« 「たそがれ」あるいは「かはたれ」 | トップページ | そういえば »

2016年4月 6日 (水)

気になる文庫

一年ほど前から始めた近代史の学び直しの中で、おやっと思う文庫に出会った。2013年10月から発売されている「文春学藝ライブラリー」である。

書店の文庫コーナーをぶらぶらしていると、茄子紺のカバーに白抜きの背文字が並ぶ一画がふと目についた。中に夢野久作の『近世快人伝』がある。頭山満や杉山茂丸(夢野久作の実父)など玄洋社に関係する人物を取り上げた評伝で、かなり面白い。玄洋社って右翼の源流じゃないかと拒否感をおぼえる方もあるかもしれない。しかし、右左の思想的な立ち位置をとりあえず棚上げして明治の青春群像として読むと、現代では考えられないような破天荒な生き方に、ある種の痛快さを感じる。杉山茂丸の息子だけあって、玄洋社系の人物の姿は的確に把握されている。夢野久作は、それをやや誇張した、ユーモアにあふれる筆致で流れるように描いていく。この『近世快人伝』の中で、どうしても忘れられない印象を残すのは玄洋社の奈良原到の評伝である。

明治十年、鹿児島で挙兵した西郷隆盛に呼応して福岡城下でも武部小四郎らが蜂起する。しかし結果は失敗に終わり、逃亡の末、武部は逮捕され処刑される。その武部小四郎の処刑の朝、同じ獄舎につながれていたのが、武部を先生と仰ぐ奈良原到ら健児社の少年たちだった。刑場に向かう武部が少年たちに向かって絶叫する場面は胸を打つ。そして、その武部の最期の叫びが自分の「臓腑《はらわた》の腐り止めになつて居る。」と始まる奈良原到の述懐が続くのだが、この奈良原の述懐は『近世快人伝』の白眉である。この部分だけ読みたくて何度もこの文庫を手に取ってしまう。そこに込められた一人の明治人の思いには、打算も何もない。師弟の絆とはこのようなものだったのだという深い感慨に捉えられる。

夢野久作の『近世快人伝』は、これまで「夢野久作全集」(三一書房)に収められているものでしか読めなかったと思うのだが、この「文春学藝ライブラリー」で容易く読めるようになるとは思っても見なかった。

同じ「文春学藝ライブラリー」には、橋川文三の『西郷隆盛紀行』も入っている。これもいろいろと刺激を受ける一冊だった。西郷隆盛の人物像を追って、橋川文三が鹿児島から奄美、沖永良部へと巡りながら考えたことがまとめられているのだが、その中で特に奄美で島尾敏雄と交わされた対談が興味深かった。橋川文三のこの文章を読むまで知らなかったが、島尾敏雄は福島出身であった。その島尾が橋川に、日本は南西諸島と大和と東北日本の三つの国から成り立っていたと考えたほうがいいと述べている。東北は長い期間中央に抗していた独立区域であり、南西諸島は中国や東南アジアに開かれた区域であったという。状況は異なるが、沖縄と福島が現代日本の抱える問題を集約したような土地になっていることが自然と頭に浮かぶ。近代の百年以上の時間を経ても何も変わっていないのじゃないか、そんな気持ちになる。

この他に、山本七平の『聖書の常識』『小林秀雄の流儀』、山本七平と岸田秀の対談『日本人と「日本病」について』も同じライブラリーに入っている。『聖書の常識』は、日本人にとって理解しにくい旧約聖書の世界を懇切丁寧に解説してくれる一冊である。余計なものを読むよりこの一冊読めば、聖書の根幹はしっかりと把握できるだろうと思う。山本と岸田が対談した『日本人と「日本病」について』は、今読んでも秀逸な日本人論だと思う。敗戦を迎えても根本的に何も変わらなかった日本人の精神構造は、大震災と原発事故を経験しても結局元の木阿弥にしかならなかった現代までそのまま引き継がれている。ある意味絶望的な気分にもなるが、それでも山本と岸田が、鋭いメスで腑分けしていくやり取りには、その絶望的な気分を打ち破る知的刺激がある。

そして何よりも『小林秀雄の流儀』である。山本七平と小林秀雄という見慣れない組み合わせにギョッとして思わず手を伸ばして頁をめくり始めると、止められなくなってしまった。そもそも山本七平は、他の文章で小林秀雄に触れたことはほとんどなかったはずだ。小林秀雄を語るその文体も、いつもの「山本節」ではない。論理的で分析的で、比較対照する視点を忘れない山本七平が、小林秀雄に関しては主意的にというか主観的にというか、かなり肉声に近いような文章を書いているとは想像もしなかった。

優れた小林秀雄論であり、なぜ山本七平が小林秀雄をそれほどまで読み込んでいたのかよく分かる一冊であるが、私にとっては相変わらず「異色な」山本七平である。よく知っていると思っていた人の、まったく知らなかった意外な一面を目にした時のあの驚きである。しかも、さらに驚いたのが、難解だと思っていた小林秀雄の文章が「よく分かる」のだ。これは山本の引用のし方が適切だからなのか、それとも小林秀雄の文章がもともと論理性に富んだものだったのか。とにかくこれも意外な発見だった。ちっとも分かりにくくないのである。これなら、あれほど大学受験の頃に苦しめられずに済んだのにと、今さらながら思ったりする。

福田恆存、江藤淳もラインナップに並ぶ。なんだ保守的な作家ばかりじゃないかと片付けるのは簡単だが、このライブラリーには隠れた名著が並んでいる。これからどういう作品が文庫化されるのか楽しみにしている。

|

« 「たそがれ」あるいは「かはたれ」 | トップページ | そういえば »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 気になる文庫:

« 「たそがれ」あるいは「かはたれ」 | トップページ | そういえば »