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2015年10月24日 (土)

啄木って…

松本健一が石川啄木について書いた短い論評を読みたくて、河出書房新社の新文芸読本『石川啄木』を図書館から借り出した。論じられている内容自体は、松本健一の他の著作で述べていた事柄と重なっているので、どこかで読んだなあという感じだった。

それよりも、いろいろな人が石川啄木について書いたさまざまな文章や、安野光雅と澤地久枝の対談などが面白かった。それにしても、啄木って「ダメ男」だなあ。函館に残してきた家族が困窮しているのに、浅草の私娼窟通いにのめり込んだり、借金しまくりで周囲に迷惑かけっぱなしで、そのくせ日記の中でその恩人たちをけなしていたり、最低の男ではないか。

しかし、そのダメさ加減こそ啄木人気の秘密なのかもしれない。『一握の砂』も『悲しき玩具』も、うまくいかない失意や挫折感に溢れているからこそ多くの人々の琴線に触れるのだ。啄木自身は小説家として立つことを目指しながら果たすことができず、短歌はあくまでも「悲しき玩具」でしかなかった。にもかかわらず、その短歌が広く人々に愛されることになるとは、なんとも皮肉な話だ。啄木自身がこの人気ぶりを見たら怒り出すかもしれない。「おれのやりたかったのは短歌じゃない。小説だよ、小説。」おそらくそんなふうに腹を立てるのではないか。

寺山修司の文章と井上ひさしの架空インタビューがおもしろかった。寺山修司は石川啄木の贋作も作っているくらいだから、啄木その人が自身の中に血肉化しているような、つまり寺山修司=石川啄木的な文章になっている。ここまで来ると脱帽するしかない。井上ひさしの架空インタビューは、啄木と宮沢賢治を招いて井上ひさしが聴き手になるという構成。このインタビューの中の啄木と賢治の対照的な描き方も、さすがだなあと感心してしまった。啄木は天才肌で生意気で気が短そうで、にもかかわらず才気煥発で、一方の賢治は「級長的」なおとなしい優等生ぶりが強調された、温厚そうな人物になっている。井上ひさしならではの人物造型だ。

それにしても、小説家としてはダメだったけれど、啄木は決して無名のうちに若くして没したわけではなかった。最初の詩集『あこがれ』には、『海潮音』を翻訳した上田敏や『明星』の主宰者だった与謝野鉄幹の紹介文が載っている。当時一番有名だった翻訳家と詩人が推してくれているわけだ。その後の交友を見ても、森鴎外、夏目漱石をはじめ北原白秋、若山牧水など文学史の教科書ができそうな顔触れだ。特に若山牧水は、啄木の父親や啄木の妻節子とともに、死をみとっている。これは今回読むまで知らなかった。なるほどなあ、牧水が啄木の臨終の場に居合わせていたのか。

当人はいい加減で「ダメ男」だったのに、いろいろな人間が献身的に面倒を見てくれたという事を考えると、やはり啄木には愛すべき人間的魅力があふれていたんだろうな。そんなことを思いながら、じっと手を見る日々だ。

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