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2016年3月31日 (木)

書を読む日々

28日月曜日に春のゼミも終わり、今日は今年度最後の日。明日から四月。ではあるのだが、例年のごとく、受験生の抜けてしまった教室は閑散としてやけに広く感じる。それでも、桜の花が咲きそうなくらい暖かい日が続いているためか、こまごまとした雑務を少しずつ片付けていこうと身体を動かすのもあまり苦にならない。

受験生の指導準備に追われていた時間がぽっかりと空いて、久々に本を読む時間が増えた。去年から始めた近代史の学び直しは、まだまだ先が長い。あと二百冊弱、リストに書きだしてみた本を読み終わるのは一体何年先になるのか。気の長い話ではある。しかも始末の悪いことに、多く読めば読むほど新しい本が加わり、リストはどんどん長くなる。これでは「逃げ水」を追いかけているようなものだ。

しかし、それもまた楽しからずや、である。どこまで行っても終わらないというのは、いい。それはいやだ、という感じ方もあるに違いない。それもわからないではないが、すぐに終わってしまう楽しみはもっと強い刺激を求めることになりがちで、同じ楽しみでも刺激や欲望の果てしなさというのは、なんだかなあと思う。細く長くちびちびと、ちょっとずつかじるようにして同じテーマの本を読んでいくと、強い刺激はなくとも知的な刺激が絶えずあり、そこからさらに枝分かれして興味が広がっていく。こういう果てしなさがいいなと思う。

それは日々生きていることが「学ぶ」ことの連続だからではないか。生きる=学ぶ、と考えると学ぶことが終わるのは生きることが終わる時ということになる。90歳すぎまで毎日4時間以上もピアノを練習していたという、ジャズピアニストのハンク・ジョーンズのことを思い浮かべる。いくつになっても、「学ぶ」ことはあるのだ。もっとうまく弾けるようになる、だから毎日練習する。秋吉敏子も同じようなことを言っていた。

誰かに強いられているわけでもなく、ただただ興味があるから読んでいる。だから学術的な厳密さや正確さを求めて読んでいるわけではない。風の向くまま気の向くまま、である。脇道に入り込んで道草をくうのも、これまたよろしからずや。いつか何かの役に立つなどということも当てにしていない。授業の役に立つかもしれないと一瞬思ったりもするが、中学生に日本の近代化の過程を延々と講義し始めたら、受験までに問題集が終わらない。商売と趣味は別だ。学ぶこと自体が目的化している、ということなのかもしれない。

桜の咲きそうな暖かい陽射しをあびながら、今日もまた頁をめくろうと思っている。

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