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2015年10月10日 (土)

秋日読書雑感

今月に入って読んだ本。すべて松本健一の著作ばかり。
 『日本精神史への旅』
 『砂の文明・石の文明・泥の文明』
 『右翼・ナショナリズム伝説』
 『日本の近代──開国・維新』
 『昭和に死す──森崎湊と小沢開作』

中高生の定期試験が一段落したので、読むことに集中できる。それにしてもこうしてタイトルを並べてみると、ちょっと危なそうに見えて苦笑してしまう。北上と水沢の図書館から借りられるので、読もうと思っている本の大半は手に出来るのだが、上の五冊に続いて現在借り出しているのは、同じく松本健一の『隠岐島コミューン伝説』『「日の丸・君が代」の話』。

同じ論者の著作を読み続けていると、タイトルだけで大体内容の当たりがつくようになる。最初の『隠岐島コミューン伝説』は、幕末・維新期に隠岐島に成立した農民たちを中心にした自治組織の詳論だろうし、後者の『「日の丸・君が代」の話』は、かつて「日の丸」は武将たちの旗印の一つであったが、幕末になり幕府や諸藩が大型船を購入するようになると、船の国籍表示のために掲げる旗が必要となり「日の丸」が用いられるようなったという話や、戊辰戦争のときに薩長は錦旗(錦の御旗)を掲げ、幕府側は「日の丸」を掲げたという話などが出てくるのだろうなと想像できる。

それはさておき、近代史関係の本ばかり読んでいると、日本の近代が通らなければならなかった道をどうしても考えさせられる。アジアに押し寄せる西欧の帝国主義の波に、インドも中国(清)も東南アジアの諸国も呑み込まれていく。極東に位置していたという地理的な事情も幸いし、日本は最後に欧米諸国に対面することになる。開国するにあたって維新政府の指導者たちの意識にあったのは「富国強兵」であり、近代化を急がないと日本もインドや清のように植民地化されてしまうという危機感だった。そこから亜細亜主義的な発想も生まれてきたのだと思うのだが、岡倉天心の「アジアは一つ」という言葉に触れて松本健一が述べていたように、天心にはアジアは欧米諸国の植民地になっているという屈辱において一つなのだという認識があった。それが、たとえば大川周明ならば「日本を盟主としてアジアは一つ」なのだという日本主義的亜細亜主義へと変質していく。アジアを欧米の帝国主義支配から解放するという意識が、欧米に代わって日本が帝国主義支配することを正当化していく流れに転化されていく。

ただしこの変質や転化は、個人においても組織においても微妙な均衡の中で、あるいは不分明な混淆の中で進んできたのだと思われる。たとえば満州国の成立にしても、柳条湖事件が関東軍の謀略だったことをもって、最初から傀儡政権の樹立を目指していたと勘違いされやすいが、実際は、民族の協和という理想主義的な立場から動いていた人々が関東軍参謀の石原莞爾と結びついていく動きが出発点となっていた。その立場からすれば清朝最後の皇帝だった溥儀を皇帝とした満州人のための国という方向は受け入れがたいものだったはずだが、東條英機や岸信介らが満州経営の実権を握るに従って、傀儡国家満州国へと変質していった。もちろん、「民族の協和」という理想主義的な立場の中にも日本を中心に考える日本主義的亜細亜主義の要素が皆無ではなかっただろうし、関わっていた人々の思わくも単純にひとくくりできるものではなかったとは思われる。しかし、後に東條らが進めたような露骨な傀儡国を当初から目指していたのでないことは確かなようだ。

というように、まだまだ今年は近代史の学び直しが続きそうだ。

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