはひ」「ありさま」などで、紫式部はこの「けはひ」を愛用したが、清少納言が使う「けはひ」は(中略)事態を探る手がかりとしての外面を指し、紫式部のように、その外面であるが故にこの感覚を引き出したその外面、の意に使うことは見当たらない。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

少し分かりにくいところもあるが、要するに「けはひ」はあくまでも、「外面」に焦点を当てた語ということなのだろう。奥にあるすばらしい実体や内面の備わりそのものを取り上げるのではなく、外側、外面に注目するという語である。

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2016年6月25日 (土)

「こころもとなし」「おぼつかなし」と「ゆかし」「いぶかし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』に載っている「枕草子心状語要覧」を引用しながら、「心状語」についてまとめているが、今日は第五回。ここからは否定的な語感の語彙が増えるが、今回はまず「不安」「疑問」に関した語である「こころもとなし」と「おぼつかなし」。加えて「ゆかし」「いぶかし」を取り上げる。

まず、「こころもとなし」と「おぼつかなし」の辞書的な定義

「こころもとなし」…待ち遠しい、じれったい、落ち着かない、はっきりしない、気がせいてならぬ
「おぼつかなし」…はっきりしない、心細い、不安だ、待ち遠しい、これからどうなるのか気がかり

この定義だけでは、どういう違いがあるのかよく分からない。ほとんど同じじゃないか、とさえ思ってしまう。しかし、この二語には明らかな違いがある。それは「こころもとなし」がある程度情報が与えられていて、なおはっきりと確認ができないときの手応えのなさを言うのに対し、「おぼつかなし」のほうは、情報が無くて何が何だか分からないときの不安感を表すという違いだ。

たとえば、彼氏や彼女が今日どこに行って何をしているのかは知っているのだが、誰と一緒にいて何時ごろ戻ってくるのかなどが分からないのであれば、「こころもとなし」だろう。どこにいるのか、何をしているのか全く連絡が取れなくて情報もないというのであれば、「おぼつかなし」ということになる。

少し長いが、「枕草子心状語要覧」の解説を見てみよう

「こころもとなし」
どうしたらこれがうまく行くのか、本当にこれがそのものなのか、など、当面関心のある事への確たる解答が得られないための、不安感を表わす語。不安感を表わす似た語として「おぼつかなし」があるが、「おぼつかなし」が、何が何だか、情報が全くつかめない、と思った時の不安を言うのに対して、「こころもとなし」は、いま何かに関心を持っていることを、すでに情報と把握して、それへの解答が得られぬと感じた不安を言うもののようである。(中略)情報として把握される関心は、最もしばしばこちらの抱く期待であるから、その期待が実現しない時の、早く早くといらいらする思いや、悪くすると期待どおりに実現しないかもしれぬという頼りなさを表わすことが多く…(後略)

「おぼつかなし」
それが何なのか、何事が起こっているのか、関心のある者がいまどこにいてどうしているのか、など肝腎の情報が欠けているための、不安な気持ちを表わす語。「こころもとなし」も似た不安感を表わす語だが、それが何かの確認が出来ない手ごたえの無さ、を眼目とする不安であり、むしろ情報が不確定的には与えられている、と把握した時の思いであるのに対し、「おぼつかなし」は、情報そのものが与えられていない、と把握した時の、思いであると言ってよかろう。(後略)

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

こういった「こころもとなし」「おぼつかなし」という状態にあると、わけが知りたいという気持ちになる。それを表す語が「ゆかし」であり「いぶかし」である。岩波古語辞典によると

「ゆかし」は、見たい、聞きたい、知りたいという点では「いぶかし」と同じだが、既に知っていることがあって、それをよしとして更に深く知りたいという場合が多い。
「いぶかし」は、どうしたのか変だから、そのわけ、事情が知りたいの意。平安時代になって、様子がよく分からないから見たい、知りたい、聞きたいの意。
(岩波古語辞典より)

ということは、大雑把な話だが、「こころもとなし」と思うことは「ゆかし」となるだろうし、「おぼつかなし」と思うことについては「いぶかし」となるのだろう。ただし、「ゆかし」には「それをよしとして更に深く知りたいという場合が多い」とあるので、いいなあと思うからもっと知りたいという感じで使うのだろう。

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2016年6月24日 (金)

瓶の中のメッセージ

スティングが在籍していたポリスの最初のヒットが、"Message in a bottle"だった。邦題は「孤独のメッセージ」。「ホワイト・レゲエ」と称されたポリスにしては、あまりレゲエっぽくない曲だったが、リフレーンされる "I'll send an SOS to the world.  I hope that someone gets my message in a bottle."という歌詞が耳に残った。

孤島に流された人間が瓶にメッセージを入れて海に流す。素朴なイメージだが、大勢の人に囲まれる都市で暮らしていても、それが自分と関わりを持たない他人ばかりなら、絶海の孤島に一人で流されているのと変わりはない。この曲がヒットしていたころ、私は二十歳だった。たぶんこの曲と同じように、私も自分とつながりのない他人たちのなかで孤島に暮らしているような思いを抱えていたのだろう。

それから間もなくして、数多くの人びとと出会い、傷つけたり傷ついたりしながら人びとの中で生きていくということの意味を学んでいった。孤島から小舟で大海に乗り出したものの、たちまち暴風雨に遭ったようなものだった。ただ、結果的にはそれでよかったのだと思う。あのまま孤島の中にじっとしていたら、今のような自分ではなかっただろう。

瓶の中に入れられたメッセージは「SOS」なのだ。誰かにそのSOSを受け取ってほしいと思っていたのだ。外の世界へのつながりを求める切実なメッセージ。誰かに届くという保証はない。それでも瓶に入れて外へと流す。もしかすると、いつかそれを自分が拾うことだって皆無ではないかもしれない。とにかく外へ。誰かへ。

今は違う意味で、こうして「瓶の中のメッセージ」を書いているのだと思う。「SOS」ではなく、いつかどこかのだれかが、こんなことを思っていた人が21世紀の始めの頃にいたんだなと、人間の営みの変わらなさ、人間の愚かしさの普遍性みたいなものを読み取ってくれたらと思う。そして、もう一方では、いつかこれを読む自分に向けたメッセージなのだとも思っている。

書き上げて「送信」した瞬間に、場所も時も越えて流れだす「瓶の中のメッセージ」。どこの岸に、いつの時代に、どんな顔をした人に受け取られるのだろう。

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2016年6月23日 (木)

平凡な日々

君は寝る前に思う。今日も何もない一日だったと。その前も、その前の前の日も、同じように起きて、ご飯を食べ、学校や仕事に行き、あるいは部屋にいて、同じような一日を過ごす。昨日と変わらない今日、今日と変わらない明日。そうやって毎日毎日同じことを繰り返しているだけだ。そんなふうに思う。

何もない平凡な一日がどれほど貴重なものなのか、君にはまだ実感がない。平凡な日常が、ある日、何の前触れもなく断ち切られることがあるのだということに想像力が追いつかない。当たり前のように同じ日々が続くと思う。だから、何もない一日がつまらなく思われる。何か変わったことがあればいいのに。退屈な時間を繰り返すより、刺激のある時間をひりひりと痛いくらいに感じていたい。君はまだ若い。だから、そんなふうに思う。

手持ちの残り時間が少なくなってきたことに、あるときふと気づく。長距離走で言えば、折り返し点をとっくに過ぎていることに愕然とする。この先、今日と同じ日が何回過ごせるのだろう。この顔ぶれで同じ時間を過ごすことができるのは、あと何回あるのだろう。どうしてもそういうことを考えないわけにはいかなくなる。

歳をとるということは、そういうことなのだろう。だから、結局、老い先が短くなっていることを愚痴るか、妙に説教じみた話に落ち着いてしまう。年寄りは若者に嫉妬しているのだと思う。おそらく意識してはいないだろうけれども。平凡な毎日を贅沢に消費できる、手持ち時間の多さがうらやましいのだ。そして一方で、自分と同じ轍を踏まないでほしいと願ったりする。少し先に生まれて、長く生きていると、後からくる若い人たちのつまずきそうな姿に、黙っていることができなかったりする。

よけいなお世話でしかないのだが、それが歳をとった人間の役目というものだろう。だから年寄りの言うことに耳をかせ、とか言いたいのではない。いつか、どこかで思い出すことがあれば、ああ、そういうことだったのかと納得すればいいだけのことだ。歳をとった連中だって、自分の言っていることが素直に若い人間に届いているなんて思ってはいないさ。中にはそう思い込んでいる年寄りも見かけるけれどもね。

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2016年6月22日 (水)

「なつかし」と「こひし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」をもとに「心状語」をまとめる第四回。今回も肯定的な感情を表す語を取り上げるのだが、実は賞め言葉はこれでおしまい。肯定的な意味で使われる語は、もう少しある。だが、以前の記事にも書いたように、『枕草子』に出てくる「心状語」は圧倒的に否定的な感情や不快感を表す語が多い。そういった否定的な語感のものについては次回以降で延々紹介することになる。量が多いので、少し間をおいてからの予定。

とりあえず「なつかし」と「こひし」の辞書的定義から

「なつかし」…心が引かれる、かわいらしい、そばについていたい、離れがたい
「こひし」…(恋人に)逢いたい、なつかしい、慕わしい

端的に言えば、「なつかし」は親しみやすいという親近感を表す語で、「こひし」は現代語の「恋しい」と「なつかしい」を合わせたような語だということになる。

「枕草子心状語要覧」のまとめを見てみよう。

「なつかし」
賞め言葉の一つだが、形や色など外形の美とは関係なく、対象の中身、対象の備わりに関する賞賛である。その点で「きよし」や「うるはし」と基本線が異なり、むしろ「うつくし」に通ずる所がある。(中略)「なつかし」は「なつく」時の心の形容詞表現である。つまり親しみやすいという、近親感、心やすさを表す。(中略)要するにこちらが対象を好意的に見る以上に、肯定的に身近に受け入れようとする積極性を有する。

「こひし」
古代語の「恋し」と現代語の「恋しい」との間には一つの違いがあるようである。現代の「恋しい」は、昔あって今は無いものへの再現願望が強く、それが再現すれば解消する感情だが、二七段など、再現願望は強くないと思われ、その点現代語の「なつかしい」に近い。「なつかしい」は再び手に入らないものに寄せる情感で、ひたすら再現を望み現状否定の色彩の濃い「恋しい」とは異なって現状肯定を基盤とする。(中略)つまり古代語の「恋し」は、現代語の「恋しい」と「なつかしい」との双方にまたがる感情だった、と言ってよさそうである。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

なるほど。「うるはし」が形について、「きよし」が色について外形的な美を言う語だったのに対し、「なつかし」は対象の中身について言うのか。これはおそらく、「なつく」という動詞の持っている、相手が気に入って、密着していたいという語義からきているんだろうな。

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2016年6月21日 (火)

「うつくし」「らうたし」と「いとほし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」をもとに「心状語」をまとめる第三回。今回も肯定的感情を表す心状語の続きで、「うつくし」と「らうたし」。これに関連して「いとほし」を取り上げる。

まず「うつくし」と「らうたし」の辞書での定義から

「うつくし」…かわいい
「らうたし」…かわいらしい、いとしい、かわいがってやりたい

定義だけではあまり差がないようにも思うが、「うつくし」は植物くらいまでが対象となりうるのに対し、「らうたし」は人間に関してしか用いないのが原則。動物ならば人間に準じて扱い得るので「らうたし」の範囲に収まるかもしれないが、植物については無理なようだ。

「枕草子心状語要覧」のまとめを引用してみると

「うつくし」
現在は「美」の字を宛て、美一般を指す広い感覚の語だが、元来は可憐なものへの感情であった。動詞の「うつくしむ」が現代語の動詞「いつくしむ」と同根であることは「うつくし」の原義への最も強い証言であろう。(中略)小なるもの、弱なるもの、幼なるものなどへの感情で、大・強・長などの優性を備えた立場からの、保護したくなるような感情を言う。

「らうたし」
語源的には「労いたし」であるとされ、対象によって惹きおこされる感情が、心を痛めるような思いである、というのがその原義であろう。現代語の「いたいたしい」は、その原義に近いであろうか。ただし「らうたし」は、心を痛めるだけでなく、それを保護し、大切にしたい、という気持ちを伴うので、「いたいたしい」より遥に愛情が深く暖かい。その点は「うつくし」も同様だけれども、対象が人間に限られるだけに、一段と主情的で、幼い者、弱い者への、たまらない可愛さ、と言うに近い感情を表す。現代語の「いとしい」がほぼこれに近いかと思われるがどうであろうか。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

これら「うつくし」「らうたし」と同じように「かわいい」の意味を持つ「いとほし」という語があるが、辞書では

「いとほし」…(自分について)困る、いやだ
     (相手に対して)気の毒だ、かわいそうだ、いたいたしい、かわいい

となっている。「岩波古語辞典」には以下のような解説が載る。

「いとほし」
弱い者、劣った者を見て、辛く目をそむけたい気持ちになるのが原義。自分のことについては、困ると思う意。相手に対しては「気の毒」から「かわいそう」の気持ちに変わり、さらに「かわいい」と思う心を表すに至る。「いとし」はこれの転。

なるほどねえ。同情から愛情へというわけだ。

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2016年6月19日 (日)

「めでたし」

新日本古典文学大系25『枕草子』所載の「枕草子心状語要覧」から引用して、「心状語」をまとめる第二回。

今回も肯定的な語彙から「めでたし」。まず辞書の定義では

「めでたし」…(申し分なく)すばらしい、賛嘆する以外にない

現代語の「めでたい」は祝いたくなるようなうれしい、よい状態を表すが、古語の「めでたし」は、まったく申し分なくすばらしいという所に中心がある。

「枕草子心状語要覧」ではつぎのようにまとめられている。

「めでたし」
動詞「めづ」の形容詞。「めづ」が無条件の賞賛を表すように、「めでたし」も、対象の中に無条件に優性を認める言葉であろう。「うつくし」や「なつかし」が、保護してやりたくなる弱小性や、親しみやすさ、といったことを条件とする賞め言葉であるのに比べると、無条件であるだけに対象の属性に関しては制限が緩く、かわりに賞賛の程度は最も高くなければならないという厳しさを持つ。全く申し分ない、といった気持である。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

同じ賞め言葉でも
「めでたし」…無条件
「うつくし」…弱小性に対して
「なつかし」…親しみやすさに対して
という使い分けがあるわけだ。

「うつくし」「なつかし」については次回に取り上げる予定だが、確かに『枕草子』の「うつくしきもの」の章段を思い浮かべると、小さなもの、かわいらしいもの、保護したくなるものをその対象として列挙していたなあ。

動詞「めづ」も無条件の賞賛を表すということは、『堤中納言物語』の「虫めづる姫君」に出てくる姫君は、無条件に虫をすばらしいと思っていることになるわけだ。

無条件にすばらしいと思うわけだから、最高にすばらしいという感じにつながっていくのだろう。現代語の「めでたい」に連なる、この上なくよいことだという語感は、最初から備わっていたわけだ。

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2016年6月18日 (土)

「うるはし」と「きよし」

岩波書店の新日本古典文学大系25『枕草子』の巻末に収録されている「枕草子心状語要覧」が秀逸であるということに触れたのは、もう一年以上前のことだったか。これを引用して、枕草子に出てくる「心状語」をまとめてみようと思いながら、放置したままになっていた。

さて、まず第一回は「美」に関した古語である「うるはし」と「きよし」について。それぞれの辞書での定義は

「うるはし」…改まっている、折り目正しい、かたくるしい、きちんとしている、美しくりっぱだ
「きよし」…清澄だ、きれいだ、さわやかだ、きれいさっぱりと

などとなっている。

端的に述べれば、「うるはし」が容貌、態度、服装などの整った美しさ、つまりは「形」の美しさを言うのに対し、「きよし」は、汚れがない、不純物が混じっていないことなどを美と見た感覚を表し、「色」について言う。

この不純物が混じっていない美しさという点から、「きよし」の対義語は「きたなし」、澄んだ感じがさらに氷のように冷たく冴えて、くっきり澄んだ意になると類義語の「さやけし」となる。

「枕草子心状語要覧」には次のようにまとめられている。

「うるはし」
美なるものへの評語の一つだが、整った美しさを指す語。(中略)人間以外のものにも用いられるが、人間の手の加わったものに関して言う傾向が強い。(中略)その整った破綻の無さは、あまりにも隙がない、という負の角度から把握される危険があり、堅苦しい、儀式ばっている、といった悪い評語として使われることもある。(中略)人間の毛髪について言うのが最も多く、服装がそれにつぐ。(後略)

「きよし」
汚れのないこと、不純物が混じっていないこと、などを美と見た感覚を表わす。「うるはし」が主として形について言うのに対して、「きよし」が色について言うのは、その差の現われと言ってよいであろう。

(岩波書店、新日本古典文学大系25『枕草子』所載「枕草子心状語要覧」より)

なお、「きよし」には「連用形」の形で「すっかり」「まるっきり」の意に用いられる用法もある。これは不純物を含まぬ百パーセントの意味からの転用らしく、「きよく知らで」「きよう忘れて」「きよう見え聞こえず」といった例があがっている。

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2016年6月17日 (金)

この緊張感のなさは何だろう

参院選が公示前だからということかもしれないが、今回の選挙が国の歴史の流れを大きく変えてしまう結果をもたらすという緊張感がどこにもない。テレビは相変わらず辞任した都知事の政治資金の問題をほじくり返し、参院選の争点が何なのか大きく取り上げようとしない。

消費税10%増税の公約を再延期してまで自民党が実現したいものは、憲法改正以外の何ものでもない。増税によって国民の支持を得られず、改正の発議のために必要な3分の2を参議院で獲得できないのであれば、再度の延期は絶対にないと確約したこともあっさり反故にする。そこまでして安倍政権は憲法改正を実現したいということだ。

この事態の深刻さを有権者のどれくらいが受け止めているのだろう。足並みがそろわない野党も野党だ。なぜ比例代表の統一名簿が実現できないのか。これがなかったら3分の2を阻止できないではないか。党利党略が絡んでいるのだろうし、もともと政策や思想が一致しないのだから、野党共闘が難しいのは分かる。しかし、もう後がないのだ。この参院選で敗れれば、後はない。最悪の場合、国会の機能停止すらありうる話なのだ。杞憂だと笑っていられるのは今のうちだけだ。

自民党の改憲草案、安倍政権を支えている日本会議が目標に定めているところ、それらを合わせて考えるだけで、参院選で与党が改憲に必要な3分の2を獲得したらどうなるかおのずと明らかになる。時計を巻き戻して「美しい(戦前の)日本」を再びということだ。

せめて投票率が70%か80%まで上がればと思う。65%でもいい。投票率があがれば、与党票に動員される組織票を上回る浮動票が期待できる。憲法改正に賛成でも、反対でも、どちらかきめられなくても、とにかく議論する時間を確保するために、今回の参院選で政権与党に3分の2の議席を与えることにしてはならない。そうでなければ、選挙後改憲が着々と進められていくだろう。あっという間に憲法改正の発議がなされるはずだ。十分な議論もなされず、改正の本質が伝わらないまま、国民投票へとなだれ込み過半数の賛成を取り付けるというシナリオがこの先に待っている。

そうなる前に、まずは一度、その流れを止めなければならない。都知事選など、はっきり言ってどうでもいい選挙だ。参院選の重要度を覆い隠すためのお祭り騒ぎに過ぎない。

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2016年6月16日 (木)

自分の殻に似せて・続き

「蒟蒻(こんにゃく)問答」という落語がある。傾きかけた禅寺に托鉢僧が現われ、ご住職に問答を挑みたいと言う。禅問答が流行っていたころ、負ければ寺を追い出されてしまうというきまりで、この托鉢僧も禅家の寺だなと見ると問答をしかける修行僧だった。

ところが、この寺の住職は江戸を食い詰めて流れてきた男で、知り合いのコンニャク屋の親父の口利きで住職になったはいいが、禅問答などできるわけがない。そこで、コンニャク屋の親父が住職のふりをして応対する。下手にしゃべると問答に負けてしまうので、無言で押し通す。すると托鉢僧は「禅家荒行の一つ、無言の行とあらばいたしかたない」と、身振り手振りで問答を仕掛ける。コンニャク屋の親父も身振り手振りで応戦する。そのうち托鉢僧が「ははあ」と平伏し、逃げるように去っていく。

本当の住職をしている男が托鉢僧を引き止めて「どうでぇ、うちの和尚はてぇしたもんだろ」と言うと、「お宅の和尚は博学多才、とてもかないません。修行しなおして参ります」と答える。感心して男がコンニャク屋の親父に「うめぇもんだね、問答」と声をかけると、コンニャク屋の親父は「あの坊主、とんでもねぇ野郎だ。うちのコンニャクにケチをつけやがった。挙げ句に半値にまけろってぇから、あかんべぇしてやったのよ」

コンニャク屋の親父のほうでは商売物のコンニャクをけなされたと思いこみ、一方の托鉢僧は、コンニャク屋の身振り手振りを深い仏法の真理を説いたものと思い込んで退散したという噺。このコンニャク屋の親父の大和尚ぶりがおかしくて、ときどき聴きたくなる噺である。

と、何だか「江戸的スローライフ」の回みたいになってきたが、われわれの日常の会話のやり取りも程度の差こそあれ「蒟蒻問答」なのではないか。人は自分の理解や教養や経験に合わせてものごとをつかんでいく。深読みしてしまう人は、ささいなことでもとんでもないことのように受け取るし、理解の浅い人は、深刻な事態に直面していてもその深刻さがわからない。落語の与太郎がのんきでいられるのは、深刻さを理解してないからだ。

だから、人と人が理解し合えるというのは錯覚でしかない。意思が通じ合っていると思い込むしかない、ということだ。意思の伝達とはそういうズレを織り込み済みで行なわれるものと思う必要がある。あの人は私のことをちっとも分かってくれない。いくら言ってもこっちの言うことが伝わらないんだよ。というようなことは、あたり前のことなのだ。延々とズレていく伝言ゲームをやっているのだと思えば少しは気が楽か。

これだけ懇切丁寧に教えたんだからもう分かっただろう。それはこちらの思い込みでしかない。相手はまったく何も理解していない。そんなことだってザラにあるのだ。ただ、誤解がないように加えておけば、だからといって意思を伝え合おうとすることに意味がないと言いたいのではない。理解し合えないのだということを前提に、伝わらないことを想定して、意味がズレることを承知の上で、それでもなお、われわれは意思の疎通に手を尽くさなければならない。

自分の殻と相手の殻は同じではない。それでも伝えようとする。われわれの生きている世界はそんなふうにできている。

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2016年6月15日 (水)

自分の殻に似せて

「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」ということわざがある。自分の力量以上のことはできないという意味で、小さな人間は小さく、大きな人間は大きく、それぞれの力量に応じた言動をする。

力量だけでなく、ひとは自分の殻に似せてしか世界を理解できないのではないか。言い換えれば、自分のフィルターを通した理解の仕方しかできないのではないか。誰かと話していて、一見話が通じているように思うことがあるが、実はそれぞれの理解に基づいてそれぞれの判断を交換しあっているだけで、第三者がそれを取り出してつき合わせてみたら相当な違いのあるものだったという可能性だってある。

しかし、これは言語を介して世界を認識し、言語を介して伝達しあっている以上やむを得ないことなのかもしれない。同じものやことがらを目にしても、それを受け止める仕方は各人各様だ。同じことについて話しているつもりで、全く噛み合わない前提や想定で話し合われていることは十分に考えられる。

たとえば「大金」と言われて、いくらと思い浮かべるか。ある人は「1万円」、別の人は「10万円」、「1000万円」くらいじゃないと「大金」ではないでしょうという人だってあるだろう。「お正月のお雑煮は?」と訊かれて、「それは丸餅ですよ」という人もあれば、「角餅でしょう」という人もいるだろうし、「そもそもお正月にお雑煮なんか食べないし」という場合もあるだろう。

住んでいる地域、生きている時代、それまでの経験や吸収してきた知識、そういった経験や知識に絡んだ感情のひだ。こうしたものが一人ひとり違うのだから、自分が言おうとしている物事が正確に自分の思っているとおりに受け取られると思わないほうがいいのだろう。それでも日常生活に支障がないのは、大雑把な概念や許容範囲のある認識でやりとりしているからなのだと思う。厳密に内容を問われる機会のほうが少ない。単数なのか複数なのか、色は、形は、大きさはというように詳細に詰めていく作業が必要な場合というのは、日常会話のやり取りでは少ない。

「学校」「自動車」というような具体的な個々のものが浮かぶ場合も、「友情」「平和」みたいな抽象的な、形のないものについて思うときにも、全く違うものを思いながらやり取りしているのだろうなという意識は必要だろう。

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2016年6月14日 (火)

因数分解

この時期は平方根に入っているので、そちらのほうが期末テストの中心になるのだろうが、それと平行して因数分解のチェックを毎時間の最初に行っている。この数年そうなのだが、因数分解の公式がきちんと使えない中三生が多くなった。もう少し正確な言い方をすると、学校の授業で習った当初や教室で演習したころは分かったように見えて、その実、何も分かっていなかったと後から気がつくことが増えた。

特に因数分解の公式2と3が使えない。確かに公式1で解けるものもあるので、とりあえず公式1でもよいのだが、問題の中に公式2か3を使わないと解けないものが入っている。何より高校数学に進んだときに困るだろう。

どういうときに公式2と3を使うのか、着眼点をその都度チェックし、公式2と3の左辺の形もきちんと書かせて練習させる。しかし、全部のパターンが混在した因数分解の演習問題を解かせると、ピタリと鉛筆が止まってしまう。やはり、どの公式を使えばいいのかという識別のところで迷っている。ここのところが一人でできるようにならないと、いつまで経っても因数分解がクリアできない。

それともう一つ。根本のところで、因数分解が元の式を因数の積で表すことなのだという定義がつかめていない。だから、積の形になっていないのに、そのまま因数分解の答えとしてしまって違和感を持たない。特に一度展開して式を整理してから因数分解する問題や置き換えを利用する問題などで、そういった因数の積の形にしていなかったりする。

昨年度までは、次の平方根の項目も大事なので、ある程度で因数分解の演習を切り上げたりしたが、秋になると全く因数分解が使えなくて二次方程式で苦労することがよくあった。それもあって、今年は少し長い期間因数分解の計算を徹底させてみようかと考えている。ここを確実なものにしておけば、後で少し楽になるはずだ。

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2016年6月13日 (月)

流れ

去年は沈静のというか停滞のというか、時の流れが澱んだような一年だった。身の回りに大きな変化が無く、人やものごとの流れもごく緩やかなものだった。振り返ると、自ら動くことを避けてじっと殻の中にこもっているような一年だった。ときどき思い出したように訪ねてきてくれる仕事関係の人びとが、外の空気を伝えてくれるくらいのもので、世間と没交渉に過ごしてきた。地域計画の推進委員の役目も、前期五年の最終年度に関わらず、熱意無く義務的に最低限のことをこなしただけだった。

このブログにしてもそうだ。去年一年で書いた記事は四十数本で、平均すると月四本にも満たない。あまり書こうという意欲がわいてこなかった。だから、半年近く放置したまま記事の更新をしていなかったことにも気がつかなかったくらいだ。

新年度に入っても、4月から5月の半ばころまでは昨年度の沈滞した流れのまま過ごしていた。それが少しずつ動き出したのが5月の下旬ころからだ。ブログの記事を更新し始めたのもそうだし、人の動きが出始めたのもそうだ。前期だけで辞退するつもりだった地域計画の委員に慰留されて、後期も務めることになった。これが暗示となったような気がする。

つまり、まだ必要とされているうちは関わりを自ら断ってはいけないという、誰かからのメッセージのように思われたのだ。人と人の間で生きてこそ「人間」なのだ。関わりを断って殻の中にこもってしまっては、よい流れに巡りあえない。そんなふうに感じた。

ブログの更新も自然に始まり、自分があれこれ動き始めたのに合わせるかのように、人びとの訪れも増えてきた。叔父の葬儀という負の出来事を契機としたものではあるが、ひさびさに親族の多くと再会した。会えば話も尽きない。かつては煩わしく感じていたものだが、「身内」のだれかれに会って言葉を交わすというのはいいものだ。

滞留していたものが少しずつ、少しずつ流れ始めてきたのだと思う。これが生徒の増加につながれば申し分ないのだが、世の中そう甘くはない。しかし、新しい生徒と出会うのも一種の「縁」なので、良い流れに入ればおのずと良い出会いもあるだろうと気長に構えている。

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2016年6月12日 (日)

時代が違っていたら

生まれる時代を人は選ぶことができない。否応なしに生まれ落ちた時代の風に吹かれ、人は時代の空気を吸い込む。時代が違っていたら、たぶん私も同じように感じ、同じような道を選んだかもしれない。昭和維新期の青年たちの心情や行動を記述した文章を読み続けていると、それほど遠いところに立っている人たちではないという気がしてくる。

例えば、五・一五事件を引き起こした海軍青年将校や二・二六事件の陸軍青年将校たち。あの時代に生まれて、海軍兵学校や陸軍士官学校に入り下級将校となったら、おそらく私も同じように決起したのではないか、と思ってしまう。

五・一五事件は「話せば分かる」と言った犬養毅首相を「問答無用」と射殺した事件である。犬飼首相を暗殺しても社会そのものの変革に直結するわけではない。にもかかわらず彼らは、国家改造のためにはそれが必要なのだと確信して事件を引き起こしている。無抵抗の老人を若い軍人たちが集団で襲撃した。客観的に見ればそういう事件であり、その点で卑怯といえば卑怯な振る舞いである。大隈重信に爆裂弾を投げつけて暗殺を確信し、その直後自ら命を絶った玄洋社の来島恒喜のような暗殺者の倫理みたいなものを感じさせない事件でもある。

しかし、彼らの目に映っていたのは、選挙で票を買収することが当たり前の腐敗した政党政治と金権により政治に影響力を行使する財閥、それと対照的に昭和恐慌に苦しむ大衆の姿である。犬養毅首相自身の姿ではなく、腐敗した政党政治の姿をその上に重ねて見ていたということになるのだろう。だからといって暗殺が正当化されるわけではないが。

ただ、あの時代に生を受けていたら、同じように行動したのではないか。どうしてもそういう感じがぬぐえない。戦後の民主化された世の中しか知らず、戦前の軍人というと狂信的なファシストか軍国主義者しかいないように思ってしまうが、二・二六事件の陸軍青年将校の一人である村中孝次にしても、その青年将校に影響を与えた西田税にしても文人的素養にあふれた人間である。戦後に生まれていたら、おそらく芸術か学問の分野をめざしたのではないかと思われる人びとだ。決して軍国主義の生んだ怪物というわけではない。

だから、彼らが現代に現代的な姿で生きていても不思議ではないように、われわれがあの時代に生まれれば、あの時代の青年の姿で生きていた可能性だってあるのだ。戦前の軍国主義的なものを全て封印し、「墨塗り」をして、無かったことにしてしまったのが占領下の戦後社会である。戦前的なものを自分たちとは無関係なものとして切り離してしまったわけだが、無関係だとした時点で道を間違えたのではないか。それよりも戦前的なものに徹底して向き合うべきだったのではないか、その中から残すべきものと捨てるべきものを見きわめて戦後の社会を再構築すべきだったのではないか。

戦前の社会は一部の軍人と国家主義の右翼勢力が破滅へと導いたのであり、自分達はその犠牲者だ。ということにするのが一番楽である。悪いのは彼らであり、われわれはだまされていた。本当は誰も戦争など望んでいなかった。そのように言うことは簡単である。しかし、満州事変が起きると満州は日本の生命線だと肯定し、アメリカと開戦するといよいよ欧米の勢力から亜細亜を解放する戦いが始まったのだと喜んだのは、同じ当人たちなのではないか。竹内好は十二月八日の日米開戦の報に接したとき、これで亜細亜解放の戦いが始まるのだと、日中戦争に対して持っていた後ろめたさのようなものが払拭されるのを感じた。同じように感じた人も多くいたはずなのだ。しかし、戦後になってもその事実からしっかりと目をそらすことなく向き合った人が少なかったということなのだろう。

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2016年6月11日 (土)

叔父の葬儀

父親のすぐ下の弟にあたる叔父が亡くなり、今日はその火葬と通夜だった。火葬で骨上げに立ち会うといつも思うことだが、人は死ねば灰になるのだなと実感する。つい先日まで息をして、心臓が規則正しく鼓動を繰り返していたその人の肉体が失われてしまえば、白い骨と灰になってしまうのだ。灰になってしまった故人を目の当たりにすると、肉体を持っていたころの姿と結び付けられず、何か茫漠たる思いにとらわれる。

病気でやせ衰え、小さく縮んでしまった叔父の顔を最後に目にしたときに、ああ、また一人自分と血のつながりのある人がいなくなるのだ思った。歳を取り、寿命となれば順にこの世に別れを告げるのは、避けられないことだ。それは分かっていることではあるのだが、そのようにして後ろへ後ろへとバトンが渡されていく時の流れとは一体何なのだろうと思ってしまう。居なくなってしまう人がいる一方で、新しく現れてきた生命もある。従弟の孫が、火葬を待つ間の控え室で元気な泣き声をあげていた。こうして、ひとの世の歴史は綴られて来たのだろうし、これからも続いていくのだろう。

いずれ自分たちもいなくなる。それでも世界は回り続けているだろう。誰かが悲しんでくれるかもしれないが、それも一時のこと。自分たちを覚えている人たちもまた、いつかいなくなる。直接会ったことも話したこともない子孫たちが、もしかしたら話題にしてくれるかもしれないが、それだってほんのわずかな間だけのことだ。だから虚しいとか、無常だとか言いたいのではない。好むと好まざるとに関わらず、そのように世界は回っていくということなのだ。

何のために、と問うことは虚しい。答えの得られる問いではなく、問い続けることにしか意義のない問いだからだ。死によって生は完結する。それまでは絶えず問い続けるしかない。

葬儀に出ると、あれこれと考えてしまうことが多い。普段あまり思わないようなことが次から次へと浮かんでくる。

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2016年6月10日 (金)

橋川文三について

近代史の学び直しを続けている中で、このところすっかりはまってしまったのが、橋川文三の文章である。松本健一のような息せき切った性急さみたいなものがほとんどなく、丸山真男みたいにすき間なく堅牢に構築された論理でかためられているわけでもなく、どちらかといえばウェットな感触を持っている。『昭和維新試論』の「序にかえて」で橋川は、次のように述べる。

「いわゆる維新者たちの人間性に多く共通してみられるものが一種の不幸な悲哀感であるということになる。朝日平吾がそうした例の一人であることはたしかであろう。いかにも感傷的な不幸者の印象をただよわせている。しかし、それはまた当時、右翼へ、左翼へ、もしくはアナーキズムへ奔った青年たちの多くに共通する要素でもあった。」

この評言は、そのまま橋川文三自身にもあてはまるのではないか。「感傷的な不幸者」という言い方は秀逸だ。バッサリと切り捨てることなく、論理性のみに走るわけではない橋川の文章が持つ魅力もまさにそれではないか。「一種の不幸な悲哀感」をもつ維新者たちへの共感めいた感情の揺れが橋川の文章にはあふれている。

学者の文体ではなく、小説家の文体というか文学者の文体なのだと思う。太宰治の文体が耳元で囁きかけられるような錯覚を呼び起こすように、橋川文三の文体も読む者を魅了してやまない息づかいを持っている。ある意味でこの文体の魅力は危険である。この人の言うことならどこまでもついていこう。そういう気持ちにさせるような不思議な感触を持っている。

この人の書く文章には、どこか寂しい風が吹いている。夕暮れ時に、帰り道を忘れてしまった子どもの孤独感と当惑感みたいな、切なくなる寂しい風だ。それゆえにいっそう心ひかれてしまう。こういう文章を書く学者がかつていたということに、これまでまったく気づかずに来てしまった。

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2016年6月 9日 (木)

保守的な

ものにはほとんどこだわることがない。と思っていたが、実はそうでもなかった。意外なものにこだわっているものがあった。毎日教室で使う採点用のボールペンである。

ゼブラのJIM KNOCKというボールペンの0.7ミリ芯を使ったものが定番で、赤・青・黒の三色を用意してある。換え芯もときどき購入して切れないようにしている。特別に使いやすいわけではない。書き味がいいわけでもない。ただ、何十年となく使っているというだけのことだが、こうなると別のボールペンを使ったときの書き味や全体の重さが気になってしまい、結果的に他のボールペンだとだめだという状態になっている。

同じゼブラのK-0.7という芯でも、たまにインクの出が良すぎて困るものがあったりするが、比較的品質のばらつきは少ないのではないかと思う。赤は採点用。青は解説記入や解き直し分の採点用。黒は記録用紙などの記入用と分けてきたので、いつも三本のボールペンを交互に使っている。授業の時は、もっぱら赤と青の二本が活躍し、黒の出番は少ない。

三色ボールペンを使った方がいいのかもしれないが、握りが太くなる点とカチカチ切り替えるところがあまり好きではない。JIM KNOCKはインクの減り具合が見えるので、そろそろインクがなくなるという時には予備のボールペンを用意しておく。私にとっては、こうして各色別々のほうが使い勝手がいい。

自宅にも実は同じボールペンの三色を置いているし、普段持ち歩いている仕事用のカバンにも三色入れてある。こうしてみると、ボールペンに関してはきわめて保守的だなあと思う。

結局、筆記具というのは指先の延長みたいなものだから、使い慣れたものが一番ということになるのかもしれない。おそらく人それぞれ、各人各様の定番というものがあるのだろう。

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2016年6月 8日 (水)

何が大事なのか

福島の甲状腺検査で新たにがんと診断された中に、事故当時5歳だった一人が含まれていたことがニュースで報じられた。福島県の検討委員会は「チェルノブイリでは0~5歳の年齢層でがんが多発した。福島ではまだ1人。すぐに放射線の影響が出たとなるわけではない」と説明している。検討委は以前にも「いま見つかっているがんは原発事故の影響とは考えにくい」としてきた。チェルノブイリ原発事故に比べて福島県民の甲状腺被曝が少ないことや、チェルノブイリでがんが多発した5歳以下にがんが発生していないことなどがその根拠らしい。

科学的な因果関係を証明することや、統計学的な数値解析をすることや、疫学的な調査をすることはもちろん大事なことであり、必要なことだと思う。しかし、科学的に証明できないから、統計学的に有意な数字が示されないからということで、「原発事故の影響とは考えにくい」「すぐに放射線の影響が出たとなるわけではない」と否定的見解を取ることが、果たして望ましいことなのだろうか。不確かな情報でいたずらに不安を煽ることは避けるべきだ。確かにその通りだ。だが、本当にそれだけでいいのか。

原発事故は実際に起きたのであり、参照すべき先行事例はチェルノブイリ原発事故しかない状態で、影響がないともあるとも断定的なことは言えないというのが実際だろう。しかし、ポイントは原発事故の起きたチェルノブイリや福島で甲状腺がんと診断された子どもが、実際に存在するということだ。数字ではなく、生身の肉体をもった一人一人の子どもが甲状腺がんと向き合わなければならないという現実だ。

科学的に証明されていないからではなくて、影響があるかもしれないからという方針で予防的な措置を講じていくのが筋ではないのか。公害病や薬害被害のケースを思い浮かべてみれば分かるように、因果関係が認められるまで何十年もかかり、その間に患者は一人また一人と亡くなっていった。病気で苦しむだけでなく、いわれのない差別に直面する場合もあった。それと同じような経路をたどることになるのだとしたら、救われない。

仮に原発事故の影響ではなかったと証明されたとしても、影響があるかもしれないとして予防的に取られた対策は大きな実害をもたらすことはないだろう。しかし、その逆だったら。原発の影響であることが何十年も経ってから証明されても、影響が考えられないとして取られらなかった措置を取り戻すことは不可能だ。

実際に被曝している福島の子どもたちのことを本当に心配しているのであれば、県や国は最悪の想定を前提に対処していくべきではないのか。

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2016年6月 7日 (火)

名刺

ふと思い立って名刺入れに入れっぱなしの古い名刺を整理してみた。名刺入れに入ったままのものは、この数年の中でもらったものが多い。それ以前の、ある塾にかつて勤務していたころ名刺交換でもらったものは、自宅の名刺ケースにしまってある。

一枚一枚名刺を並べてみると、ああこんな人にも会ったなあと思い出すこともあれば、どう考えてもどんな人だったか記憶が薄いものもあり、さまざまである。そういえば最近名刺交換などしていないなあ。狭い範囲でしか仕事をしていないことの証明みたいなもので、もともとそれほど社交的でもなかったし、そもそも名刺交換するような社会人としての常識みたいなものがあまり好きじゃなかったのだ。

もちろん社会人としての常識は一通り教えられた。最初に勤めた教材会社で、電話の受け方やあいさつの仕方みたいなものといっしょに名刺交換の仕方も教えられた。初めて手にした名刺はその会社の名刺だった。なんとなく急に社会人になった実感がわいてきて、やたら知り合いに配った記憶がある。その中の一枚が後でとんでもないことを引き起こした。

友人の元バイト先だった喫茶店の店長に渡した名刺が、ある飲み屋で使われて、飲み代のツケを請求にお店のママさんと若いホステスさんが会社に乗り込んできたことがあった。どうやら、その喫茶店の店長が私の名刺を出してなりすましたらしかった。応接室で待っていたママさんとホステス嬢は私のことを一目見るなり、「あら、この人じゃなくて、もうちょっと歳が上の人よ」と別人であることを分かってくれた。

二人が納得して帰った後、上司からこってりとしぼられた。「お前なあ、名刺はやたらに配ればいいってもんじゃないんだぞ。今回のことがいい勉強になっただろう」という説教はいまだに忘れない。飲み屋のツケの一件はその後どうなったか覚えていない。喫茶店の店長がなりすましていたことが、何かでばれたのではなかったかと思うが、よく覚えていない。

この一件以降、名刺を出すことには慎重になった。誰彼かまわず配ればいいというものでもない、というのは確かにその通りだと思う。

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2016年6月 6日 (月)

中間テストが終わって

1学期の中間テストが終わってテストが返ってきたばかりだが、思ったほど取れなかった教科、意外と取れていた教科、生徒によってもまちまちだ。教室で受けている科目はまずまずだが、それ以外の教科が全滅というケースもある。

大体のところが想定した範囲内なので、あまり驚くようなことはないのだが、今月は中総体の地区大会があり、そのあとに期末テストという流れなので、日程的には落ち着かない。そもそも中三生は四月から、修学旅行・体育祭・中間テストと連続しているので一息つく間もなく毎日が過ぎていくという感じなのかもしれない。だから、中総体の地区大会が終わって県大会への出場がなければ、やっと勉強に向きあう気持ちになるというところなのだろう。

しかし、年々公立高校の入試倍率が低下し、受験勉強に対する動機付けは難しくなっている。短期的なものだけでなく、高校に入ってからも勉強は続くのだから、その基礎になる学力を中学で身につけることが大事なのだということを地道に訴えていくしかない。

そういうことで言うならば、本当はもっと早い段階から学習に取り組む意識づくりが必要だろうと思う。中三生になってしかも冬休みの直前、場合によっては冬休み明けの入試直前の時期でもなんとかなるだろうという認識を、中学生自身も保護者の方も持っていることが多い。だが、入試のみに絞っても、早い時期から時間をかけたほうが確実に実力がつく。その先の高校での勉強まで見据えて考えれば、入試直前の短期間ではなく、少なくとも中三生になってすぐの時期か遅くとも夏休み前くらいからスタートするほうがよい。

長い目で学力をつけていくということが必要なのだが、実際には短期間で結果を出すことを求められる。そういったニーズに対応できなければ塾としての評価は得られないだろう。しかし、付け焼き刃の知識は、所詮付け焼き刃でしかない。本当の力がつかなければ実力試験や入試には対応できない。一つのことが身につくまでは時間がかかるものなのだ。促成栽培では本当の学力とならない。

とは思うものの、まず当面は期末テストに向けてしっかり得点できる部分を確保させなければならない。一つひとつの具体的な試験で結果が出なければ、勉強に向かう動機付けもうまくいかない。長期的な視点を崩さず、短期的な結果を出していかなければなとあらためて思う。

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2016年6月 4日 (土)

身体を動かす

家の北側の藪が伸び放題になってきたので、草刈り作業をした。機械を持っていないので、鎌を使った手作業である。笹竹と葛が主で、その合間にたらの木やら桑の木やらがにょきにょきと伸びている。桑の木などは数年放置しているうちに、ちょっとした木になっている。そういったものは、ノコギリでギコギコと切り倒し、半分とか三等分くらいにさらに切っていく。

厄介なのが葛である。相当な長さになっているのでズルズルと引き出してもきりがない。適当なところでバッサリと切っては引っ張りを繰り返す。このあたりから身体が悲鳴をあげ始める。汗もだらだらと出始める。しかし、今の時期に一度は草刈りをやっておかないと梅雨時から夏場にかけて悲惨な話になる。去年サボっていたら、藪がジャングルのようになっていた。こうなると、刈る気力も失せる。まだ、丈が低いうちなら何とかなる。

笹竹は刈りにくいが力任せにどんどん刈っていく。気がつくと、刈り終えて一箇所にまとめたものが小さな山になっている。背中と腰がメリメリと音を立てそうなくらい張っている。日頃運動不足だし、ロクに身体を動かしていないので、たまにこういうことをするとその反動も大きいのだが、やはりやるときにやらないといけないものだと思う。

黙々と身体を動かすというのは悪くない。身体を動かして作業に集中し始めると、余計なことは考えなくなる。汗と一緒に淀んだ思考も外へ流し出されていくような気になる。それはたぶん錯覚にしか過ぎないのだとは思うものの、日頃使わない筋肉を使い負荷をかけることは必要なことなのだ。脳に負荷をかけることは毎日のように行なっているが、同じように筋肉に負荷をかけないと身体全体のバランスは取れないのかもしれない。

藪の草刈り程度で筋肉痛だなどというのは、とんだお笑いぐさでしかない。いかに身体を使わず怠けていたか思い知らされる。ともかく、この手の片付け作業を日課にしてみようかと考えている。

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2016年6月 3日 (金)

スキャンダルにご用心

ベッキー・川谷問題は一段落したようだが、この手の芸能人スキャンダルは、私たちの生活そのものに何ら影響がないはずなのに、異常なほど盛り上がる。清原の判決にしてもそうだ。清原自身には立ち直ってほしいが、彼自身の問題であり、基本的に私やあなたの毎日がそれでどうこうなるわけではない。

しかし、分かりやすいネタであり、場合によっては大いに盛り上がる共通の話題となる。人びとの興味や趣味が多様化し、なかなか共通なものが見つけにくいときでもスキャンダルは、みんなが乗れる格好の話題となる。

そうやってスキャンダルにみんなの目が向いているうちに、いろいろな他の問題がうやむやにされてしまう。たとえば甘利大臣のUR(都市再生機構)をめぐる疑惑はどうなったのだ。入院して以来パタリと報道が減った。東京オリンピック招致に関連した買収疑惑はどうなったのだ。人の噂も七十五日。ほとぼりが冷めたころに関係者がひそかに表舞台に復帰していたなんて話はザラにあることだ。

人は二つのことに同時に注意を向けられない。一つのことに目を奪われてしまうと、別のことには意識が向かない。だから、世間を騒がせるスキャンダルが大きく取り上げられるときは、その一方で何か都合の悪い事態が進行しているのではないかと疑ってかかったほうがいいのかもしれない。

これは別に芸能人スキャンダルでなくてもいいのだろう。たとえば、ときどき大きく報じられる食品の偽装問題。もちろん廃棄処分されるはずの食品が市場に出回るような悪質な問題は、大きく取り上げられるべきだ。が、いつだったか騒がれたように「食材」でブラックタイガーを車エビとして出していた程度の偽装は、三面記事的な扱いで軽く取り上げられるくらいが適当な話である。それをとんでもない悪質な問題であるかのように取り上げて、おおげさに騒ぎ回るのはどうみてもバランス感覚を欠いている。

食材偽装の話を針小棒大に取り上げるより、もっと悪質な、明るみに出されなければならない政治がらみの事件や政治上の問題があるだろう。そちらが注目を集めないように、たいしたことではないことがらを大々的に報じる。何というかこれは、詐欺的な大衆操作ではないのかと勘ぐりたくなる。

参院選が政権与党に不利な形勢になってきたら、選挙から目をそらすために、どーんとでかいスキャンダルをぶちあげればいいのかもしれない。沈静化したスマップ解散騒動とか、なんならAKB48を解散するとか。あるいは、北朝鮮による挑発行為や、中国による尖閣諸島周辺での示威行動など、何でもいいから人びとの感情を釣るような出来事を誘発させるという手もあるかもしれない。

その程度のことですぐふき上がってしまうレベルの国民だと見られているわけですよ。なめとんのか、コラァとわれわれはもっと怒らないといけません。スキャンダルごときに釣られてはいかんのですよ、実際。

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2016年6月 2日 (木)

いよいよ参院選モードに突入か

通常国会も閉会したようで、これからは七月の参院選に向けて選挙一色となっていくのだろう。参院選の争点を、自民党は「アホのミックス」失礼「アベノミクス」の成果を問うとしているが、民進党を始めとする野党は「アベノミクス失敗」「安保法制の見直し」「憲法改正の是非」を争点とするようだ。

消費税10%の先送りは、明らかにアベノミクスの失敗でしかなく、公約を果たせなかったという事実は変えようがない。それを姑息なやり方で糊塗しようとするから、ますます醜態をさらすことになるのだが、現政権はそう思っていないようだ。リーマンショック前と同じような危機的状況にあるとでっち上げなければ、消費税の増税を延期する口実がみつからないので、サミットを国内政治のために利用する。こういう姑息なやり方でも国民の目を欺くことができると考えているということだろう。

国民は政権担当者からなめられているのであり、どうせ参院選をやっても投票率は低いだろうし、野党が統一候補を出しても支持は取り付けられないだろうと思われているわけだ。確かに、直近の国政選挙である衆議院総選挙の投票率を考えると、今回の参院選の投票率が劇的に上がるとは考えにくい。

しかし、今回の参院選は結果次第で歴史的な国政選挙になる。だから、憲法改正に賛成でも、反対でも、どちらかきめられないという立場でも、議論の時間を確保するために改憲勢力に議席を与えてはならない。そうしなければ、議論の余地なくどんどん改憲が進められていくからだ。秘密保護法案や安保関連法案の審議過程を思い出してもらえれば、どういう流れになるのか歴然としている。十分な審議がつくされていないのに、強行採決でどんどん決まっていく。まずは、この流れを止めなければ、議論そのものが十分に出来ない。

参議院で改憲勢力が三分の二以上の議席を確保すると、自民党案による憲法改正の発議が行われる可能性が極めて高い。おそらく、緊急事態条項の新設が真先に行われる。これが発議され国民投票で過半数の賛成を得ると、熊本大分大地震のような災害を口実に緊急事態が宣言され、内閣の政令でどうにでもできる体制が整ってしまう。憲法改正問題というと第9条に目が行きがちだが、9条問題に関してはすでに解釈改憲で「集団的自衛権」が行使できるということにしてしまったので、あとからでも構わないと判断しているのだろう。それよりもまずは反対者を一気に黙らせる「緊急事態条項」である。

問題は、そういった可能性のある憲法改正を着々と準備しているということ。気がつけば戦前の翼賛体制みたいになってました、ではシャレにならない。そうなってしまってからでは遅い。少なくとも現政権は、「立憲主義」を公然と無視していくという一点において、近代的な政治の原則から遠いところにいる人びとによって担われていると思わざるをえない。

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2016年6月 1日 (水)

鹿が…

教室に向かおうと自宅を出て国道4号線に抜けるいつもの道を走っていると、前方に動物が…。えっ、あれは、どうみても鹿だ。なぜ、鹿?この辺に鹿が住めそうな山があったっけ?呆然としながらとりあえず速度を落とす。やれやれ。と思ったのも束の間、目の前をもう一頭の鹿が横切る。あわててブレーキをかけ何とか衝突だけは避けられた。

二頭の鹿はそのまま道路左脇の水田に下り、伸び始めた早苗の中を悠然と駆けて行く。しばし車を停めて呆然として眺めた。あれは、犬ではないよな、確かに鹿だよな。どうしてこんな所に鹿が。いくらのんびりした田園地帯とはいえ、鹿が住むような里山も近くにないのにいったいどこから来たのだろう。

それにしても、道路を横切る前にお約束のようにこちらに顔を向けて、いかにも「鹿ですが、何か」と言いたげに立ち止まっていたのは何なのだろう。ふと、山上たつひこの「八丈島のきょん!」というギャグを思い出してしまった。何のことか分からない人は、お好きな検索エンジンで調べてみてください。

あまりにも非現実的な光景に遭遇すると、たぶんこんなふうに人は呆然とするしかないのだろうな。笑ってしまうしかないではないか。そのうち巨大なUFOとかに遭遇したりして。これまた非現実的すぎて、その場で思考が停止してしまいそうだなあ。そういえば、以前、すぐ前を走っていた車のタイヤがはずれて道路脇をコロコロコロと転がっていくのを目撃したこともあった。何にしてもめったにないことではある。

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