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2016年3月21日 (月)

杞憂・その2

日経ビジネスオンラインの柳瀬さんの話で面白かったのは、進化生物学者ロビン・ダンパーの「ダンパー数」の話だった。われわれ人類の脳は旧石器時代のころからさほど進化しておらず、顔と名前とどういう人物か把握できるのは、どうやら150人が限界なのだという。さまざまな組織やSNSのしくみにもこの「ダンパー数」の概念が用いられているらしい。

で、どうも人間集団の把握に限らず、われわれが物事を把握できる限界はこの150というダンパー数に近いのではないか。つまり処理できる情報の量が思いのほか小さいということだ。そこに入ってくる情報量が飛躍的に増えても、限界を越えた情報は把握できないことになる。そういえば、最近「一発屋」が多くなったような気がしていたが、パッと流行ってパッと消えていくものがあふれているのもうなずける。目新しいものもすぐに色あせて古びてしまい、瞬間的な刺激としてかすかな痕跡が残ればいいほうだ。つまり理解力や記憶力が劣化してきたのではなく、外から入ってくる情報量が多すぎて消化不良を起こしているということなのだ。

同じことが、学力の低下について言えるのかもしれない。国語の読解問題が解けない生徒を見ていると、漢字が読めない、語句の意味が分からないという基本的な問題がもちろんあるのだが、読みが分かり語句の意味がつかめても文章全体の意味が把握できない。字面をただ追いかけているだけで、何を言っているのかまったくつかめていない。一体何が原因なのかと思っていたが、あふれかえる情報に囲まれて、瞬間的な、表層的な情報の処理に日頃から慣れてしまい、深い「読み取り」ができなくなっていたということなのだろう。

理解できていないものは覚えられない。だから、国語に限らず社会や理科でも中身が理解できていない用語は、残らない。その覚えるということに必要なのが、情報量を絞るということなのだと思う。料理で考えるとイメージしやすいかもしれない。一度に数多くの料理を大量に出されても食べきれない。仮に食べたとしても一つひとつの料理の印象は薄くなる。限られた品数の料理であれば、美味しいと思った印象も強くなるだろう。

タブレット端末を使った授業がこれから増えてくるということが言われている。情報の扱い方を学ぶという点ではよいだろうが、学習の補助的な手段でしかないと認識すべきなのではないか。タブレット端末を使うことで学習内容の定着が進むとはどうしても思えない。時代の趨勢に逆らう旧時代の塾屋のたわごとだと笑いとばしてもらってもかまわないのだが、人間の脳そのものが旧石器時代からたいして進化していないのだから、タブレットを使うという見かけの新しさにだまされてはいけない。

手際よく検索して見つけた情報をコピーしても、当人の学力とはならない。情報の内容を理解し、蓄積し、別の情報との連関を自分で見つけるという時間の堆積がなければ知性は磨かれない。手早く外部情報を借りてくるという作法が日常的なものになりつつあるだけに、それとは逆の作業を課すことこそ必要なことなのではないか。

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