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2015年10月25日 (日)

視覚と触覚

『石川淳 コスモスの智慧』(加藤弘一、筑摩書房、1994年)を図書館で見つけて読んでいると、面白い記述に出会った。哲学者中村雄二郎の「共通感覚」に触れながら視覚について説明した部分である。

 中村によれば五官の基底には、皮膚感覚、筋肉感覚、運動感覚、さらには内蔵感覚をふくんだ広義の触覚があり、彼はこれを「体性感覚」と呼んでいる。今日の知見によれば、触覚とはまったく無関係に見える視覚ですら、この広義の触覚(体性感覚)を土台としなければ成立しないことが明らかになっている。
 たとえば、生まれながらに盲目だが、手術によって視力を獲得した途中開眼者は、網膜に映像がちゃんと結像しているにもかかわらず、そのままではまったく物を見わけることが出来ないという。単なる光の刺激が視覚像としてまとまりをつけていくには、見ている物に実際に触れるという能動的行為を通じて、運動感覚をふくんだ広義の触覚と網膜像とを統合していく過程が不可欠なのである。(後略)
(『石川淳 コスモスの智慧』加藤弘一、筑摩書房、1994年 p58)

この箇所を読んだときに、そういえばどこかで似たような話を聞いたことがあるなと思った。中野翠の『よろしく青空』(毎日新聞出版)というコラム集で、解剖学者三木成夫の『胎児の世界』(中公新書)にふれてこんなふうに書いていた。人間の体は内臓系と体壁系の二つにわかれ、内臓系は吸収と排泄をつかさどり、肝臓と腎臓がその柱で全体の代表は心臓。体壁系は感覚と運動をつかさどり、その代表は脳髄。そして、三木成夫によると、こころは内臓の動きにあって脳にはないとのこと。

中村雄二郎の「体性感覚」とは少し異なるが、視覚も触覚も体壁系の感覚で脳との関連があるというわけだ。そうすると、上記引用のなかに挙げられていた途中開眼者の例も、不思議な話ではなくなる。それどころか、単に刺激を受動的に処理するだけの感覚と思われていた視覚が、実は見えるものに触れるという能動的行為を通さないと、視覚像としてのまとまりがつけられないというのは、何か示唆的だ。

そういえば同じような話をもう一つ思い出した。ビデオニュース・ドットコムで神保哲生が、全盲だった人が手術によって目が見えるようになったのに、りんごの絵を見てもりんごだと分からなかったという何かのエピソードを紹介していた。立体的なりんごが平面上に描れたものを見て、それがりんごだと分かるのは実は触覚を通じて網膜像との統合が出来上がっているからなのだろう。それまで触覚でしかりんごを把握していなかった全盲者にしてみれば、視覚像としてのりんごがすぐにはそれと結びつかないわけだ。

加藤弘一の『石川淳 コスモスの智慧』は、少し難解だが興味深い本だ。論評することが難しい石川淳の世界を、朱子学の理気二元論を軸として解読していく。孟子の朱子註が引用されたりする一方で、メルロ・ポンティやジャック・ラカンを引いての解説もあり、それぞれの内容に通じていないと完全な理解は難しいのかもしれないが、このような視点から(特に朱子学の理気二元論から)石川淳を読み解いた文章は目にしたことがなかったので、新鮮である。

ながらく石川淳の小説を読んでいないが、久々に何か読んでみようかという気持ちになった。

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