« 私をつくるもの | トップページ | 竹内好が抱いていた不安 »

2015年7月 9日 (木)

劣化

来る日も来る日も、近現代史関連の本を読んでいる。読もうと思っている分量の、まだ二十分の一にもならない。しかし、新しい視点や未知の事柄に目を啓かれるのは楽しい経験だ。特に、ほぼ同世代の論者が取り上げる論点やそこで示される概念図式は明晰なものであり、複雑に絡み合った事柄が手際よく整理されていく様は小気味良い。読後にすっきりとした理解が残る。その点では何の不満もない。

けれども、何かが足りない。一体何が不足しているのだろう。たとえば、竹内好や渡辺京二の文章を読んだときに感じる、ある種濃密な思考の息づかい、あるいは凝縮された知の強度みたいなもの。そういったものが、私とほぼ同世代の論者の文章からは伝わってこない。妙に清潔できちんとまとめられ、しかし、その論者の顔が浮かんでこない。竹内好や渡辺京二の本には著者の写真など載っていない。にもかかわらず、文章に接した瞬間にまぎれようもなく当人であることを強烈に印象づけられる。

私と同世代の論者たちの著作には、著者近影を載せているものが多い。しかし、読後の印象はかなりあっさりしたものだ。どの著者をどの著作に入れ替えても気が付かないかもしれない。つまり、「のっぺらぼう」だ。竹内好や渡辺京二の文章には、竹内好や渡辺京二という個人が刻印されている。この違いは一体どうしたわけなのだろう。

以前から漠然と思っていたことだったが、私たちの世代(といっても漠然としているが、団塊の世代の次の世代とでも言えばよいか)以降の知は、劣化し続けているのではないだろうか。受験秀才的な小器用さはあっても、全体性がない。カミソリのように切れ味の鋭さはあっても、鉈のように断ち切る強靭さを持たない。対象にぴったりと張り付く粘り強さがなく、小綺麗な見ばえの良さが目を引く。

ひと言で言ってしまえば、文章の中にカリスマ性が感じられないということになるか。それは論ずる人間にカリスマ性がないからということなのでもあろう。あるいは毒がなくなったと言うべきか。抜き身の真剣を手にして前に立たれたような、きわめて危ない感じ。下手なことを言ったら一刀両断にされるだろうなという予感。にもかかわらず、そこに引き寄せられてしまう思考の魅力。こういう妖しさが失われてしまったということなのかもしれない。

この劣化は、これからも一層進むのだろう。Wikipediaでお手軽にパック詰めされた知識を入手し、Googleで検索して引っかかったもので少し味付けをすれば一丁上がりというようなお気楽さをよしとするのであれば、もはや何とも挨拶のしようがない。個の刻印された、あるいは滅菌されていない、切れば血の出るような生々しく毒々しい知の有り様こそ本来的なのだ。精神的な飢餓感の問題なのかもしれないが。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ 教育ブログ 塾・予備校教育

人気ブログランキングへ 人気ブログランキング(教育・学校)

|

« 私をつくるもの | トップページ | 竹内好が抱いていた不安 »

読書」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 劣化:

« 私をつくるもの | トップページ | 竹内好が抱いていた不安 »