やれやれ
『ノルウェイの森』が出版された1987年、私は結婚してニ年目だった。まだ三十歳には少しだけ間があり、それから先にどういうことが待ち受けているのかなど毛程も気にしていなかった。つまり、その先にのびていく時間の長さは何となく分かっていたものの、それをあれこれと深く考えてみることなどなかったという気がする。
それは今から考えれば幸福な時間だったと言える。今が不幸だというわけではない。けれども、どう考えてもこれから先の手持ち時間は、あの頃の半分くらいのものだろう。いろいろな物事がまだ新鮮で、手垢にまみれていなくて、心を重くするようなものは、自分の内側にも外側にも少なかった。
村上春樹の小説を読むとどうしてもこういう気分になる。自分の中の失われてしまったものや損なわれてしまったものに否応なく向き合うことになるからだろうか。失われていないもの、損なわれてはいないものもあるのだが、喪失したものへ目がいきがちになる。年齢を重ねることというのは、何かが失われていくことの言い換えでしかないのかと思ったりする。それを嘆いているのではない。あきらめとも異なる。やむを得ないことなのだと受け入れるしかないことがらなのかもしれない。
きちんとねじを巻く必要があったときにねじを巻かないで過ごしてしまった。その時間をさかのぼって取り戻すことは不可能だ。後悔していないわけではないが、後悔しても始まらない。だから、「われ事において後悔せずなのだ」と言ったのは坂口安吾だったか。
こんなふうに村上春樹の小説を読むと、どこかで何かのスイッチがパチンと入ったように、普段考えることもなかったようなことが自然と浮かんでくる。そういうものを喚起する力が強いのだろう。村上春樹の作品にひきつけられる人が多いのは、おそらく、触媒のように作用してある種の感情を喚起するこの力によるのではないか。
『ノルウェイの森』の再読は、あと少しで終了となる。中盤から後半のエピソードの数々は細部をほとんど記憶に留めていない。それゆえ、新鮮な気持ちで読み返している。たぶん二十代の終わりに読んだときには気にもとめなかったであろう描写の数々がとても印象深く感じる。
年齢を重ねてから再読するというのは、こういう新たな発見や興趣につながるのだなとしみじみ思う。細部の考察については、いずれ後日じっくりやってみるつもりでいる。
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