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2016年4月 5日 (火)

「たそがれ」あるいは「かはたれ」

つい先日終わってしまった『昭和元禄落語心中』というアニメが、とてもおもしろかった。第一回が始まるときに、ちょうど帰省していた息子に教えられて一緒に観ることになったのだが、昭和の落語の世界をしっかりと背景に置き、落語のネタの選び方もなかなかシャレていた。惜しむらくは、放映時間の関係でやむを得ないのだろうが、古典落語の一席をそのまますべて語らせることができず噺のエッセンスだけを抽出して紹介していた点だ。これだと落語ファンはすぐに「ああ、あの噺か」と分かるものの、そうでない人には何のことか意味不明なままだったのではないか。八代目有楽亭八雲が得意とする「死神」にしても、サワリだけなので、この噺のおもしろさが十分に伝わらないのが残念だった。

それはそれとして、後の八代目有楽亭八雲となる菊比古と、二代目有楽亭助六となる初太郎こと「信さん」とのほろ苦い友情の描き方がたまらなくよかった。対照的なタイプの二人の落語家。菊比古は、おそらく六代目三遊亭圓生や三代目古今亭志ん朝などがモデルとなっているのだろう。一方の初太郎(助六)は、五代目古今亭志ん生や自称五代目の立川談志などがモデルだろうか。「人情噺」をやらないという助六の設定は、八代目桂文楽にも通じるところだが。その助六が第十二話で人情噺「芝浜」を演じた。これはなかなか切ない場面だった。

この『昭和元禄落語心中』のエンディング・テーマが『かは、たれどき』という曲だった。澁江夏奈さんの作曲・編曲になるスロー・バラードで、トランペットの柔らかな響きが耳にのこるいい曲だ。エンディングのタイトルロールも、曲と一体になってじわりと郷愁を呼び起こす映像となっていた。

「かはたれ」という言葉は「たそがれ」と同義だ。どちらも「あれは誰?」というのが直訳となる。つまり、「か(彼)はたれ(誰)」であり、「た(誰)そかれ(彼)」である。夕闇が降り始め、はっきりと人の姿の見分けがつかなくなってきたころの時間帯を指す。

「たそがれ」は、漢字で書けば「黄昏」だが、「かはたれ」や「たそがれ」という言葉を目にすると何とも名状しがたい感触に包まれる。なぜだろう。昭和の昔の子どもたちは、黄昏時まで外で遊んでいた。「じゃあ、また明日」と別れをつげてそれぞれの家路を急ぐころ、街灯が灯り始め、どこかの台所から夕飯の仕度をする匂いが漂ってきたり、茜色に染まった西の空を眺めながら明日もいい天気だと思ったり、そんな記憶と結びついているからなのか。それもあるのかもしれない。

あるいは、すっかり夜の闇が降りてしまう前のほんのひと時だからだろうか。人や物の姿がぼんやりとながらもまだ見える時間帯。だんだん輪郭がぼやけて見えなくなっていくのは分かっている。しかし、まだ今少しの間はかすかに姿が分かる。境界の時間。人も時代も、そういう「黄昏」の時間に差しかかってきたと意識すると、来し方行く末のことが何となく思われてしまう。「明日もいい天気だ」と子どもの頃のように無邪気に思ってばかりいられなくなった。年齢を重ねるというのはそういうことなのか。

【追記】
「たそがれ」は主に夕方、「かはたれ」は主に明け方に用いるようです。アニメのエンディングからどちらも夕暮れ時だろうと思い込んでいました。

本来はどちらも人の姿の見分けがつかない時間帯を表していたのが、「たそがれ」が主に夕方に定着すると、「かはたれ」が明け方について用いられるようになったとのことです。

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