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2015年7月 7日 (火)

夏炉冬扇

芭蕉が「予が俳諧は夏炉冬扇のごとし」と言ったのは、どの文章だったか。出典はすでに忘れてしまった。夏の炉、冬の扇か。どちらも実際の役には立たない。役に立つとか立たないという次元は、自分の俳諧とは無縁だ。にもかかわらず自分にとっては、抜き差しならぬ意味を持つ。おそらくは、生きていることと同義であったのだろう。だから、有用性で割り切ることなど出来るものではない。

この道や行く人なしに秋の暮

芭蕉のこの句にも、「夏炉冬扇」のごとき俳諧を生きる人間が自分の後にはいないのだという蕭々とした寂寥感が流れている。それは自負ではない。名声や評判とは無縁の、芸術性のみを追い求めていく芭蕉のような道は、弟子たちには付いて来られない道なのだという醒めた自覚。事実、蕉門十哲と呼ばれるような弟子たちでさえ、師の芭蕉の高みには遥かに及ばない。師を越える才能と生き方を示し得た弟子が一人もいない。芭蕉あっての弟子たちでしかない。

こういう在り方は、孔子とその門人たちとの関係にも似ている。そもそも「蕉門十哲」という言い方が「孔門十哲」から来ているのではないか。十大弟子は、皆それぞれに名を残してはいるが、師の孔子を越える存在ではなかった。ここでも、芭蕉と同じように、孔子あっての弟子たちという感が否めない。孔子は芭蕉と違って「夏炉冬扇」ではなく、現実に有効な政治哲学を説き、一国の君主にそれが用いられることを望んで遊説した。しかし礼楽の教えを政治の基本に据えるという哲学は、ある意味で「夏炉冬扇」としか受け止められなかったのだろう。

にもかかわらず、芭蕉も孔子も遥かな時間を隔てて現代に、現代の日本に生き続けている。どれだけ生活の様式が変わり、どれだけ便利な道具に囲まれていても、季節の移り変わりや自然のさまざまな姿や人生の機微に触れて、ふと浮かんでくる日本人の感性の底に芭蕉的なものの感じ方が横たわっている。それは、万葉集や古今集、あるいは源氏物語や枕草子といった作品と並んで日本的感性の基盤を形作っている。そしてまた、すっかり薄くなってしまったとはいえ、孔子の教えである儒教もまた日本人の倫理観の底に根を張っている。礼儀正しさなどすでに滅びてしまった過去の遺物だという見方も可能だろう。けれども、大震災や天変地異に見舞われた時の日本人の行動の仕方を目にすると、適者生存や弱肉強食を是とする倫理観とは異なるものがいまだに生きているのだということを実感させられる。

目先の有用性や実用性というものを要求される分野のほうが、実際には多いのかもしれない。多くの人が求めるものも、また、現実に役に立つことであるのかもしれない。眼前の問題を解決し、今現在の空腹を満たしてくれるものでなければ価値がない。それも確かに一面の真理ではある。

しかし、歴史の審判をくぐり抜けて生き続けるものは、そのような目先の有用性ではなく、むしろ「夏炉冬扇」のごときものなのではないか。何百年も時を越えて人の心を打つもの。それは決して現在の有用性や実用性ではない。ある面から見れば無意味としか見えないもの。現実に何ら有効性を持たないもの。そういったものが本当に大きな影響を与えるものなのではないか。哲学や思想や文学や宗教という無用なものこそ捨てがたい。

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