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2016年4月 8日 (金)

そういえば

前回「文春学藝ライブラリー」の話を取り上げたときに、山本七平の『聖書の常識』と『小林秀雄の流儀』、岸田秀との対談『日本人と「日本教」について』にふれたが、そういえば山本七平の本はいつから読み始めたんだろう。

たぶんイザヤ・ベンダサン名義で出した『日本教について』が最初だと思う。同名義のものでは『日本人とユダヤ人』が代表作で、よく知られたものだろう。ところが、この有名な著作は読んでいない。何と言っても、一番初めに読んだ『日本教について』が、私にとっての「山本七平」だ。

どういう経緯でこの本を読むことになったのか。すぐ近所に妹の同級生の家があり、小さい頃からよく遊びに行っていた。そこの家のお父さんが教育に熱心な人で、「こういう本を読んでみるといいよ」と、さまざまな本を貸してもらったり紹介してもらった記憶がある。あ、ということは、さっき読んでいないと言った『日本人とユダヤ人』も借りて読んでいるかもしれない。たぶん、それがきっかけで『日本教について』を読むようになったはずだから。

手許にあるハードカバーの本は背もすっかり日にやけ、小口は茶色に変色してしまっている。奥付を見ると、1976年の版を買っているので、高校二年か三年のときだ。当時の値段で880円となっているが、これは今のどれくらいの金額にあたるのだろう。文庫本が250円から300円ぐらいだったような気がするから、今の三分の一から四分の一くらいと考えると、2500円から3000円くらいに相当するのかもしれない。ハードカバーで買っているのは、単に文庫になっていなかったからだろう。高校生には結構な出費である。そのせいもあるかもしれないが、とにかくこの本は繰り返し何度も読んだ。

繰り返し読んだのは、元を取ろうというセコイ考えだけでなく、この本の中の議論がやたら面白かったからだ。特に朝日新聞の本多勝一との論戦が印象深い。南京大虐殺をめぐる双方の主張と攻防が、囲碁や将棋やチェスの対局のように繰り広げられていた。そこにあるのは、一つの歴史的事実をめぐる論理的な考察のぶつかりあいだった。

この本多勝一との論争だけでなく、全編を通じて学んだことは、論理的に考えることと相対化して考えることについてだった。あるユダヤ人の目から見た日本人と日本社会という設定で、無意識の前提となっているもの(それが同書で「日本教」と呼ばれているものだが)が目に見える形に抉り出されていく。その一つひとつが新鮮な驚きだった。

三つ子の魂なんとやらではないが、高校時代に繰り返し読んだこの本の影響は計り知れない。「陽のもとにあたらしきものなし」という絶対化を避けるものの見方や、のちの『「空気」の研究』に通じていくような、同調圧力に抗して「水をさす」視点の重要性など、振り返るとみなこの本から学んだことではないかと思える。

そこから手を広げて関連する書籍を読破していたらもっと論理的な思考力がついたのにと、今さらながら残念に思う。若いころは、あれもこれもと興味がありすぎて、一つのことに集中して沈潜していくことができなかった。有り余るエネルギーと時間を、これと定めたことに注ぎ込んでいたら、もう少し違った人生になっていたかもしれない。それを後悔しているわけではない。ひとが生きていく過程というのは、無数の取捨と選択から成り立っている。選ばなかった道を後からあれこれ言っても何もいいことはない。それより、今を生きている若い人たちに同じ轍を踏んでほしくないという思いが強い。結局こうやって説教じみた話になるのは自分でも嫌になるが、残り時間のほうが少なくなってきたなという感触を持つようになると、これから先の時間が長い人たちに、余計なおせっかいをやきたくなるものである。

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