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2016年5月29日 (日)

古典の底力・その28

人でも時代でも年数を区切るときには十年ごとの刻みがよく使われる。確かに十年も経てば人も物事もがらりと入れ替わっていたりするのだから、十年の刻みというのはそれなりに便利な区切りなのかもしれない。

しかし、人の生涯を区切って考えるときには別の区切り方もあるという話をどこかで読んだことがある。それは『論語』に出てくる孔子の有名な一節、

子曰、吾十有五而志乎学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所欲、不踰矩       
(『論語』  為政)

これを引用しての話だった。

十五で学問に志し、三十で一人前となり、四十になってあれこれ迷わず、五十で天命をわきまえ、六十になって人のことばが素直に聞かれ、七十になると思うままにふるまって道をはずれないようになったという内容だが、最初の区切りが十五年ずつであるのがおもしろい。

三十までは十五年ずつ、三十からは十年刻み。孔子は別に奇をてらって言ったわけではないだろう。学問に志すのに十五年かかるのだから、その学問が一人前となるのにも同じくらいの時間がかかると考えれば、もう十五年加えて三十ということなのだろう。その先は区切りよく十年ずつ。

ここで孔子が言いたかったのは、教訓でも説教でもなく、自分の生涯をふり返った素朴な感慨なのではないかという気がする。この通りに歩めということではなく、このように私は歩んできたという述懐ではないか。それでいてやはりひとつのモデルとなる区分ではある。弟子たちにとっても、おそらく、その年代になったときに自分も師と同じような所に至っているだろうかと振り返る目安になったのだろう。

簡潔であるがゆえに普遍性を感じさせる内容である。だから現代でも「而立」や「不惑」という言い方はしっかりと根付いて残っているのだと思う。本来の意味、つまり孔子が述べていた元々の意味から多少遠ざかってはいても、やはり「不惑」という言葉を目にすると、四十代になった人は、それまで自分がやってきたことを顧みてこの道でよいのだと思ったりする。

もう数年すると「耳順」に至る。さてさて、人のことばが素直に聞かれるようになっているだろうか。その先の、思うままにふるまって道をはずれない境地となると、さらにぼうっと霞んでしまう。まだまだ先は長い。

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